祭りのあと

にされなかった。利害が対立すると抗争になった。こっちは組織も何もないから多勢に無勢で勝ち目はなかった。それに嫌気をさして盃を交わして組に入る者がかなりいた。俺は次第に一匹狼になって行った。食うや食わずの生活が何年も続いた。親父がやっていた鞄づくりを引き継いでかろうじて生きてはいたがかつかつだった。時効だが初めて保険金殺人をやったのは朝鮮戦争の後の不況時だ。昭和二十五年から二十八年迄の朝鮮特需が停戦と共に剥がれ落ちてにわか工場が倒産に追い込まれた。部落出身の仲間に不渡り手形の始末を頼まれたが、こっちも金がない。たまたま郵便局の簡易保険に入っていた娘がいた。僅かな保険金だが急場はしのげる。その娘が性悪で年中補導され傷害事件も起こし、男を金槌で叩いて賠償金を請求されることもあった。その娘を隅田川に落とし事故死に見せかけた。あの頃警察には明らかな事件以外はまともに捜査しようとしない風潮があった。実際科学捜査なんぞない時代で迷宮入りになる事件や誤認逮捕やでっち上げ逮捕や自白の強要の多い時代だった。保険金請求では部落出身であることが逆に好都合だった。郵便局の連中は関わりを持ちたくないということでさっさと保険金を出した。その娘が性悪だったのも差別が原因で家庭生活も乱れていたし、あの環境で健全な子どもが育つとしたら奇跡に違いない。とはいえ昭和二十年代はその一件だけだ。次は昭和三十二年から三十三年にかけてのなべ底不況のときだ。手口は全く同じで警察も死んだのが部落民だとろくに調べもせずに事故死扱いにした。これを事件化すると捜査費用も掛かるし、人手もいるし、被害者が部落民の場合、事件を解決しても警察署内の評価は高くない。それにあの当時は科学捜査も幼稚で未解決の難事件を警察は沢山抱えていた。そればかりかいろんな問題を引き起こす部落民が一人でも減るのは治安対策上歓迎といった姿勢すら見られた」
と中田老人は語り続けた。南條が客間の硝子窓から小奇麗に清掃された庭を眺めながら呟いた。
「俺がガキの頃の話だがそういうことはあったかも知れない。警察は得点主義だから評価の低い事案は誰もやりたがらない。今でも」 
 中田老人は腹のあたりに丸まっていたタオルケットを胸に引き上げて、肩で大きく息をついた。