昼間会った女将の声だった。土岐は折角の機会に若い芸者をあげられないのは口惜しくもあったが、宇多のカネで呑ませてもらう身で、あまり贅沢も言えない。それに、宇多は記憶力がよく、帳尻はいつか、かならず合わせてくる男だった。接待交際費で呑むにしても、今晩かかった経費は、今後の宇多法律事務所の下請け業務で、きっちりと削られることを覚悟する必要があった。
九段上の中華料理店で夕食をとりながら、これまでの調査結果を宇多に説明した。二人で紹興酒の中瓶を一本空けてから向島に向かうタクシーに乗ったのは六時半前だった。
タクシーの若い運転手は地理に不案内で、〈波家〉の場所が分からないというので、土岐が名刺を見ながら住所をカーナビゲーションにインプットさせた。運転手は、どこかの会社をリストラされたばかりのようで、運転技術もおぼつかなかった。
七時ちょうどに、急ブレーキとともに、〈波家〉の玄関前に着いた。
黒い三和土に二人で足を踏み入れると、昼間会った女将が三つ指で迎えてくれた。
「・・・どうぞ」
と言う。土岐は、〈どうぞ〉の意味が把握できずに、とまどった。
「こちらで少し待つんですか?」
「・・・いえ、お二人さんならちょうどいい部屋はここにもあります。それに、芸妓をあげないと言われるんで、こちらのほうが、お安く遊べます。・・・ただ、お料理は、お隣からの取り寄せになりますが・・・」
と言いながら、女将は宇多の承諾を得ようとしている。三つ揃えの宇多がスポンサーであることを既に見抜いていた。
「・・・いいでしょう」
と宇多が靴を脱ぎ始めた。女将は玄関に降り、二人の下足を整えた。
「・・・さあ、こちらにどうぞ」
と暗い畳の廊下を奥へ進む。突き当たりに、四畳半の次の間付きの八畳ほどの客間があった。床の間があり、その右手に壺庭が見えた。床の間の軸には、〈寒山寺楓橋夜泊詩石刻〉が掛けられている。畳の上には座布団が二枚あるだけで、他には何もない殺風景な和室だった。二人が床の間を背に、座布団に座って部屋の中を見回していると、銘々膳が運ばれてきた。持ってきたのは矢絣の和服をぎこちなく着込んだ少女だった。その後ろから女将が丸いお盆にビール瓶を二本載せて持ってきた。
「・・・最初はビールでよろしいですか?」
九段上の中華料理店で夕食をとりながら、これまでの調査結果を宇多に説明した。二人で紹興酒の中瓶を一本空けてから向島に向かうタクシーに乗ったのは六時半前だった。
タクシーの若い運転手は地理に不案内で、〈波家〉の場所が分からないというので、土岐が名刺を見ながら住所をカーナビゲーションにインプットさせた。運転手は、どこかの会社をリストラされたばかりのようで、運転技術もおぼつかなかった。
七時ちょうどに、急ブレーキとともに、〈波家〉の玄関前に着いた。
黒い三和土に二人で足を踏み入れると、昼間会った女将が三つ指で迎えてくれた。
「・・・どうぞ」
と言う。土岐は、〈どうぞ〉の意味が把握できずに、とまどった。
「こちらで少し待つんですか?」
「・・・いえ、お二人さんならちょうどいい部屋はここにもあります。それに、芸妓をあげないと言われるんで、こちらのほうが、お安く遊べます。・・・ただ、お料理は、お隣からの取り寄せになりますが・・・」
と言いながら、女将は宇多の承諾を得ようとしている。三つ揃えの宇多がスポンサーであることを既に見抜いていた。
「・・・いいでしょう」
と宇多が靴を脱ぎ始めた。女将は玄関に降り、二人の下足を整えた。
「・・・さあ、こちらにどうぞ」
と暗い畳の廊下を奥へ進む。突き当たりに、四畳半の次の間付きの八畳ほどの客間があった。床の間があり、その右手に壺庭が見えた。床の間の軸には、〈寒山寺楓橋夜泊詩石刻〉が掛けられている。畳の上には座布団が二枚あるだけで、他には何もない殺風景な和室だった。二人が床の間を背に、座布団に座って部屋の中を見回していると、銘々膳が運ばれてきた。持ってきたのは矢絣の和服をぎこちなく着込んだ少女だった。その後ろから女将が丸いお盆にビール瓶を二本載せて持ってきた。
「・・・最初はビールでよろしいですか?」


