『郭公さん、廣川さんから、またご指名があったわよ』って言うと、一瞬顔を曇らせることがあるかと思うと、そのお座敷からの帰りは上機嫌で・・・アンビバレントって言うんですか?そういうの・・・だから、自分はともかく、愛子ちゃんには、廣川さんと関係を持ってもらいたくなかったんじゃないでしょうか?・・・むしろ、廣川さんには認知してほしくなかったのかも知れないですね」
土岐の脳裏には焦点の合わない目をした中井愛子の顔が浮かんでいた。着ている物は紺のジャージに臙脂の薄汚れたちゃんちゃんこ。髪はぼさぼさで、フケが砂を撒いたように散らばっていた。確かな殺意があるとすると中井愛子のようにも思えたが、見た限りでは実行犯の資格はないように感じられた。
廣川弘毅が向島から遠ざかったのは、総会屋の表舞台から退場した時期に符合する。それを中井和子は廣川弘毅の心変わりと捉えた。会えない時間が次第に和子の憎しみを蓄積させて行って、ついにそれが娘の愛子に相続され、殺人へと暴発したとすれば辻褄が合う。しかし、あの痴呆状態の中井愛子にそれは不可能だと思える。あの魂が抜けたような表情が演技であるとしたら完全犯罪になる。殺人を実行できる精神を持ち合わせていないということが最大のアリバイになる。徳子の話を聞いて、土岐はそれが真実であれば、土岐の精神衛生上には、なんとなくいいような気がした。殺害するのに十分な動機のある人物、中井愛子が犯人であれば、なんとなく収まりが良く、腑に落ちるように思えた。
規定の二時間が過ぎようとしていた。土岐は腕時計を見ながら、宇多に合図して、お開きにした。
会計は二人で6万円ほどだった。小さなメモ用紙が女将から当然のように宇多に渡されて、宇多が分厚い財布を取り出して、その場で支払った。接待交際費で処理されることは誰もが承知しているようだった。土岐には高かったのか安かったのか分からない。帰り際に土岐と宇多は女将に名刺を渡して、玄関先にタクシーを呼んでもらった。1分少々でタクシーが来た。9時ごろ〈波屋〉を後にした。土岐は上野駅でタクシーを降り、宇多を見送った。久しぶりの酩酊であったが、なんとか蒲田の自宅事務所に帰還することができた。そのまま何もせずに、ベッドに倒れこんだ。夜中一度だけ、水分補給と放尿で起きたが、それ以外は爆睡した。
調査完了の準備(十月九日 土曜日)
土岐の脳裏には焦点の合わない目をした中井愛子の顔が浮かんでいた。着ている物は紺のジャージに臙脂の薄汚れたちゃんちゃんこ。髪はぼさぼさで、フケが砂を撒いたように散らばっていた。確かな殺意があるとすると中井愛子のようにも思えたが、見た限りでは実行犯の資格はないように感じられた。
廣川弘毅が向島から遠ざかったのは、総会屋の表舞台から退場した時期に符合する。それを中井和子は廣川弘毅の心変わりと捉えた。会えない時間が次第に和子の憎しみを蓄積させて行って、ついにそれが娘の愛子に相続され、殺人へと暴発したとすれば辻褄が合う。しかし、あの痴呆状態の中井愛子にそれは不可能だと思える。あの魂が抜けたような表情が演技であるとしたら完全犯罪になる。殺人を実行できる精神を持ち合わせていないということが最大のアリバイになる。徳子の話を聞いて、土岐はそれが真実であれば、土岐の精神衛生上には、なんとなくいいような気がした。殺害するのに十分な動機のある人物、中井愛子が犯人であれば、なんとなく収まりが良く、腑に落ちるように思えた。
規定の二時間が過ぎようとしていた。土岐は腕時計を見ながら、宇多に合図して、お開きにした。
会計は二人で6万円ほどだった。小さなメモ用紙が女将から当然のように宇多に渡されて、宇多が分厚い財布を取り出して、その場で支払った。接待交際費で処理されることは誰もが承知しているようだった。土岐には高かったのか安かったのか分からない。帰り際に土岐と宇多は女将に名刺を渡して、玄関先にタクシーを呼んでもらった。1分少々でタクシーが来た。9時ごろ〈波屋〉を後にした。土岐は上野駅でタクシーを降り、宇多を見送った。久しぶりの酩酊であったが、なんとか蒲田の自宅事務所に帰還することができた。そのまま何もせずに、ベッドに倒れこんだ。夜中一度だけ、水分補給と放尿で起きたが、それ以外は爆睡した。
調査完了の準備(十月九日 土曜日)


