あやかし用の牢獄を出ると、空には満月が出ていた。
 戌の刻(午後八時)を告げる鐘が、月夜の後宮に響く。
(昼間はあんなに暖かかったのに、夜はとても涼しくなりました。少し肌寒いくらいです)
 苺苺は猫魈(ねこしょう)とぬい様が入った鳥籠を手に肩を擦りつつ、先導する宦官の後ろを歩く。
 彼の名は(サク)宵世(ショウセ)
 東宮の侍童として宮廷に入って八年。十八歳という若さで、皇太子殿下の身の回りの世話を一手に担う宦官の筆頭、〝東宮補佐官〟にまで異例の昇進を遂げた端麗な容姿の青年だ。
 木製の細やかな透し彫りが施された提燈(ちょうちん)を手に持って現れた彼は、「この先は僕が預かる」と告げて、牢から出た苺苺の身柄を他の宦官たちから有無を言わさず引き取った。
 墨をこぼしたような黒髪は、うなじの辺りの短さで整えられている。
 宦官ではあるが、中性的な美貌と涼しげな杏眼(あんがん)という組み合わせは、目の保養になると女官人気は凄まじいらしい。
 だが男性にしては細腰なその見た目と、皇帝陛下が命じたという異例の地位から、他の宦官達からは『皇帝陛下の稚児』などと邪推されてやっかまれている。
 というのは、先ほど目の前で繰り広げられた宦官達の言い争いから、苺苺も知ったことだった。
 そんな宵世の性格は厳格そのもの。
 後宮の規律や歴史を重んじるからこそ、苺苺への当たりも非常に厳しかった。
 なにしろ歴史上での白蛇妃は、妃嬪を害した犯人と記される方が多い。
(皆様とても刺繍の腕が優れた優しい方々で、まったくの濡れ衣です。『白蛇の娘』に代々伝わる書物に書き加えられている文字を見ればわかります)
 後世の『白蛇の娘』へ正しい知識を残そうと、書き連ねられた言葉は思慮深く、儚い。
 自分の二の舞にはならないでほしいと切々と願い、姉のように書物からそっと語りかけてくる彼女達が、下手人であるはずがなかった。
 しかし、それを証明できる人間はいない。
 皇帝陛下や皇太子殿下に過去の事件の再調査を依頼することすらできない。
 苺苺もまた、彼女たちと同じ――『白蛇の娘』なのだ。
(けれども、わたくしが後宮に来たのは『白蛇の娘』の冤罪を晴らすためではありません。わたくしはお慕いしている木蘭様を全力で応援し、お守りするためだけに馳せ参じたのです)
 だから、こんな扱いに怯んでいる場合ではない。
 苺苺の瞳はごうごうと熱い炎で燃えていた。

 宵世が手に持つ提燈が薄暗い夜道を照らす中、りーんりーんと春の虫の音が響く。
 高い塀に囲まれた通りを行き、知らぬ名の門を潜り、知らぬ廻廊を通ったところで、苺苺は「あのう……東宮補佐官様」と宵世の後ろからおずおずと話し掛けた。
「わたくしの住まう水星宮でしたら、こちらの門ではなく、あちらの門を通ってまっすぐ進んで北側の、鏡花泉のそばにあるのですが……?」
「ええ。もちろん場所は存じております」
「でしたら、東宮補佐官様はどちらに向かわれているのでしょうか……?」
 苺苺はあやかし用の地下牢の場所が後宮のどこに位置するのかサッパリだったため、彼の道案内に疑問を持っていなかった。
 が、見知った通りに出たことで、ようやく彼が自分をおとなしく水星宮に帰すつもりがないと気がついた。
 苺苺は冷やりとしたものを感じて、固唾を吞む。
「『白蛇妃に滋養料理を』と、皇太子殿下より命を賜りましてございます。大変遅い時刻ではありますが、御花園の四阿(あずまや)に特別な夕餉をご用意いたしました」
「夕餉、ですか?」
「ええ」
 皇太子殿下不在の第一回目の選妃姫(シェンフェイジェン)において、審査員である皇后陛下と四夫人のそばに控えて進行役をしていた宵世は、苺苺を終始無視していた。
 苺苺の番になり詩歌を披露しようとすれば、一言目を発す間も無く、『もう結構です。次の方、お入り下さい』と宵世に部屋からの退出を告げられたのは記憶に新しい。
 それがどうだろう。
  今は終始丁寧な口調で対応し、優等生的な微笑みまで浮かべているではないか。
(いったい、どういった風の吹き回しなのでしょう? 今夜の夕餉は猫魈様と半分こする予定ですのに。まさか! 白蛇の刑が怪しいとバレ、て……!?)
 不安でドキドキと心臓の鼓動が増す。
(どどどどうやって切り抜けたらよいでしょうかっ)
「にゃぁお?」
 ご飯たくさん? と目を輝かせた猫魈が、鳥籠の中でおすわりをしながら首を傾げる。
「しーっです、猫魈様」
 苺苺は慌てふためきながら鳥籠を胸に抱き込んで、小声で猫魈に注意した。
「白蛇妃様、どうかなさいましたか?」
「い、いえ、お気遣いありがとうございます。ですがその、夕餉ならば水星宮でいただきますので、そちらに運んでいただければ、けけけ結構です」
(とにかくお断りを入れて水星宮に帰らなくては、わたくしだけでなく猫魈様も酷い目に合わせられ――)
 まるで思考を読んでいたかのように、妃の歩幅など考えずにスタスタと先を急いでいた宵世(ショウセ)が、ぴたりと立ち止まる。
 彼は静かに苺苺へ向き直ると、ニコリと作り笑いを浮かべた。
「白蛇妃様。白蛇の冠をいただく貴女様が、皇太子殿下のお慈悲を無下になさるおつもりで?」
「え!? いいえ、そんなまさかっ」
 まさか最下級妃が、皇太子殿下の命令逆らうつもりか?
 そう言外に聞かれているのだと察し、苺苺は慌てふためく。
 宵世はニコリと作り笑いのまま頷くと、何事もなかったかのように歩き出した。
貴姫(きき)様のお命を助けられたのです。本日ばかりは〝千年の冷宮〟で過ごされずとも、天罰は与えられぬでしょう」
 丁寧な対応ではあるが、宵世の物言いはどことなく不満そうで、刺々しく感じられる。
 千年の冷宮とは、最初の『白蛇の娘』が入宮した時に皇帝が読んだ詩の一節を抜き取った呼び名だ。
【在往後的千年、皇太子將再也不會有造訪白蛇娘子所居住之水星宮的時候了吧。】
『これより千年が経とうとも、白蛇の娘が住まう水星宮を皇太子が訪れることはないだろう』
というその詩の一節から転じて、『あやかしと交わった末に生まれた異能の娘として、冷宮で天罰を受けている』と揶揄する時に使われる。
 宵世もそう告げたいのだろう。
 彼の墨色の瞳は、明らかに苺苺を嫌悪している色を含んでいた。
 そんな宵世の様子に、苺苺はぴーんとひらめいてしまった。
(東宮補佐官様はこんなにもわたくしを嫌っておられるので、白蛇の刑の嘘がバレていたらもっと嬉しそうに報告なさるはずです。これほどご不満そうだということは……皇太子殿下がわたくしに夕餉を振る舞えと命じられたことに納得が言っていないから。つまり、なにもバレていないということですわ!)
 導き出した答えは、それはもう大正解に思えた。
 苺苺は『それならよかったです』と、ドキドキしていた胸をこっそりなでおろす。
(けれど、水星宮で夕餉を取るのは無理そうですわね……。それならどうにかお人払いをして、猫魈様と食事をするしかありませんわ)
「にゃーん?」
「大丈夫です、お任せください」
 苺苺は鳥籠の中の猫魈と視線を合わせ、静かに囁いた。

 宵世に案内されたのは広大な御花園の、東八宮側にある四阿(あずまや)だった。
 その中でも最も格式ある〝銀花亭(ぎんかてい)〟に誘うかのごとく、廻廊の灯篭(とうろう)に煌々と炎が灯されているのを見た苺苺は、「ほわっ」と奇妙な悲鳴を上げてから声を失った。
「なんて荘厳美麗な景色なのでしょうか」
 揺らめく炎の灯篭に照らされた白い花々の輪郭が淡く輝いている。
 花々にあらかじめ水滴が吹き付けられているからだろうか、光の雫がつるりつるりと滑る様子は仙界にでも迷い込んだみたいだ。
「……これも、皇太子殿下がご用意を?」
「にゃあぁ」
 鳥籠の中の猫魈は、ぬい様を前脚で捕まえながら小さく鳴く。
 あやかしである猫魈でさえも、この幻想的な廻廊には驚いたらしい。
(木蘭様をお助けしたお礼として、短時間でここまで準備をされるとは……。これぞ、皇太子殿下が心から木蘭様を大切になさっている証拠。ああ、木蘭様こそ至高……。わたくしも同じ気持ちです……!)
 二階建ての銀花亭へ続く階段の前に着くと、宵世は偽善的な笑みを浮かべて礼を取る。
「それでは白蛇妃様。案内を終えましたので、僕はこちらで失礼いたします」
「はい。ありがとうございました」
 どうやらこの先はおひとりでどうぞ、ということらしい。
(東宮補佐官様がいらっしゃらないだけで幾分か気が楽になりましたが、これから配膳や見張り番の女官の方がいらっしゃるのかもしれません。ううう、どう言ってお人払いをしましょうか)
 考えながら階段を登って、銀花亭に足を踏み入れる。
 銀花亭の名前は、この四阿の眼下に咲く金銀花(スイカズラ)に由来する。
 金銀花は立夏の頃から咲き始め、薄紅色の蕾は開花すると白くなり、受粉すると黄色の花に移り変わる。
 まさに後宮に上がったばかりの妃嬪が皇帝に見初められ、国を背負う皇子の母となるさまのようで縁起が良いとして、西八宮(さいはちぐう)側には〝金花亭(きんかてい)〟、東八宮側には〝銀花亭〟と名付けられた四阿が建築された。
 夜になると、金銀花のさらに甘い蜜を含んだ香りが四阿内に漂う。
 それがことさらに甘美で情緒たっぷりだとかで、ここで夜の逢瀬をするのが妃嬪たちの夢らしい。
 だが苺苺にとって、甘美な情緒なんてどうでも良かった。
(う〜〜〜っ。どうか、配膳の女官の他には誰もここへ来ませんように! 皆様すぐに帰ってくださいますように!)
 他の妃嬪が恋い焦がれるような皇太子殿下との逢瀬など、これっぽっちも脳裏に過ぎりはしない苺苺は、黒い漆塗りの円卓を囲んでいる椅子を引いて腰掛ける。
 続いて、猫魈が女官の目に晒されぬよう配慮しながら、隣の椅子に鳥籠を置いた。
「にゃあ」
「はい。白木蓮のいい香りがします」
 穀雨の今、金銀花が咲くまでは玉蘭(ぎょくらん)が見頃を迎えている。
 銀花亭内には白い玉蘭の花の、やわらかく優美な香りが漂ってきていた。
(ここの玉蘭は、皇太子殿下が寵愛する木蘭様のために植えさせたのだというお噂。貴姫である木蘭様は、もしかしたら日常的にここでお茶を楽しまれているのかもしれません。このお席に座られたこともあるやも)
「……と、いうことはここは聖地……?」
 苺苺は木蘭がかわゆくお茶をしている姿を想像して、赤く染まった頬を両手で抑える。
「ど、ど、ど、どうしましょう! 聖地を訪れるのには入念な心の準備が必要ですのにっ」
「にゃーん?」
「ええ、にゃーんでございます!!」
 鳥籠の中の猫魈の問いかけに、苺苺は身を乗り出しながら興奮気味に返事をした。

 そうこうしているうちに、宮廷料理の膳を持った女官たちが、ぞろぞろと四阿(あずまや)にやってきた。
 円卓には、見たこともないほど豪華な夕餉が次々に並べられていく。
 前菜には豌豆(えんどうまめ)を使った色鮮やかな翡翠豆腐と、花山椒ときゅうりの酢醤油あえなどのいくつかの冷菜。
 伝統的な蓋つきの器に盛られている清湯燕菜(ツバメの巣スープ)はまだ湯気が立っていた。
 主菜は魚翅蓋飯(フカヒレご飯)糖醋里脊(豚ヒレ肉の甘酢餡かけ)薑蔥炒龍躉(魚のネギ生姜蒸し焼き)
 點心(デザート)は最高級の銀耳(白きくらげ)蓮子(蓮の実)紅棗(ナツメ)枸杞子(クコの実)が入った銀耳蓮子紅棗湯。美容に良いと上級妃たちが好んで食べる、氷砂糖の優しい甘さが特徴の極上薬膳(スープ)だ。身体を芯から温めてくれる。
「すごいです、點心(デザート)まで……!」
 苺苺は円卓を埋め尽くす至極の料理の数々に、ほっぺたを緩ませる。
 お茶菓子に目が無い苺苺は、甘い湯物も大好物だった。
(女官の方は八人。むむ、多いですね。どうにかしてお人払いをしなければ……。どんな言い訳が良いのでしょうか)
 そろりと猫魈と視線を合わせた苺苺は、考え事をしながら女官達をおずおずと見やる。
 料理を並べ終わった彼女たちは、白蛇妃への給仕のために欄干のそばに控えて、なにやらヒソヒソ声で話し込んでいた。
「皇太子殿下に久しぶりにお会いできるかと思ったのに、白蛇の相手だなんて」
「迷惑よねぇ。私達だって忙しいのに」
「ここに立っているだけでも十分でしょう?」
「敬うべき相手ではないのだから給仕する必要もないわね」
「あら、給仕するふりをしてお皿を割ってやりましょうよ」
「ふふふ、いいわね。熱い湯で火傷でもしたらいいわ」
「これまで何百年も苦しめられてきた妃嬪たちの(かたき)よ」
「時間はたっぷりあるものね。給仕のしがいがありそう」
 その一人と、バチリと目が合う。
「……白蛇妃様、なにか御用でしょうか?」
「いえっ、ええっと」
(どうしましょう、どうしましょう、まだ言い訳を考えている途中でしたのに発言の順番が回ってきちゃいましたっ! 考えごとに没頭しすぎて会話の内容が全然聞き取れませんでしたが、皆様すごくイライラしたご様子で、こちらを睨まれていらっしゃいます……! なにか、この状況を切り抜けられる効果抜群な言葉はないでしょうか!? そう、先ほどの宦官の皆様方のように――ハッ)
 苺苺は閃いた。
 あの言葉しかない。なにがなんだかわからないが、あの言葉の出番だ。
「皆様聞いてください」
「なんでしょうか」
「い、今からあやかしさんに……『白蛇(しろへび)の刑』を執行します!」
 苺苺が告げた瞬間、女官たちの耳にはピシャァァァァン!と雷鳴が轟いたかのように聞こえた。
「し、しろっ、白蛇(しろへび)の刑!?」
「そんな、し、しし白蛇の刑ですって……!?」
「なんて恐ろしいことを考えるの!」
 女官たちは身を寄せ合い、やはりそれぞれの想像を巡らせて震え上がった。
「こちらのお人払いをしていただかなければ……」
 ドキドキと緊張感で胸がいっぱいの苺苺は、できるだけ場の雰囲気を盛り上げるような――恐怖を煽るような表情を作る。
「な、なに?」
「なんなの!?」
「――間違って、巻き込んでしまうやもしれませんんんんん!」
「ひ、ひいぃぃぃぃぃぃいっ!!」
「ごごご御前を失礼いたします〜〜〜っ!!!!」
「わっ私どもはこれにてぇぇぇぇぇぇええ!!!!」
「朝方片付けに参りますので、心ゆくまでお使いくださいぃぃぃぃぃぃ」
 女官たちは一斉に顔を真っ青にして飛び上がった。そして転げ落ちるように銀花亭の階段を駆け下りていき、足をもつれさせながら逃げていく。
 ここへ来た時の優雅さはかなぐり捨て、我先にと、とにかく苺苺から離れることに必死だった。
 苺苺はあまりの様子にポカンと唇を開いたまま固まる。
「皆様の考える『白蛇の刑』とは、一体なんなのでしょうか……?」
「にゃー?」
「わわっ、もうあんなところに。皆様とってもお元気ですね」
 苺苺は『白蛇の刑』という謎の言葉の威力を再び思い知るとともに、一難乗り越えたことにほっと胸をなでおろす。
(心臓がいまだにドキドキしています)
 けれど「ひぎゃぁぁっ」という悲鳴が遠くの方に消えていくにつれて、だんだんとその鼓動も治まっていくのがわかった。
「……ふう、一件落着です。さてさて、それでは気を取り直しまして」
 苺苺は額を手の甲でぬぐう。
 それからパッと明るい表情に切り替えると、両手を合わせてパチンと一拍して空気を整えてから、隣の椅子に置いていた鳥籠の扉を開いた。
 封印が解かれたあやかし捕り物用の鳥籠から、猫魈がぴょんっと飛び出す。
 ちょっと見たところでは三毛猫にしか見えないが、その尾は猫のあやかしらしく付け根から三つに分かれている。
 ふわふわの三本の尻尾がふりふりと上機嫌そうに振れるのを見て、苺苺はほっこり頬を綻ばせる。
「わたくしの考える『白蛇の刑』、その一は美味しいお食事です」
「にゃぁん?」
「ええ。まずは食事をたくさんとって、住処に元気にお戻りくださいね。ではでは、木蘭様と木蘭様推しの皇太子殿下に感謝を捧げていただきましょう!」
「にゃー!」
 円卓に並んだ豪華な料理を取り分け、「いただきます」と食前の挨拶をする。
「うぅぅ、美味しいです……! もちもち濃厚な翡翠豆腐が、身体に染み渡ります……!」
「なぁぁぁん」
「猫魈様、清湯燕菜(ツバメの巣スープ)はいかがですか? 久しぶりのお食事ですから、最初は胃に優しいものからとお皿に盛らせていただいたのですが」
「にゃう、にゃう」
「そうですか、良かったです。遠慮なさらずどんどん食べてくださいっ」
「にゃんっ」
 一人と一匹は大いに盛り上がりながら、美味しい宮廷料理に舌鼓を打った。
 しかし、それから四半刻も経たないうちに、一足先にお腹がいっぱいになった苺苺は、「ごちそうさまでした」と食後の挨拶で締めてから、もぐもぐと小さな牙のある口を動かす猫魈を眺める。
「ふふっ、もりもり食べててかわゆいです。……そうですわ、せっかく聖地に来たのですから、この貴重な光景と木蘭様への想いを刺繍で記録しなくては!」
 先に食事を終えた苺苺は自分の周囲を整え、袂からサッと簡易裁縫箱と円扇を取り出す。
「にゃむ?」
「ええ。これぞ、木蘭様の聖地に巡礼した者だけが得られる、極上の時間です」
「にゃーん」
「にゃーんですっ」
 銀糸を通した刺繍針を手に持った苺苺は、銀花亭でかわゆく微笑む木蘭様を思い描きながら、絹地に刺した木蓮の花に光を纏わせていく。
 銀花亭には、猫魈がむしゃむしゃと夕餉を頬張る音と、苺苺の刺繍糸が絹地を滑る音だけが響いている。
 ――かのように思えていたが。
「くくっ……。君はなにをしているんだ。もしかして、夕餉が口に合わなかったのか?」
 いつの間にやら、仮面で顔を隠した青年が銀花亭の柱にもたれるようにして立っていた。
 見えている部分は少ないが、すっと通った鼻梁や口元の骨格から彼の美貌は十分にうかがい知れる。
 武官のような出で立ちのその美青年は、『面白いものに出会った』とでも言いたげな笑みを艶やかな唇に浮かべると、
「にゃーん、とは?」
と心地よい玲瓏な声を響かせた。
「ひゃっ!」
「にゃっ!」
 刺繍と食事に集中していた一人と一匹は、その場で肩を震わせぴゃっと飛び上がる。
 猫魈は自分の置かれている立場を理解しているのか、脱兎のごとく円卓の上から逃げ、武官に見つからないように小さくなって隠れた。
(おおお音もなくこんな近くに……! ま、まさか恐ろしい女官の方のお仲間でしょうか!?)
「な、なにやつですっ」
 苺苺は刺繍針の先をビシッと青年に向ける。
 鼻から上が隠れているお面のせいで顔の表情はわからないが、美青年は針の先に――異能持ちと噂の『白蛇の娘』が向ける武器に怖がる様子も驚いた様子もなく、苺苺のそばに足を進める。
(……足音がしません)
 重心移動が上手い武官は総じて手練れなのだという父の言葉が、苺苺の頭をよぎった。
「なにやつとは失礼な。俺は(リン)()……ごほん。ただの武官です。皇太子殿下の命を受けてここへ来ました」
「こ、皇太子殿下の武官様でしたか」
 となると、禁軍の独立部隊とも称される青衛(せいえい)禁軍に属する――東宮侍衛を行う、由緒正しき血筋の精鋭武官だ。
 緊張気味に刺繍針を下ろした苺苺は、目の前に立つその武官の青みが強い黒髪に気がつき、はっと我に返って最上級の礼を完璧にとる。
「高貴なる春宵(しゅんしょう)明星(みょうじょう)にご挨拶いたします。皇太子殿下より白蛇(はくじゃ)の冠を賜りました白家当主が娘、苺苺でございます」
 明け方の黎明(れいめい)、あるいは黄昏(たそがれ)の夜空のような青みがかった黒髪は、悪鬼を封じる力を持つ燐家特有のものだ。
 普通は皇太子となる公子様に宿るそうだが、稀に先に生まれた公主様にも受け継がれる場合があり、臣籍降嫁の関係で貴族の家にもごくごく稀に青みを帯びた黒髪の持ち主が生まれるという。
 闇夜の中では判別しにくいが、灯籠の光に透けて色鮮やかな濃紺が目に入り、苺苺は一瞬言葉に詰まった。
(彼はきっと、皇帝陛下に近しいお方)
 以前、木蘭様と共に実家を訪れた朱家の佩玉(はいぎょく)を持つ般若護衛より、彼の方が燐家に近しい血筋を引いているに違いない。
 その証拠に、目の前の彼は堂々と苺苺の礼を受け取ると慣れた所作でそれを制し、「どうぞ楽に」とこちらへ告げた。
 どうやら推測と違わず彼は九華の出身であり、それも白家の長姫の苺苺よりずっと身分の位が高い血筋にあるらしいことが、その一連の動作で理解できた。
(お名前をお教えしてはくれそうにありませんね。相当高貴なお血筋の方なのやも)
 警戒心を強めるに越したことはない。
 こちらへ歩み寄ってきた武官を、苺苺は礼を解きつつそっと上目遣いで観察する。
 あの時、すぐに猫魈が彼から見えない位置に隠れてくれて良かった。宦官や女官に通じた『白蛇の刑』の言葉も、この武官には効きそうにない。
(よくよく見ると被られているのは悪鬼面のようです。仮名として悪鬼武官様とお呼びいたしましょう。それにしても、皇太子殿下の直属の方は皆様悪鬼面を被られているのでしょうか? 後学のためにもお伺いしてみませんと)
 なんて考えながら、じーっと観察し過ぎていたのがバレたのだろう。
 悪鬼武官は首を捻ると、これまた慣れた様子で「発言を許す」と鷹揚に口にした。
 苺苺は白家の姫として、正しくお辞儀で(いら)える。
「ありがとうございます。ご質問なのですが、武官様のそちらの悪鬼面は、」
 問いかけようとしたところ、『白蛇の娘』の針にも怯まず堂々と立ち振る舞っていた悪鬼武官が、ピシリと音を立てたように固まった。
 けれどそれを背筋を伸ばしただけと捉えた苺苺は、そのまま言葉を続ける。
「皇太子殿下の直属武官の証でしょうか? 皆様被っておられるのですか?」
「いや。これは、その……」
 歯切れの悪い返事をした悪鬼武官は、表情は見えなくとも『しまった』という雰囲気をしていた。
 どうやらこの貴人の繊細な部分を突いてしまったらしい。
 そう気がついた苺苺は「はっ」慌てて口元を覆う。
(やってしまいました。どうしましょう、なにやら困惑されているご様子。なんだか逆に怪しくも感じてしまいますが、なぜそんなに困惑されて――)
 思考を巡らせていると、ハッと脳裏に、【女官もすなる推し活といふものを、文官もしてみむとてするなり】の冒頭から始まる有名な日記文学小説、『尊さ日記』を思い出す。
 入宮前に後宮の推し活を知りたくて読んだその内容は、後宮で流行中の文化に憧れた文官がこっそり皇帝陛下の推し活をする、時々くすりと笑えてほろりと泣ける楽しいものだった。
 女官は妃嬪応援活動を嗜み、その威を借りてある意味堂々と代理戦争を行っているが、官吏にその風潮はなく、今は隠さねばいけないらしい。
 そのため『尊さ日記』の作者は古語を使い、女人の言葉遣いでもって皇帝陛下の推し活をする日常をしたためていた。
(――はっ。ということはつまり、この方は世間の風潮を鑑みた上で、皇太子殿下を推されているお気持ちを悪鬼面でもってこっそり表現なさっているのですね!? 市井では演劇一座の役者さんの衣装を真似て仮装をしたり、女装や男装をしたりして推し活をなさる方もいらっしゃるとか。悪鬼武官様のお立場でしたら、有事の際には身代わりにもなれます。なんと粋な推し活でしょうっ)
「素晴らしいです!」
「は?」
「わたくし絵姿でしか皇太子殿下をお見かけしたことはございませんが、重厚な素材感、色彩など、どれをとっても圧倒されます! そして年代を経てついた細かな傷への心遣い、ひとつひとつへの深い解釈の滲む再現……尊敬いたします!!」
「は、はあ……。ありがとう、ございます?」
「わたくしも推し活をする者として、より一層励まなくてはいけませんね」
(木蘭様……今頃何をなさっているでしょうか。健やかにお過ごしであればよいのですが)
 苺苺は頬に手を当て、ほうっと感嘆のため息を吐く。
「なにを言っているのか少しもわからないが、とりあえず良かった」
 悪鬼武官は苺苺が自己解釈で勝手に疑問の答えを導いてくれたことに、こっそりと安堵した。
 彼は苺苺が頬に当てていた手へに吸い寄せられるように己の手を伸ばすと、そっと優しくすくい取る。
 心ここにあらずの状態だった苺苺は「ひゃっ」と驚きの声を出し、蛇に睨まれたかのごとくかちこちに固まった。
 白蛇はそちらだろうに。
 そう心の中で思いつつ、悪鬼武官は艶やかな口元をふっと緩める。
 だが、その唇はすぐに閉じられた。
 手巾(ハンカチ)で簡易に包帯が施されたていた苺苺の左手のひらは、赤黒い血が付着していた。
 今もなお出血が止まっていないのか、赤い鮮血も滲んでいる。
「……やはり怪我を」
「これはその、しょ、諸事情で、自分で切ったのです」
(あやかしさんに対抗するために異能の血が必要だったので、とは言えませんっ)
「痛くはないのですか」
「へ? そうですね、そう問われると少し痛いのですが」
「……そうですか」
 悪鬼武官の声が心なしか沈んでいる。
(なぜこの方がこのように意気消沈されているのでしょう?)
 苺苺ははて?と首を傾げて、「ですが」と続ける。
「大切な方をお守りできた、名誉の傷ですので」
 道術を操る恐ろしい女官の毒牙から木蘭を助けることができたのは、この傷を負ったからだ。
 戸惑いもなく全力で(はさみ)の刃を立てたので、ズキズキした痛みは時間が経つに連れ増している気もするが、それよりも木蘭を助けられた幸福感で胸がいっぱいというのが今の気持ちだった。
 苺苺は尊すぎる木蘭のかわゆいお顔を思い浮かべて、大輪の花がほころぶような微笑みを浮かべる。
「――――っ」
 悪鬼武官はその笑みを真正面から受けて、小さく息を呑んだ。
 彼は『なにか見てはいけないものを見てしまった』と言わんばかりに唇を真一文字に引き結ぶと、懐から咄嗟に取り出したものを開いて、ふわりと、苺苺の表情を隠すように頭上から被せた。
「わわっ!」
「っ、外さないでくれ」
「ええっ?」
「それからこれは、謝罪の品として受け取っておいてください。背中の打撲傷にも良く効きます」
 視界不良になった中、苺苺の手のひらに冷たい感触の硬質ななにかが握らせられる。
「えええっ!?」
「なんと言えばいいのか。その、……礼を言う。――ありがとう」
「あっ、お、お待ちください――!」
 苺苺はわたわたと慌てながら頭上から被せられた広い布を引っ張り、悪鬼武官に問いかけようと顔をあげる。
「背中の打身をなぜご存知で……って、いらっしゃいません」
 拓けた視界には、もう誰もいなかった。
 きょろきょろと辺りを見回すも、人影すら見当たらない。
 静けさを取り戻した銀花亭には、木蓮の香りが先ほどより濃く香っていた。
「にゃーん?」
「猫魈様、隠れていてくださってありがとうございます。ご無事でなによりです」
「にゃおん」
「はい。どうやら披帛と……薬壺のようです」
 頭から被せられていたのは、紗織りで作られた上質な薄絹の披帛(ストール)だった。
 白木蓮に反射する月光と灯篭の光を帯びて、まるで天女の羽衣のごとくきらめいている。
 人々が忌避し喪服としてしか纏わぬ純白は、白家にとって尊ぶべき色だ。
 この状況からして、死装束として与えられたのではなく、白家出身の苺苺を(おもんぱか)ってこの色を贈ってくれたのだろう。
(もしかして夜の肌寒さを心配してくれたのでしょうか? お礼も、皇太子殿下に代わって伝えてくださったのでしょうし、お気遣いがとっても細やかなお方です)
 苺苺は手のひらに握らされていた小さな薬壺に視線を落とす。
 紫水晶を思わせる硝子(ガラス)製の遮光壷(しゃこうつぼ)には白木蓮が描かれていて、精緻を極めた細工が凝らされていた。
 硝子製というだけでも相当な価値がある高級品だと分かるが、見るからに腕利きの匠によって製作、絵付けを施された特注の工芸品だ。
(これでどれ程の刺繍糸が購入できるでしょうか……。考えただけでも目眩がします)
 蓋を開けてみると、中身は数種類の生薬を混ぜ込んだ匂いのする軟膏(なんこう)が入っていた。
 まだ新しい。精製された色味からして宮廷医による調薬だろう。
(わあ、軟膏の傷薬をいただけるなんて。とってもありがたいです)
 なにせ白蛇妃が直接宮廷医に会いに行っても、正しく診察して薬を処方してくれるのかは疑問である。
『お持ちだという異能で治されては?』
と放置されてもおかしくないし、最悪の場合、薬と偽って毒を盛られる可能性も否定できない。
 ――【後宮には人の顔をした魑魅魍魎が跋扈している】
 とは、数代前の『白蛇の娘』の書き残した言葉だ。
〝悪意〟は異能を使って封じられるが、正真正銘の〝毒〟となると避けるのは難しいのである。
(悪鬼武官様は皇太子殿下直属ですし、事件のあらましを聞いて『もしも怪我があれば』とご用意してくださったのかもしれませんね。それにしてもこの意匠は)
 苺苺は悪鬼武官から受け取った薬壷を観察する。
「――間違いありません」
 キラリと苺苺の紅珊瑚の双眸が光る。
「この紫水晶のようなお色は、絶対に木蘭(ムーラン)様の瞳を想像して製作されたもの。そしてこの美しい木蓮の意匠。薬壷にも木蓮をあしらうだなんて、悪鬼武官様も実は木蘭様推しだったのですね……!」
(それでお礼のお言葉やお品と、安全な傷薬をわざわざわたくしに……!)
「にゃ?」
「木蘭様推しの方とはつゆ知らず、楽しいお喋りの機会を逃してしまいましたっ! せっかくの機会でしたのにっ」
 もったいなかったです、と苺苺は手にしていた純白の披帛を見つめる。
「お礼もお伝えできずに終わってしまいましたし……。次こそはお茶にお誘いして、ぜひともお友達になれたらよいのですが」
「にゃおん」
「ええ。恐ろしい女官の方の脅威から木蘭様をお守りするためにも、木蘭様をお慕いする者同士の情報交換が必要だと思うのです。次こそ、頑張りましょう!」
「にゃーん!」
「にゃーんなのです!」
 木蘭様推しの友人候補を見つけて、今日一日の疲労をすっかり忘れてしまった苺苺は、木蘭を思わせる素敵な薬壷をぎゅうぎゅうと胸に抱きしめ、
「白苺苺、湧き上がる嬉しさを『喜びの舞』で表現いたしますっ」
と誰もいない舞台上で宣言するやいなや、くるくると踊りながら猫魈と大いに戯れたのだった。


 ◇◇◇


 そんな白蛇妃の様子を、銀花亭がよく見える位置にある楼閣から見守る者たちがふたり。
「どうやら上手くいったみたいですね、紫淵(シエン)様。すごく喜んでおられるようです。紫淵様が銀花亭に仮初めの妃を招くと聞いた時には心底驚きましたが、急いで準備させた甲斐がありましたね」
「ああ、そうだな……」
「『白蛇の娘』も、やはり年頃の女人ということでしょうか。贈り物であんな風に喜ぶとは、想像もしていませんでした。彼女が少しでも贈り物を雑に扱えば、僕が回収してこようと思っていたのに残念です」
「ああ、そうだな……」
「おや。僕が回収しても良かったのですか?」
「………………………」
 仙界と見まごうほど幻想的な銀花亭で、楽しげに舞い踊っている白蛇妃の、真珠色の真っ白な長髪が灯籠の明かりを受けてきらめいている。
 月花の光をまとう披帛がひらひらと空を駆け、白く輝く世界を彩りはためく。
 やわらかな襦裙(スカート)の裾は、彼女がくるくると舞うたびに大輪の花のごとく開いた。
 まるで清廉な月宮殿の仙女が人間に隠れて戯れているかのようだ。
 三尾の猫のあやかしがぴょんと円卓から跳び上がり、上機嫌で彼女の肩に乗って、風に舞う羽衣を追いかけながら彼女の腕を移動する。
 それがより一層、非現実的な風景を作り上げていて、紫淵はただただ見事だと思った。
(あの猫のあやかしが持つ本来の気性を知れたのは、白家の姫君の判断力の賜物だろう)
 そのお陰で、紫淵もこれが単なるあやかし侵入事件の末の事故ではなく、木蘭を暗殺しようとしている何者かが背後で糸を引いている可能性に気がつけた。
 ……それにしても。
(あんなに純粋無垢な笑みを、かつて向けられたことがあっただろうか)
 紫淵(シエン)の瞼には、こちらを見上げる彼女の笑みが焼き付いていた。
 やわらかく細められた、白妙のけぶるような長い睫毛に包まれた大きな紅珊瑚の瞳が、心底愛おしげに己を映す……その笑みが。
 胸の奥底に甘い痺れが走り、ぎゅっと切なく締めつけられる。
 紫淵が思考の海に浸りつつ眼下を眺めていると、ふと、朧げな記憶が蘇る。
 そうして、酷い呪詛に蝕まれていた幼い自分の命を救ってくれた、七歳の少女と重なった。
(……そうか。かつても、彼女は)
 丑三つ刻、悪夢のような嵐の中――悪鬼の呪詛に蝕まれて鬼と化し、死を待つしかなかった九歳の紫淵のもとに、次期白家当主の兄・白静嘉とともにやって来た『白蛇の娘』。
 あの頃、紫淵の皮膚には激痛をともなう悪鬼の呪詛が()いずり回り、頭部には鬼の角が生え揃い、確かに醜い姿に変わり果てていた。
 だが彼女は、そんな姿の自分に怯まなかった。
 彼女は幼い少女とは思えぬ所作でてきぱきと動き、清らかな水を汲んできては手ぬぐいを絞ると、紫淵の額に浮かぶ玉の汗を一生懸命に拭ってくれた。
(そうして彼女の命を削ってまでも、俺の命を……)
『未来の紫淵殿下は凛々しくて、お強くて、とってもかわゆい方なのです。……だから、ご安心ください。死んだりなんか絶対にしませんから』
 彼女は何度も、まるで未来でも見てきたかのように力強く口にする。
 あの激励が、幼い自分にどれほど響いただろう。
(彼女の手を握って礼を告げたいがために、〝どんな手を使ってでもこの後宮で生きながらえてやる〟と誓ったのに……。なぜ、今まで忘れていたんだ)
 こんな強烈な記憶をすべて忘れていたなんて不自然だ。
(呪詛を無理やり封じた影響だろうか。この怪異に侵され始めたのが十歳を越えたあたりだったのを考えると、辻褄は合う。……それにしても。なんだか大切な感情を忘れている気がして、胸の奥がもやもやする)
 彼女も、あの様子ではすべて忘れているのだろう。
 同じように忘れているのならまだいい。
 ただ、異能を持つと噂の『白蛇の娘』を頼った依頼人のひとりとして、有象無象と一緒くたに記憶の奥底に沈んでいるのなら寂しいと思った。
「…………どちらにしろ、もっと手際良く渡す予定だったのに」
 と紫淵は思わず顔を覆って、深く長い溜息をつく。
 彼女の笑みをみた瞬間、胸が鷲掴みされたみたいに苦しくなり、つい咄嗟に披帛(ひはく)で彼女の顔を隠してしまった。あんな粗野な渡し方は自分らしくない。
(ただでさえ大きな問題を抱えているんだ。できれば妃嬪とは一切関わり会いたくない。だからわざわざ名乗り出るつもりもなかったし、実際そうした)
 そうした、のだが。
 なぜだか、あの『白蛇の娘』のことになると胸になにかがつっかえたような妙な気持ちになる。
「はあ……。紫淵様、どうなさいましたか? ぼーっとしておいでのようですが」
「わからない。ただ目が離せないというか、もっと見ていたいというか、見ていて飽きないなとは思っている」
「なんですかそれは」
 皇太子の住まう〝天藍宮(てんらんきゅう)〟――いわゆる東宮御所直属の筆頭宦官、宵世(ショウセ)は胡乱げな様子で自らの主人を見上げる。
 紫淵の幼馴染にあたる彼は、厳しく辛辣な部分もあるが頼り甲斐のある補佐官だ。
 紫淵が病気で宮に篭っている(・・・・・・・・・・)間も、執務室で上手く立ち回ってくれている。
 だがその補佐官でさえ、後宮の歴史に倣って白苺苺が紫淵の脅威になると考えているらしい。
(果たして脅威になるだろうか? 観客もいない無人の四阿で心のままに舞い踊る、あの白蛇妃が)
 紫淵は『白蛇の娘』と初めて相見えた時の――いや、本来ならば二度目であった邂逅を思い出す。
(正義感の強い、実直な娘だと思う。多少、自己犠牲的なところはあるが)
 その印象は自身が九歳であった頃と寸分違わない。
(対価も要求せず、褒美もねだらず、心遣いを真摯に受け止めて喜ぶ。そのような女性が本当にこの世に存在しているとは、今でも信じがたい。後宮で生まれ育った俺にとって、女性とは……常に自分だけが愛されるためだけに競い合い、嘘をつき、妬み、自身の手を汚さずに殺しあう生き物だ)
 血の繋がった皇后からでさえ、本当の意味での愛など与えられた記憶がない。
 妃嬪とは、皇帝から向けられる寵愛を争う生き物なのだ。
 だからこそ、最下級妃の白苺苺が皇太子殿下の寵姫と噂の木蘭を、凶暴化していたあやかしから助けるという捨て身の行動には、驚嘆するしかなかった。
(あの時、君は死んでいてもおかしくはなかった。他ならぬ――俺自身が、そう感じたのだから)
 幼い身体は不測の事態にとっさに反応できず、その一瞬の遅れのせいで、懐剣を抜くことすらできなかった。
 だから懐剣を抜く一瞬を作るために、短い足に全力を集中させて、駆け出すほかなかったのだ。
 まあ、それでも鍛錬の成果を無に返す幼くて短い手足のせいで、思いっきり転んでしまったのだが。
(対峙すれば、喰われる。あの大型の猫のあやかしと目が合った瞬間、本能でわかった)
 そんな状況下で、純粋な正義感から多少無謀な行動を取る様子は、他者を貶めていた歴代の『白蛇の娘』とは一線を画している。
 宵世は『狂言じゃないか』と進言したが、そうは思えない。
 大体あの状況ではどうあがいても彼女に利益などないし、もし狂言をするような妃嬪ならば大切な身体を杖で打たせるような真似も、あやかし用の地下牢に投獄される真似もしないだろう。
(そもそも、あんな表情で木蘭を心配できる人間が犯人なわけがない。脅威は他にある)
 確固たる確信があるからこそ、紫淵は自らの手で宦官たちを粛清したのだ。
(紅玉宮の外からもたらされる脅威のみを警戒していたが、抜かったな。だが、それにしても……。彼女が『白蛇の娘』というだけであれほどまでに虐げられていたなんて)
 妃嬪を避けての生活を徹底していた己のことだ。此度の事件がなければ、皇太子宮を出るまで知る由もなかっただろう。
 体調の問題もあり、皇太子としての政務以外に手が回っていないのは己の落ち度。
 しかし、これほどまでに聞き及んでいる報告とは異なる皇太子宮の様子に、なにか改善策を打ち立てねばと思う。
(父上ならば『後宮の管理は皇后に任せている。皇太子宮もそれに倣え。妃嬪の争いに(ちん)やお主が出る幕はない』とおっしゃられるだろうが、そうともいかない。なにせ皇太子宮の最上級妃は)
 木蘭(おれ)だ。
「宵世、今夜中に白蛇妃の置かれている状況を調べてくれ」
「……どういう風の吹きまわしです?」
「妙な顔で見るな。べつに他意はない」
「だと良いのですが。ここに集められているのは〝仮初めの妃嬪〟だと、本日は何度ご説明したらよろしいので? 紫淵様が妃嬪に目を掛ける必要はありません」
 銀花亭から完全に身体を背けた宵世は、眉を吊り上げて紫淵を咎める。
 宵世が〝仮初めの妃嬪〟だと呼ぶ理由は、もしも燐家最大の秘密を知ってしまう妃嬪が出たら、皇帝陛下の命により粛清対象となるからだ。
 病死か、毒による暗殺か……後ろ暗い親兄弟の罪を詮索され、なんらかの汚名を着せられることになるかもしれない。
(無駄な死をもたらさないためにも、できれば皇太子として誰とも深く関わることなく、怪異が解けるまでの時間を稼げたらいい。それこそが、ひいては皇太子宮に住む多くの人間のためになる)
「木蘭様のお命を第一に考えると、妃嬪は総入れ替えなんて事態もありえます。皇帝陛下の命令に従い、口封じをせねばいけない場合もあるでしょう。すべての処断を紫淵様がなさるんです。――白蛇妃様も含めて」
「……わかっている」
 わかっているからこそ、他の妃嬪には一瞥すらくれたことはない。境遇に興味を抱いたこともない。
 ましてや、贈り物など――。
「誰かを見初めようだなんて思っていないから安心してくれ」
 そう口にしつつ、紫淵は少し残念だと思うような、胸の内側を引っかかれるような……もやもやとした感情が燻っているのに無理やり蓋をして……――深追いするのを止めた。
「とりあえず事は全て済みました。不眠症と胸の痛みに関しては宮廷医のところにでも行って、それから朝まで政務ですよ。紫淵様の時間は貴重(・・・・・・・・・)なんですから、白蛇妃なんかに構っている暇はありません。行きましょう」
「……わかった」
 紫淵は遠い銀花亭で贈り物を抱きしめる苺苺をひっそりと目に焼き付けてから、をひらりと踵を返す。
 灯の消された提燈を持った宵世は、周囲に人の気配がないことを探ると、主人の背中を守るよう暗い闇に溶けた。


 ◇◇◇


 その後――。一人と一匹が喜びの舞で大いに戯れ、再びお腹が空いた猫魈が残りの料理をたらふく食べて、円卓に乗る皿が全て空っぽになった頃。
 猫魈のお気に入りになっていたぬい様が、鳥籠の中でザクッ! と刃物に切りつけられたかのような音を立てて裂けた。
「ふみゃっ!?」
「あわわわ、猫魈様、大丈夫ですか!?」
 大きな音に驚いた猫魈が円卓から滑り落ちる。
 苺苺は毛を逆立てた猫魈を抱き上げると、安心させるように背中をよしよしと撫でた。
「すみません、猫魈様。まさかこんなに早く壊れてしまうとは思わず、怖がらせてしまいましたね」
 普段ならぬいぐるみに呪靄(じゅあい)が封じられて裂けるまで、毛髪を一本入れた完璧な状態でも十二刻(二十四時間)はあるはずである。
(それが不完全な状態にありながら、たった半日ほどで裂けてしまうなんて)
 木蘭を象ったぬいぐるみに封じられるのは、木蘭へ向けられた悪意だけ。
 けれど呪靄程度ではこんなに早く裂けたりしない。
(ということは、猫魈様を操って木蘭様を襲わせようとしていた方の、計画失敗時点から抱いていた強い悪意が呪妖に変化し続けていて……先ほどまでひっきりなしに封じられていたということに。この形代は完璧とは言えませんので、封じられていない祓いもれもあるはずですわ)
 抱いていた猫魈をそっと円卓に乗せてから、苺苺は鳥籠の中で裂けたぬい様に手を伸ばす。
「危ないですから、こちらは回収させていただきますね」
「ふみゅうぅ」
 猫魈の耳と尻尾がへたりと垂れ下がる。
 自分がせっかくもらったお気に入りのぬいぐるみが、苺苺の手に戻るのが悲しいのだろう。
 あまりにも悲しそうな表情をする三毛猫に、苺苺はぬい様を袂に仕舞いながら「申し訳ありませんっ」と罪悪感でいっぱいになった。
(つい繕い直して与えたくなってしまいますが、ここはグッと我慢です)
「――そうですわ。代わりにこちらを」
 苺苺は肩にかけていた純白の披帛(ストール)をするすると取って、その薄絹の中央の一部に、銀糸を通した刺繍針を刺した。
 スイスイと異能を使って針を刺し進め、魔除けの花葉紋(かようもん)を描いていく。
 それから刺繍を施した部分一帯を丸くして綿を入れながら縫い止め、最後にふわりと舞っていた猫魈の毛を入れて、鈴を模した布偶(ぬいぐるみ)を作り上げた。
 これは猫魈を象徴した形代だ。
(猫さんと言えば、やっぱり鈴ですよね。猫魈様は三毛猫さんにそっくりですし)
 銀糸で施した花葉紋の刺繍のおかげで、光沢のあるおしゃれな鈴がついた披帛に見える。
 これから先、猫魈に向けられる悪意はこの形代に自動的に封じられるだろう。
 山奥に住んでいるというから、人間から悪意を向けられるほどの接触はないかもしれないが、もしまた悪意を持つ道士に捕まりそうになったら、形代が身代わりとなって道術を封じられるかもしれない。魔除けの刺繍もきっと役に立ってくれるだろう。
(……それがどれほど持つかは、わかりませんが)
 悪意が封じられる限界を超えると、先ほどぬい様のように切り裂かれて壊れてしまうわけだが、集まった悪意が精製されて純度の高い呪いへと姿を変えると、瘴気(しょうき)を放つ燐火(りんか)が生じる。
 形代が壊れて燐火に呑まれるまでには少しだけ時間の猶予がある。
 いつもはその間に形代を安全に処理するのだが、猫魈にそれができない。
(けれど燐火が生じたとしても、猫魈様はあやかしさんです。強い瘴気を放つ燐火も安全に取り込んで、逆に自身の霊力の蓄えとできるはずですわ)
 霊力が増えればあやかしとしての位もあがる。
 並の道士に使役されることもなくなるし、一石二鳥だ。
「猫魈様、こちらが『白蛇の刑』その二でございます」
「にゃっ?」
「ふふっ、贈り物です」
 苺苺は音の鳴らない鈴付きの披帛を猫魈の首に巻き、後ろで可愛らしく蝶結びにした。
「本日、悪鬼武官様からいただいたお品は、木蘭様をお助けした感謝の印にくださったもの。ということは、わたくしと猫魈様、ふたりのものです」
 苺苺はそっと猫魈のつぶらな瞳と視線を合わせる。
「わたくしは傷薬をいただきましたから、こちらは猫魈様に。わたくしたちの友情の証です」
「ふにゃ……っ」
 ぱぁあっと猫魈の表情が明るくなる。
 そして妖術を使って、長かったふわふわの蝶結びを現在の体躯にぴったりの短さにしてみせた。
「わあ、お似合いですっ。かわゆいですよ」
「にゃおんっ」
 猫魈はありがとうと感謝のひと鳴きをする。
「悪意を封じる刺繍を施していますから、猫魈様を必ずやお守りするでしょう」
 苺苺はふわふわの蝶結びを整え直し、夜空の月を見上げる。
(猫魈様と出会ってからの一日は、長かったようで短い、不思議な一日でした)
 ――そろそろお別れの時間だ。
 猫魈(ねこしょう)にあやかし捕物用の鳥籠にもう一度だけ入ってもらい、二階建ての四阿(あずまや)の階段を降りると、闇夜に紛れてコソコソと御花園の奥を目指す。
 御花園の奥地には後宮の城壁と、宮廷の城壁の屋根が重なり合う部分がある。
(そこさえ越えれば、城の外です)
 りーん、りーんと春虫の音だけが辺りに響いている。
 虫が苦手な苺苺であるが、今夜ばかりは城壁警備の宦官に見つかりやしないかと、そっちの方にドキドキしていた。
(でも……城壁警備の宦官の方、あまりお見かけしませんね)
 夜に出歩いたことはないが、ここは後宮。想像ではもっと多いと思っていた。
 それとも今夜はなにか問題が発生して、どこか別の場所に集まっているのだろうか。木蘭の件があった後だ。その可能性も十分にあった。
 しばらく進むと、目的地であった城壁の前にはまったくひと気がなかった。
 しかも、ちょうどよく植え込みには置き忘れられたらしい長梯子があるではないか。
 雑然とした放置の仕方からして、御花園の庭師ではなく城壁警備の宦官が急用かなにかで慌てて隠し置いた雰囲気だ。
(ふむ、急な腹痛のお手洗いでしょうか? それは大変です。すぐにお返ししますのでお借りいたしますね)
 と心の中で声をかけ、苺苺は物音を立てないように慎重に長梯子を城壁へ掛けた。
「私の手が城壁の上を越えたら、結界に傷つくこともありませんからね」
 よいしょ、よいしょ……と城壁に登った苺苺は、鳥籠から猫魈を出す。
 そして自らの手で、その外へと送り出した。
「にゃぁん?」
「そうです、これが『白蛇の刑』のその三、帰郷のお手伝いです。……危ないですから、もうお城に入ってはいけませんよ」
 三毛猫の猫魈は名残惜しそうに苺苺を見つめると、城壁の向こう側へひらりと跳躍する。
 純白の友情の証が風に靡いた。
「にゃーお、にゃおん」
「はいっ。猫魈様も、どうかお元気で。道中お気をつけて!」
 三つの尾が揺れるふもふの背中に、苺苺は小さく手を振る。
 こうして苺苺は、後宮で初めてできた友人と、笑顔でお別れしたのだった。

 ひとりきりになると、なんだか疲労がどっと押し寄せてくるものである。
(思い返してみると、忙しい一日だったかもしれません)
 物寂しい気持ちになりながらコソコソと御花園を出て、心身ともにクタクタになった苺苺が水星宮に帰ると――室内は、酷い有様だった。
「し、白蛇ちゃんだけでなく、白蛇ちゃん抱き枕までもが……!」
 円卓に置いていた一尺(約三十センチ)のぬいぐるみだけでなく、寝台に横たわっていた三尺(約九十センチ)のぬいぐるみまでもが、無惨に引きちぎられズタボロになっていた。
「ひ、ひぇえ……っ。白蛇ちゃん抱き枕までやられるなんて……。こんなことは初めてです」
 大きい抱き枕ぬいぐるみは、通常の白蛇ちゃんの十倍以上の効力を発揮する。
 しかし、大抵は抱き枕ぬいぐるみに悪意が及ぶ以前に、通常の白蛇ちゃんが身代わりとなってくれるので、ズタボロにされたのは初めてだった。
「よ、よほどわたくしに恨みつらみが……。どなたでしょうか……。やっぱり、猫魈様を木蘭様へけしかけた恐ろしい女官の方でしょうか……」
「おおお恐ろしや!」と苺苺は誰もいない水星宮で飛び上がった。
 無駄にビクビクと周囲を警戒しながら、新しい身代わりを用意する。
 それから袂に入れていたぬい様を取り出すと、ズタボロになった白蛇ちゃんたちと一緒に棺にしている木箱におさめ、「よいしょ」と抱えて、水星宮の奥へと向かった。
 湯殿の外には、やっつけ仕事で造られたような小さな(かまど)がある。そこで湯を沸かして(たらい)湯船(ゆぶね)に運ぶのだ。
「深夜ですがひと仕事です」
 苺苺は白蛇ちゃんたちを薪と一緒にくべると、火打ち石を持ち、手慣れた様子で火をつけた。
 ズタボロの白蛇ちゃんたちが赤い火に呑まれる。
 煙が天に登った。
「本日もお守りくださあり、ありがとうございました」
 苺苺は感謝の気持ちでそれを見送る。
「は〜〜〜。春の夜は冷えますね。ささ、早く温かいお風呂に入っちゃいましょう。湯浴みを終えたら、新しい木蘭様ぬいぐるみを作らなくては」
 水星宮の湯殿の湯船といえば人ひとりが入れるくらいの木桶が置かれているだけで、他の妃たちの宮の湯殿より何倍も小さく、それはそれは簡素らしい。女官たちの噂で聞いた。
 が、この木桶がまた湯を満たすのに時間がかからなくて便利がいい。
 排水も掃除も楽なので、苺苺にとっては優れもののお気に入りである。
(なんたって、余った時間で刺繍がうーんとできます)
「恐ろしい女官の方の脅威はまだ去っていないはずです。木蘭様をお守りするためにも、徹夜でたっくさん作っちゃいましょう! えいえいおうですわ! ふんふんふ〜ん」
 苺苺は鼻歌を歌いながら、白蛇ちゃんをくべた火で湯浴み用の湯を沸かすのだった。