その日の放課後、さっそく私は柚乃の元へ話しかけにいった。テスト期間のいま、バレー部も部活をやっていないみたいなので、彼女はカバンに荷物を詰め、今まさに帰ろうとしているところだった。
「遠藤さん」
制服がびしょ濡れになったためだろう、ジャージ姿の彼女が突然話しかけてきた私に「えっ」と顔を上げた。どうしよう、心臓がめちゃくちゃ鳴っている。まさか私が自分から宿敵の彼女に話しかけに行くことがあるなんて、アプリを使う前は考えられなかったので、この状況が自分でも信じられない。
でも、彼女の方は違った。私の顔を見て、「なんだ春山さんか。びっくりした」と眉を下げて笑った。どうやら私が話しかけてきたことに驚いたのではなく、突然声をかけられたことに反応してしまっただけらしい。
「急にごめん。ちょっと話したいことがあるんだけど、今から時間ある?」
話したいこと、だなんてもし彼女が男の子ならまるで告白でもするような前振りだなと心の中で苦笑した。
「え? いいけど」
もっと警戒されると思っていたのだが、柚乃は案外すんなりと私の提案を受け入れた。私たちはそのまま教室を出て、人気のない四階まで上がった。反射的に、この間神林と屋上に登ったことを思い出して胸が痛んだ。さすがに今日は屋上へは行けない。雨はまだ廊下の窓に張り付いている。
私たちは屋上へと続く階段に二人並んで腰掛る。こんなところまできて女の子と、しかももともと自分に嫌がらせをしていた人物と二人きりだなんて、神林と二人きりになった時とはまた別の緊張があった。
「ここまで来れば誰にも聞かれなそうだね。突然声かけたりしてごめん」
「いや、いいけど。ちょっとびっくりした」
初めてまともに言葉を交わす彼女は、思っていたよりも普通だった。確かに話しかけづらい高飛車なオーラがあるのは変わらないけれど、人を拒むほどの空気感は持ち合わせていない。
「あのね、今日の昼休みのことなんだけど……遠藤さんが運動場にいるのを見ちゃったんだ」
下手な前置きはせずに、私は単刀直入に本題に入る。彼女と雑談をできるほど会話にネタがなかったというのもある。
柚乃は一瞬ビクッと肩を震わせて私の方を見た。いたずらがバレてしまった小さな子供のように、次に何を言われるのか覚悟している様子が伝わってきた。
「雨の中、傘もささずに立ってたよね。しかも、上級生に囲まれて。あの人たちって、やっぱりバレー部の先輩?」
思ったよりもはっきりとこの目で見たことを口にできたことに、自分でも驚く。
「……見られちゃってたか」
両足を投げ出して座っていた柚乃が、右足の爪先で左足の爪先をちょんと触る。気がつかなかったが、上履きは泥だらけだ。さっき、上履きのまま運動場に出ていたんだろう。
「なーんかさ、標的にされちゃったみたいなんだよね。あの人たち、常に後輩をいじめていないと気が済まないらしいの」
あの人たち。同じ部活の先輩をそんなふうに呼ぶ彼女の心は、ぽっかりと穴が空いているように感じられた。
「それは最近のことなの? 遠藤さんが標的になる前は誰に……」
「うん、最近。というか今日いきなり? 昼休みに呼び出されたかと思ったらご存知の通りよ。先週までは一年生の女の子が標的だったな。さっき知ったんだけど、辞めちゃったんだって。そりゃそうだわ、毎日あんなのにいじめられてたら辞めたくもなるわ。周りで何もしなかった私たちのせいでもあるし」
柚乃といじめの話をするのはかなりおかしな状況だった。これまでは私があなたにいじめられていたんだよ。でもおそらく今の彼女には私をいじめていた時の記憶などない。私がアプリを使ったせいで、柚乃と私を取り巻く環境が変わってしまったと解釈できる。つまり、いま私がこうして柚乃と話している世界は異世界みたいなもんだ。
「こんなこと自分で言うのも変だけど、私を蔑む先輩たちを見て、既視感を覚えたんだよね。あれ、なんか知ってるって。この人たちの釣り上がった目と下品な口元。どこかで見たことがある。ううん、身に覚えがあるって」
「……それって、遠藤さんも誰かをいじめたことがあるってこと?」
「それが分かんないんだよね。そんなことした記憶はないのに、身体が覚えてるっていうか。だからたぶん、前世で他人のことを
いじめてたんだと思う。馬鹿みたいだと思うけど、そうとしか考えられないわ」
はは、と力なく笑う彼女は私が知っている尊大な笑みを浮かべる彼女とは似ても似つかない。柚乃が自分で言った通り、ここはきっと並行世界なのだ。『SHOSHITSU』アプリが生み出した別世界。私が変えてしまった。私が柚乃をこんな目に遭わせてしまった。
だけど、じゃああのまま自分が彼女にいじめられ続けていたらどうなっていただろう。いつか耐えきれなくなって潰れてしまっていたかもしれない。アプリを使ったのが間違いだったというのは結果論であって、実際どっちが良かったかなんてたった一つの世界を生きる人間には分からないのだ。
「遠藤さんって、家ではどんな感じなの」
柚乃と話すうちに、私は彼女のバックグラウンドを知りたいという衝動に駆られた。これまでの私だったら絶対に知ろうともしなかった。自分を罠に陥れる人間のことなんて、知ったところでどうにもならないと思っていたから。
でも今は違う。私は彼女と、同じ立場にいるのかもしれない。成り行きこそねじれてはいるが、こうしてお近づきになれているのは、弱さにつけ込まれたことのある人間同士だからだろう。
「うちで? 息が詰まってるって感じかな」
「え?」
予想していたものとは全然違う答えが返ってきて、私はとっさになんと答えたらいいか分からなかった。もっと別の、例えば家ではだらだらとゲームをして過ごしているとか、両親とめちゃくちゃ仲が良いとか、そういう当たり障りのない答えを期待している自分がいた。あんなに可愛い猫を飼い、私をいじめていた彼女はきっと、何不自由なく幸せな生活をしているのだろうと思いたかった。
だけど彼女が口にした「息が詰まる」という感覚は、私にも身に覚えがあるものだ。
「知ってるか分かんないけど、うちって結構金持ちなんだよね。自分で言うのもアレだけど」
「知ってるよ」
柚乃の家柄の噂なら時々耳にする。確か、お父さんが大手証券会社の社長なのだと聞いた。私は、彼女の家から猫を盗み出した日のことを思い出す。あまり記憶に留めておきたくはないのに、脳裏にこびりついて離れない光景。そりゃ、あれだけ立派な家に住めるはずだ。
「そか。でさ、お母さんはすっごいプライドが高くて、小さい頃からいろんな習い事させられてたんだー。ピアノでしょ、ヴァイオリンでしょ、体操でしょ、水泳、お花、お琴。こんなのいつ役に立つんだろうってことまで全部。こんなこと言っちゃ悪いけど、自分は専業主婦でお金を稼いでるのはお父さんなのに、見栄を張りたかったんだろうね。私に何でもできるようになってほしい、っていう気持ちより、他所様に自慢したいって気持ちが透けて見えたから、私は全然乗り気になれなかったよ」
一度話し出すと、柚乃は止まらなかった。たぶんずっと、誰かに愚痴を聞いて欲しかったんだろう。その相手が私でいいのかは分
からないけれど。
それにしても、聞いているだけで気が滅入りそうな多忙さだ。幼い頃からそれほど多くの習い事をさせられていたら、私だって反発したくもなるだろう。
「でもさ、たちの悪いことに、一度やり出したことを中途半端にやめられない性格でさー。あ、私のことね。それが逆にしんどくて。『もうやりたくない!』って投げ出して家出でもなんでもすれば良いのに、結局お母さんの期待に応えようとしちゃうわけ。ふっ、これだから私は馬鹿なんだわ」
けたけたと、自分を嘲笑う柚乃を見ていると、いたたまれない気持ちになった。
柚乃の家と春山家は全然違う。うちはそんなにお金持ちじゃないし、習い事だってやってたのはせいぜいピアノくらい。でも、
「勉強は絶対に裏切らないから頑張りなさい」と言われ続けてきたことを思えば、柚乃と自分の境遇に似ているところがある。親から期待を押し付けられる時の不快感。親が見栄を張るためだけに頑張らされているという虚無感。すべて抱えて投げ捨ててしまいたかった。きっと柚乃も同じなのだ。だから、彼女の気持ちは痛いほどよく分かった。
「けど私も本当は、そういうお母さんの期待に応えることで、自分のスキルが上がっていくことが嬉しかったのかもしれない。なんでもできないよりはできる方がいいじゃない? 学校で自慢はできるし、一目置かれる。そうやって気を張ってるうちに、大切なものはどんどん離れていってしまうのかもしれないけどね。大事な友達とか、先輩後輩とか」
うーん、と伸びをして彼女は力なく笑った。
自分のこだわりを貫くがあまり、大切なものが遠ざかっていく。
柚乃が言った言葉に私ははっとさせられた。
人の言葉を受け入れられずに自分の殻に閉じこもることで、私も大切な人たちを失ってはいないだろうか? ふと、母の顔が頭に浮かぶ。いつも疲れた顔で「勉強しなさい」という母のことを、私は心の中で疎ましいと思っている……。
思春期の子供なら、誰でも親に反抗したくなる。意見の合わない友達や、心が通じない片想いの相手に「どうして」って問いたくなることがある。でもきっとそれは、相手も同じなんだろう。通じ合えないイライラが、お互いの間に積もっていく。
私はこれまで、柚乃のことを知ろうとしなかった。だって自分を苦しめる相手のことをどれだけ知ったところで、理解できないのだと思っていたから。
けれど、『SHOSHITSU』のアプリを使ったことで、柚乃と私の間に強者-弱者の関係がなくなり、対等な立場になった。私はようやく、彼女の心に一歩踏み込むことができたのだ。
そう考えれば、『SHOSHITSU』アプリって、決して悪いものではないのかもしれない。
最初は使ったことを後悔したのだが、もしこんなふうに荒れていた人間関係を修復できるようなことができるのなら、今後も使う価値はあるのかも……。
「春山さん、どうかした?」
腕を組んで考え事をしていたからか、いつのまにか柚乃が私の顔を覗きこんでいた。
「う、ううん。なんでもない。それより、遠藤さんってすごい頑張り屋さんなんだね。今まで知らなかった。なんか私、勘違いしてたみたい」
「頑張り屋ってことないよ。生真面目なだけ」
「それでもすごいよ。私だったら絶対投げ出してるから」
「そう? ありがとう」
クラスの中ではカースト上位にいるお嬢様の柚乃。華やかな見た目に彼女を好いている男子たちがかなりいて。
みんなからはきっと、憧れの存在として見られている。でも話を聞けば見えないところで他人の期待に応えようと努力してるんだな……。
私はそういう彼女の裏の姿を、何も見ようとしていなかった。
「私、尊敬する」
足をぶらぶらさせて両手を後ろについている彼女に向かって、自然と言葉が漏れていた。柚乃に対してこんな感情になるなんて思ってもみなかった。
柚乃は顔をこちらに向け、「え?」と目を丸くしていた。まだ完全に乾き切っていない彼女の艶やかな髪の毛が頬に張り付いている。
「……ありがとう」
照れ隠しなのか伏し目がちになる彼女は、強さと弱さを併せ持つ普通の女の子だった。
「それにしてもバレー部の先輩ひどいね。なんとかならないかな」
一瞬、『SYOSHITSU』アプリのことが頭をよぎる。もし私がバレー部の三年生たちの名前を入力すれば、彼女たちはいなくなる。そうすれば柚乃は嫌がらせをされずに済むだろう。
今度は見知らぬ上級生のことだから、罪悪感もそれほど大きくないかもしれない。心を開いてくれた柚乃に、ちょっとぐらいお返しするつもりでやってみるか。
そこまで考えて、私は思考を止めた。
たぶん、三年生たちを消してしまえば、柚乃の記憶から私とこうして話したことが失われてしまうだろう。神林や穂花のときみたいに。
それに、もしかしたらまた柚乃は私をいじめるあの意地悪な彼女に戻るかもしれない。世界を変えるということは、どんな可能性だって起こりうるということだ。私はそれを、重々承知しているはずだ。安易に人間一人を消し去ろうなんて考えるべきじゃない……。
私が深く考えこんでいたからか、柚乃は反対にふっと息を吐いて「大丈夫でしょっ」と軽く笑ってみせた。
「たぶんあの人たち、ちょっと暇つぶししたいだけだから。それにさっきは金くれーって言われただけだし。もちろん渡してもいない。放っておこう」
柚乃はけたけたとまた笑い出す。でも、その笑いの裏に強い覚悟が垣間見えて私は自分の情けなさを思い知る。
その後結局、バレー部の先輩たちによる柚乃への嫌がらせは止まなかった。
それどころかどんどんエスカレートしていって。
1学期が終わり、夏休みが終わる頃には、柚乃は学校に来なくなった。
ジージーと、庭で鳴いているアブラゼミの声で目が覚めた。まだ朝の6時。あと1時間は寝ていたいのに、なんて日だ。
今日は1学期の終業式の日。午前中で学校が終わるので心は凪いでいるが、睡眠時間を削られたときの恨みは大きい。
一度目を覚ますと眠気がなくなってしまい、私はそそくさとベッドから這い出て一階に向かった。
「おはよう」
「あら、今日は早いのね」
台所で朝ごはんの用意をしている母がヘアバンドをつけているところを見ると、化粧の途中なのだろう。母の朝はかなり早いから、いつもバタバタと支度をしている。普段は私が起き出すのが遅いから家事をしている様子を見ていないけれど、こうして目の当たりにするとちょっと申し訳ないな、という気持ちが湧いた。
「朝ごはん、手伝うよ」
「どうしたの、気前いいじゃない。嵐が来るんじゃないでしょうね」
「なんでそうなるの。素直に手伝いたいだけじゃん」
「そうですかそうですか」
ふふ、と母が笑みをこぼす。母がまともに笑ったのを見るのはいつぶりだろう。思春期を迎えてから、私は母に反抗してばかりだ。
先月だって、5時間目をサボって帰った日には母はご立腹で私は母と喧嘩をした。とにかく「勉強しなさい」「いい大学に行くのよ」が口癖の母に物申したくなったのだ。
分かってるよ、それぐらい。
母が私に苦労をして欲しくないと思っていることくらい、私は知ってる。でもその善意が時に重荷に感じるのだ。
ザクザクとキャベツを千切りにする。包丁を握るのも久しぶりすぎて思うように手が動かない。途中で見かねた母が、「ちょっと貸しなさい」と横から手を出してきた。母が千切りを始めると、トントンと規則正しい音が鳴る。切りそろえられたキャベツも、私が切ったものとは大違いで、細い。
「まだまだ練習が必要ね」
「すぐできるようになるよ、これぐらい」
母はしたり顔で私の顔を見た。そういえば小学生の頃、母にこうして包丁捌きを教えてもらったことがある。あの頃はまだ、母と素直に会話ができていた。勉強のことで母がうるさくなったのは中学に上がってからだから、小学生までの母親大好きの甘えっ子だった。
今度は玉ねぎを切る。こっちはそこまで難しくない。だけど、途中から目に染みてうまく目が開けられなくなる。昔、母の料理を手伝った時にも同じように目が痛くなった。「大丈夫?」という母の心配そうな声が耳に心地よかったのを覚えている。ジンと目尻が熱くなったかと思うと、涙がポロリと流れた。
「ちょっと目洗ったら?」
「うん」
包丁を置いて、洗面所へと駆ける。昔からちっとも成長なんかしていない。でも、母が私にかける言葉の一つ一つが耳に柔らかく響いた。それは昔から変わらなくて良かったと思った。
終業式の朝、登校すると教室はいつもと違って明日から夏休みだというふわふわした空気感に包まれている。私はふと、最近めっきり姿を現さなくなった柚乃の席の方に目をやった。やっぱり今日も来ていない。柚乃と話をした最後の日、なんでもないやって感じで笑っていた彼女は今どうしているのだろう。もし私が、『SHOSHITSU』アプリを使わずにいたら、今頃学校に来られなくなっているのは私の方だったかもしれない。
柚乃が学校に来なくなってからずっと、胸には罪悪感が滲んでいた。梅雨が明け、夏休みを目前にして、心にはずっと雨が降っている。
終業式は運動部、文化部の大会の激励会と、毎回恒例校長先生の長話を聞いて終わった。もう高校二年生の1学期が終わったということは、高校生活もそろそろ折り返しなんだなと実感が湧く。進路とか将来のこととか全然考えられていないけれど、終業式の間、なぜか両親の顔が頭に浮かんでいた。進学するにしてもそうでないにしても、子供でいられる時間はあと僅かなんだ。そう思うと、日々人間関係や勉強のことで悩んでいる時間さえ、手放すのが惜しくなるのは不思議だ。
「今日で1学期が終わるけど、夏休みも一瞬で終わるぞ。羽目を外さない程度に楽しんでくれ。あ、もちろん勉強もしとけよ。何もしてないと脳みそが腐るからな」
「筋トレはいいんですかー?」
「うぬ、筋トレは当然だ。2学期にはムキムキになったみんなを見るのを楽しみにしてるぞ」
「先生も早くムキムキになんなきゃね」
「任せろ。この夏は筋肉の夏! てことでさようなら!」
帰りのHRで雪村先生と一部のクラスメイトが冗談を言って、わっと教室が湧いた。さようならーと次々に挨拶を告げてみんなが教室から出ていく。
「あ、そういえば誰か遠藤に手紙届けてくれないか?」
先生がそう声をあげたのは、教室から半分以上の生徒が出ていったあとだった。
ちょうど普段柚乃と仲良くしている女子たちも帰ってしまっていたため、教室はシンと静まり返る。
星川学園に通う生徒たちは広範囲から集まっているため、各々の自宅が近くにあるとは限らない。友達の家と電車で何駅も離れているという場合だって少なくない。それに比べると、私の家から柚乃の家まではそれほど遠くなかった。せいぜいバスに揺られて20分、といったところだろうか。
私は誰も名乗り出ないのを確認してから、そっと手を挙げた。
「私持っていきます」
「おお、ありがとう。助かる」
雪村先生はほっとしたような表情を浮かべ、私にA4サイズの封筒を差し出した。ずっしりとした重みのあるそれは、彼女が学校に来なかった時間の長さを思い起こさせた。
封筒を受け取った私は教室をあとにしようとしたのだけれど、そこで神林に呼び止められて振り返る。
「どうかした?」
「春山さんに聞きたいことがあるんだ。ずっと気になってたこと」
神林と言葉を交わしたのは久しぶりだった。柚乃が現実に戻ってきて彼が何も疑問を抱いていない様子だったことに多少なりともショックを受けてしまった私は、自ら彼を避けるようにして過ごしていた。
「先月だったかな。春山さん、俺に遠藤さんのこと聞いてきたことがあったじゃん。『遠藤さんのこと知ってるか』って」
「ああ、うん……」
「そのあと、春山さん様子が変だよね? 俺のこと避けてるみたいだし。なんかあったのかなって」
「……」
そりゃ、神林が私の態度を変だと思わないはずかない。彼の目には戸惑いの色が浮かんでいた。いつも真っ直ぐな理論をぶつけてくる彼にしては見慣れない表情だ。いきなり自分と距離を置くようになったクラスメイトを、得体のしれないものとして見ている、そんな目。私は、初めて見る彼の不安げな瞳に、吸い込まれそうだった。
「俺さ、春山さんに何か失礼なことしたかなって反省してて……。気づいてないだけで、困らせるようなことしたんだろうって。
だから、それが何なのかはっきり教えて欲しい」
私たちの横をすり抜けて教室から出ていくクラスメイトたちが、どうしたんだろうと不思議そうな表情でこちらをチラ見する。けれど、彼らはすぐに友達と夏休みの始まりを祝うべく、談笑しながら去っていく。私たちだけが時間の流れに逆らってその場に止まっていた。
「……神林が失礼なことをしたなんてまったくないよ。ただちょっと、ショックだっただけ」
素直な気持ちが口からこぼれ出す。本当ならば彼自身にこんなむき出しの感情をぶつけるべきではないのに。
「ショックって、具体的に何が?」
「神林は、私と屋上で話したこと覚えてる……?」
ついに、核心に触れる質問をしてしまった。私が、柚乃を消してしまったあとに彼に相談をしたこと。柚乃とアプリに関するすべての記憶だけでなく、あの日彼が私にくれた優しい言葉の数々と思い出が、彼の中から消えてしまったのかを確認したかった。
「屋上……。ごめん、それっていつのことだっけ?」
ゴン、と頭を鈍器で殴られたような衝撃がした。心臓を鷲掴みにされ、押しつぶされたような感覚に陥る。
「……期末テストの前。あの日は梅雨なのに晴れてた。神林は隣で」
私が傷つくところを見たくないと言った。
喉元までせり上がった言葉は、バラバラと腹の底まで崩れ落ちる。眉根を寄せる彼の顔を、これ以上私は見たくなかった。
「ごめん、やっぱり思い出せない。いや、ちょっと待って。ぼんやりだけど、少しだけなら思い出せるかも」
額を抑えて苦しそうにしている彼を、私は放っては置けなかった。
「もういいよ。無理に思い出そうとしないで」
「でも」
「本当は全部、嘘だから大丈夫。引っ掛かった?」
私は務めて明るく、ケラケラ笑ってその場をやり過ごす。
「引っ掛かったも何も」
明らかに困惑している彼。
「じゃあ私、今から遠藤さんちにこれ届けなきゃいけないから。また2学期ね」
呆けた様子の彼を振り切って、私は教室を後にした。あの日屋上で、少しでも近づけたと思っていた彼の心は、あまりにも簡単にマイナス100メートルほどに離れてしまった。
インターホンを鳴らすと、「はーい」という声とともに柚乃の母親らしき人物が玄関から出てきた。遠藤家の家の門は白いコンクリートの渋い柱に囲まれており、外からはシャッターが閉まっているため中の様子はほとんど見えない。シャッターの隣の扉から顔を出した柚乃のお母さんは、想像していたよりもずっと綺麗な人で、しかし明らかにやつれているように見えた。この人が、柚乃の言っていたプライドの高いお母さん……?
「どなたかしら」
「私、柚乃さんのクラスメイトの春山といいます。プリントを届けに来ました」
「あら、そうだったの。わざわざありがとう。良かったら柚乃と話してくれない?」
「え、いいんですか?」
「ええ。私じゃあの子の心を開けないみたいだから……」
寂しそうに目を伏せるお母さん。そこからは、これまで自分の理想を娘に押し付けてきたことへの後悔と、学校に行けなくなった娘をどうすることもできない無力さがにじみ出ているように見えた。
「お邪魔します」
入り口を抜けて玄関からこの家へ上がるとき、庭が視界に入ってきた。当たり前のように、彼女の家の猫を連れ去ったときの映像がフラッシュバックした。あの時は小綺麗だった庭には、いまやそこら中に雑草が生えていた。
「柚乃の部屋は二階だから、そのまま上がって」
「分かりました」
柚乃の家はうちとは違って吹き抜けのホールの端に階段がついているタイプでぱっと見ただけでもその広さに圧倒されてしまった。
お母さんは台所へと消えてゆき、私は一歩ずつ階段を上る。ミシミシ、なんて板が軋む音はまったくない。あまり足音を立てないように、二階へと上がると、奥の部屋の扉に「YUNO」というプレートの下がった扉があったので、そこが彼女の部屋だとすぐに分かった。
扉の前に立つと、部屋の中で柚乃が全神経を研ぎ澄ませてこちらの気配を気にしているのがありありと伝わってきた。私は軽くノックをする。「はい」と彼女が返事をした。母親ではないということを察知している様子だった。
「失礼します」
そうっと部屋の扉を開けると、ベッドの上で足を伸ばしている彼女が目に飛び込んできた。カーテンや布団など、全体的にピンク色に彩られた部屋が、いかにも女の子の部屋という感じがして意外だった。
「やっぱり春山さんか」
「がっかりした?」
「ううん。座って」
思ったよりもあっけらかんとした彼女の様子に内心ほっとしながら、勧められるがままベッドに腰かけた。柚乃はよいしょ、と腰をあげて私と横並びになる。いつか屋上へと続く階段で話した時と同じ構図だった。
「学校でプリントを預かったの。うちから近いし持ってきた」
「そうだったんだ。近いっていってもそんなにだよね。わざわざありがとう」
私は、重みのある封筒を彼女に手渡す。
「学校、ずっと来てないみたいだけど大丈夫?」
引きこもりの女の子に対して「大丈夫」だなんて、陳腐な言葉しか出てこない自分の対応力のなさにがっかりした。
けれど柚乃は私がいつそう聞いてくるのかを待っていたかのように、ふうと息を吸った。
「大丈夫、ではなかったかな」
「……そうだよね」
「ごめん。この間春山さんに聞かれた時は大丈夫だなんて軽く言っちゃってたけど、ちょっと甘かったわー。あれからあいつら、結構ねちっこくてさ」
あいつら、とはおそらくバレー部の先輩たちのことだろう。
「雑巾で顔拭かれたり金巻き上げられたり。部活では三年生全員を巻き込んで私を無視してくるしさ。部活以外の時間にもしょっちゅう呼び出しあるし、行かなかったら家にまで来るんだよ。信じられる?」
彼女の話を聞いていると、自分が柚乃にされていたことを思い出した。気にするな、と心では言い聞かせていても、浴びるように嫌がらせをされているとだんだんと感覚が麻痺していくあの感じ。
「すっごい粘着質だった。どれだけネチっこいんだって正直呆れたほど。ほんと、ダサいよねー。でもそれに負けてしまった私は
もっとダサいんだ」
悲しそうに萎れた声で話す柚乃。キリキリと胸が痛くなる。私がアプリを使わなければ、彼女はこんなことにはならなかった。柚
乃に押し付けた「いじめ」はどうやったらなくなるんだろうか。
「でもね」
彼女がふと顔をこちらへと向ける。
「なんだか今の状況が、自業自得だって気がしてる」
「自業自得って、どうして?」
「この前も話したかもしれないけど、私もどこかで人をいじめてたような気がするんだよね。気のせいかもしれないけど」
確かに彼女は以前、自分に迫ってくる上級生たちの下品な顔に、身に覚えがあると言っていた。それは紛れもなく、私が彼女にされていたことだった。
「しかも、その相手が春山さんだったような気がして……」
「……」
言葉が出なかった。
彼女には、アプリを使う前の記憶があるというのか。完全ではないが、ぼんやりと覚えているということ?
そんなことがあるなんて思ってもみなかった。私は確かに柚乃にいじめられていた。それは嘘でもまぼろしでもない。だとすれば、穂花や神林にも私が柚乃のことで悩んでいた話をした記憶が、少しでも残っているかもしれない。
とっさに思い浮かんだのは私を心配そうに覗き込む神林の顔だった。
屋上で見せてくれた彼の優しさはきっと、本物だったのだ。彼の中でも、もしかしたらまだほんのりと記憶の窓が開いているかもしれない。
「たぶん、気のせいだよ」
「そうなのかな? それにしてはあまりにリアルだったから怖くなってね」
「悪い夢だって。気にしないで」
「……まあ、でも一応さ、私の自己満足で言わせて。春山さん、本当にゴメン」
「ううん」
「ごめん」という言葉を聞いたとき、私の中でふわりと心に灯火が灯ったようだった。大抵のいじめって、加害者が被害者に謝るなんてことないんじゃないだろうか。気づいたときには大人になっていて、いじめた側はいじめられた側ほど何をしたかなんて覚えていない。いじめられた側はずっと心を蝕まれながら、いじめた人を許せないまま生きていく。でもできるなら、そんな暗い気持ちはとっとと捨て去ってしまう方がいい。誰かを恨み続けるのって、思ったよりも気力と体力がいるのだ。
柚乃は、私の心から一生暗闇になるはずだった影の部分を取り除いてくれた。
それは、『SHOSHITSU』アプリのおかげといっても過言ではない。あのアプリは、決して悪いものじゃない。今日まで興味本位で使ってしまったことを後悔していたが、今になってようやく、自分の行いを少しでも肯定することができた。
「ありがとう」
「え、何が?」
「ううん。こっちの話」
「なんだ、気になるなー」
それから私たちは、最近の学校のことや柚乃がハマっているゲームの話で盛り上がった。ゲームにハマったのなんて初めてだよ。お母さん、昔は許してくれなかったから。柚乃は「不登校も悪くないね」とあっけらかんと語っていた。こうして話していると、柚乃はごく普通の女の子だ。
「そういえば、うちのお母さん見た?」
「うん。さっき来たときに」
「どうだった?」
「普通のお母さんって感じだったよ。正直聞いてたお母さんとイメージが違った」
「私がこんなことになったからか、プライドなんてなくなっちゃったんだろうね。習い事のことも勉強のことも、あんまりうるさ
く言われなくなった」
「そっか。良かったのかな?」
「少なくとも私にとってはね。お母さんはどう思ってるのか知らないけど」
私は、先ほど目にした柚乃のお母さんの様子を思い出す。不登校になった娘のことを心配してやつれていた。どんな母親でも、我が子が大変な目に遭っていると知ればそうなるのも無理はないのだろう。
「お母さん、きっと心配してると思うよ」
「……だよね」
「お母さんときちんと話をして学校に来られるようになるといいね」
「うん、そうだね。そうする」
一体どの口が言っているのかと考えてみれば滑稽だった。たぶん、母ときちんと話をしなければならないのは紛れもなく私の方だ。
あまり長居するのもよくないと思い、私はベッドから立ちあがった。ここへ来る時よりも心はすっと洗われている。
「突然押しかけてごめんね。また2学期に待ってる」
「ううん、今日はありがとう。頑張ってもう一度学校行ってみようかなって思う。このままだと先輩たちに負けたみたいで悔しい
から」
柚乃の目にははっきりとした決意の色が滲んでいた。私は柚乃にいじめられているとき、彼女みたいに立ち向かおうとは思えなかった。だから柚乃はたぶん強い。私なんかよりもずっと。
私は柚乃の目を見て頷いたあと、そのまま彼女の部屋を後にした。扉を開けるとすぐ近くにお母さんが立っていて驚く。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったのだけれど」
柚乃のお母さんは麦茶とお茶菓子を載せたお盆を抱えていて、小さく頭を下げた。
「いえ、すみません。お気遣いいただいて」
「これ、届けようと思ったのだけどね。あなたと柚乃が自然に会話してたから邪魔したくなくて」
「そうなんですね。柚乃さん、元気そうで良かったです」
「元気だったかしら?」
「ええ。柚乃さんは強いからきっと大丈夫ですよ。2学期になったら学校にも来てくれると思います」
「そっか。あの子とたくさん話してくれてありがとう」
「お母さんも、話してみてください。私も自分の母親とは上手く会話できないことが多いので人のことは言えないんですけど。た
ぶん、柚乃さんはお母さんと話したがっていると思います」
今日初めて会ったばかりの柚乃のお母さんに、図々しくもすらすらと言葉が出てきてしまった。お母さんは私の勧めに驚いている様子だったが、「そうね」と頷いて小さく笑った。
「では今日は失礼します。お邪魔しました」
「ありがとう。ぜひまた遊びに来て」
柚乃のお母さんに「また遊びに来て」と言われるなんてとても不思議な気分だった。私は、アプリを使ってからどんどん自分の心境が変化していくのを感じていた。どこからともなく現れた謎のアプリに、まさかこれほど助けられるなんて思ってもみなかった。
「そんなに悪いものでもない、か」
確かに、穂花や神林の記憶から私と話をした記憶が消えてしまったのは辛い。その時に感じた感情まですべて否定された気分になった。
でも、アプリを使ったことで良い方向へ変わったこともある。一概に悪いものではなかったのだ。
遠藤家の門から出て、外の空気を吸い込むと肺の中だけでなく、心まで新鮮な気分で満たされた。柚乃が2学期からちゃんと学校に来ますようにと、青空に向かって祈った。
◆◇
高校二年生の夏休みが始まった。周りのクラスメイトたちはみな一様に通っている塾の夏季講習やら家族旅行やらに出かけるらしい。塾に行っておらず、親の仕事が忙しい私はほとんどの時間、家の中でクーラーをガンガンにつけて過ごしていた。
やることがない。
まったりと読書したり宿題をしたりするのは嫌いじゃない。でも、せっかくの夏休みなのに何にも予定がないなんて! このままじゃ部屋の中で干からびそうだ……と日々唸っていたのだが、そこに恵みのような電話がかかってきた。
『あ、日和?』
スマホの向こうから聞こえてきたのは、だらだらと部屋で無為な時間を送っている私とは反対に元気な穂花の声だった。
「うん。どうしたの?」
『明日の夜なんだけど、ほら、水瀬川で花火大会があるじゃん。あれ行こうよ』
「明日、だったっけ」
『そうだよ。大丈夫? 寝ぼけてない? 去年も行ったでしょ』
水瀬川というのは、ここらで一番大きな流域を誇る河川で、毎年8月頭には花火大会が行われている。多くの観覧客でごった返す花火大会は、間違いなく夏の風物詩だ。露店もひしめくようにして出るので、お祭りとしてはかなり大規模で夏休み気分を味わえる。
すっかり忘れていた花火大会の存在に、一気に心が浮き立った。
「そうだった。この時期だったね。分かった、明日一緒に行こう」
『よっし。永遠も誘ったけどいいよね?』
「え、そうなの?」
神林の名前が出てきてドクンと心臓が跳ねた。
『そうそう。テスト勉強の時は何も言わずに呼んじゃったから、今度は事前に言っとく! じゃあ18時に駅前ね』
お祭りを前にしてテンションが上がっているのか、穂花はグイグイと話したいことだけ話し、電話を切った。いつも通りの穂花の勢いに圧倒されたままプツと切れてしまったスマホを握ったまま、私は考える。
明日のお祭りに、神林が来る。
終業式の日、久しぶりに彼と言葉を交わしたのを思い出す。言いたいことなら山ほどあったのに、不意に話しかけられた私は、屋上の思い出を共有できないことにやるせなさが込み上げた。
心臓の鼓動が、しばらくの間止まなかった。穂花と二人だったら純粋に楽しみだった夏祭りが、一気に別の色を帯びてくる。
「神林とお祭りか……」
二人きりというわけでもないのに、男の子と夏祭りに行くという経験がない私にとってはあまりに新鮮すぎる。
夏休み脳でぼうっとしていた頭が一気に冴え渡り、私はクローゼットを開け、明日着ていく服を探し始めるのであった。
翌日8月6日土曜日、私は昨日発掘した浴衣を着て来たる待ち合わせの18時まで家でそわそわしていた。浴衣を着たのはいつぶりだろう。去年もお祭りには行ったが、私服だった。
白地に紫の朝顔が咲く浴衣は、中学一年生の夏に母におねだりして買ってもらったものだ。白い浴衣が着たくて、ショッピングモールでぱっと目に飛び込んできたのがこの浴衣だった。マネキンに着せられた浴衣が、白く輝いていて紫色の朝顔も上品で大人ぽく感じたのだ。
17時過ぎに私は家を出発した。水瀬川の最寄り駅までは浴衣姿で一人電車に乗る必要があったので小っ恥ずかしい気分だ。でも、目的の駅に近づくにつれ、浴衣姿の若者たちが増えて次第に恥ずかしさは薄れていった。
駅に到着し改札を出るとものすごい数の人、人、人。下駄を履いている分、普段よりもかなり歩きにくい。おまけに後ろから押し寄せる人の群れに押しつぶされそうになり、来て早々泣きそうになった。
「日和!」
手招きをして私を呼ぶ穂花の声がして、救われたような気分で彼女の元へと歩いた。彼女の隣には麻のシャツに短パン姿の神林がいて、私を見つけると小さく手を上げた。
「遅くなってごめんね」
「全然待ってないし大丈夫!」
手をひらひらさせて答える穂花。彼女は紺色に色とりどりの蝶々が羽ばたく浴衣を着ていた。華やかでぱっと目が引かれる。
「穂花、可愛い浴衣だね」
「ありがとう! でも日和だって可愛い。ね、永遠」
「……お、おう。可愛いと、思う」
「そうかな? ありがとう」
指で顎をかきながら答える神林に、私は早速恥ずかしくなってとっさに目を逸らした。
「うわ、なんか永遠がめっちゃ素直!」
「お前が言わせたんだろ!」
教室でのクールな神林はどこへやら、穂花と話している時の彼はやっぱり無邪気な少年のようだ。
この間まで気まずかった彼との関係が、少しだけ和らいだ気がした。
「ささ、早く会場の方に行こう。あたしお腹ペコペコだよ」
「そうだね。行こ行こ」
大量の人の群れに押されながら、私たちは祭り会場へと進んだ。ここに集まるほとんどの人たちが同じ目的地へと向かっていることがなんだか信じられず、一気にお祭り気分が高まる。
水瀬川の周辺にずらりと並ぶ露店が見えた。そのすべてが光り輝いているように見える。学生カップルやお母さんに手を引かれる子供たちが次々と露店の方へ吸い込まれてゆく。どこもかしこも人の頭だらけなのに、不思議と嫌な気持ちはしない。それは私自身、祭りの熱に浮かされた女子高生の一人だからだろう。
「俺、焼き鳥食べたい」
「あたしはたこ焼き」
「え、ちょっと待って」
各々食べたいものがあるらしく、二人は早速お店の前に並んだ。行動の早い二人だ。二人よりもワンテンポ遅れて、私も焼きそば屋さんに並ぶ。どの店も行列ができていて、待ち長いのは覚悟の上だ。
3人ともそれぞれの食事をゲットし、土手の方に腰掛けた。花火を観覧するためにすでに場所をとっている人が多く、私たちが座れたのは敷き詰められたビニールシートの間だった。
「いや〜いいね、この感じ」
「お祭りって感じだね」
熱々のたこ焼きを頬張る穂花は、時折「あちっ」と唸りながら、でも幸せそうな表情を浮かべている。
「永遠もお祭り久しぶりなんじゃない?」
「そうだな。三年ぶりぐらいだ」
「うわ、萎れてる! 青春がもったいない! あんた今まで夏休み何してたのよ」
「何って、夏休みは父さんの手伝いで忙しいんだよ」
「お父さんって、漁師の?」
「そう。夏は決まって俺も海に出てる。風が気持ちいいしな」
「へえ、偉いね」
気がつけば自然と神林と言葉を交わしている。穂花がいるだけで、その場が明るくなるし私たちは気兼ねなく話ができる。もしかしたら穂花は、私たちの関係をどうにかしたくて今日神林を呼んでくれたのかな。
そういう気遣いを、さらりとやってのけるのが穂花だ。彼女とは去年からの付き合いだけど重々分かっていた。
「そうだ、あたしサイダー買いにいこっと。二人もいる?」
たこ焼きを食べ終わった穂花がお尻についた土草を払いながら聞いた。サイダー、という響きが焼きそばの塩気で満たされた口の中で弾ける心地よさを想像させた。
「ほしい!」
「俺も」
二人とも即答。
「分かった。じゃあちょっと待ってて」
気の利く穂花は一人でサイダーを買いに出かけた。
「任せちゃって大丈夫かな」
「大丈夫だ。あいつは昔からああだから」
「ふふ、そっか。世話焼きなのは昔からか」
夏の夕闇がそうさせているのか、私も神林も、この間までの気まずい空気感を忘れて以前のように普通に話せていることに驚く。
「あのさ、終業式の日はごめんね」
自分でもびっくりするくらい素直に言葉が紡がれていく。
「俺の方こそ、ごめん。春山さんのこと傷つけちゃったみたいだ」
「ううん、そんなことないよ。私が神経質になりすぎてただけだから」
「そのことなんだけどさ。あれからちょっと思い出したんだ。春山さんと屋上で話したこと」
「え、本当に?」
「ああ。といっても全部じゃないんだけど。話の内容は正直あんまり覚えていない。でもあの日、春山さんに傷ついてほしくないって思ったのは本当なんだ」
俺は、春山さんが傷つくところを見たくないんだよ。
確かにあの日彼はそう言ってくれた。私が消してしまった柚乃を元に戻そうかと迷っていると話したとき、彼は反対だと言った。
その瞬間、素直に嬉しかった。彼が自分の悩みを真剣に聞いて応えようとしてくれているということが、枯れかけた私の心に水を垂らしてくれたんだ。
「それと、あの時春山さんのことをもっと知りたいって思ったこと。それを思い出したんだ」
「そっか……」
胸にこみ上げる安堵。押し寄せる喜び。ここ二週間ほどずっと曇天模様でモヤモヤとしていた心が、急に晴れ模様に変わり始め
る。
神林は私との思い出を忘れたわけじゃない。
少なくとも、あの時湧き上がった感情は心が覚えていてくれたのだ。
「ありがとう」
肩の力がふっと抜けて背中に羽が生えたかのように軽くなる。神林も、私の表情が和らいだのを見て、安心したようにほっと息を吐いた。私たちはお互いに相手のことを気にしながら、肩肘を張って過ごしてきたのだ。そうと分かるとなんだか馬鹿らしくなってきた。
「あと前から言おうと思ってたんだけど」
「なに?」
「春山さん、俺のこと『神林』って呼ぶじゃん。永遠でいいから。穂花みたいに」
永遠、という響きに急に脈が速くなる。
確かに穂花は彼のことを名前で呼んでいる。でも、幼馴染みでもない私がそう呼ぶなんて恥ずかしくてできなかったのだ。
「それなら、神林——永遠も私のこと日和って呼んで。それならおあいこでしょう」
自分でも驚くほど、素直にそう言えた。
だけど、バクバクと鳴る心臓が煩くて、顔面が最高潮に熱い。日も落ちかけた時間帯なのに、背中からも額からも汗が噴き出ていた。おまけに耳が真っ赤になっているのは、鏡を見なくても分かった。
「分かった。日和って呼ぶよ」
初めて彼が私の名を呼んだ。お母さんやお父さんから呼ぶのとも、穂花が呼ぶのとも違った輪郭を帯びていた。できるなら「もう一度呼んで」とリクエストしたいくらいだったけれど、さすがに恥ずかしくて言えない。
それに、神林の背後から突如現れた穂花に驚いて、わっと声を上げてしまった。
「あれあれ、お取り込み中だった?」
「ち、違うよ! ちょっとびっくりしただけ……」
「そっか〜なんか怪しいけど、まあいいや!」
私たちの先ほどのやりとりを聞いていたか分からないが、私も神林も穂花の登場で口をつぐんだ。
「それよりほら、ラムネ買って来たよ。はい」
穂花が言う通り、彼女の手には三本のラムネが握られていた。
「ありがとう」
「さんきゅ」
それぞれ一本ずつ青色のビンに入ったラムネを受け取る。お祭りの時ぐらいしか飲むことのできないラムネ。実際はそんなことないのかもしれないけれど、日常ではあまり見かけない。
シュワシュワと溢れ出るサイダーをごくりと一口飲む。ビンを傾けると、カランとビー玉がガラスにぶつかる音が耳に心地よい。
これだこれ。まさに夏祭りの醍醐味とも言える。
「ぷはー! 生き返った!」
仕事終わりにビールを飲むおっさんのような唸り声を上げる穂花。
「うまっ」と男らしく飲みながら汗を拭う神林。
私もつられてもう一口、いや二口も三口もゴクゴクとサイダーを流し込んだ。お腹の中でせり上がってくる炭酸の気配を感じながら、一時の幸せを満喫した。
「永遠、飲むの早い」
気がつけば神林のラムネのビンが空になっていた。ビー玉だけが光るビンを見つめながら感心していたのが、ビン越しに穂花が「あれ?」と首を傾げる姿が映る。
「日和、いつの間に『永遠』って呼ぶようになったの?」
「え、あ、それは」
「さっき話してたんだよな。俺も『日和』って呼ぶからお互い遠慮なしにしようて」
神林の『日和』という響きがもう一度耳に反響して小っ恥ずかしい。彼が私の名を呼ぶと、ラムネがお腹で弾けるみたいに、じゅわっと心が浮き立つのだ。
「そうなの!? あたしがいない間にそんなに進展してたなんて……!」
驚愕スクープ! とでも言いたげに、彼女は大袈裟に驚いてみせた。でも、一瞬彼女の表情に陰りが見えたのは気のせいだろうか。その大袈裟な反応が、逆に本心を悟らせないようにしているためではないかと疑う。
「あんまり囃立てるなよ。俺たちだって名前で呼んでるから一緒だっつーの」
「ほほう。一緒、ねぇ」と懐疑的な視線を送る穂花。いい加減恥ずかしさに耐えられなくなった私は、話題を変えようと「花火もうすぐ始まるよ」と二人に教えてあげた。
「わ、いけない。みんなあっちに流れて行ってるよ」
「俺たちも早く行こうぜ」
花火は今私たちが座っていた土手よりももう少し離れたところで打ち上がる予定だった。その場でも見ることはできるのだが、真正面で見るには遠い。他の観覧客のように移動するのが得策だ。
私たちは立ち上がり、土手を降りて人波に埋もれる。浴衣の帯が別の誰かの浴衣にぶつかって着崩れないか気にしながら歩いた。前を行く神林と穂花を見失わないように、懸命に進む。慣れない下駄の鼻緒が指の間で擦れて痛い。
「はぐれないようにしないと」
不意に何かに手首を掴まれた。神林の手だった。彼は少しも振り向くことなく私の手を引いている。穂花は余裕そうに前を歩いていて、神林に手を引かれる自分が小さな子供みたいで恥ずかしかった。
でもそれ以上に、彼の汗ばんだ手から伝わる緊張感に、きゅっと心臓が帯で結ばれたように締め付けられた。
観覧席に辿りつかぬうちに、ヒュ〜という花火の音がして、前方の夜空に花が咲いた。
「わ、始まった!」
興奮気味の穂花がこちらを振り返る。手をつないでいることが穂花にバレるのがなんとなく後ろめたくて、私たちは大袈裟に反応してみせた。
「すごいね! きれい……」
「圧巻だな」
動いていた人の流れが一斉に静止し、皆それぞれに打ち上げられる花火に見惚れている。スマホで動画を撮る者、しっかりと目に焼き付ける者、わぁ、と歓声を上げる者と様々だが、目の前で繰り広げられる光のショーに心奪われていることは同じだった。
すごいすごい、と子供がはしゃぐ声が聞こえる。私は声も上げられないまま、煌く夜空を見ていた。神林の手は依然として私の手を掴んで離さない。手をつないでいることを忘れているかのように、彼も花火に没頭していた。花火と繋がれた手に交互に意識がいく。彼はなんとも思っていないのだろうか。それとも何も思わないぐらい、自然に繋いでくれているんだろうか。
私はこんなにも揺さぶられているというのに。
花火への感動なのか、神林の手から伝わる温もりへの緊張なのか頭の中がごちゃごちゃになり感情の整理がつかない。
「永遠、やばいね! あたしが好きな花火だ」
「本当、すげえな。感動だわ」
興奮気味の穂花が神林の方を見てはしゃぐ。たぶん彼女はその瞬間、私の存在を忘れていたのだ。彼女の目に、花火の光が映る。私の目に、頬を染めた彼女の嬉しそうな表情が映る。
さっと、神林と繋いだ手を後ろに回した。本当は手を離そうとしたんだけれど、思ったよりも彼はしっかりと私の手を握っており簡単には離れなかった。だからそのまま。穂花に見つからないように、私たちは懸命に繋がっていた。
花火は約40分間ひっきりなしに打ち上げられていた。人ごみの中立ちっぱなしで40分はかなりキツイはずなのに、終始花火に心を奪われていたため、時間が一瞬に感じられた。
「はあ〜綺麗だった」
美しすぎてため息しか出ない、とはこのこと。最後の花火が連続で打ち上がったあと、会場は拍手喝采の嵐に包まれていた。花火の火が消えてからも、みんなすぐには動き出さず、しばらく感動の余韻に浸っていた。
「最高だったな」
「うん」
ようやく神林が私から手を離す。花火の魔法が解けてしまったみたいだった。けれど、明らかに彼は自分の意思で私の手を握り続けてくれていた。それが分かっていたから寂しくはなかった。
「まだ帰りたくないけど電車も混みそうだし、歩きますか」
「そうだな」
今度は駅へと向かってく人の波に乗って、私たちはゆっくりと歩き出す。3人とも、何も言葉は発しなかった。花火で刻みつけた感動を、適当な言葉で台無しにしたくなかった。
おそらく穂花も神林も同じ気持ちなのだろう。
私たちの間に流れる沈黙は決して気まずいものではなく、言いたいことは分かっている、という暗黙の了解からくるものだった。
駅前はお祭り帰りの人たちでごった返していた。
「これ、帰れるかな」
「臨時の電車が出てるみたいだよ」
「そっか。それなら大丈夫か」
時刻は21時過ぎ。親には祭りに行くと言っているので多少遅くなっても問題はないだろうが、あまりに遅れるようだと連絡を入れないといけない。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
「うん」
改札を潜ろうかという時になって、神林がお手洗いへと去っていく。見れば男性用トイレもかなりの列をなしており、少し時間がかかりそうだった。
今日、穂花と二人きりになるのはこれが初めてだということに気づく。浴衣姿の穂花はいつもと違って色気がある。本人は気づいていないだろうけれど、学校で穂花は男の子たちに人気があるのだ。穂花のクラスメイトが今の彼女を見れば、きっと心奪われてしまうに違いない。
「んー楽しかったね」
「ほんと、花火もお祭りも良かった。誘ってくれてありがとう」
穂花が大きく伸びをする。ようやく俗世間に戻ってきたという空気だ。
「永遠とも仲直りできたみたいで良かった」
「別に喧嘩してたわけじゃないよ」
「そう? でもずっと気まずい雰囲気みたいだったからさ」
「それ、神林が言ってたの?」
「うん。気まずいっていうか『春山さんとどう話したらいいか分からない』ってしょげてたよ」
あのときのあいつの沈み具合は見ものだった、と笑い飛ばす穂花。しかしその表情の端にやはり陰が見えた。さっき、ラムネを買って戻ってきた彼女が見せたのと同じ表情だ。
「日和は、永遠のことが好き?」
唐突な問いだった。かつて私も彼女に聞いたことがある。そのときの穂花は、「好きなわけないじゃん」と笑い飛ばしていた。だから私も、彼女と同じように笑い飛ばそうとした。でも、真っ直ぐな目で見つめてくる彼女の瞳に射竦められてどんどん顔が硬っていく。頬の筋肉が動かない。
彼女の白い首筋と、一定のリズムで前後する胸が、自分にはない特別なもののように思えた。その顔は、思春期の女の子なら誰もが憧れる煌きを湛えていた。潤んだ瞳とぷっくりと膨らんだ唇が、果たして本当に穂花のものなんだろうかと疑ってしまうくらいに。今日、初めて彼女のことを色っぽいと認識する。私が知らない穂花が私の本心を聞き出そうとしていた。
「私は……」
とっさに浮かんだのは、「答えたくない」と拒絶する気持ちだ。同時に、自分の神林に対する想いに気づいてしまった。
私は、神林のことが好きだ。
分かっていたようで、きちんと受け入れられてはいなかった。でも、これまでの自分の感情の変化を思い返せばそうとしか考えられない。彼と初めてまともに言葉を交わした日、屋上で背中を誘ってくれた日、屋上での出来事を忘れてしまったと告白された日。
嬉しかったり悲しかったり、彼のこととなればまるでジェットコースターみたいに気持ちが浮き沈みしていた。誰かを好きになったことのない私にはすべてが初めてだったから、分からなかったのだ。
「……分からないよ」
穂花に嘘をついた。分からない、なんてことはもうなかった。今日、彼が私の名前を呼び手を繋いでくれたことは今でも私の胸を熱したままなのだから。
「なーんだ。そうなんだ」
ほっとした様子の穂花。私には痛いほど彼女の気持ちが理解できた。
もし、親友が自分の好きな人と同じ人に恋をしていたら?
穂花はきっと、いや間違いなく神林のことが好きなのだ。だから、私の神林への気持ちを確かめたかった。いつもはヘラヘラと調子の良いことを言っているが、彼女だって内面は可愛い女の子。普通に恋をするし、その相手が幼馴染みだったとして、なんの不思議もない。
彼女の恋路を邪魔しているのは私だ。
神林と出会ってまだ1年も経っていない。穂花が彼と築いてきた時間や思い出と比べれば、私たちの関係はあまりにも儚い。
脳裏に焼き付いた花火の光景がフラッシュバックした。あの瞬間、繋いだ手から伝わっていた温もりがまぼろしだったのではないかと錯覚する。私と彼の秘密は、夏の花火のように儚く消えてしまうだろう。
いや、きっと私は消してしまうだろう。
目の前で女の表情を浮かべる穂花には勝てやしないから。
「待たせてごめん」
後ろから声をかけられて振り返る。神林はすまなそうに両手を合わせていた。
「すごい混んでたね」
先ほどまでの会話はなかったかのように、穂花は彼に向かって微笑んだ。私も曖昧に笑って見せる。
「どうした二人とも。なんかあった?」
「ううん、なんでもないって」
そう、なんでもない。
大丈夫だよ、穂花。
私は彼のことを奪ったりしないから。
二人が駅の改札に向かって歩き出した後をそっとついていく。いつかのテスト勉強会の帰りみたいに、私は揺れる二人の背中を見つめていた。私よりも背の高い穂花は、彼と並ぶととても絵になる。白いうなじも最高に色っぽい。
いつの間にか、彼女は私のずっと前を歩いていた。