と素っ気なく言い残し、百平米足らずの部屋の右奥へローヒールのパンプスでゆっくり歩いて行った。廊下側の窓の傍らの壁に座席表が貼ってあった。位置関係を確認して彼女の名前を探した。部屋の末席にワープロの三〇ポ程の印字で、能美亜衣子と書いてあった。彼女の机の上には朱肉、茶封筒、ホチキス、はさみ、スッティック糊、セルロイド定規、ボールペン、電卓など、経理関係の文房具が散乱していた。部屋の中には他に五名程の中高年の男たちがワイシャツに背広姿でパソコン作業をしていた。皆ディスプレイ画面を見ながらキーボードをせわしなげに叩いている。窓側の痩せ細った一人の男だけがキーボードをいらだたしそうに力一杯叩いていた。廊下側の小太りの男はあごに手を当ててカラー表示の画面の数表や図形にじっと見入っていた。亜衣子の向かいの机の初老の男は左右の人差し指だけでキーボードを操作していた。皆一様に土岐を無視し、興味を示していない。亜衣子は部屋の右隅の窓を背にしたこちら向きの少し大きめの机の前で立ち止まっていた。柔らかな身のこなしで幾度も少し斜めに頭を下げていた。そこに座っている男の顔は亜衣子の白いブラウスの背中で見えなかった。亜衣子が何かを言い終えてこちらを振り向くとその男は立ち上がった。土岐の方に軽く手を振った。岩槻ゼミのOB会で見覚えのある顔だった。深野信義は還暦間近の頭髪の逆立った快活な男だった。サンダル履きで小走りに土岐に近寄って来た。土岐の手を両手で握り入口前の書架の裏にあるくたびれた応接セットに案内した。窓を背にした一人掛けの黒いビニール張りのソファに腰掛けた。
「アルバイトの方だけど簡単な統計処理だから。とりあえず、概略を能美君に教えてもらって」
と亜衣子の方に手の平を上向きに差し出した。人差指の先で彼女を招いた。亜衣子は透き通るようなにこやかさでやって来た。土岐の隣に腰掛けた。グレーのフェルトのタイトスカートから二本の白い太腿が半分あらわになった。柔らかなソファが少し亜衣子の方に沈んだ。土岐の体が僅かに亜衣子の方に傾いた。二人の肩先が微かに触れた。土岐の鼻先を彼の知らない香水の匂い刺激的にかすめた。
「こちら土岐君。ゼミの後輩。暫くアルバイトで君がやることになっている仕事を手伝うから、お昼迄に例の作業を教えてもらえる?」