土岐はずっと手狭な入り口に立ったままだった。細長い事務所で奥行きが五メートルほどしかない。天井が低く、立っていると頭上に圧迫感がある。全体でも二十平米あまりの広さだった。
「いま、社長さん、おられないんですか?」
と土岐は話題を変えた。長谷川の返答を聞きながら、軽い吃音のあるのに気付いた。
「・・・ゆ、夕方出勤なもんで。早ければ、そろそろ来ることもあるんですが・・・」
 ため息をつきながら、土岐は部屋の中を見渡している。壁一面に音楽関係の本が並べられていた。左奥が社長の机のようで、ひときわ大きかった。しかし、机自体も、それを含めても三つしかない。ざっと見る限りでは、零細企業のようだった。
「つかぬことをうかがいますが、御社はどのような業務をされているんですか?」
「・・・き、企業や学校むけの楽曲を製作しています」
「というと、・・・社歌や校歌ですか?」
「・・・え、ええ、その会社に社会人の運動部があれば、応援歌も製作しています」
と言いながら、奇妙な、ひきつったような自嘲気味の空笑いをもらす。

 そこに女が香水の匂いとともに事務室に入ってきた。黄土色のスエードのダブル前ジャケットに濃紺のスカートをはいている。ジャケットの下は薄鼠のニットで、ネックに焦げ茶のボーダーラインがはいっている。ソバージュの手の込んだ髪型をしていた。
 長谷川の顔と声がなんとなく明るくなったような感じだ。
 女は黒いポシェットから角の取れた小ぶりの名刺を差し出した。
〈有限会社アイテイ代表取締役社長 相田貞子〉
とプリントされていた。受け取りながら土岐も胸ポケットから名刺を出した。相田貞子はその名刺にじっと見入った。土岐の目には四十代前半か、三十代後半のように見える。三十代前半だと言われれば、そうとも見える。遠目には角度や光線によって土岐好みの美人にも見える。大きな富士額が印象的だ。
 貞子は土岐の傍らを半身になってすり抜けて、狭い事務室の奥の一番大きい机の肘掛椅子にしなやかに腰を下ろした。黒いパンプスのヒールの靴音や机の縁の衣擦れが生身の女を感じさせる。
 土岐は椅子を長谷川から貞子のほうに回転させた。軋み音が椅子から床に伝わる。
「実は、先日亡くなられた、開示情報の会長の夫人の、現社長の依頼で広告について」