法蔵飛魂

「・・・幾つぐらいのときだったかしら、・・・郭公姐さんが四十を過ぎたころから物忘れが激しくなって、そのうち、最後には自分の娘すら分からなくなって、・・・今で言うアルツハイマーっていう病気だったのかしら・・・水戸街道沿いの二階の欄干から空を見上げては、『飛行機、飛行機』って呟くようになったのよ。それで、いつしか、若い芸妓たちが、からかうようにして、『ひこうきさん』って郭公姐さんのことを、かげで呼ぶようになったのよ」
 勘太がその話に参加してきた。
「・・・そう言えば、あの郭公姐さんはとびきりのヘビースモーカーで、両切りのピー缶を毎日ひと缶すっていて、今で言う、COPDだったんじゃないかな」
「・・・なに、そのシーオーピーデーって?」
と植吉が聞く。勘太がばちで煙草を吸う仕草をした。
「・・・わたしもそうだけど、たばこを吸いすぎて、すぐ息切れがして、普通に息をしているだけでも、ヒーヒ―音がして。・・・わたし、いち度だけ郭公姐さんの、『飛行機』と言うのを間近で聞いたことがあるんだけど、ヒコーキと言うときに、一瞬息を吸い込んで、そのとき、吸い込んだ空気が、喉で鳴ったような、『ヒー』という音がして、そのあとで、深い溜息を吐くように、『コーキ』と言っていたような気がしたんだけれど・・・」
 土岐が口をはさんだ。
「そのカッコウねえさんが、空を見上げながら、『弘毅』と言っていたんですか?」
 勘太が土岐の血相に上体を捩じるようにして少し身を引いた。
「・・・いやあ、そんな気がしたと言うだけで・・・」
 土岐は、喫茶店〈インサイダー〉で双葉智子と昼食をとったとき、智子が、
「仁美は飛行機が趣味だ」
と言っていたのを思い出した。郭公姐さんと呼ばれた仁美の祖母が、空を見上げながら、
「ヒコーキ」
と叫んでいたのを娘の愛子は聞いていたはずだ。その愛子が何かの折に、娘の仁美にそのことを話したのかもしれない。幼児期のその記憶から、仁美が飛行機に愛着を持ち、それを趣味にしたと考えれらなくもない。追い込むように土岐が質問する。
「カッコウねえさんの名前は何と言うんですか?」
 市松が答えた。
「・・・和子だから、郭公にしたと当時の置屋のお母さんが言ってました」
「姓は?」
 市松は首をひねった。土岐は市松を正面に見据えて言った。
「中井和子じゃないですか?」