「莉香、お帰り」

 地元に久しぶりに帰った私を迎えてくれたのは、幼なじみの永田泰輝だった。昔と変わらないその屈託のない笑顔に私も自然と笑顔になる。

「泰輝、ただいま。元気にしてた?」
「ああ。莉香は?」

 私は泰輝の言葉に、一瞬答えられずに黙ってしまう。

「莉香?」
「あ、うん。元気、だよ」

 私の様子に、泰輝は顔を曇らせた。

「どうした? 今回急に帰ってくるっていうから、少し気になってはいたんだけど」

 そう。今回は正月でもお盆でもない。体育の日の三連休、私は今の状況に耐えられなくなって帰省を決めた。いつも悩みを聞いてくれていた泰輝を頼りたくて。

「まあ、話はこの後ゆっくり聞こう。ん? 荷物かせよ」

 泰輝は相変わらず優しい。優し過ぎて。
 私の瞳から涙が溢れた。そんな私を見て、泰輝は一瞬目を泳がせて、そして、

「まあ、なんだ。泣きたい時もあるよな」

 と苦く笑った。

「一度家に戻らなくていいのか?」
「うん。いつもの店、予約してくれてるんでしょ?」
「ああ」

 私たちは沈もうとしている夕日を背に歩き出した。
 影は長くなったけど、手は繋いでいないけど、昔を懐かしく思い出す。ここに来ると変わらない何かがある。
 ずっとこっちに住んでたら、違う今があったのかな。そう思ってかぶりを振る。
「どうした?」
「なんでもない。早く行こ」


***


 いつもの居酒屋の、いつもの奥の席に座ると、まず私たちは生ビールを頼んだ。

「とりあえず乾杯!」
「うん。お疲れ様」

 ゴクゴクと喉を鳴らす。

「はあ〜。涼しくなってきたとはいえ、やっぱりこの一杯は美味しいね〜」
「ああ」

 泰輝は何もなかったふりをして、私を急かそうとはしなかった。美味しそうにビールを飲んで、枝豆に手を伸ばす。

「何も聞かないんだね」

 私の言葉に、泰輝は枝豆を食べる手を止めて、私をちらりと見た。

「話したけりゃ話すでしょ」

 泰輝の言葉に私は笑った。

「じゃあ、話していい?」
「どうぞ」

 私はぽつぽつと話し始めた。

 私が会社のニ年先輩の高科さんと付き合っていることを泰輝は知っている。
 高科さんはかなり仕事の出来る人で、容姿も端麗。私は営業成績が良かったからか気に入られ、付き合いだしてから二年が経った。
 彼女になったのに、高科さんといると未だに緊張する。高科さんは人付き合いが上手くて、女友達も多いし、モテる。
 そんな高科さんがなぜ私と付き合っているのか分からなくなることがよくある。そして、私よりも他の女性の約束を優先される度に、遊ばれているのではという不安がよぎった。

「前から言ってたよね。高科さんと付き合っていても不安だって」
「うん……。でも決定的なことがあって……」
「それって、浮気か何か?」

 私は食べていた鶏皮の串を置いて、頷いた。
 
 他の支店から移動でやってきた相楽さんは、私の一つ年下だ。そつがないのに甘え上手。仕事がめちゃくちゃ出来て、外見は可愛らしいというなんとも羨ましい後輩だった。

 相楽さんが、

「高科さんって素敵ですね」

 と私に言ってきた時、私はどきりとした。 

 会社では高科さんと私が付き合っていることは内緒にしていて、同期の仲の良い友達一人にしか話していなかった。

 私の嫌な予感は的中した。

 休日、私との約束をキャンセルした高科さんが相楽さんと会っているのを私は偶然見てしまった。最近予定を急に断られることが多かったのは、多分相楽さんと会っていたからなのだろう。

「……それって、本当に浮気だったの? 高科さんには確認した?」
「相楽さんと会っていたとは言わなかった。はぐらかされた」

 私が目の前の焼き鳥の盛り合わせをただ見つめて言うと、泰輝は、

「生おかわりください。二つ」 

 と一度店員に言ってから、私を見た。

「そうか。それで? もし、浮気していたとしたらどうするの?」
「え?」
「莉香は高科さんのことが好きなんだろ? これからどうしたいの?」

 私は泰輝の問いに困ってしまった。
 高科さんを私は本当に好き、なのだろうか。付き合って欲しいと言われたときは天にも昇る心地だった。でも、今はどうなのだろう。
 私は鶏皮の串を持っては置く、を繰り返して、考える。

「相楽さんとは今度企画のプレゼンでやり合うの。負けたくないと思う。高科さんのことも取られたくないと思う」
「仕事でも争うんだ? ……まあ、どちらも負けたくないよな」

 泰輝の相槌に私は肯く。

「でも、でもね。私、高科さんのこと好きかって訊かれると、分からなくなる。なんか疲れてしまって。それなのに負けるのは嫌だって変な意地はあって」
「莉香は負けず嫌いだもんな」 

 泰輝は笑って言って、生ビールをごくりと飲んだ。

「じゃあ、高科さんの浮気を許すのか? 別れたくはないんだろ?」

 私は泰輝の言葉に目を見開く。

「そんな! 許すなんてできない」

 許せない。でも、そうなら、別れる、の?

 自分では考えもしなかったことに、私は視線をうろうろさせた。

「……泰輝は別れた方がいいと思う?」

 私は急に自信がなくなって泰輝に変な質問をしてしまった。泰輝は私の目をじっと見て、

「別れた方がいいって言われたい?」

 と言った。
 泰輝の言葉に、私は自分でどうするかを決めなくてはいけないのだと悟る。
 自分のことなのだ。当然のこと。なのに、心もとない。海の中に放り出されたような感じがする。

「まあ、ゆっくり考えろや。ただ、俺は莉香が幸せであることを願ってるよ」

 そう言って泰輝はつくねの串を取ってかぶりついた。

「ここのつくね、やっぱうまっ! 莉香、まだ串残ってるぞ。食べろ食べろ。酒は? まだ飲むだろ?」
「うん。次はモスコミュール飲む」

 昔からそうだ。泰輝は話を聞いてくれる。でも、最後の選択は私に残して、意見を押し付けることはない。それが泰輝の厳しさで優しさなのだ。

 高科さんと別れる。

 私は自分でその選択肢を意図的に考えないようにしていたのかもしれない。
 プレゼンには勝ちたい。でも、付き合うことに勝ち負けなんてあるのだろうか。付き合うって本当はもっと心が伴うものじゃないんだろうか。

 私はこの日、泰輝と飲みながら考えていた。
 

「明後日、朝イチの電車で戻るんだろ?」
「うん」

 朝イチに戻らないと、居心地のいい地元にずっと居たくなる。

「仕事もプライベートも大変そうだから、体壊すなよな」

 実家の前まで送ってくれた泰輝はそう言って私の頭を撫でようとしてやめた。

「悪い。これは俺の役目じゃないな」

 泰輝が私を気遣うとき、昔は頭を撫でてくれたたのを思い出して、なぜか切なくなった。
 この胸の痛みはなんだろう。


***


 翌日、私は実家でダラダラと過ごした。母の作ったご飯が美味しかった。実家は幸せだった学生のときの匂いが染み付いていた。



 その次の日、朝はずいぶん冷えていた。すっかり秋だ。さすがにカーディガンか何か持ってくればよかった。
 私は指に一度息を吹きかけて、昇り始めた太陽に目を細めながら駅に向かった。足取りは自然と重くなった。
 駅の前で足が止まる。朝日が空を朱に照らす中、泰輝がいた。
「どうしたの?! こんな早く。泰輝、朝弱かったよね?」

 私が言い終わらないうちに、泰輝は私を突然抱きしめた。私の手からバッグがおちた。

「た、泰輝?」

 お互い中学になってからは、当たり前だったスキンシップを取らなくなった。それを寂しいと思っていた自分がいたことをちらりと思い出す。
 泰輝の肩はいつの間にかがっしりとしていて、胸板の厚さも感じられた。その泰輝の心臓が早鐘を打っているのが衣服越しに伝わってきて、同じように私の心臓がとくとくと言い出す。

「泰輝?」

 もう一度言葉にする。泰輝は返事をする代わりに私を抱く腕の力を強めた。

「俺、やっぱり耐えられないわ。莉香が悲しそうな顔するの」

 切なく掠れる泰輝の声。
 どきんとした。

「こんなの反則だとは分かってるけど。莉香。行くな」

 私は声が出せなかった。

「俺が幸せにするから、ここにいろ」

 私の中に泰輝の言葉がゆっくりと浸透していく。
 どうしよう。私、なんだか。

「な、何言って……」

 泰輝は私の肩に埋めていた顔を上げて私を見た。

「俺は本気だ。ずっと莉香が好きだった。莉香が幸せなら我慢しようと思ってた。でも、今の莉香は幸せそうじゃない。高科さんは莉香を幸せにできない。……苦労はさせるかもしれない。でも、俺は莉香を笑わせる。だから一緒にお茶作ろう」

 泰輝は両親の茶畑でお茶作りを営んでいた。

 一緒にお茶作ろう。

 これってプロポーズ?!

 私は自分の顔がかあと赤くなるのが分かった。
 いつも優しく私の話を聞いてくれた泰輝。幼なじみなのに、兄のような、そんな存在だった。だったけど。
 私。どうしてかな。とても嬉しい。高科さんから付き合おうって言われた時より数倍嬉しい。どきどきしてる。

 私の目から涙が溢れた。

「莉香?! 嫌だったか?」

 泰輝が困り果てた顔をしている。

「ううん。嬉しい。すっごく嬉しいよ。でも、待って。私、プレゼンは負けたくないの。だから、仕事に決着つけて帰ってくる。それでも待ってくれる?」

 泰輝は驚いた顔をして、次の瞬間、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「今までだって待ってきた。待てるに決まってる!」

 泰輝はまた私を抱きしめた。


***
 
 私はそれからというもの、高科さんと会うのをやめて、プレゼンの準備に没頭した。
 高科さんは私が素っ気ない態度をとると逆に私に構うようになった。だからといって高科さんを許す気にはなれない。
 今の私の心には泰輝がいる。泰輝に恥じない私でいたい。
 毎日会社に遅くまで残って資料作りを進めた。

 結果、企画のプレゼンは私が競り勝った。今の仕事が嫌いなわけではない。やりがいはあった。でもそれよりも今はお茶作りをしている自分を想像するのが楽しいのだ。泰輝の横で笑っている自分を思い描くのが嬉しいのだ。
 私は企画を相楽さんに継いでもらうよう課長に掛け合った。ちゃんと仕事の引き継ぎをして、そして、相楽さんには、

「高科さんあげます」 

 と言う言葉を叩きつけて、私は会社を辞めた。



 正月。
 帰ってきた私を、泰輝がいつもより嬉しそうな笑顔で迎えてくれた。

「決着つけてきた」

 言った私に、

「お疲れ様。それで、式はいつにしようか?」

 と泰輝は訊いてきた。

「まずはお互いの両親に報告ね」

 私はそう答えて、泰輝の腕に腕を絡ませた。

 私は懐かしいこの場所で泰輝と新たな一歩を踏み出すのだ。


             了