男は加奈子宅の前で見かけたハンチングをかぶっていた。土岐が乗り込むとドアはすぐ閉まった。
 次の恵比寿駅でドアが開くと一旦ホームに出た。男が乗り込んだ車両のドア付近から降車する客を確認したが男はいなかった。土岐は再び電車に乗り込んだ。
 次の目黒でも一旦降りて確認していると、人ごみの中に男のハンチング頭が確認できた。土岐の傍らの階段に向かって歩いてきたので、背を向けて階段の周りを足早に迂回して男の背後に回った。男は駅前のロータリーを横切ると、雅叙園方面に向かって歩き始めた。
 駅から二、三分の四階建ての古びたビルの中に男は消えた。
 土岐がビルの入り口でテナントのネームプレートを見ると、二階と四階の普通の企業事務所に挟まれて、三階に、〈大日本興信所〉いういかめしい文字があった。
 
 土岐は目黒駅に引き返した。そこから都営三田線で大手町に出て東西線で茅場町に行くことにした。茅場町まで二十分あまりの間、電車に揺られながら手帳のメモを整理した。
 茅場町駅は閑散としていた。夕方のラッシュがまだ始まっていない。
 土岐は、駅事務室に向かった。
 駅事務所は地下一階の日比谷線ホームと地下三階の東西線ホームに挟まれた地下二階にあった。用のない乗客にとっては、隠し部屋のような雰囲気がある。
 天井の低い駅事務所のドア近くに座っていた駅員に、土岐は用件を説明し、先週金曜日、轢死現場に立ち会った駅員の話を聞きたいと申し出た。
 当日現場に立ち会ったのは東西線のホームで乗客の整理をしていた田辺という男だった。現在、茅場町の10番出入口近くの改札口に勤務している。
 田辺はブルーのパーティションを背に、改札口の窓口に所在無げにぽつねんと座っていた。自動改札を見守っているだけだった。三十前後の顎の尖ったやせぎすの男だった。
 土岐は自己紹介し、当日の話を聞いた。田辺はとつとつと語りだした。
「金曜日の夕方で、朝のラッシュほどではないんですが、一番混雑する時間帯でした」
 駅員は茫然とした青白い表情で話していた。瞳孔が小刻みに揺れていた。焦点が定まらない。正面にいる土岐の顔をよく認識していないように見えた。
 土岐は続けて聞く。
「その場にいた乗客はどう証言していましたか?」
「証言を取っているとしたら、警察の方だと思うんですが」