そこは四階建てのアパートで、薄暗い入り口に、〈横十間ハイツ〉という錆で文字が読みにくくなったメタルプレートがあった。分厚いガラス扉の中にスティール製の二十ほどの郵便受けがあり、下から三段目、右から四番目の郵便受けに、〈304号室・見城〉というサインペンで手書きのネームプレートが見えた。テニスコートで土岐が仁美の胸に見たネームカードと同じ丸文字だ。
105、205、305という表示がない。ワンフロア四室であることが推察できた。土岐は建物を横十間川の手すりまで下がって見上げた。三階の右端のベランダからは蛍
光灯の煌々とした明かりがもれていた。その隣の二つのベランダに照明はこぼれていなかった。左端の四つ目のベランダには薄明かりのようなものが見えた。フラッシュバックのように輝度の違う明るさが秒単位で切り替わっていた。つぎの瞬間、蛍光灯の照明がそのベランダからあふれた。 
 土岐は建物に入り、郵便受けの隣にあるコンクリートの階段を足音をたてないように一段おきに三階まで駆け上った。息が切れる。
 通路側にキッチンとトイレ・バスの水回りがある。301号室からは照明が漏れ、台所の生活の雑音が聞こえた。隣の二室は留守で、通路側の窓から蛍光灯の明かりは漏れていなかった。一番奥の304号室は玄関が通路の突き当たりにあり、通路から水回りの様子をうかがうことはできない。
 土岐は訪問者をよそってドアぎりぎりに立って、室内の様子に聞き耳を立てた。温かく思いやるような仁美の声がした。初対面の印象からは程遠い感情のこもったやさしい声音だった。それに答えている声がするが、ひどくしわがれた男の声で、何を言っているのか聞き取れない。
 土岐の背後でコンクリートの階段を上ってくる靴音がした。音の波長から革靴のようだった。
 土岐は踝を返し、304号室を背にして、階段を下りて行った。2階の踊り場で、暗色の背広を着た男とすれ違った。
 土岐は外に出て304号室のベランダの明かりを確認した。
 
犬猿のアリバイ(九月二十八日火曜日)