終業式の朝、登校すると教室はいつもと違って明日から夏休みだというふわふわした空気感に包まれている。私はふと、最近めっきり姿を現さなくなった柚乃の席の方に目をやった。やっぱり今日も来ていない。柚乃と話をした最後の日、なんでもないやって感じで笑っていた彼女は今どうしているのだろう。もし私が、『SHOSHITSU』アプリを使わずにいたら、今頃学校に来られなくなっているのは私の方だったかもしれない。
柚乃が学校に来なくなってからずっと、胸には罪悪感が滲んでいた。梅雨が明け、夏休みを目前にして、心にはずっと雨が降っている。
終業式は運動部、文化部の大会の激励会と、毎回恒例校長先生の長話を聞いて終わった。もう高校二年生の1学期が終わったということは、高校生活もそろそろ折り返しなんだなと実感が湧く。進路とか将来のこととか全然考えられていないけれど、終業式の間、なぜか両親の顔が頭に浮かんでいた。進学するにしてもそうでないにしても、子供でいられる時間はあと僅かなんだ。そう思うと、日々人間関係や勉強のことで悩んでいる時間さえ、手放すのが惜しくなるのは不思議だ。
「今日で1学期が終わるけど、夏休みも一瞬で終わるぞ。羽目を外さない程度に楽しんでくれ。あ、もちろん勉強もしとけよ。何もしてないと脳みそが腐るからな」
「筋トレはいいんですかー?」
「うぬ、筋トレは当然だ。2学期にはムキムキになったみんなを見るのを楽しみにしてるぞ」
「先生も早くムキムキになんなきゃね」
「任せろ。この夏は筋肉の夏! てことでさようなら!」
帰りのHRで雪村先生と一部のクラスメイトが冗談を言って、わっと教室が湧いた。さようならーと次々に挨拶を告げてみんなが教室から出ていく。
「あ、そういえば誰か遠藤に手紙届けてくれないか?」
先生がそう声をあげたのは、教室から半分以上の生徒が出ていったあとだった。
ちょうど普段柚乃と仲良くしている女子たちも帰ってしまっていたため、教室はシンと静まり返る。
星川学園に通う生徒たちは広範囲から集まっているため、各々の自宅が近くにあるとは限らない。友達の家と電車で何駅も離れているという場合だって少なくない。それに比べると、私の家から柚乃の家まではそれほど遠くなかった。せいぜいバスに揺られて20分、といったところだろうか。
私は誰も名乗り出ないのを確認してから、そっと手を挙げた。
「私持っていきます」
「おお、ありがとう。助かる」
雪村先生はほっとしたような表情を浮かべ、私にA4サイズの封筒を差し出した。ずっしりとした重みのあるそれは、彼女が学校に来なかった時間の長さを思い起こさせた。
封筒を受け取った私は教室をあとにしようとしたのだけれど、そこで神林に呼び止められて振り返る。
「どうかした?」
「春山さんに聞きたいことがあるんだ。ずっと気になってたこと」
神林と言葉を交わしたのは久しぶりだった。柚乃が現実に戻ってきて彼が何も疑問を抱いていない様子だったことに多少なりともショックを受けてしまった私は、自ら彼を避けるようにして過ごしていた。
「先月だったかな。春山さん、俺に遠藤さんのこと聞いてきたことがあったじゃん。『遠藤さんのこと知ってるか』って」
「ああ、うん……」
「そのあと、春山さん様子が変だよね? 俺のこと避けてるみたいだし。なんかあったのかなって」
「……」
そりゃ、神林が私の態度を変だと思わないはずかない。彼の目には戸惑いの色が浮かんでいた。いつも真っ直ぐな理論をぶつけてくる彼にしては見慣れない表情だ。いきなり自分と距離を置くようになったクラスメイトを、得体のしれないものとして見ている、そんな目。私は、初めて見る彼の不安げな瞳に、吸い込まれそうだった。
「俺さ、春山さんに何か失礼なことしたかなって反省してて……。気づいてないだけで、困らせるようなことしたんだろうって。
だから、それが何なのかはっきり教えて欲しい」
私たちの横をすり抜けて教室から出ていくクラスメイトたちが、どうしたんだろうと不思議そうな表情でこちらをチラ見する。けれど、彼らはすぐに友達と夏休みの始まりを祝うべく、談笑しながら去っていく。私たちだけが時間の流れに逆らってその場に止まっていた。
「……神林が失礼なことをしたなんてまったくないよ。ただちょっと、ショックだっただけ」
素直な気持ちが口からこぼれ出す。本当ならば彼自身にこんなむき出しの感情をぶつけるべきではないのに。
「ショックって、具体的に何が?」
「神林は、私と屋上で話したこと覚えてる……?」
ついに、核心に触れる質問をしてしまった。私が、柚乃を消してしまったあとに彼に相談をしたこと。柚乃とアプリに関するすべての記憶だけでなく、あの日彼が私にくれた優しい言葉の数々と思い出が、彼の中から消えてしまったのかを確認したかった。
「屋上……。ごめん、それっていつのことだっけ?」
ゴン、と頭を鈍器で殴られたような衝撃がした。心臓を鷲掴みにされ、押しつぶされたような感覚に陥る。
「……期末テストの前。あの日は梅雨なのに晴れてた。神林は隣で」
私が傷つくところを見たくないと言った。
喉元までせり上がった言葉は、バラバラと腹の底まで崩れ落ちる。眉根を寄せる彼の顔を、これ以上私は見たくなかった。
「ごめん、やっぱり思い出せない。いや、ちょっと待って。ぼんやりだけど、少しだけなら思い出せるかも」
額を抑えて苦しそうにしている彼を、私は放っては置けなかった。
「もういいよ。無理に思い出そうとしないで」
「でも」
「本当は全部、嘘だから大丈夫。引っ掛かった?」
私は務めて明るく、ケラケラ笑ってその場をやり過ごす。
「引っ掛かったも何も」
明らかに困惑している彼。
「じゃあ私、今から遠藤さんちにこれ届けなきゃいけないから。また2学期ね」
呆けた様子の彼を振り切って、私は教室を後にした。あの日屋上で、少しでも近づけたと思っていた彼の心は、あまりにも簡単にマイナス100メートルほどに離れてしまった。