報告書の方は解説の文章を残し図表のとりまとめはほぼ終了した。図表の細かい修正は文章を書きながらということで深野と土岐と亜衣子は合意し、その日の作業を終えた。土岐と亜衣子は翌朝、8時半に墨田署の前で待ち合わせることにして別れた。
 翌朝、土岐は浅草経由で言問橋を渡ったところでバスを降りた。水戸街道を隅田川沿いに北上し、5分ぐらい歩いたところで、墨田署の正面玄関に出た。8時25分を少し回っていた。あたりを見回したが亜衣子の姿は見えなかった。外は寒風が吹いていたので建物の中に入ることにした。玄関から中に入ると正面奥に警備部、手前に交通部の部屋があり、受付の前にたたずんでいると、受付の女事務官が声を掛けてきた。
「ご用件は?」
「南條刑事と面会の約束をしてあるんですが」
「どちら様ですか?」
「統計研究所からきた土岐といいます。本庁の警視正から話が行っていると思うんですが」
と言うと、彼女は内線電話をかけた。
「お会いになるそうです。部屋は2階の奥の突き当りです」
「能美という者が来るはずなんですが先に行くと伝えて下さい」
「分かりました」
という声を背中で聞きながら1階右奥の階段に向かった。古い大理石の階段を上りかけたところで、亜衣子の甲高い声が追いかけてきた。階段の途中で土岐が立ち止まる。息を弾ませながら、
「8時半の待ち合わせでしょ。一人でさっさと行くなんて」
とすねるように頬を膨らませて土岐を非難した。階段のステップの角は人の足の通るところだけ湾曲して磨り減っていた。木の手摺はぐらぐらする。踊り場は薄暗い。何となく黴臭かった。二階にあがると左に水戸街道に面した窓、右に順に警務部、生活安全部、刑事部、総務課、一番奥に署長室の黒地に白い縦文字の小さな表札のかかった部屋が並んでいた。古い小学校の教室のようにそれぞれの部屋に廊下側に四つ切りの木枠の大きな窓がある。薄暗い内部を覗くことができた。突き当たりの角の刑事部の部屋にはいる。ヤンキースの野球帽をかぶった胡麻塩の無精ひげを蓄えた中肉中背の初老の男が窓を背にして煙草を吸っていた。
「おはようございます。南條さんで?」
と土岐と亜衣子が唱和して挨拶すると、
「土岐君と能美君?」
というしわがれた声がワンテンポ遅れて返ってきた。
「警視正から聞いたけど都営住宅の転落死に興味があるって?」