――ひな。ひな。
だれかが、遠くから呼んでいる気がした。
水の気配を、感じた。
龍神様のいらっしゃるという、神社の奥の湖に投げ込まれたからだ。
それは、わかる。
だけれど……なぜ?
冷たくはない。ただ、滑らかな感触の絹に包まれているような……それでいて清廉な、透き通るような香り……。
水中のなかで、漂っているような感じ。
苦しくはない。むしろ、全身はあったかくて……痛みもなくて……。
もう死んでいるはずなのに、おかしいな……。
――ひな。当代の、我が巫女姫。
生涯を俺への信仰へ向け、俗世の穢れも耐え、よく頑張った。
迎えに来たから……ともに生きよう……。
死んでいるはずなのに、眩しさを感じて、目を開けた。
そこには――信じられないことに、人間がいた。
光を弾き艶めく紺色の衣を翼のように纏った、驚くほど端正な顔立ちをした青年が――この上なく柔らかい表情で、私の顔を覗き込んでいる。
……こんなに優しく見つめられたことはない……。
人間?
……ううん。
ひと、ではない。たぶん。
だって、光り輝いている。このひとは。
衣をまとってもなおわかる、しっかりとしているけれど細身な長身のまわりに、光たちのほうから集まってきているかのように。
それに。
こんなに神々しい――美しいひとが、人間であるわけない……。
実りの秋の稲穂のような金色の髪も、遠く山々までも染める夕暮れのような真っ赤な瞳も。
あまりにも――人間離れしていた。
……だいたい、ただの人間だったら水中でこんなに穏やかに、苦しそうな素振りもなく私を見つめているはずがないのだ。
私もいま、苦しくないから――不思議だけれど。
そう。
私も、水のなかでたゆたっていた。
巫女服も水のなかでゆらゆらとゆらめいて……。
もう身体にくっついていなかったはずの腕も脚も、おそらく身体のなにもかもが元通りみたいになって。
水底に向かって深く深く仰向けの格好で、空中に浮くかのように、水のなかで……ふんわりと、浮いていた。
私は――死んだはずじゃ、なかったの?
水が、とても透き通っている……。
きれいだ。
こんなに透明で、なのに水の青さも鮮やかで――。
……濁っていた龍神様の湖も、これほど手入れされて透明ならばよかったのに。
そんなことを思っていると、目の前の青年は私の頬に両手を当ててきた。
「もう、哀しそうな顔はしないで……ひな」
水のなかなのに、あぶくとなっているはずの声がちゃんと聞こえる……。
「あなたは……だれ……?」
愛おしくて堪らないとでも言うかのように、青年はくつくつと笑った。
「貴女が生涯を捧げてくれた、龍神さ。貴女には真名を伝えよう、我が真名は、陽という。俺は、ひなを迎えに来たんだよ――」
青年は微笑みを崩さないまま、しかしふいに真剣な雰囲気となる。
「愛しい巫女姫よ。龍神の寵愛をもってして、人間として、やりなおそう」
「……龍神様……」
現実味のないふわふわした頭で、私は言う。
「……ごめんなさい。神社も、湖も……ぜんぜん、きれいにできなくて……」
「ひなのせいじゃないさ。それに、神社はともかく湖はこんなにきれいじゃないか――」
「……え?」
龍神様だと名乗る青年は、右手を広げてあたりを示す。
眩しい光を反射して……きらきら、きらきらと、透明で青い水がきらめく。
「俺たち龍神が舞い降りれば、湖なんて一瞬できれいになるよ。……ひなの気持ちはわかっている。なんにも、気にすることはないさ」
「……龍神様になにもできなかったのに、気にしないなんてそんな……そんなこと……」
「――ひなが俺を愛してくれていたのは、よくわかっているから」
青年は、私の背中に腕を回して強く、抱きしめた。
「つらかっただろう……巫女が役目を終えるまで、龍神は手を出してはならない約束になっている。旧い約束だけれど……あの村の者の先祖と昔の龍神たちが契約した以上は、遵守せねばならないんだ。……俺はずっと、ひなを見ていた。村人たちが信仰をなくし、巫女にまでつらく当たるなか、なんて健気な巫女だろうと――貴女の生涯を、見つめていた。……見惚れていた」
青年は、苦しそうに、それでいて愛おしそうに話す。
こんな私などに、向かって。
「見つめていても、ひなが現役の巫女である以上は手を出せなくて、ずっともどかしかった……すまなかった、と本当に思う。これからは、貴女を苦しめはしない。村のやつらがなんにもしなかったぶんを――俺が、ひなになんでもしてやるから」
「……龍神様……」
私は、まだほとんど夢見心地で、……信じられない気持ちで、でも、……信じたい気持ちもあって、意を決して口を開く。
「貴方さまは本当に、龍神様なのですか。私などを……お迎えに来てくださったのですか」
「もちろん。ひなを、ひなだけを迎えに来た」
「……龍神様。龍神様……」
失礼だと、承知しつつも。
私は、紺色の高貴な衣をまとったその大きな胸にすがりついてしまった。
まだ、信じられない気持ちもあった。
けれども……信じたかった。
これは私の夢かもしれない。
それでもいい。
龍神様は、ほんとうに、いらっしゃったんだ。
龍神様は、嫌そうな素振りひとつ見せず――むしろ笑顔を深くして、私を両腕で包み込むように抱いてくれるのだった。
だれかが、遠くから呼んでいる気がした。
水の気配を、感じた。
龍神様のいらっしゃるという、神社の奥の湖に投げ込まれたからだ。
それは、わかる。
だけれど……なぜ?
冷たくはない。ただ、滑らかな感触の絹に包まれているような……それでいて清廉な、透き通るような香り……。
水中のなかで、漂っているような感じ。
苦しくはない。むしろ、全身はあったかくて……痛みもなくて……。
もう死んでいるはずなのに、おかしいな……。
――ひな。当代の、我が巫女姫。
生涯を俺への信仰へ向け、俗世の穢れも耐え、よく頑張った。
迎えに来たから……ともに生きよう……。
死んでいるはずなのに、眩しさを感じて、目を開けた。
そこには――信じられないことに、人間がいた。
光を弾き艶めく紺色の衣を翼のように纏った、驚くほど端正な顔立ちをした青年が――この上なく柔らかい表情で、私の顔を覗き込んでいる。
……こんなに優しく見つめられたことはない……。
人間?
……ううん。
ひと、ではない。たぶん。
だって、光り輝いている。このひとは。
衣をまとってもなおわかる、しっかりとしているけれど細身な長身のまわりに、光たちのほうから集まってきているかのように。
それに。
こんなに神々しい――美しいひとが、人間であるわけない……。
実りの秋の稲穂のような金色の髪も、遠く山々までも染める夕暮れのような真っ赤な瞳も。
あまりにも――人間離れしていた。
……だいたい、ただの人間だったら水中でこんなに穏やかに、苦しそうな素振りもなく私を見つめているはずがないのだ。
私もいま、苦しくないから――不思議だけれど。
そう。
私も、水のなかでたゆたっていた。
巫女服も水のなかでゆらゆらとゆらめいて……。
もう身体にくっついていなかったはずの腕も脚も、おそらく身体のなにもかもが元通りみたいになって。
水底に向かって深く深く仰向けの格好で、空中に浮くかのように、水のなかで……ふんわりと、浮いていた。
私は――死んだはずじゃ、なかったの?
水が、とても透き通っている……。
きれいだ。
こんなに透明で、なのに水の青さも鮮やかで――。
……濁っていた龍神様の湖も、これほど手入れされて透明ならばよかったのに。
そんなことを思っていると、目の前の青年は私の頬に両手を当ててきた。
「もう、哀しそうな顔はしないで……ひな」
水のなかなのに、あぶくとなっているはずの声がちゃんと聞こえる……。
「あなたは……だれ……?」
愛おしくて堪らないとでも言うかのように、青年はくつくつと笑った。
「貴女が生涯を捧げてくれた、龍神さ。貴女には真名を伝えよう、我が真名は、陽という。俺は、ひなを迎えに来たんだよ――」
青年は微笑みを崩さないまま、しかしふいに真剣な雰囲気となる。
「愛しい巫女姫よ。龍神の寵愛をもってして、人間として、やりなおそう」
「……龍神様……」
現実味のないふわふわした頭で、私は言う。
「……ごめんなさい。神社も、湖も……ぜんぜん、きれいにできなくて……」
「ひなのせいじゃないさ。それに、神社はともかく湖はこんなにきれいじゃないか――」
「……え?」
龍神様だと名乗る青年は、右手を広げてあたりを示す。
眩しい光を反射して……きらきら、きらきらと、透明で青い水がきらめく。
「俺たち龍神が舞い降りれば、湖なんて一瞬できれいになるよ。……ひなの気持ちはわかっている。なんにも、気にすることはないさ」
「……龍神様になにもできなかったのに、気にしないなんてそんな……そんなこと……」
「――ひなが俺を愛してくれていたのは、よくわかっているから」
青年は、私の背中に腕を回して強く、抱きしめた。
「つらかっただろう……巫女が役目を終えるまで、龍神は手を出してはならない約束になっている。旧い約束だけれど……あの村の者の先祖と昔の龍神たちが契約した以上は、遵守せねばならないんだ。……俺はずっと、ひなを見ていた。村人たちが信仰をなくし、巫女にまでつらく当たるなか、なんて健気な巫女だろうと――貴女の生涯を、見つめていた。……見惚れていた」
青年は、苦しそうに、それでいて愛おしそうに話す。
こんな私などに、向かって。
「見つめていても、ひなが現役の巫女である以上は手を出せなくて、ずっともどかしかった……すまなかった、と本当に思う。これからは、貴女を苦しめはしない。村のやつらがなんにもしなかったぶんを――俺が、ひなになんでもしてやるから」
「……龍神様……」
私は、まだほとんど夢見心地で、……信じられない気持ちで、でも、……信じたい気持ちもあって、意を決して口を開く。
「貴方さまは本当に、龍神様なのですか。私などを……お迎えに来てくださったのですか」
「もちろん。ひなを、ひなだけを迎えに来た」
「……龍神様。龍神様……」
失礼だと、承知しつつも。
私は、紺色の高貴な衣をまとったその大きな胸にすがりついてしまった。
まだ、信じられない気持ちもあった。
けれども……信じたかった。
これは私の夢かもしれない。
それでもいい。
龍神様は、ほんとうに、いらっしゃったんだ。
龍神様は、嫌そうな素振りひとつ見せず――むしろ笑顔を深くして、私を両腕で包み込むように抱いてくれるのだった。