祭りのあと

「俺はやくざとは一線を画してた。昭和大恐慌のあと戦時中、内地では仕事がなかったので満蒙開拓青少年義勇軍に応募して満州に渡った。当時は人の移動がなかったから住んでいる場所で差別された。この土地から逃げ出したいというのが子供の頃からの願望だった。外地に行けば差別はないだろうと勝手に想像してた。外見だけでは分からないのだから。それにソ連軍や国民党軍や共産党軍という共通の敵があれば出身がばれたとしても差別されることはないだろうと思った。満蒙開拓青少年義勇軍の募集が始まったのは昭和十三頃からだった。数え十六歳以上が応募条件だったんで十五歳の誕生日の来るのが待ち遠しかった。数え十六になってすぐ応募した。五族協和という謳い文句に差別のない社会を思い描いた。王道楽土という名に貧困からの脱出の夢を描いた。全ての費用が支給されるというのも魅力的だった。国防色の国民服と共和帽が支給されて満州国の現地の訓練所に渡ったのは終戦の年だ。内地での話では食料も豊富で開拓民として必要な勉強も無料でできると言うことだったがとんでもなかった。食事は高粱ばかりで味噌汁は太平洋汁という塩汁だった。その訓練所でも差別された。軍事教練では敵役をやらされ仲間からぼこぼこにされた。食料がなくなって地元の中国人の農家から俺ばかりが食料を盗まされた。日本の敗戦を知った中国人が真っ先に俺を殺しにやってきた。損なことは率先してやらされるという差別が敗戦以降の逃避行でも続いた。それでも共通の敵の存在が俺を義勇軍に留まらせた。最初に満人の殺しをやらされた。生き延びるために帰還するために何人殺したか分からない。そういう損な役回りをこなさないと日本にも帰れなかった。義勇軍から脱走するのも地獄、留まるのも地獄だった。そのうち他人との情の交流という感覚が麻痺してきた。それは今でも続いてる。義勇軍でも部落出身ということで差別され、嫌なことは何でもやらされたからそうなったのか。両親が従姉妹同士という血の濃さのせいでそうなったのか分からない。復員してからも差別は続いた。かろうじて職を得ても部落出身と分かるとすぐにクビになった。その繰り返しがいつ迄も続いた。そういう仲間を集めて愚連隊を自然発生的に結成した。愚連隊はやくざとは違う。伝統もしきたりも義理も任侠も何もない。やくざとは一線を画していたというか、やくざからはまともな団体とみなされず相手