土岐が大声ではっきりと〈見城仁美〉と言ったとき目の奥がきらりと反応を見せたように思った。錯覚かも知れなかった。土岐は愛子の澱んだ瞳の中を射抜くように覗き込んだ。
 皺だらけの唇が一瞬動いたように見えた。声は発せられなかった。髪は薄汚れたようなグレーで、くしけずった様子がない。寝起きのままで、頭髪がばらばらになっている。顔の皮膚はかさかさで、目じりやほうれい線の皺が深い。頬や首周りにしみやイボが数多く散見される。化粧気が全くなく、髪や肌の手入れをしている形跡の全くないことが、中井愛子の姿かたちを実年齢よりもふけて見せている。
 土岐は花束と菓子折を愛子の手元のこげ茶色のテーブルの上に置いた。
 愛子ははじめてしわだらけの瞼の下の視線を動かし、手元の花束に眼を力なく落とした。灰白色のだぶだぶの上下のジャージーに、赤いフリースのちゃんちゃんこを羽織っている。胸に名前と連絡先を書いたカードがある。ちゃんちゃんこには毛玉やごみが模様のように付着している。皺だらけでつやの全くない手が、花束の上に伸ばされた。その手は花束の十センチ手前でこわばって止まった。
 土岐はつとめてやさしく声をかけた。
 ふたたび、土岐が愛子に対して発した、〈見城仁美〉という言葉にかすかに反応したように見えた。しかし、目も首も顔も肩も手足も、硬直したように動かない。
 次第に秋冷えが土岐の足元から脛の中に侵入してきた。
 中井愛子の悄然と脱臼しているようななで肩に彼女の非嫡出子としての辛い人生が象徴されているような気がした。見城敦と結婚し、仁美をもうけたが、離婚の際にはその仁美は見城敦の親権の下に去った。見城敦が五十五歳で死んで、どういう経緯からか、今は仁美の世話になっている。若年性痴呆となっているのでは、仁美の世話になっていることすら理解していないのかも知れない。
 幸いなことにこの日曜日に水上の山奥から、仁美のアパートに比較的近い場所に転居してきた。しかし、そのことも認識できていないのかも知れない。ただ、世話をする仁美にとってはありがたいことに違いなかった。
 なにも反応を示さない中井愛子と向かい合って、土岐は黙って観察するだけだった。
 土岐は療養士の姿を探していた。サンルームを巡回していたさっきの療養士と目があった。土岐は少し頭を下げた。