法蔵飛魂

ちの方がすべての点で優れていたことが、大黒さんにとっては我慢がならなかったのだろう。わしたちをいじめることで、そのうっ憤を晴らしていたのだろう。京都の浄土宗の専門学校へは法さんがわしより二年先に行った。法さんは中学を四年で終えた。わしは五年かけて卒業してから京都に行った。京都の生活は敦賀の生活と比べれば天国だった。勤行も学校の勉強もあったが、自分のことだけをやればよかった。敦賀では和尚さんの家族全員の雑用までやらされていた。法さんが海軍に志願した後、香良洲に一度会いに行ったことがあったが、『賢ちゃ、海軍は京都の寺よりも天国だよ。敦賀と比べるとそれ以上だよ』と言っていた。当時は食糧難だったから、寺では十分な食事がなくて、一日分の食糧が毎朝一杯のどんぶり飯だけだった。どんぶり飯を朝昼夜に分けて食べようと努力したが、いつも、午前中にはなくなっていた。その繰り返しだった。法さんは、海軍ではお代わり自由で、おかずもたらふく食べられると、本当にうれしそうに話していた。法さんはわしの目にも美男子に見えた。お寺の長女の圭子さんが法さんに恋焦がれていたことはずいぶん後になってから知った。圭子さんは敦賀小町と呼ばれたほどの美人で、わしも心を奪われていたが、所詮高嶺の花と諦めてはいた。この圭子さんが敦賀の住職と朋輩の関係にあった京都の住職の関係で、その京都のお寺の檀家総代だった清和家の次男と見合いをした。このとき、書生としてもぐりこんでいた廣川弘毅と出会っていた。家格が釣り合わないということで圭子さんが破談になった後、廣川弘毅は圭子さんに恋文を送っている。圭子さんは、自分には三田法蔵という心に誓った男が居るので諦めてくれと返事を出した。そういう話を聞かされたのは戦後になってからだ。貴金属の行商で法蔵寺に出入りするようになって、先代の住職が話してくれた。圭子さんが廣川弘毅と結婚したのは、カネの力だったのかも知れない。とにかく廣川弘毅の羽振りは良かった。多額の寄付を法蔵寺に申し出て圭子さんの親である住職も大黒さんも結婚を承諾せざるをえなかったようだ。戦後の農地解放で、大半の小作地を失い、法蔵寺も生活が苦しかった。圭子さんも法さんが戦死してしまったので、親のために結婚を受諾せざるをえなかったのだろう」
 長田の口の中が干からびてきていた。声がたびたびかすれて、聞き取りづらくなってきていた。