まさか、父の名前がこの場で出てくるとは思わなかった。父のことをどこまで知っているのだろうか。
「なぜ、私の父のことをご存知なんですか?」
そう聞いた私に、正さんは遠慮がちに答えようとする。
「昔の同級生でした」とかそんな簡単なことであってほしい。事件のことは何も知らないでいてほしい。だけどその願いはすぐに散ってしまった。
「事件で亡くなったことも知っています」
血の気が引いていく感覚が、自分の体の中で起きているのが分かる。
「悲しい話を出してしまって申し訳ない。まさか、西野さんのお嬢さんに会うとは…思いもしませんでした」
そう言った彼は私の後ろに視線を動かす。このタイミングで先輩が戻ってきた。
「お待たせ、叔父さんもいたんだ」
正さんは走ってくる先輩に頷く。
「でもそろそろ行かないといけない。莉子さん、また。残り楽しんでくださいね」
仕事に戻らなくてはいけなくなった正さんは、私にもう一度礼をしてその場から去った。正さんとの会話が中途半端に切られてしまった。
「叔父さん来てたんだ。何か話した?」
「…はい、絵本のことを話しました」
あと、父のことを少しだけ。それは言えなかった。正さんの反応を見て、話せるような感じではなかった。なぜ正さんは父のことを知っていたのだろうか。事件のこともなぜ知っているのか。先輩に聞けば分かることかもしれないが、話題に出せなかった。
「じゃあ、行こう。あともう少しで最後の作品だから」
展示会の続きを2人で見て、絵本の話をしていくうちに父の話題を話すのを忘れていた。
展示を全部見終わり、商業施設から出た時には外は夕方だった。夕暮れの空の雲が橙色に染まっている。絵本に触れて心豊かになったが、外の冷たい空気を吸うと久々に現実世界に戻ったような切なさがあった。
もうこんな時間だ。帰れなければならない。
今日の時間が充実していて、楽しくて、まだ帰りたくなかった。
だけど、この世界は、ちゃんと時間が動いていた。
「もう夕方だから、急いで帰ろう」
早く帰らなければならない私を知っているため、先輩も心配して急足で駅に戻ってくれた。
仕事帰りの会社員や帰宅途中の学生で人が溢れかえっている中、電車が来るのをホームで待った。
本当は帰りたくなかった。まだ絵本の中の世界にいたかったのか、まだ先輩と一緒に遊びたかったのか、家が嫌いで帰りたくなかったのか。
どちらにしてもこんな感情は初めてだった。早く帰らないといけない自分自身を切実に悔やんだ。
「莉子ちゃん」
黙ったままで何も喋らない莉子の様子を見て何かを悟った先輩が声をかけてきた。何かを言いかけたその時、先輩の声を被せるように誰かの声が届いた。
「廉くん?何してるの」
声がする方を振り返るとそこには桑田さんがいた。
あと、同じクラスメイトの数人の女の子達がいる。
桑田さんと他の女子達は、私と先輩を交互に見て同じ顔をしていた。驚きの目がだんだんと冷ややかになる。この視線が本当に昔から苦手だった。
「また西野さんといるんだ」
その桑田さんの一言は憐憫に満ちていた。
私はそれに気づいて顔を俯くことが出来ない。
さっきまでまだ家に帰りたくないと思っていたのに、今はすぐにこの場からいなくなりたかった。タイミング良く帰りの電車が来るアナウンスの声が鳴り響いた。
「これから帰るところ。またね」
先輩は彼女達の気持ちに気づいているのかどうか分からないが軽く挨拶をして目の前に来た電車に乗った。
それに次いで追いかけるように電車に乗る。私は彼女達の方には一切顔を向けなかった。
電車に乗ってからの先輩と何を話したかあまり覚えてない。それよりも桑田さん達の顔が頭に浮かんで、また明日の学校の教室で同じ顔を向けられると思うと重荷が取れない。
私の家に着いた時、先輩は言った。
「今日はありがとう、本当に楽しかった」
「こちらこそ、楽しかったです。ありがとうございます」
「莉子ちゃん、…また明日も学校にきてね」
家へ向かって歩き出そうとしたときにもう一度声をかけられる。きっと先輩は気づいていた。
私が少し落ち込んでいる様子を。だけど微笑んで頷くのに精一杯だった。
何か彼が言いかけたようとしたとき、私は言う。
「もう暗くなりそうなので…またあした」
小さく礼をして逃げるように家の中に入った。
先輩に見届けてもらっているのは気づいていたが、一度も振り返ることはしなかった。