「お姉さん。落としていいものと悪いものってな〜んだ?」

 頭に直接響くような声がした。私は駅のホーム這いつくばって落とした物を探していた視線を上げる。
 ホームのベンチの横に高校生らしき制服を着た少年が立って私を見下ろしていた。

 こんな時間になぜこんな所に? テスト期間?

「悪いけれど、私、今忙しいのよ」

 疑問に思いつつもまた落とし物を探し始めた。

 雅也から、私の部屋に今日の昼一時からのプレゼンで使うUSBメモリを忘れてきたとLINEがあったのは、昼休みの十分前ほど。私は十二時を告げるチャイムが鳴ると同時に事務所を出て、自分のアパートに戻った。雅也のUSBメモリを探し出し、電車に乗って彼の会社まで行こうとしている時だった。あまりに急いでいたからかもしれない。駅内の階段を降りていて最後の一段を踏み外し、駅のホームにバッグの中身をぶちまけてしまった。運が悪いことにバッグはファスナーの付いていない、マグネットボタンでとめるタイプのものだったのだ。
 スマホは液晶に小さなひびが入っていたけど見つかった。長財布も化粧ポーチも。なのにUSBメモリだけが見つからない。確かにバッグに入れてきたのに。
 スマホで時間を確認すると後一分で電車が来る時間だった。これはまずい。この電車に乗らないと昼休み中に雅也の会社に届けられない。私はとにかく黒のUSBメモリを探した。
 電車の独特なブレーキ音が響く。
 顔を上げると電車がホームに入ってくるところだった。私は絶望的な気持ちになる。
 降りた人たちがホームにへたり込んでいる私を怪訝そうな顔で見ていた。

 間に合わない。

 天を仰いだ私を無視して電車は発車してしまった。
 
 どうしよう。

 私は全身の力が抜けたようにホームに両足を投げ出した。雅也のプレゼンが失敗してしまう。私のせいで。そうなればきっと、雅也は怒るに違いない。

 スマホが鳴り出した。雅也からだった。

『おい、沙耶子、まだかよ?』

 雅也の声は明らかに苛立っていた。

「ごめん。駅で落としてしまって、見つからないの」
『なんだって? ふざけんなよ! どうしてくれるんだよ、俺のプレゼン! 大事な契約がかかってんだぞ! ほんっと使えねえ女だな』 

 雅也はそう言うと一方的に通話を切った。

 ーー使えねえ女。

 雅也の言葉がこだまする。

 私は役立たずだ。

「お姉さんの落とし物って、何?」

 先ほどの少年の声がした。まだ居たのか。

「黒のUSBメモリよ」

 もう届けてもプレゼンは始まってるだろうけど。私は力なく答えた。

「もしかして、これ?」

 少年の声に私が視線を向けると、彼はベンチの下を指差していた。
 力が抜ける。四つん這いのまま進み、ベンチの下を覗くと、確かに黒のUSBメモリがあった。
 今更あっても遅い。でも届けた方がいいのかな。届けたら自分の会社に戻れるのは何時になるだろう。考えるのが嫌になってきた。どうせあと十五分は電車は来ない。 

「お姉さん。さっきの質問の答え、聞いてないですよ」

 少年がまた話しかけてきた。この子は一体いつまでここにいるのだろう。

「何か質問なんてされた?」
「したよ。落としちゃいけないものといいものの話」
「ああ」
 私は頷いて、
「簡単ね。USBメモリは落としちゃいけないものだった」
 と答えた。少年はそんな私を見て悲しく笑った。

「これからどうするんですか?」
「一応彼の会社にUSBメモリを届ける。自分の会社には連絡を入れるわ」
「そのUSBメモリは彼氏さんのだったんですね」

 少年は痛ましいものを見るように私を見て言った。

「そうよ。彼のなの。君は? 学校に行かなくていいの?」
「僕は行けないんだ」

 相変わらず悲しげな少年に何か訳ありだろうとは思ったけれど、それならなぜ制服を着て駅にいるのだろう。今の子の考えることはよく分からない。

「お姉さん。僕はお姉さんの落としちゃいけないもの、そのUSBメモリじゃない気がする」

 少年の言葉に私は意味を測りかねて肩をすくめた。

「もうどうでもいいことよ」

 私は今日の夜のことを考え始めた。
 きっとまた……。
 ぶるっと身震いをする。
 よそう。今考えても仕方ない。悪いのは私なんだから。

「お姉さん、その痣……」

 少年の声にはっとする。膝丈のタイトスカートなのに座り込んで、太ももの途中まで脚が見えているのに気がついた。

「な、何でもないの。さっき階段を踏み外した時にできたのかもしれない」

 私は立ち上がってスカートを伸ばして払った。
 この時間、都心からやや離れたこの駅には人が少なかった。少年と私の他には離れた所に主婦らしき女性が二人いるだけだ。なんだか気不味い。

 少年はそれきり口をつぐんでしまった。私はそれをありがたく思った。
 電車が駅に入ってきた。私は少年に一度視線を送ると車両に乗った。少年は形容しがたい笑顔で手を振っていた。