法蔵飛魂

「誰が見てもあなたのこれまでの人生は辛いものであったことは間違いない。しかし、誰だって悲しいことや辛いことは大なり小なりある。自分の経験を絶対化しない方がいい。絶対化すれば、他人の悲しみは否定することになる。自分の周りに塀を巡らせて孤立を招くだけだ。・・・おじいさんの兄弟子だった三田法蔵という人は、捨て子で両親もなく、子供のころから小僧さんとしてお寺で働き、勉強がよくできて、檀家の評判がよかったという理由でお寺の大黒さんに理不尽ないじめられ方をして、わずか二十歳になったばかりで、戦争で死んでいった。彼にはあなたのようにテニスや飛行機のプラモデルで憂さを晴らすというゆとりすらなかった。自分の悲しみや辛さを絶対化すれば永遠に癒されることはない。自分の過去のいやなことは、自分から突き離して見ればいい。そういうこともあった。ああいうこともあった。・・・過去のことは、それでいいじゃないか。・・・これからぼくとミックスでテニスをしよう。楽しいことをいっぱい教えてあげるから・・・」
 仁美は絞り出すように小さな声で言った。
「・・・わかったから、もう帰って・・・お花ありがとう」
 土岐は仁美に名刺を差し出した。
「ぼくの本名は土岐と言います」
 仁美はその名刺を一瞥して、興味なさそうに力なく受け取った。
「・・・知っています。大野さんから聞きました」
 土岐は長田に小さく頭を下げて、その部屋を出た。

 船橋法典駅に向かいながら、土岐は民事裁判に勝っても成功報酬を諦めなければならないことに多少の未練を感じている自分に気付いた。その未練は仁美の反応次第で断ち切ることができる自信もあった。いずれにしても、今年も自転車操業の調査事務所経営から脱出できそうにないことを予感した。
 改札口からホームへの広い階段を下りている時に携帯電話が鳴った。海野からだった。
「・・・あっ、海野だ。これから、五時までに大手町に来られるか?」
 時計を見ると四時を過ぎたところだった。
「たぶん、大手町駅にちょうど五時に着くと思います」
「・・・そうか。じゃあ、船井ビルの前で五時五分でどうだ?」
「たぶん、行けると思います」
「・・・待ってる」
 海野からの電話は初めてだった。昨日電子メールで海野に送信した調査報告書を海野が読んで、新展開があったのかも知れない。