日光東照宮の駐車場を歩きながら、俺は隣を歩く功史朗(こうしろう)の肩をたたいた。

「じゃあこっから旅館までは功史朗の運転な」
「わーってるよ」

 面倒くさそうに返事をした功史朗にひょいっと鍵を投げる。

 運転の重責からようやく解放された俺は、大きなあくびをしながら「車どこ停めたっけな」と駐車場を見渡した。俺たちが大学の卒業旅行のために借りた水色のレンタカーは、夕日に照らされつつある駐車場の中で一際目立っていたから、すぐに見つかった。

「どうする? コンビニとか寄る?」

 ぴっ、と鍵を開けて車に乗り込んだ功史朗がみんなに聞く。

「寄らなくてよくね?」

 助手席の扉を開けながら俺がそう言うと、

「だな」

 後部座席の運転席側に座った春樹(はるき)が続き、

「もう歩き疲れたよ俺、早くホテルへプリーズギブソープアンドヘルスミー」

 後部座席の助手席側に座る崇斗(たかと)もうなずいた。

「オーケー」功史朗がバックミラーの位置を調整する。「なんか変な言葉混ざってたけど、んじゃ、さっさと行きますか」
「え? ソープに?」
「一人で自家発電でもしてろ」

 崇人のド下ネタを軽くいなした功史朗は、頬をぱんぱんと叩いてからハンドルを握った。

 俺はシートベルトを締めながら、ふと功史朗の横顔を眺める。

 同級生の運転する車の助手席に座るなんて、よく考えるとなんだか感慨深い。

 俺たち四人は、小学校からの幼馴染だ。小中高とずっと学校が一緒。大学はさすがにバラバラになったが、長期休みになると必ずみんなで集まって遊んだ。いくつになっても、みんなの本質は変わっていないと安心できるから、俺はいつまでもこの三人とずっと一緒に過ごすと確信している。

 変わらない安心感というものは、歳をとるにつれてその価値が跳ね上がっていく。だって人間はみんな、昔のままではいられないのだから。

 思春期には声変わりした。

 高校球児や漫画の主人公が年下だという事実に驚愕するようになった。

 お酒が飲めるようになった。

 童貞ではなくなった。

 全てが昔のままとはいかない。

 歳をとって、できることが増えたのか減ったのかわからないが、確実になにかを諦めることは増えていった。俺がそうなのだから、他の三人もきっと色んなものを諦めて、二十二歳にまでたどり着いたのだと思う。

「日光東照宮って、案外普通だったよな」
「そうそれ。マーライオンと一緒だわ」

 後部座席で崇斗と春樹がしょうもない話で笑っている。

 茶髪だった崇斗も、長髪だった春樹も、今は平日朝の満員電車になじむように黒髪短髪へと髪型を変えていた。

「マーライオンっつーより、銀閣的なあれじゃね? 歳とればそのおごそかさがわかる的な」

 二人の会話に功史朗が口を挟む。

 大手出版社に就職が決まった功史朗は、なぜか最近になってタバコを吸うようになった。

「オゴソカ」と崇斗が鼻で笑う。「そんな渋い日本語使ったら年寄りまっしぐらじゃん」
「じゃあ一万円札も渋くなるな」

 後部座席を振り返りながら俺は自信満々にボケた。

 よし爆笑ゲット!

 ………………え?

 車内が、それまでの騒がしさが嘘のようにしんと静まり返った。

「え? なんで渋い?」

 崇斗が首を傾げたので、俺は先ほどの渾身のボケを説明する。

「だって渋沢栄一になるじゃん。万札の肖像画。ってかボケを説明させんな」
「ああ、なるほど。って全然わかんねーよっ! 説明されても全然わかんねーよっ!」
「崇斗の人妻AV趣味よりはわかるわ」
「おい人妻なめんな。(みつる)のボケは人妻以下なんだよ。ほんとまじオゴソカだわーそのボケ」
「人妻と比べられてもなぁ。ってか人妻なんか舐めたくねーし」
「なめると舐めるをかけたそのド下ネタ返しもオゴソカだわー」
「もはやオゴソカ言いたいだけだろ」

 俺のツッコミでようやく車内がどっと湧く。

 男四人で行く大学の卒業旅行なんて、基本こんな感じの無駄話と下ネタがエンドレスフォーエバーだ。

 そんなしょうもない話をしているうちに、車が旅館へたどり着く。

 俺はその旅館を見上げて、握りしめていた拳をふっと解いた。

 明日はもう帰るだけなので、ここが俺の人生の終着地点だ。

 もちろん自殺する予定も勇気もないし、これからだって俺は生きつづけていくが、それでもここが終着地点なのだ。

 この旅行が終わったら、ネクタイの結び方をきちんと練習しなければいけないなぁ。

 そんなことを思いながら首元をさすっていると、およそ一年前、生命力と希望に満ち溢れる四月という輝かしい季節に、トイレでネクタイを結ぶことにした自分を、どうしようもなく恨みたくなった。

  ***

 ネクタイを締めた後に息苦しいと感じるのは、首元が締めつけられるからではない。

 市営地下鉄のとある駅のトイレの中でそう悟った瞬間、心がごそりと削られた気がした。

「就活かぁ……」

 鏡に映る、リクルートスーツに身を包んだ自分の姿は、決して望んでいた姿ではない。

 けれど、大学四年生になってしまって、就活の時期がやってきてしまったのだから、もうどうしようもない。

 昨夜、カップラーメンを食べながらネクタイの結び方を調べている自分が、テレビの黒い画面に映っているのに気がついた瞬間に、俺は絶望への片道切符を手に入れてしまったのだ。

 学生として騒いでいられる時間が、平日の夜中にカラオケオールして翌日の一限をすっぽかすことのできる時間が、終わってしまうのだ。

「ネクタイまじ嫌いなんだよなぁ。首もときついし」

 ネクタイの結び目が、スマホで調べた画像通りになっていない気がするが、まあいいや。もうめんどいし。

 働いているやつはみんな負け組。

 就職は人生の墓場。

 そう思いつづけてきた自分が、今でもそう思っている自分が、大学四年生、四月一日を迎え、企業の合同説明会へと足を運ぶなんて。なにに対抗心を燃やしているのかはわかないが、ネクタイは会場の最寄駅のトイレまでつけなかった。

 トイレを出て、階段を上がって外に出ると、すでに散り掛けの桜が、歩道と車道の間に等間隔で並んでいた。昨日風強かったからなぁ。だけど、どれだけ風が強く吹いても、リクルートスーツや大学四年生という肩書き、就職活動というイベントが吹き飛ばされることはない。他人の方がネクタイをうまく結べているように見えるのが、せめてもの救いか。

 ハロウィンでTMレボリューションのコスプレをして踊るくらい目立ちたがり屋で普通を嫌っていた俺も、もう普通に成り下がらないといけない。

 会場までの道を埋め尽くす、俺と同じ格好をした大学生たちは、いったいどんな気持ちで、この就活に挑もうとしているのだろうか。

 黒のスーツに白のワイシャツ。

 駆け抜けるゼブラのストライプ、なんて懐メロがあったけれど、あれは就活を歌った曲だったのだろうか。

 そんなわけないか。

 まあ、そんなこんなで参戦した就活だったが、現実というのはやはり残酷である。

 八月になって、いまだにひとつも内定をもらっていない同級生がいる一方で、俺はたった一社しかエントリーシートを送っていないにもかかわらず内定をもらった。その企業を志望した理由は、合同説明会に来ていた人事部の女性が好みのタイプだったから。そんな理由だったからエントリーシートも適当に書いたし、企業研究もしていない。面接だって適当だ。TMレボリューションのコスプレをしたって話をしたと思う。最終面接で社長室に呼ばれた時は、『このソファ座り心地最高ですね』とボケてやったが、それが高評価につながったのだろうか。知らんけど。

 そんな適当なやつが受かるのだから、やっぱり学歴フィルターがそれなりに機能したのだろう。それとも、俺には就活の才能があったのだろうか。普通になるための才能なんていらないのに。

 俺は内定をもらった瞬間に就活を辞めた。
 ネクタイの結び方が下手なままでいたかったから。

 それからの毎日は、なにをしていても無味乾燥なものだった。

 絶望という壁に向かって歩くしかない現実。その壁は乗り越えられるものでもぶち壊せるものでもないが、かといって壁の目の前で立ち止まって引き返すこともできない。

 ぶつかるしかないのだ。

 俺たちは絶望というすべてを包み込む柔らかな壁にぶつかって、むにゅりむにゅりと壁に自らをめり込ませるようにして歩きつづけるしかない。どれだけめり込みながら歩いても決してちぎれることのない壁を、それでもぐにゃりぐにゃり人の形にめり込ませつづける。そして、いつしか絶望という壁にめり込みつづけていることすら忘れてしまうのだろう。

 それを幸せというかは、別にして。

 楽にはなれると思う。

 ま、俺の人生、こんなもんだろ。

 十月に行われた内定者懇親会で、好みのタイプだった人事部の女性の苗字が変わっていることに気づいたときは、やっぱり就職は人生の墓場だと思った。

 就職なんてどうでもいい、就活も適当にやった、そもそも働く意味はない。

 そう思っているのに内定辞退をしなかった時点で、俺は普通以外の場所へ足を踏み出すのを怖がっている、普通の人間なのだから。

  ***

 案内された和室には、すでに布団が人数分敷かれてあった。

 ボストンバック等の荷物を壁際にまとめて置き、四人とも一斉に布団にダイブする。

 俺は仰向けになって深呼吸をした。

 この四人がもたらす空気を体中に存分に蓄えておきたかったから。

「あーもう俺起きねぇから。ぜってぇ起きねぇから」

 功史朗の言葉に崇斗が食いつく。

「あの胸がめっちゃデカかった受付の女がここで裸になったら?」
「速攻立つ。どっちもな」
「じゃあ、その隣の四十前半くらいの高橋さんだったら?」
「すぐ萎える」
「おい! 人妻なめんな!」
「その流れ、さっきと同じだから」
「人妻のよさは何度だって布教するぜ俺は」

 がばっと立ち上がって胸を張った崇斗を、

「ってかあの一瞬でフロントスタッフの名前覚えるとか、尊敬するわー」

 すかさず春樹が褒め、

「確かに、しかも熟女の方だけな」

 俺が冷笑し、

「そのキモさ尊敬するわー」

 功史朗がとどめを刺す。

「お前ら全然尊敬してないだろー!」

 崇斗が声を大にして不満を表すも、功史朗はもう終わったことだと完全スルーで、すぱっと話題を変える。

「そんなことよりさ……とっとやろうぜ」

 みんなの顔にぴりっとした緊張感が宿る。

 それを確認した功史朗が、

「さぁさぁ、レディースアーンドジェントルマン!」

 と興奮を煽るように言いながら立ち上がった。

「ま、レディースいないけどな!」と春樹。
「俺たちジェントルマンでもねぇけどな」と俺。
「どっちかというと、スチューデントアンドメンバーオブソサエティだな」最後に崇斗があざけるように笑った。

 ――スチューデントアンドメンバーオブソサエティ。

 その長ったらしい横文字を二週間ほど前から使い始めたのは崇斗だ。

 俺はその意味を調べた時、少しだけ崇斗のことを羨ましいと思った。

 いまの俺たちの状況を、少しでも格好いい言葉で表そうとしている崇斗の前向きさを、俺は持っていなかったから。

「んなことはいいから、ほら! さっさとやるぞ!」

 腕まくりした功史朗が、高らかに宣言する。

「ただ今より、夕食の弁当争奪戦を開催します」

 その瞬間、ただのホテルの部屋がコロシアムへと変わり、口笛や指笛が乱れ飛んだ。

 今日は素泊まりの予定だ。

 なので事前に弁当を四種類買っておいたのだ。

 一位、松花堂弁当。
 二位、釜飯。
 三位、のり弁。
 四位、日の丸弁当。

 じゃんけんの勝者から順に、好きな弁当を選ぶことができる。

「俺、グーだすわ」

 俺が指をぽきぽき鳴らしながら立ち上がると、

「弱い奴ほど心理戦しかけたがるんだよなぁ」

 と腕をぶんぶん回す崇斗がほざいた。

 春樹は目を閉じて座禅を組み、集中力を高めている。

 功史朗はキリスト教徒でもないのに、胸の前で十字を切った。

「それじゃあ行くぞーてめぇら!」

 功史朗の声と共に、全員がこぶしを握り締め、振りかぶる。

「じゃん、けん、ぽん!」

 グー、パー、パー、パー!

「んのぉおおおおおおお!」

 俺はわめきながら布団の上に崩れ落ちた。頭を抱えて、死にかけの蝉みたいにごろごろと転がりつづける。

「そのまま出したら心理戦じゃないじゃん」
「裏の裏の裏の裏くらいまで読んだんだよ」

 勝利の笑みを浮かべる崇斗にはなにを言っても負け犬の遠吠えだ。俺は歯噛みしつつ、残った三人の勝負を盛り上げる観客に役割をシフトさせた。

「じゃん、けん、ぽん!」
「がぁああああああああああああ!」

「じゃん、けん、ぽん!」
「んごぉおおおおおおおおおおおお!」

 結局、じゃんけん大会の優勝は崇斗。

 春樹も功史朗も、負けが決まった瞬間、この世の終わりかのようなオーバーリアクションをしながら布団に倒れた。

 たかが弁当でなにをやっているのだろう。

 アホすぎだろ、俺たち。

 素敵すぎだろ、俺たち。

 きっと一週間後には、シャットダウンした会社のパソコンのディスプレイに、懐かしの笑みを浮かべる自分が映っていることだろう。

 スチューデントはもうすぐ終わり、メンバーオブソサエティが始まる。

 俺たちは、就職という人生で最も長い旅路に足を踏み入れるのだ。

「あー、俺ちょうど日の丸食べたかったんだよなぁ」
「強がり乙。負け惜しみ乙」

 崇斗がくすくすと笑いながら割りばしをぱきっと割った。

 俺は他の弁当からかすかに漂ってくるにおいだけをおかずに白飯をかき込む。

「……あ、そうだ」

 梅干しの種を口から吐き出した時に、ふと思いついた。

 絶望しかないとしても、ちょっとくらいは、色のついた生活を送りたいからな。

「なぁ」

 みんなの視線が俺に集まったのを確認してから言う。

「これからもさ、みんなで旅行することあるだろ?」
「まあな」と功史朗がうなずく。
「だからさ、その時にまた勝負しよう。そうだなぁ……、三十になった時くらいの旅行で」
「なんの勝負すんの?」
「そりゃあもちろん」

 俺は食べ終えた弁当の容器を畳の上に置いて、

「もちろん誰が一番渋くなれるかだよ!」

 はいここで爆笑きました!

 ………………え?

 みんな目が点になっている。

 デジャヴとはこのとこかと、俺は頭を抱えた。

「おいおいおい! 車の中でのボケ聞いてなかったのかよ! 渋くなるんだから、万札を多く集めるイコール誰が一番年収高いかってことだよ! 説明させんなって!」
「なぁ、充」

 恥を覚悟でボケを説明した俺に、崇斗がにやにやしながら声をかけてくる。

 春樹も功史朗も同じ顔だ。

 なるほどね……。

 俺はそんな三人と一緒に口を開いていた。

「そのボケ、まじオゴソカだわー」

 四つの声が揃った後、笑いながら窓の外を見る。

 満開の桜が、月明かりに照らされてピカピカと輝いていた。