「だよな。新聞配達が拭くわけがねえよな。でもその日の夜はにわか雨が降っていた。指紋は雨で消えたというのが、署の公式見解だ」と言う南條の話を聞いて土岐が非常階段を仰ぎ見た。外壁がない。雨が降れば、手摺は雨ざらしになることは容易に想像できた。
「でも、にわか雨って、どの程度の雨だったんすかね」
と土岐が間の抜けた質問をする。声に訴求力がない。
「8階の踊り場から転落したって、どうして分かったんですか?」
と亜衣子が南條にすがるように尋ねる。眉が八の字になっている。
「スニーカーが片方落ちていた。もう片方は履いたまま転落した」
「ということは、乗り越えるときに踏ん張った方のスニーカーがぽろっと脱げたということか。あるいは誰かが持って来て置いたか」
と思案げに土岐が手摺を軽く叩きながら、亜衣子の同意を求めた。亜衣子はそれを無視して、
「このまま、一階迄降りていくんですか?」
と南條に直訴するように聞いた。
「何もないとは思うがもう一度手がかりのないのを確認しながら」
「いい運動になっていい」
と能天気に土岐は二人の後方からつとめて明るく声をかけた。暫く三人の不揃いな足音が非常階段の鉄骨にかすかに五月雨のようにこだました。あたりに殆ど人影はなかった。墨堤通りはトラックや営業車の交通量がかなり多かった。隅田川沿いの狭い裏通りには車の影が殆ど見受けられなかった。
 1階に降り立つと南條は非常階段を見上げた。
「発見されたのはここ。早朝、新聞配達のアルバイトが発見した。中国人留学生だ。死亡推定時刻は深夜。夜中に自宅から出てきて」
と非常階段から二三メートル離れた自転車置き場のコンクリートを指差した。水を撒いて清掃したあとがある。コンクリートの表面に血痕らしき薄黒い痕が滲んで見えた。
「検視報告では、打撲は右半身全体に見られた」
「ということは、右向きに転落したということですか?」
とすかさず亜衣子が右手を右頬にあてながら思案げに聞いた。
「一般的に転落の場合は下半身に損傷を受けることが多い。幼児なら別だが中学生高学年なら、足から落下するのが普通だし、自然だ」
「でも、手摺を乗り越えるときに、足をかけようとして横向きになってそのまま落下したんじゃないですか?」
と土岐も南條と亜衣子の会話の間隙を縫って参加してきた。
「そうかも知れねえが、ほとんど前例がねえ」