地下鉄に揺られながら、仁美の心が病んでいる印象を頭の中で反芻した。初対面の男に対して、あれほど無愛想な態度で接するには心の中が相当に荒廃していると読んでいた。その荒廃の原因をある程度突き止めたあとで接近した方が、良質の情報を得られるような気がした。
 電車に揺られながら、バッグからビロードの黒いハンチングを取り出し、ロイド眼鏡を胸のポケットに忍ばせた。次の東陽町で降りた。同じ扉から降りた数人の乗客の最後尾についた。ホームに降り立ち、胸ポケットのロイド眼鏡を掛け、ハンチングを目深に被り直した。
 地上への階段はすぐそばにあった。
 1番出入口の改札を最後の数人とともに出た。改札口脇のコインロッカーにラケットとバッグを入れた。小走りに出口に向かう。区役所方面の北口の階段の上方に、仁美の紫のニットの後姿はなかった。
 土岐は階段を駆け上がった。
 区役所の近所であれば、四ツ目通りを北上するはずだった。江東区役所は駅の北口1番出入口から五、六分の距離にある。
 区役所に向かって走りかけたとき、五十メートルほど前方をブティックバッグを肩に早足で歩く仁美の後姿を捉えた。歩道の建物寄りに歩く位置を変えた。歩道の中央を歩くと目立つ。前を歩く大柄な男の後ろに隠れるようにして仁美を尾行した。視線はできる限り、仁美の背後に固定しないように動かした。
 人ごみの中ならそうでもないが、人通りの少ない道を背後から尾行する場合、勘の鋭い女は背中の視線に気づくことがある。顔見知りでなければ、知らない顔で通り過ぎることもできるが、土岐の面は仁美に割れている。ハンチングとロイド眼鏡で簡単な変装はしているが、体型は隠せない。女性には見破られる可能性が高い。
 土岐は慎重に、サラリーマン風の男を間に挟んで、仁美を追尾した。前方の男が右によれれば、土岐も仁美の姿が隠れるように右に寄った。
 区役所の脇を通り過ぎて、横十間川の橋を渡ると、仁美は交通量の少ない狭い交差点を左折した。
 仁美の姿が左の路地の闇に消えると土岐はその交差点まで駆け寄った。薄暗い街路灯の淡い照明の下に背筋の伸びた仁美の姿が確認できた。土岐が四ツ目通りを左折すると輪郭が闇に溶けかけた仁美の後姿が路地を右折して消えた。左手の横十間川に沿って、その路地まで土岐がつま先を立てて走り寄ると、右手に仁美の影はなかった。