「べつに広報活動をしたわけではないが、不況の度に俺の所に相談に来る部落出身者が絶えなかった。愚連隊時代の俺の武勇伝がマレーのハリマオみたいに尾ひれがついて流布していた。実際満州で幾人も殺してきたから暴力に残忍さがあり俺を恐れていたやくざ連中がいたことも事実だ。昭和三十年代末の証券不況の時もそうだった。そのうちやくざも同じようなことを始めた。ただし、やつらは金だけが目的で堅気も対象にした。俺は部落関係者だけに限定した。部落出身者の場合、一般人と恋愛しても部落出身と分かると必ず破談になるので部落民同士で結婚することが多い。もう何百年もそうしたことが続いてるんで血がかなり濃くなっている。従兄妹同士で結婚するとかなり高い割合で何らかの障害を持った子供が生まれてくる。そういう子供は二重の意味で差別される。貧困も加わるから三重の差別を受ける訳だ。性格はそれ程悪くない子供でも親も行く末を案じるのは無理もない。三重の差別を背負って生きてゆくのがその子の本当の幸せかどうか。それに倒産の危機が絡めば保険金殺人の引き金が引きやすくなる。事故死や自殺に見せかけた保険金殺人のノウハウは蓄積されたが俺自身は大っぴらにやるつもりはなかった。大っぴらにやればいずれ発覚する。必要最小限度であれば関係者は沈黙を守り発覚する恐れはない。俺だってこの程度の蓄財ならば税務署からも警察からも怪しまれることはない。問題が大きくなり始めたのは昭和四十五年の大阪万博以降だ。信子の亭主の永山高志が観光目的で夏の大阪万博に行き、大阪で児童ポルノを探した。そこで天王寺の通天閣下のポルノショップで浪江の夫の隆と出会った訳だ。信子と浪江は同じ部落出身で信子は浪江を妹のようにかわいがっていた。短期間ではあったが同じ小学校で先生もやっていたし信子の亭主と浪江の亭主が出会うのは必然であったのかも知れない。いずれにしても隆が東京に来たとき信子は永山と既に結婚していたから隆と永山は浪江を通じて面識があった。永山が天王寺の隆のビニ本の店に行ったとき、そこに児童ポルノはなかった。『自分は持っている』という話から信子の亭主の高志が写真を提供することになった。大阪と東京ならばれることはないと踏んだ。浪江の夫は店頭に出すことはせず、それらしい客があると高値で売りつけていた。その中にジェイムズ・ノイマンがいた。ノイマンは万博の雑踏を見て開園の一九


