「やめてっ! イヤッ……!!」

 遠のく意識の中、髪を鷲掴みにされて壁に叩きつけられる。

「いたっ……」

 私は痛みに耐えられなくなり、その場で震えながら蹲(うずくま)るしかなかった。

「おい、美結。お前どういうつもりだよ?」

「ごめん、なさいっ……」

 彼氏に日々暴力を受けていた私は、逃げ場もなかった。
 逃げたくても、逃げられなかった。逃げることも、許されなかったーーー。

「猛(たけし)……ごめん、許して……っ」

「美結、お前は俺のものだろ?……ダメだろ、男のいる所になんて行ったら」

 猛は私の彼氏、猛とは付き合って一年半年になる。
 でも付き合い始めて半年を過ぎた頃から、猛は変わってしまった。
 ちょっとしたことで怒りやすくなり、気がついたらいつの間にか、猛は私を暴力を振るうようになった。

 暴力は日に日にひどくなっていき、暴力を受けた跡は残るようになった。
 腕や脚、背中、顔。どこもかしこも殴られるようになった。
 
「ごめんなさいっ……」

「いいんだよ、美結。分かってくれたなら」

 だけど猛は、その後すぐに優しくなるんだ。
 私を優しく抱きしめてくれて、涙も拭ってくれる。……だからこそ、別れられない。

「……猛、本当に、ごめんなさい」

「もういいんだって。……殴って悪かった」

 猛はこうして優しい言葉をくれる。 人が変わったように優しくなって、笑ってくれる。


「猛……っ」

 私は猛のことが怖い。猛を見ると震える。
 怖くて仕方ない……。

「俺は美結のこと、好きなんだ。 分かってくれるだろ?」

 そうやって私を洗脳するみたいに、猛はいつも言ってくる。
 私は猛に洗脳させている。……猛からは、何をしても逃れられない。
 私は猛と別れることも出来ないし、そんなことさえも許されない。

 逃げようとしたことだってあった。逃げようと試みた。 だけどすぐに見つかって連れ戻されて、また暴力を振るわれた。
 私はそんな日々の繰り返しだ。

 生きる理由なんてどこにもない。生きていることにも、疲れた。   
 もうこの世からいなくなりたい、もう死にたい。……いつしか私は、そう思うようになった。

 毎日暴力を振るわれて、辛い日々を送るしかないだなんて辛すぎる。
 警察にだって行った、何度も相談した。 でも警察は何もしてくれなかった。
 警察は、私を助けてくれなかった。

「……美結、好きだよ」

「んっ……猛っ……」

 猛から逃げたいのに、逃げられないという現実が怖い。

「美結……」
 
 私は猛に逆らうことなんて出来ない。逆らったらまた殴られるだけ。
 だから私は、猛の言うことを聞くしかないんだ。……猛のそばにいても、私は幸せになんてなれないって分かっている。

 だからこそ、私は今の現実から逃げたいの。
 この世界からいなくなって、楽になりたい。……楽になりたいの。 


「んっ、猛……」

「美結……っ」

 こうして殴られた後、猛はいつも私を抱いてくる。大事なのか、大切そうに抱いてくる。
 だけどそれを断わると、また殴られる。……そう思ってしまって、拒むことも出来ない。
 拒否したら、何をされるか分からない。そう思うだけで、怖くて抵抗も出来ない。

「あぁっ……美結っ……!」

 ただひたすら、私は猛が限界を迎えるのを待つだけ。 もうセックスが気持ちいいなんて感覚、ないかもしれない。
 ただ殴られたくないから、それだけのために私は猛に抱かれる。 そこには愛なんて、あるか分からない。

 でも私がガマンすればいい。私が何もしなければいい。何も言わなければいい。
 そう思って今を生きている。 一日が過ぎるのは本当に長くて、それでも私は毎日辛い日々に耐えなければならない。
 何も言い訳もせず、ただ大人しくするしかない。……私の人生って何なんだろう。
 
 こんなつまらない人生を送ってても、何も意味がないのに。
 最初は猛といると、楽しい日もあった。ものすごく幸せだと思っていた。

 でも今は、そんなのを感じることはない。猛とは別れたいと思ってる。
 でも出来ないんだ、そんなことしたらまた暴力でねじ伏せられるだけだから。

「美結……大丈夫か?」

「……大丈夫だよ」

 本当は大丈夫なんかじゃない。 大丈夫な訳がないって……。
 猛のせいで私は、こんなに辛い日々を送ってるんだよ……。


 それからというもの、猛からの暴力は続いた。

「っ……」
 
 暴力に耐えるのは必死で、いつも唇を噛み締めていた。
 体は震えて、恐怖で動くことも出来ない。

「……もう限界」

 私は耐えることに限界になった。もう無理だ、もう死ぬんだ……そう思った。
 猛は昼間は仕事でいない。だから私は、財布とスマホだけを持って、家を出た。鍵も持たずに、上着を持って出かけた。

「……ごめんなさい」

 本当にごめんなさい……。もう無理です。
 私は死にます。もう耐えられません……。

 私は死ぬつもりだった。死ぬつもりで、ここにきた。

「……よし」

 ふと見渡してみたが、ビルの屋上には誰もいない。これなら誰にも見られずに、一人で死ねる。

「バイバイ……」

 ビルの屋上の高さは相当高い。ここから飛び降りたら、即死だ。
 いいんだ、これで。……いいのよ、これで。

「……っ」

 だけどいざ飛び降りようと鉄格子に足をかけると、恐怖で足が震えた。
 急に怖くなった。

「何で……」

 何で震えるの……。何で怖いの?なんで……。

「お願いだから、死なせてよ……」
 
 もう生きていたって仕方のない人間なの。私は死んで楽になりたいの……。

「……さようなら」
  
 今度こそ死のう……。
 そう思って鉄格子に足をかけた、その時だったーーー。

「おい、何やってんだ……!!」



 私に、ある一筋の光が射したーーー。


「……お前、名前は?」

「………」

「ったく……。名前くらい言えるだろ」

 なんで……。なんで今私は、こんな所にいるんだろう……。

 さっき確かに、私は飛び降りて死のうとした。 でもその時、今目の前に男の人が、それを阻止したんだ。
 ……死なせてくれなかった、死にたかったのにーーー。

「お前、本気で死のうとしたのか?」

「……なんで止めたんですか」

「はっ?」

「なんで……。なんで止めたりしたの……」

 死にたかった、もう生きていたくなんてなかったのに……。

「馬鹿野郎! 目の前で死のうとしてるヤツがいたら、普通は助けるだろ!」

「死にたかったのに……。死にたかったのに……」

 あれ……。何でだろう。
 なぜだか分からないけど、涙がでる。なんでなの……。

「……お前、男に暴力振るわれてるのか」

「っ……」

 そう聞かれても、何も答えられない。 ただ拳をぐっと握りしめるだけ。

「その顔の傷、男に殴られたんだろ?」

「……ふぅっ」
 
 急に涙が止まらなくなった。涙で視界が滲んで、ポロポロと涙が溢れる。

「……辛かったんだな、お前」

「ふっ……うぇっ……っ」

 もうこの世界に生きていくのが辛い。もうどうにでもなってほしい。

「……可哀想に。よっぽどガマンしてたんだな」

 そう言ってその人は、そっと私を抱き寄せてくれた。

「俺の胸を貸してやる。……今のうちにたくさん、泣いておけ」


「ありがとう……ございます……」 

 その人は優しくて、温かくて。私を絶望の淵から救いだしてくれたーーー。




「ほら、少しは落ち着いたか?」

「……はい」

 その人は私に、温かい紅茶を淹れてくれた。
 ピーチティーの甘い香りが、いっぱいに広がっている。

「いつからだ」

「……え?」

 マグカップを両手に持ち顔を上げると、その人は「いつから殴られてたんだ」と聞いてくる。

「……一年前からです」

「一年前?……そんなに」
 
 その人は驚いていた。そして再び、口を開く。

「……警察には行かなかったのか?」と。

 だから私は「……行きました。何度も行きました。 でも、何もしてもらえませんでした」と答え、紅茶を一口飲んだ。

「……そうか。そうだったのか」

 その人は、その後黙り込んでしまった。

「……私、逃げたかったんです」

「え?」

 なぜだか分からないけど、その人には話してしまっていた。

「ずっと、逃げたかったんです。……でも逃げることは出来なくて、逃げてもまた連れ戻されてしまって。それでまた殴られて……」

 その繰り返しだった。だから私は、自分の人生に絶望した。

「……そうなのか」

「……私、生きるのが辛くて……っ」

 マグカップを握りしめたまま、私は口を閉ざした。 

「それで……死のうとしたってことか」

「……はい」

 私はその問いかけに、素直に返事をした。