法蔵飛魂

 仁美はうつむいたまま、ハンカチをテーブルの上に置き、コーヒーに砂糖とクリームを落として、スプーンで小さな円を描いている。ときどきスプーンがカップの縁に触れて、仁美が言いだすのを励ますような音がする。
 土岐には歳の差以上に仁美が可愛く見える。
「なに?」
と土岐は身を正して、うれしそうに聞く。前髪で隠れている仁美の顔を顎の下に手を差し伸べて、見つめたい衝動に駆られる。仁美の前髪に軽く手を触れた。
 そうされるまま、甘えたい戸惑いを隠して、仁美は呟くように言う。
「・・・わたしとミックスを組んでくれない?」
「もちろん」
とやさしく言いながら土岐はスプーンを持つ仁美の手をとって、強く握りしめた。
「さあ、笑って。口を横に引くだけでいい。顔は心を映し出す。相手の笑顔を見たければ、自分も笑顔を見せないと。相手の笑顔で自分の心も笑顔になる。その自分の笑顔が、さらに相手の笑顔をひきだす。笑顔と笑顔の連鎖だ。2枚の鏡のように、相手の笑顔が自分の心に笑顔を映し出し、その笑顔がまた相手の心に笑顔を映し出す。そうやって、無限の笑顔が映し出されるとき、心の中がしあわせて、満ち溢れる」
 土岐は歯の浮くような思いで、自分の言葉に酔っていた。
 仁美の眼も土岐のセリフに酔っているように見えた。
 不意に、土岐の背後から、
「・・・お客さん、すいません。閉店です」
と喫茶店〈インサイダー〉の中年のウエイトレスが無粋に叫んだ。
 二人は追い出されるように外に出た。土岐はタクシーで送ると申し出たが仁美は地下鉄で帰ると言い張る。土岐は折れて、表通りでタクシーを拾った。
 ドアが閉まると、仁美が右腕をいっぱいに伸ばして小さく手を振った。それから三こと、口を開いた。
 聞こえない。土岐は仁美の言葉を繰り返そうとした。最初のひとことは母音の「あ」で終わったようだ。二こと目は舌が弾けて母音の「あ」で終わったように見えた。多分「た」だ。最後のひとことの母音は分からない。土岐は推理した。最初の一ことは「ま」、二こと目は「た」、三こと目はわからない。「ま、た」に続く三こと目を考える。
「・・・ま、た、ね」