「・・・前々から、中井愛子は廣川弘毅の娘ではないかという気がしていた。愛子の存在は法蔵寺の住職から聞いていた。その住職は先代の長男で、わしが中学校に入るときに使い古しの靴をくれた男だ。先代は法さんと圭子さんを一緒にさせて法蔵寺を継がせようと思っていたので、息子の住職は法さんの死を喜んだくちだ。その住職が宗門の東京での会合に来た時、廣川弘毅に嫁いだ妹の圭子さんに世話になったそうだ。そのとき、廣川弘毅が向島につれて行き、お座敷に中井和子を呼んだそうだ。その後、住職は東京に遊びに行くたびに、一人のときでも向島で遊ぶようになり、その都度、和子をお座敷に呼んだ。そこで和子には愛子という私生児のいることを知った。和子は、『愛子のような私生児でも、もらってくれるような結婚相手はいないかしら』と酒の席ではあるが住職に頼んだ。わしが法蔵寺に骨董の行商で寄った時に、その話が出た。わしはできの悪い息子の敦の嫁にどうかと持ちかけた。その時にはもうわしは花江とは離婚していたが、敦のことは気になっていたんで、糸魚川の時計屋をまかせていた。しかし、敦は店の商品を持ち出して質入れして、駅前でパチンコをやったり、マージャンの負けを支払っていた。幾度注意しても改まらなかった。糸魚川では放蕩息子の悪名が広まっていて、結婚相手など見つからなかった。そこで、愛子と東京で所帯を持たせ、まっとうな生活をさせようと考えた。愛子にしてはいい迷惑だったかも知れないが、お互いにいわくつきであれば案外うまく行くかも知れないと安易に考えていた。しかし、不幸と不幸は足し合わせたところで不幸にしかならなかった。敦はパチンコ店員や新聞配達や牛乳配達やクリーニング店員や日雇い労務者の職を転々として、定職につかず、賭け事から足を洗えなかった。東京に行商に行くたびに愛子に謝り、愛子に小遣いをやったが、それも敦に巻き上げられたようだ。愛子はそのうち、わしと顔を合わせると、懇願するように、『おとうさん、どうしても敦さんと離婚させてほしい』と言い出すようになった。しかし、仁美がすでに生まれていた。わしは、『敦のことで迷惑をかけて、申し訳ないが、仁美が成人するまでは、我慢してくれ』と頼んだが、駄目だった。それでも、愛子は、敦と別れる際に、『女手がないと、敦さんの生活が大変だろうから』と嫌がる仁美を敦に残して、家を出て行った。仁美は愛子を恨んだ


