「猛……っ」
私は猛のことが怖い。猛を見ると震える。
怖くて仕方ない……。
「俺は美結のこと、好きなんだ。 分かってくれるだろ?」
そうやって私を洗脳するみたいに、猛はいつも言ってくる。
私は猛に洗脳させている。……猛からは、何をしても逃れられない。
私は猛と別れることも出来ないし、そんなことさえも許されない。
逃げようとしたことだってあった。逃げようと試みた。 だけどすぐに見つかって連れ戻されて、また暴力を振るわれた。
私はそんな日々の繰り返しだ。
生きる理由なんてどこにもない。生きていることにも、疲れた。
もうこの世からいなくなりたい、もう死にたい。……いつしか私は、そう思うようになった。
毎日暴力を振るわれて、辛い日々を送るしかないだなんて辛すぎる。
警察にだって行った、何度も相談した。 でも警察は何もしてくれなかった。
警察は、私を助けてくれなかった。
「……美結、好きだよ」
「んっ……猛っ……」
猛から逃げたいのに、逃げられないという現実が怖い。
「美結……」
私は猛に逆らうことなんて出来ない。逆らったらまた殴られるだけ。
だから私は、猛の言うことを聞くしかないんだ。……猛のそばにいても、私は幸せになんてなれないって分かっている。
だからこそ、私は今の現実から逃げたいの。
この世界からいなくなって、楽になりたい。……楽になりたいの。
「んっ、猛……」
「美結……っ」
こうして殴られた後、猛はいつも私を抱いてくる。大事なのか、大切そうに抱いてくる。
だけどそれを断わると、また殴られる。……そう思ってしまって、拒むことも出来ない。
拒否したら、何をされるか分からない。そう思うだけで、怖くて抵抗も出来ない。
「あぁっ……美結っ……!」
ただひたすら、私は猛が限界を迎えるのを待つだけ。 もうセックスが気持ちいいなんて感覚、ないかもしれない。
ただ殴られたくないから、それだけのために私は猛に抱かれる。 そこには愛なんて、あるか分からない。
でも私がガマンすればいい。私が何もしなければいい。何も言わなければいい。
そう思って今を生きている。 一日が過ぎるのは本当に長くて、それでも私は毎日辛い日々に耐えなければならない。
何も言い訳もせず、ただ大人しくするしかない。……私の人生って何なんだろう。
こんなつまらない人生を送ってても、何も意味がないのに。
最初は猛といると、楽しい日もあった。ものすごく幸せだと思っていた。
でも今は、そんなのを感じることはない。猛とは別れたいと思ってる。
でも出来ないんだ、そんなことしたらまた暴力でねじ伏せられるだけだから。
「美結……大丈夫か?」
「……大丈夫だよ」
本当は大丈夫なんかじゃない。 大丈夫な訳がないって……。
猛のせいで私は、こんなに辛い日々を送ってるんだよ……。
それからというもの、猛からの暴力は続いた。
「っ……」
暴力に耐えるのは必死で、いつも唇を噛み締めていた。
体は震えて、恐怖で動くことも出来ない。
「……もう限界」
私は耐えることに限界になった。もう無理だ、もう死ぬんだ……そう思った。
猛は昼間は仕事でいない。だから私は、財布とスマホだけを持って、家を出た。鍵も持たずに、上着を持って出かけた。
「……ごめんなさい」
本当にごめんなさい……。もう無理です。
私は死にます。もう耐えられません……。
私は死ぬつもりだった。死ぬつもりで、ここにきた。
「……よし」
ふと見渡してみたが、ビルの屋上には誰もいない。これなら誰にも見られずに、一人で死ねる。
「バイバイ……」
ビルの屋上の高さは相当高い。ここから飛び降りたら、即死だ。
いいんだ、これで。……いいのよ、これで。
「……っ」
だけどいざ飛び降りようと鉄格子に足をかけると、恐怖で足が震えた。
急に怖くなった。
「何で……」
何で震えるの……。何で怖いの?なんで……。
「お願いだから、死なせてよ……」
もう生きていたって仕方のない人間なの。私は死んで楽になりたいの……。
「……さようなら」
今度こそ死のう……。
そう思って鉄格子に足をかけた、その時だったーーー。
「おい、何やってんだ……!!」
私に、ある一筋の光が射したーーー。
「……お前、名前は?」
「………」
「ったく……。名前くらい言えるだろ」
なんで……。なんで今私は、こんな所にいるんだろう……。
さっき確かに、私は飛び降りて死のうとした。 でもその時、今目の前に男の人が、それを阻止したんだ。
……死なせてくれなかった、死にたかったのにーーー。
「お前、本気で死のうとしたのか?」
「……なんで止めたんですか」
「はっ?」
「なんで……。なんで止めたりしたの……」
死にたかった、もう生きていたくなんてなかったのに……。
「馬鹿野郎! 目の前で死のうとしてるヤツがいたら、普通は助けるだろ!」
「死にたかったのに……。死にたかったのに……」
あれ……。何でだろう。
なぜだか分からないけど、涙がでる。なんでなの……。
「……お前、男に暴力振るわれてるのか」
「っ……」
そう聞かれても、何も答えられない。 ただ拳をぐっと握りしめるだけ。
「その顔の傷、男に殴られたんだろ?」
「……ふぅっ」
急に涙が止まらなくなった。涙で視界が滲んで、ポロポロと涙が溢れる。
「……辛かったんだな、お前」
「ふっ……うぇっ……っ」
もうこの世界に生きていくのが辛い。もうどうにでもなってほしい。
「……可哀想に。よっぽどガマンしてたんだな」
そう言ってその人は、そっと私を抱き寄せてくれた。
「俺の胸を貸してやる。……今のうちにたくさん、泣いておけ」
「ありがとう……ございます……」
その人は優しくて、温かくて。私を絶望の淵から救いだしてくれたーーー。
「ほら、少しは落ち着いたか?」
「……はい」
その人は私に、温かい紅茶を淹れてくれた。
ピーチティーの甘い香りが、いっぱいに広がっている。
「いつからだ」
「……え?」
マグカップを両手に持ち顔を上げると、その人は「いつから殴られてたんだ」と聞いてくる。
「……一年前からです」
「一年前?……そんなに」
その人は驚いていた。そして再び、口を開く。
「……警察には行かなかったのか?」と。
だから私は「……行きました。何度も行きました。 でも、何もしてもらえませんでした」と答え、紅茶を一口飲んだ。
「……そうか。そうだったのか」
その人は、その後黙り込んでしまった。
「……私、逃げたかったんです」
「え?」
なぜだか分からないけど、その人には話してしまっていた。
「ずっと、逃げたかったんです。……でも逃げることは出来なくて、逃げてもまた連れ戻されてしまって。それでまた殴られて……」
その繰り返しだった。だから私は、自分の人生に絶望した。
「……そうなのか」
「……私、生きるのが辛くて……っ」
マグカップを握りしめたまま、私は口を閉ざした。
「それで……死のうとしたってことか」
「……はい」
私はその問いかけに、素直に返事をした。
「……お前今日のこと、男に話したか」
「え……?」
「話したか?今日出かけること」
なんでそう聞かれたのか分からなかったけど、私は「……いえ。黙って出てきました」と答えた。
「家には帰らない方がいい。また暴力を振るわれるぞ」
「……でも、死ねなかったから……っ」
「お前、スマホは持ってるよな」
「……スマホ?」
スマホは持ってきたけど、何でそんなことを聞くのだろうか……?
「スマホ貸してくれ」
「え?……あ、ちょっと!?」
その他人は私からスマホを奪うと、スマホの電源を切り、SIMカードを抜いた。
「ちょっ!な、何するんですか……!」
「このスマホは、今すぐ解約するべきだ」
「え……?」
解約するべきだって……?
「このスマホにはGPSが入っている可能性がある。 そしたらお前の居場所はまたたく間にバレて、また連れ戻されてしまうぞ。……それでもいいのか?」
「っ……!」
そんなの……。そんなのはイヤ……!
またあんな地獄は味わいたくない!……二度と、味わいたくなんてないの……。
「早くそのスマホを解約して、すぐに新しいのにするべきだ。 電話番号も変えた方がいい」
そんなことしたら、また猛の怒りを買ってしまう……。
「お前は生きるんだ。 お前が死んでも、何の解決にもならない」
「……っ」
「お前は生きるべきだ。 ここで人生、諦めるのか?」
そう言われて私は、小さく頷いていたーーー。
「俺は高根沢大和(たかねざわやまと)だ。 お前は?」
「……美結。花井、美結」
「美結、お前行く所あるのか?」
「行く所……?」
高根沢さんは私にそう問いかけると「他に行く所だよ。あるのか?」と再び聞いてくる。
「……いえ、ありません」
私は両親がいない。小さい頃事故に亡くなったったから。
その後親戚の家で育ってけど、親戚が亡くなってからは施設で育った。だから身寄りはいない。
「両親は、いないのか?」
「……両親は、小さい頃事故で亡くなったのでいません」
私がそう言うと、高根沢さんは「……そうか。すまない」と謝ってきた。
「いえ。……私は施設で育ったんですけど、彼氏と同棲するために出たので、他に頼れる人はいません」
私には誰もいない。助けてくれる人なんて、誰もいない。……誰も。
友達もいないし、家族もいない。私は孤独な人間なの。
誰からも必要とされないし、誰も私を必要としていない。
「美結。お前……孤独、なんだな」
「……はい」
私は孤独な人間。私はつまらない人間。
「美結、ここにいるか?」
「……え?」
少しの沈黙の後、高根沢さんはそう言ってくれた。
「お前がここにいたいなら、置いてやってもいいけど」
高根沢さんはそう言うと、タバコに火をつけた。そしてふと、私に視線を向ける。
「……悪い。イヤだったか?」
そう聞かれたけど、私は横に首を振った。
「そうか」
「あの……」
「ん?」
私は静かに口を開いた。
「……私を置いてもらえませんか、ここに」
「分かった」
こんな私のお願いにも、高根沢さんはすぐに返事をしてくれた。
「……ありがとうございます」
「その代わり゙美結゙って呼ぶけどいいよな?」
「え……?」
高根沢さんは私にそう聞いてくる。
「いいだろ?名前で呼ぶくらい、どうってことないだろ?」
「……あ、はい。いいですけど……」
いきなり馴れ馴れしいなぁとは思ったけど、ここに置いてもらう以上、文句は言えない。
「じゃあ美結、まずはスマホ買いに行くぞ。買ってやる」
「え?」
「スマホだよ。新しくするぞ」
そう言われた私は「あ、はい……」と返事をした。
「俺も一緒に行くから。 着替えてくる、ちょっと待ってろ」
タバコの火を消した高根沢さんは、寝室らしき部屋に行った。
「高根沢……さん」
高根沢さんは優しい人、なのかな……。
でも身寄りのない私をこうして家に置いてくれて、スマホまで買ってくれると言ってくれた。
優しいんだよね、多分……。
「美結、行くぞ」
「あ、はい……」
「あ、美結の服も必要だよな。下着とか」
「っ……!」
し、下着……!?
「だって着替えもないんだろ?」
「……ないです」
ここには死ぬつもりで来たのだから、着替えなんて持ってきていない。
「じゃあ服も買いに行くぞ」
「……はい」
私は高根沢さんに連れられ、ケータイショップが併設されているショッピングモールへと連れてってくれた。
高根沢さんに連れられたショッピングモールで、私はすぐに解約した。
「美結、本当にこれでいいのか?」
「……はい。これがいいです」
そして電話番号ごと新しく変えて、また新しいスマホを高根沢さんが買ってくれた。
今使っていたスマホも古かったということもあり、新しい機種はよく分からなかったから、高根沢さんと同じ機種の色違いのスマホにした。
「高根沢さん、ありがとうございました」
「これで連絡は取れなくなったな」
「……はい」
顔にはまだ殴られた痣なども残っていたこともあり、マスクをしていた歩いた。
見られるのは恥ずかしいことだとも思ったし、やっぱり見られるのはイヤだから。
「美結、今度はお前の服を買うぞ」
「え?……あ、はい」
「美結はどんな服が好みなんだ?」
そう聞かれたた私は「……うーん、そうですね。見てみないと、分からないですね」と答えて悩んだ。
「分かった。じゃあ……」
高根沢さんは財布から現金を五万円出して、私に渡した。
「……え?」
「これだけあれば足りるか?」
「え、あ、いや……!」
い、いきなり五万出されても……!困る……!
「これで好きな服を買ってこい。 後、下着もな」
「……でも、いいんですか?」
「いいから、買ってこい。 一時間後にここに集合ってことで」