六時二十分。あたりがようやく明るくなってきたころ。
「まもなく四番線に○○駅行きの地下鉄が到着します——」
そんなアナウンスが聞こえてきて、俺はダッシュでホームに向かった。
昔から体力と足には自信があったし、毎朝ギリギリで地下鉄に乗り込むから、特に焦りもしないまま一番空いてる列に並ぶ。すぐに地下鉄が来て、いつもの場所に座った。俺の家から通ってる高校までは距離があるから、毎朝ガラガラの地下鉄に三十分間ほど乗り続けるのが日課だ。
俺はいつもどおりイヤホンで音楽を聴きながら、手元では読みかけの小説をめくっていた。青春をテーマにした軽音楽部の話。よくある感じの展開だが、空の描写が綺麗で割と気に入っている。ちょうどあと半分というところまで読み進めていた。朝のうちに読み終われそうだ。そう思って、ページをめくろうとした時だった。
「もしかして、晴翔くん?」
ふいに隣から声を掛けられた。
聞いていた音楽がちょうど終わった時だったから、反射的に顔を向けてしまった。
隣にはお人好しそうな顔をした、二十代くらいのお兄さん。
「えっと……?」
イヤホンを外しながら、おれはわかりやすく困り顔をしてしまう。お兄さんの顔を見ても、今いち誰だか思い出せない。そんな俺の顔を見ながら、お兄さんの方があたふたして、遠慮がちに自己紹介をした。
「倉野あおいです。覚えてないかな……?」
倉野、あおい……。
名前を聞いて、ようやくその人の顔をしっかりと見た。忘れたくても忘れられない、その名前と声。そして、その真っ直ぐな目。
俺は思わずその人から顔をそむける。
「知りません。俺は次で降りるので失礼します」
席から立って、ドアの前にすぐさま移動。タイミングよく駅について、逃げるようにホームに出た。
「……何やってんだ、俺」
いつも降りる駅なんて、もっと先だ。わざわざ地下鉄を下りなくても、車両を変えればよかった。次の地下鉄を待ってたら確実に遅刻。……しょうがない!
スマホで、ようやく最近になって覚えた学校の電話番号を打つ。
「……あ、二年五組の紺野晴翔です。今日は体調不良で休みます。はい、はい……。よろしくお願いします。失礼します」
スマホから学校に連絡を入れて、空いてるベンチに座り込む。ちょうど朝のラッシュの時間がこの駅では終わっていたのか、人はほとんどいない。
人生で初めて、いや二回目か。サボってしまった。前も似たような状況だった気がする。
あぁ、母さんになんて言おうかな。ちゃんと言ったら許してくれる優しい母ではあるが、正直今母さんに電話する気にも、家に帰る気にもなれない。適当に時間をつぶそうにも、この辺には何もなさそうだ。
「小説の続き、読も……」
冬だから厚手のコートにマフラー、ブーツということもあって、制服はあまり目立たないのが不幸中の幸いだ。ここでしばらく本を読んで時間をつぶそう。
一ページ、また一ページと物語を進めてゆく。
よく考えれば、俺はなぜこの本を読んでるんだろう。自分が今一番読みたくないような話じゃないか。音楽の話なんて——。
そして瞬間的に飛び込んできたこの文字たちが、俺の胸の中に苦い感覚を残した。
『逃げても、もう一度戻ってきて、もう一度前を向けばいいじゃん!』
音のない舌打ちを、思わずしてしまった。傍から見てもわかるだろう。俺はすごくイラついてる。自分にすごくイラついてる。
こんな文章を見るぐらいなら、今の最悪の気分のまま遅刻してでも学校に行くべきだった。
どれもこれも、全部あの人のせいだ。倉野あおいさんに会ったから。
そうでもして八つ当たりしないと、この汚い感情が外に溢れ出してしまいそうだった。
向こうの地下鉄がちょうど駅を出ようとする音が、心底うるさく聞こえた。
高校一年生の冬の朝。俺はあの人に出会った。
いや、出会ったというより『聴いた』。
スマホで音楽を聞き流していた時、不意に知らない曲が流れた。思わず読んでいた小説を閉じてスマホ画面を開いて、そして驚いた。
曲名が無かった。そう、歌や音楽には必ずしもある曲名の部分が空白になっていた。
「なんだこれ……⁉」
地下鉄が空いてる時間でほんとによかったと思う。俺が乗っていたい車両は人がいなかったから、独り言を聞かれずに済んだ。
その名前の無い曲は同じく無名の人によって作られていた。文字通り、チャンネル名の所にも名前がなかった。再生回数は一回。チャンネル自体を確認したけど、この曲が初投稿らしい。
つまり——俺が最初の視聴者だった。
投稿日時はついさっき。朝の五時あたりに投稿されている。なんでこんな視聴されるのが少なそうな時間に……いや、朝だから意味のある曲なんだ。
その曲は冬の朝。それも快晴で澄んだ空をイメージさせるような、とても爽やかで明るい、だけどちょっぴり儚さがある曲だった。歌詞は青春っぽい単語が多いが、その中でも感情や表情などを綺麗に繊細に表していて、流行りの曲調とはまた違ったテンポのよい曲だ。ボーカルの男性の歌声もこの曲のためにあるようなとても澄んだ声をしていた。まさに今日のような日にピッタリな曲。
そして、概要欄を見てさらに驚いた。
作詞作曲もアレンジも、動画のイラストも動画を作ったのも、全部ボーカルの男性ひとりだ。一人でこのとんでもなく綺麗な曲を作り上げたのだ。
そして俺は同時にこう思ってしまった——この人みたいになりたいと。
『初めまして、高校一年生の者です。この曲を聴いてすごく感動して、俺も音楽を作りたいと思いました。自分の人生を賭けて、チャレンジしてみるつもりです。俺にできるでしょうか? もしよろしければ考えを聴かせて頂けると嬉しいです』
動画のコメント欄に俺はそう書き込んだ。
本当は国公立の大学に進んで、編集者になるための道を選ぶつもりだった。本は昔から大好きだし、小学生の頃からずっとそう思っていた。でも、心のどこかでこの夢は一番に叶えたい夢じゃないとも思っていた。そんな思いをかき消すために、毎朝一冊の小説を片手に地下鉄で読んでいた。好きで読んでる気持ちが半分、自分の本当の気持ちに蓋をするために読んでたっていう気持ちが半分。
そして、この名前の無い曲に出会って俺の本当の気持ちがわかってしまった。
俺は音楽を作りたい。ゼロから全て自分で作ってみたい。今自分が感動したように誰かに感動してほしい。たとえ棘の道でも俺は絶対に作り続けて、この夢で生きて行けるようにまでなると。
他の人がこの夢を聴いたら、早計だとあきれるだろうか。でも、俺は一度決めたことはとことん突き詰めないと落ち着かない。
決めてすぐにコメントに書き込むとか、俺って結構単純だよな……。
「あ、やべっ……!」
覚悟を決めて顔を上げると、いつの間にか地下鉄は終点まで来ていた。高校の最寄り駅からは五つほど進んでしまっている。慌てて時間を確認する。七時近く。次の地下鉄に乗って最寄り駅に着いても、乗り換えのバスがないから遅刻は免れない。
遅刻したとして、遅刻の言い訳が思いつかないし、正直に言ったら確実に怒られるよな……。俺の通ってる高校は進学校を謳うほどの難関校で、音楽に聴き入って遅刻しましたなんて言ったら何と思われてしまうか。
スマホで母さんに電話を掛ける。
「あ、もしもし母さん? あの、ちょっと事情があって地下鉄乗り過ごしちゃって。うん、今日は学校を休む。帰ったらちゃんと話すから。ごめんって。これからは気を付けるよ。うん、うん、ありがとう」
俺の家は母子家庭だ。俺が物心つく前に父さんは病気で亡くなった。しばらくはふさぎ込んでいた母さんも心を頑張って立て直して、俺を十年以上も女手一つで育ててくれた。数年前からはハンドメイドにはまって、今や人気作家になるほどの腕前だ。それもあってか、母さんは俺のやりたいことに反対したことがなかった。その分俺はすごく恵まれてる。「晴翔のやりたいようにやりなさい。母さんはあんたを信じてるから」とずっと言ってくれる。そして「あんたってクールな性格と顔なのに、意外と熱い心持ってるわよね~」とも。これに関しては生まれつきなので余計なお世話だが。
そんな優しい母さんでもさすがに万年健康・小中皆勤賞の俺が、遅刻してさらにサボると聞いたら少しびっくりしてた。でもすぐ後に「気を付けて帰ってきなさいよ~」って苦笑しながら言ってくれた。
「ほんとに恵まれてるな……」
あぁ、でも。母さんに苦労をかけないためにも国公立の大学に進む予定だったけど、いきなり音楽作りたいって言ったら、さすがに怒るかな……。
誰もいないホームでベンチに座って、ふとそう思った。それと同時にスマホが震えた。俺のコメントに、本人から返信が来ていた。
すこし期待があった。俺の言葉を受け止めて、応援してくれるのではないかという淡い期待が。
そこにはたった一言、こう書いてあった。
『やめておいた方がいいと思います』
スマホが手からすり抜けて床に落ちる音が、むなしくホーム中に響き渡った。
人生で初めてサボったあの日。あの日同時に味わったのは絶望に近い、だけど悔しいという感情にも似た、少なくともあの曲とは真逆の感情だった。
「おはよ、晴翔~! 体調は大丈夫か?」
一年三組の賑やかさに負けない元気な声のあいつが、俺に向かって手を振った。
「おはよ。すっかり元気だよ。寒暖差でちょっと具合悪かっただけ」
俺は少し笑って休んだ理由を誤魔化しつつ、隣の席のこいつ——新山春哉に挨拶を返す。
クラスの中で唯一と言っていいほど、気を使わないで話せるのは春哉だけだ。他のクラスメイトとも仲はいいが、よく絡むのは春哉ぐらいで、春哉の方も俺とよく話してくれる。
正直、昨日の名無しさん(名前がないため俺が勝手にそう呼んでいる)からの返信でかなり気分は落ち込んでるし、あんまり元気じゃない。朝だって地下鉄内で音楽を全く聴かなかった。
「そいえばさ、来月の桜フェスになんかシークレットゲストが出るんだって」
そう言いながら、春哉は一枚のプリントを俺に渡す。
『桜フェス! 歴代最多のアーティストの出演と屋台の出店! 桜が咲く一足前に、寒い冬をみんなで盛り上げよう!』と書かれたポップな紙。
「えっと、そもそも桜フェスって何?」
「あぁ、そっか。晴翔はこの付近のことあんまり知らないもんな」
そう。家から高校まで来るには、地下鉄とバスの乗り継ぎを使って一時間以上もかかる。この付近に住んでる人よりは圧倒的に、俺はこの地域への知識がないのだ。
「桜フェスってのは、毎年恒例のこの地域の祭りみたいなもん。夏場はここら辺虫が多いからな。都会っぽいわりに山近いし」
確かに夏場はよく虫に遭遇したし、結構蚊に刺された記憶がある。あんまり虫が好きではないので、春哉に虫退治してもらってたけど。
「ってわけで、元々夏にやってたけど虫が多すぎて人気が下がって。だから虫の出ない春前の三月にやることにしたんだって。ってまぁ、そんなことはどうでもよくて。割と有名なアーティストも結構出るし、一緒に行かん? シークレットゲスト気になるし」
音楽に関することにはあんまり今は関わりたくない気持ちだったが、フェス自体は楽しそうだ。
「行ってみたい」
「オッケー! じゃあ会場集合にして、一緒に回ろうぜ! 他の奴らも誘っていい?」
「もちろん。春哉の誘いたいやつ誘って。俺はそれに合わせる」
「了解~! うわ~来月マジで楽しみ!」
そんなことを言いながら、春哉は席に戻っていく。
思わずため息が出そうになるのを必死でこらえた。フェスは楽しみだ。「音楽」さえなかったら、もっと素直に楽しめたけど。
先生が来るまでまだ時間はある。少し調べてみるか。「桜フェス 出演者」と検索欄に打ち込んで、一番上に出てきた公式のページを開く。
本当に今年は豪華らしい。俺も知ってるアーティストが何人も出るみたいだし、中にはマイナーだけど俺が応援してるアーティストもいる。そして一番下の言葉に目を向けた。
『この町は昔から【音楽の街】と言われています。桜フェスも今年で五十年目。たくさんの人が来てくれることを心から願っています』
こらえきれなかったため息が、小さく吐き出される。そして重い何かが心の上にのしかかる。今思ったのはこれだけだ。
なんて最悪なタイミング……!
昨日覚悟を決めて、名無しさんの一言に打ちのめされて、好きだった音楽が苦しいものになってしまって。そのタイミングで「音楽の街」の桜フェスに行くのか……。
春哉に行くと言ってしまったのを今さら後悔する。そして俺は改めて感じた。嫌なことは恐ろしいほどの速さで近づいてくるのだと。
あっという間に桜フェスの前日になってしまった。
「そんじゃあ晴翔! また明日なぁ!」
春哉の元気な声が、今の俺には現実を見させられる重い声となっていた。
家にようやく着いて、ベットの上に倒れこむ。
そういえば今日はシークレットゲストの名前以外の詳細が少しだけ公開されるとかって、春哉言ってたな。
ベットに寝っ転がりながらスマホの画面を開いて調べてみると、そこにはこう書かれていた。
『シークレットゲスト、詳細情報! 音楽の街が生んだ奇跡のクリエイター! 先日の動画はあっという間に伸びて百万再生を突破。【名前の無い曲】を生歌唱!』
待て待て待て! こういう偶然って小説の中だけじゃないのか?
名前の無い曲って、まさかあの曲のことか……⁉
あの日から今日まで一か月近く音楽を聴かなくなった俺は、久しぶりにスマホの動画視聴アプリに飛びついた。あの時すぐに自分のお気に入り曲にいれて、それ以降全く聞いてない名前の無い曲。
再生回数はすでに二百万を越えようとして、チャンネル登録者数もすでに五十万人を突破している。コメント欄もほとんどが賞賛の言葉で埋め尽くされていた。この中にあの時のやり取りは残っていない。自分のコメントはあの後すぐに消している。あんなコメントと返信を、あの曲に残すのは忍びなかった。そして、概要欄にこんな言葉が追加で書かれていた。
『この曲はまだ未完成の曲です。この曲には名前がない。名前が無い曲もアリかもしれないけど、僕はこの曲に名前をあげたいと思っています。この曲に名前がつくのはいつかはわかりません。でも、名前がついたとき、きっと皆さまの心に残る曲になるでしょう。その日まで気長に待っていただけると嬉しいです』
あれは、未完成なのか。あんなに完璧に思える曲でも、「未完成」だと言うのか。やっぱりこの人は、ただものじゃない。
もし、このシークレットゲストが名無しさんのことなら——。あの日に感じた苦い思いと共に、会ってみたいと思った。そして聞いてみたかった。「なんであんなことを言ったんですか」と。
桜フェスまであと半日。明日の天気予報は、快晴だ。
俺が会場に向かうと、見知った二人が俺に向かって手を上げていた。
「おぉ、晴翔! こっちこっち!」
春哉が会場の入り口付近でぶんぶん手を振りながら、元気な声を上げた。
「つか、お前らマジ仲いいよな~。さすがはるコンビ」
春哉の隣で佐野みくるが、俺と春哉を見比べてそう言う(はるコンビというのは言わずもがな「はると」と「はるや」で「はる」がかぶってるからだ)。
俺が「そうか?」と返すと、春哉は「仲いいだろ⁉」と怒ったふりをした。そんな春哉の元気さに今日は少し心が救われた。
春哉が今回誘ったのは佐野だけらしい。佐野は俺たちの隣のクラスの男子だ。
名前とその美形も相まってか女の子にも見える。そのため女子からも男子からも超絶な人気を誇っている。黙っていれば美人でイケメン。ただし性格は素直で嘘がつけない正直者だ。見た目がねこっぽいなら性格は子犬っぽい方感じだと思う。
佐野ともよく話すし、春哉と同じくらい話しやすいやつかもしれない。春哉は俺の性格を考えて、こいつだけ誘ってくれたんだろうか。そう考えると友達の多い春哉と佐野には少し申し訳なくなった。今度何かお礼をしよう……。
「そいえば、佐野は彼女と回らなくていいのか?」
俺がふと思い出したことを言うと、佐野は慌てたように顔を赤くした。
「え、紺野、お前、知ってたのか⁉」
「いや、前に駅前のカフェの近くでお前と彼女っぽい人がいたから……。なんとなくそう思っただけ」
「え、まじ⁉ 俺、みくるに彼女いるとか聞いてねぇ!」
大声でそういう春哉の口を、佐野は慌てて手で覆う。
「バカ! 声が大きい! あ、あれは、姉ちゃんだよ!」
「いや、佐野に姉さんいないだろ。お前ひとりっこじゃん」
俺が冷静に突っ込むと、佐野は自分で自分の墓穴を掘ったのに気づいたのか、カクッとうなだれてしまった。
「ほんとみくるは噓つけねぇよなぁ。てか、お祭りなんてデートの定番じゃんね。なんでおれらの方に来たん?」
春哉が心底不思議そうに佐野に問いかけると、佐野は顔を真っ赤にしながらこう言った。
「俺、まだデートしたことなくて……。いきなりお祭りデートはハードルが高いというか。彼女にも一応誘われたんだけど……」
「「いや、行って来いよ」」
俺と春哉はこういう時に意見が合う。しらっとした視線を佐野に向けてやると、佐野は後ずさってそれからこう言った。
「今からでも間に合う、かな……?」
「桜フェスに参加しないやつの方が少ねーよ! どっかに彼女さんいるだろ! 俺らとはまた今度どっか行けばいいし」
「春哉の言うとおりだ。早く行ってこい。まだフェスが始まってそんな時間も経ってないし、探せば見つかると思うしな。困ったら俺らも手伝う」
俺と春哉はニヒッと笑うと、佐野の背中を思いっきり押し出した。
「ありがと~!」
佐野はそう言いながら屋台の間を走り抜けていく。マジで子犬みたいでちょっと笑ってしまった。
「みくるの彼女さんも、あいつのギャップにやられたんだろうな」
「間違いない」
そう言った俺たちのスマホに一通のメッセージが届いた。
『言い忘れてた! 今日のシークレットゲスト、俺のいとこなんだ! ちゃんと見てくれよな!』
「佐野のやつ、さらっとネタバレしたな」
「彼女さんに会えなきゃいいのに」
俺が苦笑しながらそう言った横で、春哉はものすごい笑顔で毒を吐いた。そう言えばこいつは毒舌がたまに出るんだった。
佐野と別れてからはしばらく春哉と二人で屋台を回った。佐野からは連絡が来ないとこを見ると、彼女さんと無事会えたのだろう。
春哉が急に全種類制覇だとか言い出したから、二人で割り勘して色んな屋台飯を食べ回った。後半はほぼ春哉しか食べてなかったが。
そんなこんなしているうちに、あっという間にフェスが本格的に始まった。運のいいことに観客席の一番前に座れたため、アーティストを近くで見ることができる。名無しさんと直接話せる可能性も高い。
一組目は音楽ではなく、書道パフォーマンスだった。音楽が来なかったことにどこかホッとした自分がいて、その事実に胸が痛くなった。
二組目三組目……全部で五十組もある中あと一人で半分が終わる。あたりは少し夕暮れがかってきている。俺の知ってるアーティストはほとんど前半に出ていた。後半は俺はあまり聞かない有名なロックバンドとかだ。音楽を聴くとまだ少し苦しさがある。次で半分が終わると思うと肩の力が少し抜けた。
「それでは、二十五組目! シークレットゲストの倉野あおいさんの登場でーす!!!」
会場内が一気に盛り上がり、大きな歓声が上がった。
マイクを持って出てきたのは、二十代くらいの若い男の人。あの人が佐野のいとこさんか……。言われてみれば、少し佐野に似ている。佐野はクールな見た目だけど、あおいさんは柔らかい表情をした感じの人。観客席に向けた笑顔は爽やかで人懐っこい感じだ。
——ついに、出会った。あの曲を作った人に。
「皆さん、初めまして! 倉野あおいと申します。知っている方も多いと思いますが、あの名前の無い曲を作った者です。あの時は僕の名前は出さずに動画を出したんですが、この音楽の街に恩返ししたいということで、本名でこれからは活動させていただくことになりました!」
その一言で、会場内から再び歓声と拍手があがる。
この、声。あの曲で必死に叫ぶように歌っていた声。
心臓が張り裂け差そうなほどの苦しい声を、思いっきり笑いたくなるような明るい声を。俺の記憶には薄れないまま強く焼き付いてる。
「実は今日はあの曲を歌う予定だったんですが、急遽予定を変えて未発表のオリジナル曲を歌います。あの曲はいつか名前がついたときに再び歌おうと思います。期待してくれていた方はごめんなさい! それではオリジナル曲二曲目。聴いてください」
未発表という言葉に、逆に会場は盛り上がる。そして再び静かになり、彼の歌声を待つ。
名無しさん——あおいさんが息を静かに吸った。そして、彼の瞳の鋭い光に吸い込まれるように目が合った。鋭くも温かさを含んだ真っ直ぐな瞳は、何かを言いたげにも見えた。そして、綺麗な声が曲名を告げた。
『夢の音楽』
一呼吸おいて、ピアノが静かに音を奏で始める。徐々にギターやドラムが合わさっていく。そして、マイクが息を吸う音を拾った。瞬間あおいさんの声が会場全体に、いや、音楽の街に響き渡った。
そして、俺は気づいた。俺以外に気付いた人は絶対にいない。
この歌は、あの時の会話がもとになってる。俺が夢を話し、あおいさんに突き放されたもう存在しない会話。
俺の気持ちは、あおいさんの音楽にされたのだ。
瞬間、頭の中は真っ白になって、気づいたら俺は会場を出ていた。
あの「夢の音楽」を聴いてから、一年近くがたったのか……。
ようやくこの小説を読み終えて、俺はふぅと息を吐きだす。
さっきまでのいら立ちは少し和らいでいた。
あの時は会場には戻らず、春哉にメッセージを入れて家に帰った。
ショックは大きかったけど、その数か月後には音楽は聴けるようになっていたし、好きという気持ちも少し回復した。一年たった今でもいまだにあおいさんの曲は聞いてないが。
そして、さっきあおいさんに会ってしまった。あの時と変わらない鋭くて、真っ直ぐで、温かくて、何か言いたげな瞳だった。
あの名前の無い曲はいまだに名前がついてない。あの後もあおいさんはオリジナル曲を数曲出していて、どれも安定にヒットしていた。もうすぐでファーストフルアルバムを出して、ライブもするらしい。全部春哉とみくる(二年になって名前で呼ぶようになった)からの情報だ。
二年生になってホームルームのクラスが三人一緒になった。俺が音楽好き、本好きなのもあって二人はたくさん情報をくれる。みくるは特にあおいさんのことをたくさん教えてくれた(お返しに俺の母さんのアクセサリーを、母さんにお願いして友達価格で買えるようにしてもらった。彼女さんにプレゼントしたらとても喜んでくれたらしい。春哉にはたくさんのお菓子をおごった)。
あおいさんの情報を知るたびに、音楽好きとしてワクワクする気持ちと、複雑な気持ちがごちゃごちゃになる。春哉もみくるも俺の気持ちを知ってるわけないから、悪気はもちろんないのはわかってるが、たまに勘弁してほしくなる。
これ以上落ち込む前に家に帰らないと。さすがにサボってる人がここに長時間居たら補導されかねない。リュックを背負い直して、ちょうどいいタイミングできた地下鉄に乗り込む。少しだけ、あおいさんにもう一度会えるかなと期待した。そんな自分の心の複雑さになんだか泣きたくなった。
家に帰って、母さんにすべてを話した。一年生の冬にサボったときもちゃんと理由を話したらわかってくれた。そんな優しい母は今日は悲しそうな、そして真剣な顔をした。
「あのね、サボったことは全然いいのよ。それほどショックだったのね。それにあなたはサボる時には必ず理由があるし、やることもちゃんとやって今まで母さんを支えてくれたもの。学校だって勉強だって頑張りすぎなくらい頑張ってる。でも、もう少しで三年生。そろそろ自分の心を決めなさい。将来どんな道に進んでもいい。でも、あなたが後悔しない道を歩きなさい。母さんのことは考えずに、ちゃんと自分の気持ちに気付いて、けじめをつけなさい」
母さんはそれ以上何も言わなかった。静かにほほ笑んで「お昼にしようか」と席を立った。母さんの優しさに涙腺が緩むのを感じた。泣いてしまう前にお昼を食べ、俺は自室に戻った。
リュックの中から今日出す予定だった進路の紙を取り出す。
第一希望は国公立の文系にしていた。第二希望も第三希望も国公立の文系。決して楽とは言えないが、頑張れば届くし、将来の安定がまだ望める道だった。
悩んでいた。気付かないようにしていた気持ちは、抑えきれないほどに膨らんでいた。あの時からずっと心にある、「音楽を作りたい」という思い。
二年生になった春に、一回だけこっそり作ったことがある。
ギターもピアノも趣味程度でやっていたのを、楽器全般が得意なみくるに教えてもらいながら、本格的に練習した。イラストと動画編集は、得意な春哉に教えてもらった。俺が本気で頼んできたのを、二人は驚きながらも丁寧に教えてくれた。歌はカラオケに行ってたくさん練習した。
その結果できた、ほんの一分の小さな歌。自分が作りたかった、自分の思いを込めた小さな音楽。あの曲と同じく名前がない。あの曲と違って俺しか存在を知らない。
「けじめ、か……」
母さんは俺の心を知ってるのだろうか。春哉もみくるも俺が悩んでるのに気づいてるかもしれない。周りに相当気を遣わせている。
ふいに自分が作った音楽が口をついて出た。
もろくなっていた涙腺が崩壊して、涙が溢れ出していた。
あの時打ちのめされた自分の気持ちを書いた、少し悲しい歌詞。
『音楽に色がつかない
そんな冬の朝の快晴は、僕の心と真逆の気持ちを広げていく
苦しさを隠したくて、声の限り叫びたくて
僕はがむしゃらに音を聞いた——色の無い音を
温かさを感じることのできないこの音を』
自分の口からつむがれる、音を乗せた言葉と共に涙がとめどなく溢れた。
もうすぐで俺は高校三年。そして来月は俺にとって二度目の、桜フェスだ。
史上最大の規模。二日間にわたるライブ。一日目の最初と二日目の最後の二回、あおいさんはステージに立つらしい。
今度は聞かなきゃならない。あおいさんにあの言葉の「やめたほうがいい」という言葉の真意を。全てを聴いて、俺はちゃんと決断したい。
歯を食いしばり喉を鳴らして、無理やり涙を止めた。
スマホのメッセージアプリで、みくるにこう送る。
『あおいさんに桜フェスの時、会わせてほしいんだ』
一足先に、音楽の街に春が来ようとしていた。
桜フェス当日。昨年のあおいさんの効果があったのか、今年は溢れんばかりに人が来ていた。県外から来てる人も大勢いるようだ。まだ雪と寒さが残っているが、それを吹き飛ばすぐらいの熱気があった。
「みくるは今年は彼女さんいいのか?」
俺は隣で焼きそばをほおばっているみくるに声をかけた。
みくるの彼女さんとは一度会わせてもらったことがある。俺らとは違う高校の方で、みくるが美人系の性格子犬なら、彼女さんは可愛い系の性格うさぎだ。とてもほわほわした優しい方だった。
「美咲は今日はお姉さんと回るらしい。明日二人でまわる約束した!」
そう言って幸せそうにのろけるみくるを見て、ホッとする。
「そうそう! 今年から二日間になって、みくると晴翔と回れるし~!」
春哉は片手にりんご飴、片手にチョコバナナを持って屋台を満喫しながら声をかけてくる。いつも思うがこいつの胃袋はどうなってるんだ。たぶんこいつのお小遣いはほとんどが食べ物へと消えているだろう。
みくるはふとこっちを向いて、
「そいえばさ、晴翔メッセージくれたじゃん。あおい兄さんに会いたいんだよな? 今日のライブの後だったら時間あるから、ステージ裏の公園で待ってるって」
「わかった。あおいさんと二人で話してみたいから、二人で三十分くらい回っててくれないかな?」
「「了解~」」
春哉とみくるが二人そろって、ピースサイン。
「まぁ、とりあえず早めに席取ろうぜ! ほら、みくるははやく焼きそば食べて! 晴翔は先に行って席を取る!」
春哉は俺の背中をポンと押して、そしてこう叫んだ。
「今日はきっと大事な日なんだろ! 一番いい席で一番いい音楽聴いて、しっかりと勉強させてもらえ!」
走りながら振り返ると、みくるも春哉も真剣な瞳で俺を見ていた。
みくるが嘘つくの下手って、俺が言えたことじゃないな。バレてたのか、二人には。音楽を作りたいっていう俺の気持ち。
さっさといい席取って、あおいさんの音楽を聴こう。
三人分一番前のど真ん中を取った。すぐに二人が追い付いて、三人で席に着いて息を落ち着かせる。後ろの人の邪魔にならないように、荷物を全部下に置いた。
あと一分、三十秒、十秒。暗かったステージ上が、ライトで照らされた。
オープニングを飾るピアノの音が鳴り響く。
「皆さん、こんにちは! 倉野あおいです! 今日から二日間、みんなで盛り上げていきましょう!」
あの時と同じ。そしてこの間の地下鉄で会った時と同じ。あの瞳が、以前より強く俺を射止めた気がした。まるで「聴いて」と聞こえてきそうな瞳。
そして流れ出したのは、あの時最後まで聴けなかった、聴かなかったあの曲。
「それでは聴いてください——『夢の音楽』」
その曲はやっぱり俺とあおいさんのあの会話だ。夢を語った男の子が否定され打ちのめされる歌詞。まるであの時の俺を知ってるかのような、繊細に男の子の感情が描かれた歌詞だ——そう思ってたけど。
続く歌詞を聴いて思った。違う、と。
確かに最初の男の子と一人の男性の会話は、たぶんあの時の会話だ。でもその後の歌詞はあおいさん自身の気持ちだ。夢破れて、叶えたくて必死に頑張っても、努力は実を結ばなくて。認めてくれる人がいる反面、悪意を持つ人も出てきて。
感じた本人にしか書けない嬉しさ、楽しさ、喜びが。でも俺たちにはわからない、多くの苦しさ、悲しさ、悔しさが描かれていた。
うわ、恥ずかし、俺。自分のことだと思って、勝手に音楽にされてバカにされたと思って。あおいさん本人から聞くまでもねぇじゃん。
あの時の返信の「やめたほうがいい」っていうのは、あおいさんが本気で思って返してくれた言葉だった。
ゼロからイチを作り出す世界は、この「音楽の世界」は、棘の道よりも厳しい。それ以上に、言葉では簡単に表せない苦しさが必ず待っている。その道に進むという決断をするには、計り知れない数の覚悟とたくさんの気力がいる。
曲が二番に入る。だんだんアップテンポになって、それに合わせて拍手が広がっていく。動画もあの後あげたのだろう。後ろのスクリーンにはあおいさんが描いて作ったのであろうミュージックビデオの朝焼けと青年が映っていた。
『夢を見るだけでは終われない。叶えてもそこがゴールじゃない。空にいつか届くなんて言葉は夢見がち? だけど僕は空に届くように、たくさんの人に響くように、永久(とわ)に声を、音を——。この音楽を求めてる人全てに、届きますようにと願い続けて、戦い続けるんだ』
あおいさんの声が、前とは違う青空の下で広く響きわたった。
涙が流れそうになるのをこらえて、でもこらえきれずに一粒流れて。そして俺は最高の笑顔で拍手を送った。
「びっくりした。晴翔めちゃくちゃ笑って拍手してるから!」
「俺とみくる、もう目がまん丸! まぁ、晴翔が去年より楽しめてるみたいでよかったけどさ」
みくると春哉が俺の頭をワシワシ豪快になでる。二人とも俺より背が高いから、俺はされるがままだ。
「おい、お前ら、髪ぐちゃぐちゃになるだろ! ……じゃあ、行ってくる」
ふぅと息を吸って、静かに吐く。二人は俺の肩を軽くたたいて、笑ってくれた。
高校に入ってからの付き合いだけど、この二人にはたくさん助けられてきた。この二人が俺にくれた勇気を、今ここで出し切らなきゃいけない。二人とも、俺の気持ちに気付いてくれて本当にありがとう。あおいさんのことでたくさん協力してくれて嬉しかった。
ステージ裏の公園に行くと、ブランコに一人の男性が座っていた。
心臓が止まりそうなぐらい緊張する。速足であおいさんのところまで行き、覚悟を決めて目線を合わせた。
何回か会ったのに、話すのは初めてだ。
「初めまして。紺野晴翔です。先日は地下鉄内で失礼な態度をしてしまい、すみませんでした。他にもいろいろご迷惑を……」
地下鉄のことも、一年前のコメントのことも、桜フェスで途中で抜けたことも。どうか伝わるようにと、必死に言葉を紡いで声に出す。
「あのコメント、やっぱり君だったんだ」
あおいさんは怒っていなかった。それどころか柔らかい表情で、困ったように笑っていた。
どうして俺だと。そう聞く前にあおいさんはこう言った。
「みくるから、晴翔くんのことよく聞いてたんだ。僕とみくるはいとこ同士ってのは知ってるよね?」
俺は静かにうなずいた。
あおいさんはそれを確認すると、言葉を続ける。
「実は僕の両親は早くに亡くなっていて。それでみくるの家に俺も住んでるんだ。だから、みくるからはよく晴翔くんや春哉くんの話を聞いてて。晴翔くんが音楽が好きで、僕の音楽を知ってることも聞いてた。あの時地下鉄で声をかけたのも、みくるから写真を見せてもらっていて、君を見かけてすぐわかったからなんだ。驚かせてごめんね」
あおいさんは話を区切ると、俺に隣のブランコを勧めてくれた。遠慮しながらも、俺は隣に座る。
「ふふっ。こうやって男二人で座ってると、なんか青春してるみたいでいいね~。晴翔くんたちは青春真っ只中だけどさ~」
人懐っこく笑うあおいさんはふと真面目な顔になった。
「あのコメントが来た時、僕メチャクチャ嬉しくて。急いでみくるに見せに行ったの。そしたら、このアカウント晴翔くんのじゃないかってみくるが言って」
「え……あぁ~そういえばみくるに一回だけ見せたことあります。あのコメント、みくるには見られてたのかぁ……」
一気に恥ずかしさで顔がほてるのを感じた。でも、それと同時にみくるが気づいてないふりをして誰にも言わずに秘密にしてくれてたことに感謝した。
「あの後、君のコメントについて僕は必死に考えた。君なら気付いたかもしれないけど、『夢の音楽』の冒頭の歌詞は、あの時の晴翔くんと僕の会話なんだけど、その後の歌詞は僕が体験したことや感じたことがもとになってるんだ。楽しいことや嬉しいこと以上に、実際は辛いことの方が多い道だからね。音楽に限った話ではないんだけど。僕の場合は音楽でその苦しみをたくさん味わった」
俺は静かにあおいさんの言葉に耳をかたむける。今思えばあのコメントは本気で覚悟があったといえど、苦しみを味わっていた人からしたら少し気の早い、軽率な言葉にもとれたはずだ。
「必死だったんだ。あの時君がどんな気持ちで送ってくれたのかわからなかったから。だから、もう一度考えてみてほしくて、結果あんな言い方しかできなかった。きつい言葉だったよね。ごめん」
俺よりも傷ついた顔でそう話すあおいさんを見て、俺はしっかりと首を横に振った。あおいさんが悪いことは一つもないのだ。
「俺は、あの時あおいさんからあの返信をもらって、正直打ちのめされました。しばらく音楽も聞けなかったです。だから去年の桜フェスの時もあおいさんの歌声がどうしても苦しかった。だから逃げました」
俺はそう言いながらスマホを取り出し、あのたった一曲の音楽を探す。
「でも、母やみくるや春哉——そして今日、あおいさんの『夢の音楽』を初めて聴き終えて、あおいさんと今話してみて俺は決めました」
あおいさんに俺のスマホをイヤホンごとわたす。
「なんとでも言ってください。きっと俺はまだまだ未熟で軽率で、前しか見てなくて自己中で。そして死ぬほど頑固で夢見がちなんですよ。あおいさんの言葉もしっかり受け取ったうえでの俺の決断です。俺はあおいさんのライバルになって、いつか超えます! 俺は音楽の道に進みます!」
誰に何と言われようと、何度心がくじけようと。あの時の小説の一文がよみがえってくる。『逃げても、もう一度戻ってきて、もう一度前を向けばいいじゃん!』。そんなかっこよくて綺麗ごとっぽくて。でも最高に勇気をくれる言葉に今はなった。
あおいさんがスマホの再生ボタンを押した。瞬間彼は目を見開く。俺には今その音は聞こえていない。あおいさんの表情だけで音楽を感じる。
長くも短い一分間。俺だけじゃできなかったけど、俺がいなければできなかったと言ってもいいだろうか。
やがてあおいさんがイヤホンを外した。
「これは、僕も頑張らないと抜かされちゃうなぁ」
彼は笑っていた。ステージ上に立つときと同じ爽やかな笑顔で、目のふちに涙をためながら。
「晴翔くん、ライバルになる前にお願いをしてもいいかな」
あおいさんは俺に耳打ちをした。次は俺が目を見開く番だった。
この言葉が俺の人生の初めてのターニングポイントだったと思う。
まだ咲いてるはずもない桜の花が、俺の横をかすめて行った気がした。
桜フェス二日目。表のステージと観客席は最高潮に盛り上がっている。
そんな中俺たち四人はステージ裏で、最後のやり取りをしていた。
「え、まじ⁉ 俺らもいいのか⁉」
「春哉の言うとおりだよ! 晴翔はともかく俺らは絶対出ないほうがいいって!」
春哉とみくるがあわあわするのを、俺とあおいさんは何とか落ち着かせていた。
「俺が出てほしいんだ。二人がいなかったら俺はずっと進めないままだった。さっき聞かせた曲も二人がいたからできたものだ」
俺は必死に頭を下げる。
「僕からもお願い。紹介の時だけでも出てくれないかな……?」
あおいさんも俺の隣でお願いをしてくれる。
二人は照れたような困ったような顔をして、そして、笑った。
「まぁ、普段晴翔に頼ってばっかりだもんな俺たち。はるコンビとして出てやるよ! ただし、紹介の時だけだからな! ほらあおいさんも顔を上げて!」
「俺もあおい兄さんと晴翔のためなら紹介の時出るよ! でも演奏の時は俺たちはいないからな、頑張れよ!」
そう言って二人はこぶしを突き出してきた。俺とあおいさんも二人に合わせてこぶしを突き出した。そして三人とも俺に顔を向ける。その合図に、俺は深く息を吸って、
「さ、桜フェス、頑張るぞ~!」
「「「おー!!!」」」
なんか漫画みたいな青春してるなって思う。いや、実際に最高の青春をしてるんだけど。
手も足も震えて、心臓が止まってしまうんじゃないかってぐらいバクバクしている。
でも、これが夢への第一歩だ。そして頼りになる二人が、目標としてるあおいさんがいる。
満天の星空の下。舞台はすでに整っていた。
「桜フェスの最後を飾るのは、倉野あおいさん。そして、紺野晴翔さん、新山春哉さん、佐野みくるさんの四人です! それではみなさんの登場です!」
司会の唐突な紹介に、会場全体がざわついた。
あおいさんの他に、高校生が三人も出てくるなんて聞いてないから当たり前だ。
俺たちはそんな空気の中、ステージ上に出る。
「みなさん、桜フェス二日間お疲れさまでした~! 改めまして、倉野あおいです! そして~!」
「初めまして、紺野晴翔です!」
「新山春哉でーす!」
「さ、佐野みくるです!」
みくるが出たとたん、会場内が少し色めきだった。さすがの美形である。思いっきり噛んでたけど。
「えーっと、実はこの三人は僕の知り合いです。そして、皆さんに発表があります。この後僕たちは二曲歌います。一曲は僕ら四人の合同制作曲です」
あおいさんが俺に視線を送って、合図を出した。
俺は声を震わせながらしゃべりだす。
「曲の名前は『過去の音楽』です。あおいさんが昨日歌っていた『夢の音楽』の前のストーリーとして繋がっています。初めて作った曲ですが、作詞作曲、イラスト、動画の全てを俺が作りました。その作る過程で、春哉にはイラストや編集の仕方を、みくるにはギターとピアノを教えてもらいました」
「といっても、ほとんどは晴翔が作ったんですけどね~」
「だよな~」
「「だから、俺らはここまで! あおいさん、晴翔頑張れよ!」」
打ち合わせで用意していた言葉を、春哉とみくるは息ぴったりに言ってステージから降りて行く。
昨日、あおいさんと話した後、俺が作ったこの曲にあおいさんがこの名前を付けてくれた。そして、『夢の音楽』と繋がったストーリーにしてほしいとお願いされた。俺はすぐにオーケーした。憧れの人にそう言ってもらえた初めての曲だ。一生大切にすると思う。そして、あおいさんは続けてこう言ったのだ。今まさにマイクを通して、それがみんなに伝わる。
「というわけで、僕と晴翔くんが桜フェスの最後のステージを盛り上げます。晴翔くんは高校生と思えない歌唱力を持っているので、皆さんお楽しみに。そして——」
あおいさんが一度深呼吸をして、マイクを離してこう言った。
「あの名前の無い曲に、ついに名前がつきました。『過去の音楽』を歌った後に、歌います。きっと皆さんの心の中に残るものになると思います。それではまずは『過去の音楽』から! 晴翔くん、準備オッケー?」
決して大きな声じゃないのに、マイクが無くても綺麗に響くあおいさんの声が、俺の名前を静かに呼んだ。俺は力強くうなずく。
曲のイントロが流れ出す。
たった一分の曲のために、昨日も今日の午前中もギリギリまであおいさんたちと練習した。バンドの皆さんも温かく俺を迎えてくれて、この曲を一緒に練習してくれた。
主旋律を俺が歌い、あおいさんがそれにハモる。ピアノやギターはにぎやかに歌声を彩る。星空の下で響く、静かでゆったりとした、でもたくさんの感情が溢れてきそうなこの歌を、音楽を俺は必死に歌った。誰かに届けたいとか考えてる余裕もなく、ただ必死に歌った。
一分が終わった。たった一分なのに、息は切れていた。
マイクを離して、あおいさんのほうを見る。
あおいさんは楽しく歌えただろうか。俺たちの作ったこの音楽を。
そう思った瞬間、会場全体が大きな拍手で包まれた。ペンライトやうちわなんてない桜フェスだけど、拍手の音が俺の耳に焼き付く。歓声を上げてくれているお客さんの顔が涙でぬれていた。
俺は慌てて頭を下げる。そして「ありがとうございます!」とあおいさんと共に声を出した。そんな俺たちの声に、再び大きな拍手が鳴る。
「ほらね! 晴翔くんの歌唱力すごいでしょ! 将来のっていうか、すでに僕のライバルです! そんなライバルは、僕のあの名前の無い曲の最初のファンなんですよ⁉ 奇跡の出会いって本当にこの世にあるんです。そんな想いと共に僕と晴翔くんで名前の無かった曲の曲名を考えました。この星空の下で、僕らは青くて爽やかな快晴の歌を届けます! それでは聴いてください!」
俺とあおいさんの呼吸が完全に重なった。
あおいさんに決めてほしいと頼まれ、いくつか候補を出して二人で決めたこの曲の名前。
「「僕らの青い音」」
今度はみんなに届けと願いながら、笑顔で歌い始める。
星々が俺らの声に答えるように、一斉に光を強めた。
「紺野先輩! この本ってどこにしまえば⁉」
「あぁ~、それはここにしまえばいいんだ。この本屋さん、本の並べ方独特だよね」
「うるさいな~。個人経営の本屋なんてそんなもんだよ。そもそもこんな本屋で働いてるお前らも変人だからな~」
職場の後輩の神楽はやては、みくるに少し性格が似ている。見た目はみくると違って子犬っぽい。覚えがはやくて俺は先輩として教えることは本の配置ぐらいだ。とても優秀で優しい後輩だと思う。
そして俺らを見てニヤリと笑うおじさんは、この書店の店長兼経営者だ。性格は何となく春哉に似てるだろうか。
そんな友人たちに似た二人がいる職場は、俺自身も過ごしやすくていい。
同時に初めてステージ上で自分の曲を歌った、高校生最後の桜フェスが懐かしい。最後となったのは三年生の時は受験真っただ中だったから。俺はというと、ギリギリまで悩み、進学校に通ってたのにもかかわらず大学に行くことをやめた。音楽を作ることに集中するためだ。自由度が高いこの書店に就職できたのはすごくラッキーだったし、個人経営にしては給料もよく、その点店長は太っ腹だ。
そしてこの書店に就職してから、五年ほど経とうとしている。実はこの間に大学受験をして一応卒業もした。就職してから最初の一年はこの仕事だけをやっていたが、店長の勧めで受験した。正直言うと店長には頭が上がらない。大学での経験はとても貴重だった。そして絶対に本人に言うと調子乗るから言わないが、尊敬している。
母は相変わらずハンドメイド一筋で、弟子も何人かできたらしい。もう少しで六十代だが、それを感じさせないエネルギッシュさだ。
みくるはまさかの編集者になっていた。俺の影響で本を読むようになっていたみくるだが、今では俺以上に本好きで編集者という仕事は天職らしい。
春哉はデザイン会社で働いている。忙しすぎて大変だとたまに俺に電話が来るが、それでも好きなことがやれてる分恵まれていると言っていた。
あおいさんは今も引っ張りだこのアーティストだ。顔がテレビ映えするのもあり、たまにバラエティ番組にも出ている。五年たっても愛される三十代のイケメンアーティストとして人気がある。今でもたまに二人で歌った曲を出したりもしている。
三人とも忙しいからなかなか会うことができないが、桜フェスには毎年絶対に出ている。桜フェスではみくるが作詞、春哉がスクリーンに映すイラストと動画、あおいさんが作曲して俺がアレンジした曲を、つまり四人で作り上げた曲を俺とあおいさんが歌うのが恒例となった。そんな状況が不思議に思うし、嬉しくも思う。
俺はというと家を出て「音楽の街」で一人暮らし。この書店で働きながら音楽を作り続けている。ここ数年でだいぶ人気が出てきたのが嬉しい。少し前に小さな会場だがワンマンライブもやらせて頂いた。もうすぐでファーストフルアルバムも出せることになっている。
ただ、音楽を作ると決めたあの日から七年は経っているけれど、いまだにあおいさんは越せない。引っ張りだこというわけでもないし、オリジナル曲を出しても百万再生を超えることなんてまれだ。音楽だけで食べていくことができるのはまだ先の先。それが悔しくもあるが、なんとか諦めないでやれている。
そんな俺をずっとライバルだと言ってくれているあおいさんのことを、俺は絶対に追い抜くなんて思ってるのは、たぶん相当図々しいし偉そうだろう。
それでもあの日二人で歌った『過去の音楽』と『僕らの青い音』とあの時見た会場の景色は一生誇れるものだし、俺もあおいさんをライバルだと思い続けている。
「紺野~そろそろ雨やみそうだし、外に旗立てといてくれ~」
「はーい、わかりました」
店長の言葉に回想をやめ、旗を持って外に出る。
春にしては雨が多くて、桜もすでにほとんど花を散らしていた。
雨上がりの虹を期待したが、外に出ても虹は見当たらなかった。
だけど、灰色の雲の間から目を刺す鋭い光が差し込んでいる。そこから青空が少しずつ姿を見せた。あおいさんはいつも、この雨上がりに刺す太陽の光のような瞳をしていた。
「名前の無い曲」として出会った『僕らの青い音』。
この曲に出会えたこと。母さんが信じ続けてくれたこと。春哉とみくるが笑顔で送り出してくれたこと。あおいさんに出会って、あおいさんの言葉で決心ができたこと。
奇跡なんて言葉でまとめるにはもったいなさすぎる、それ以上の最高の「なにか」に俺はずっと感謝してるし、支えられている。
旗を立て終わり、うーんと背伸びした。ふいにスマホが震える。
それは、俺がつい昨日出した曲へのコメントだった。
『初めまして。晴翔さんのこの【空っぽの青】という曲、とても素敵でした。きっとたくさんの人に見てもらえるような曲になる気がします。これからも応援しています! 高校一年生の男子より』
コメントを見て、俺はふわりと笑った。あの最後の桜フェス以来、素直に笑えることが多くなった気がする。
あおいさんと話すまで、雲ひとつ無い青空が、あの綺麗すぎる青空が、自分の汚い心とは反対に感じられて嫌いだった。
でも、いつのまにか虹がかかっていたり、雲がたくさん浮かぶその空を、俺は綺麗だと思うようになった。
桜の花びらが太陽の光を透かして、俺の周りを静かに舞って落ちていく。さっきまで空を覆っていた灰色の雲たちが、ほとんど消えていた。
空っぽで、でも恐ろしいくらい青く綺麗で、雲ひとつ無い快晴。
そんな空が俺は大好きだ。