♪金曜日 22:30

「黒いコートにギムレット」

毎週金曜、いつも通りの時間にやってくる彼女は、黒いコートにクリスマスカラーのマフラーがよく似合っている。毎回憂鬱そうな顔をしてドアを開ける人を待つようになったのはいつからだろうか。もう覚えてない。
外はもう、本格的な冬だ。
口を開けば、今の彼はあーだ前の彼はこーだと言って愚痴ばかり。毎回頼まれるギムレットを作りながらその話に耳を傾ける。俺だったらそんな辛い思いとか絶対にさせないのになって思いながら、シェイカーを振る。たらればの話。
コースターとカクテルグラスを置く。グラスに入った薄緑のほんの少しの液体が彼女を酔わせる。

「あたしだって、好きでこんな面倒臭い性格になったわけじゃないのに。どうしていつもこうなっちゃうんだろ」
「まぁ、海沙さんの場合はなんだかんだ相手の領域に踏み込みすぎたと言いますか……言い方は難しいんですけど、そんな感じですかね」
「領域に踏み込みすぎたってどういうこと?」
「相手のことを知りたいがために、知らなくていいことまで知ってしまうから、海沙ちゃんが一方的にイラついてしまって、結果的に別れるってことになってしまうんじゃないですかね……?」
「……分かってるよ?そんなこと。言われなくても。でも、もしかしたら他の誰かなら違うこと言ってくれるかもって期待しちゃったの。でも、違った」
「期待するのはいいと思いますけど、現実から目を背けるのはどうかなぁとも思います。自分のダメなところも認めなくちゃ、うまく生きていけなくなっちゃいますよ」
「うん、まぁ、それも分かってて、認めようとはしてるんだけど、どうしても、ダメな自分が……許せなくて……」

紡ぐ言葉が片言っぽくなってきて、彼女の顔はまぁまぁ紅潮していた。ただでさえお酒には弱いのに、ギムレットなんて飲むからだ。と心の中で突っ込みを入れて、カウンターに突っ伏した彼女に着ているジャケットをかける。暖炉やストーブがあるとはいえ、外はもう氷点下になる日があるらしい。
キャリアウーマンみたいな見た目の彼女。寝てる時だけは子供みたいな顔。もうだいぶ前からたびたび来るようになって、来るたびに同じ行動パターンを繰り返す彼女にちょっとだけ惹かれていた。でも、そんなことは本人に言わない。
今日は珍しく他にお客が来ないので暇になってしまった。もうそろそろ日付が変わるので、ジュークボックスから流れている曲をクリスマスソングのジャズアレンジに変えた。暗めの店内に静かに流れている音楽と、シャンデリアの照明が完璧にマッチしていた。そこに暖炉の揺れる炎がアクセントになって、とてもいい雰囲気だった。
日付が変わって、午前0時。

「メリークリスマス、です」

こっそりそう囁いて彼女の手前に置いてあった空のグラスを下げ、チェイサーを置いた。

「メリークリスマス」
「あれ、起きてたんですね」
「さっき音楽変えたよね。その時から起きてた。いいよね、この曲」
「ちょうどクリスマスなので、お気に入りを……と思いまして」
「あたしさ、本当にこのお店好きなの。雰囲気もいいしお酒も美味しいし、何より閉店時間すぎても帰るって言うまで閉めないのが好き」
「ありがとうございます。まぁ、さすがに日が昇り始めれば閉めたいと思いますけど」
「バーテンさん、いつもいるけど人足りないの?」
「今日は質問攻めですね。ここは私個人の趣味でやってるようなものなので、私以外にスタッフはいませんよ」
「えー、そうなんだ。大変じゃない?混む時もあるでしょ」
「そうですね。込み合った時は少し大変ですが、それでも楽しいことに変わりはないので」
「仕事、楽しいんだ。いいね」
「バーテンの仕事は好きです。前の仕事が嫌すぎて逃げるように辞めて、借金まで背負ってこの店を立ち上げたんですよ。当時は大分無理しましたけど、今となってはいい経験だったと言えると思います」
「やっぱりみんな苦労してるんだね。あたしも、恋愛とか上手くいかなすぎて」
「仕事も上手くいってないんですか?」
「最近就任した上司が昭和から抜け出せてないおっさんでさ、女ってだけでプロジェクトから外されたりとか散々。もう辞めてやろうかなとか思ったりしてる」
「今は選ばなければ仕事なんていくらでもありますし、終身雇用なんて崩壊しきった時代なので、辞めちゃってもいいと思いますけどね」
「ここで雇ってくれたりしないの?」
「え、ここでですか?」
「ごめん、からかって」
「なんだ、冗談ですか」
「冗談じゃない方が良かった、みたいな言い方するんだね」
「あ、いや別にそんな事は」
「バーテンさん、名前教えてよ。それか名札付けた方がいいよ。常連さんにも名前覚えてもらう方がいいと思うし」
「そういえば教えてませんでしたね。広瀬渉と言います」
「広瀬さんね。覚えた。ねぇ、同じのもう一杯作ってよ」
「ギムレットですか」
「うん、今日はちょっと酔いたい気分なの」
「分かりました」

静かな店の中に二人の会話だけが響く。ジンとライムジュースがシェイカーの中で混ざり合う。新しくコースターを出してギムレットを置く。その横にイチゴのショートケーキを一緒に出した。

「それと、これは私から。ささやかですがクリスマスプレゼントという事で」
「え、ケーキ?」
「今日はクリスマスなので売れるかなぁと思っていくつか買っておいたのですが、ケーキを注文されるお客様が海沙さんだけだったもので……」
「今年もケーキ食べないままクリスマス終わるかと思ってた」
「私一人では食べきれませんし、余ってしまってももったいないので」
「ありがと」
「いいえ、こちらこそ」

それから途切れた会話。ジュークボックスから流れる音楽に乗せて時間が流れていく。ケーキの皿とフォークが擦れる小さな音すら聞き取れるくらい静かな店内で、願わくばカウンターを出て隣に座ってしまいたくなる衝動を必死に抑えた。客とバーテン。別に恋愛がダメという関係性でもなければ法律で禁止されている訳でもない。もし、その左手に触れられたら、と思ってしまう。
沈黙を破ったのは彼女の方だった。

「あたしさー、このお店知るまでは別の店に入り浸ってたの」
「そうなんですか。なぜうちに来ようと?」
「そこのマスター?っていうか、バーテンが変わって、全然話してくれなくなったの。別に客の話なんか興味無いよって感じで相槌だけ。つまんなくなっちゃってさ。それで、いいお店無いかなってフラフラしてたら階段の下にいい雰囲気のお店があって、入ってみた」
「まぁお客さんは大切ですから、話し相手にはもちろんなります。満席の時とかは別ですけど」
「満席って言ってもカウンター5席だけでしょ?広瀬さんなら余裕でしょ」
「人を聖徳太子みたいに言わないでくださいよ。カウンター5席分のお酒作るのって結構大変なんですよ」
「そうなんだ。ちょっと混ぜるだけだと思ってた」
「確かに混ぜるだけのカクテルもありますけどね」
「え、じゃあさ、あたしのも混ぜるだけなの?」
「ギムレットは、そうですね。お店にもよると思いますが、うちはジンとライムジュースとカリブシロップをシェイクするだけの簡単なやつです」
「ジン入ってるんだ、これ。確かジンって度数高いよね」
「30度から40度の間が一般的ですが、ライムジュースとかも混ざってるので30度前後のアルコール度数になってます」
「それでも高いよね。いつも頼むけど3杯で酔っ払っちゃうもん」
「それを今日は4杯ですから、さすがに酔ってますよね」
「酔いたい気分だとは言ったけど、まさかカウンターで寝ちゃうまで酔うなんてなー、思わなかった」
「私も、まさかカウンターで寝落ちるお客様がいるとは思いませんでした」
「あー、今バカにしたね」
「いや、そんな事ないです」
「そういう事にしとく。ねぇ、もうちょっとここにいていい?」
「大丈夫ですよ。まだ閉店時間でもないですし、お客様がいらっしゃるうちは閉店しませんので」
「ありがと。あと、なんか、軽く食べるものない?」
「食べるものですか。どんなものがいいですか?」
「チーズとか、あったら嬉しいかも」
「チーズですね。カマンベールとゴーダとブルーがありますよ」
「あ、ブルーチーズかな。銘柄は?」
「銘柄というか、うちで仕入れているのはロックフォールとゴルゴンゾーラです」
「あ、ゴルゴンゾーラは聞いたことあるけどロックフォールって何?」
「世界で有名なブルーチーズって3種類あるんですけど、まず今挙げた2つとスティルトンというものがあります」
「へぇ、で、ロックフォールって美味しい?」
「羊乳を使ってるので少し独特なクセがあります。食べてみますか?」
「今日はゴルゴンゾーラにしとこうかな。それは次の楽しみに取っとく」
「分かりました。すぐご用意します」

空になったケーキの皿とフォークを下げてから、足元の冷蔵庫からゴルゴンゾーラのドルチェタイプを取り出してダイスカットにし、少量のナッツと一緒にチーズ用の皿に乗せて蜂蜜を添えて出す。

「ありがと。やっぱりちゃんとしたバーって感じの出し方だね」
「ありがとうございます。そうですね、半分は私の趣味ですが」
「オシャレな人」

ゴルゴンゾーラチーズの一欠片に蜂蜜を少しかけて小さなフォークで口へ運ぶ。
ダイスカットされた一欠片だけを味わうように食べて、またフォークを置いた。なにか話したげな顔だったが、それに反して何も喋らなかった。俺もなにか話しかけようかと思ったが、上手く言葉が紡げない。不意に見つめ合う俺たちの間に流れる時間が、一瞬止まったと勘違いしてしまう。

「あの……」
「ねぇ……」

同時にお互いが声を出し、少し気まずい感じがした。少女漫画ならよくある展開なのだろうが、自分がそうなるとは思っていなかった。

「すみません、なんでしょうか」
「ごめん。もうちょっとここにいていい?」
「もちろんです。閉店時間は3時ですが、最後のお客様が帰るまでは店を閉めないと決めているので」
「明日の昼間までいてもいいの?」
「いや、それは、さすがに限度がありますが……」
「冗談だよ、ごめん。3時には帰るから安心してね」
「さっきも2回くらい、そんな話しましたね」
「あれ?そうだっけ。やっぱ私、酔ってるね」
「もうそろそろお酒、やめときませんか?ちょっと心配ですよ」
「そうだね。一旦チェイサーもらっとこうかな」
「かしこまりました」

レモンを軽く搾った天然水を14オンスのタンブラー型グラスに注ぐ。氷は入れない。ギムレットが少し残ったカクテルグラスの横に、新しいコースターを出してチェイサーを置く。それを彼女は、ありがとうと言って一気に飲み干す。

「あのさ、さっき何か言いかけたよね。なに?」
「別に、瑣末事ですよ」

洗ったグラスを拭きながら、さっき言いかけたことを軽く流そうとした。

「いや、瑣末事じゃないでしょ。あんな真面目な顔してどうでもいい事言い出すわけないでしょ」
「そんな真面目な顔してました?」
「目が合った瞬間ね。広瀬さんもあんな顔するんだね」
「正直これを言っていいのか心底迷っています」
「それって多分あたしにも関係ある事だよね」
「そうですね。関係ないと言えば嘘になります」
「そんな回りくどい言い方しないでさ、言っちゃえば?」
「今は、やめときます。すみません」
「なんだ、意外と根性無いんだ」
「恥ずかしながら」

お互いが笑いながら、明日もこれからも役に立たない話が広がっていく。暖炉の薪が燃える音と静かなクリスマスソングが時間と一緒に流れていく。