花乃栞里の魔法少女生活。

 ギシリ、と小さな物音で目が覚めて、栞里は薄っすらと瞼を開けた。

(……み、お……?)

 薄目の向こうに見える彼女は、寝る時に着ていたようなパジャマではなくて、制服を身につけている。
 栞里を起こさないようにするためだろう。できる限り足音を立てないよう、静かに扉を開けて、澪は部屋を出ていく。
 時計を見れば、まだ朝の五時で、外も薄暗かった。
 学校は八時にでも家を出れば間に合うくらいなので、行くには少し早すぎる。
 こんな時間に、いったいなにをしに行くのか。
 声をかけようかとも思ったが、ほんの一瞬見えた彼女の横顔が、なにかとてつもなく重いものを抱えているように思えて、言葉が喉につっかえた。
 そして同時に、直前に見たおかしな夢(・・・・・)が頭をよぎる。
 結局栞里は澪を呼び止めることはできず、再び眠ることもできず、横になったまま、ただ思考だけがぐるぐると回っていた。



   ✿   ✿   ✿   ✿



 昨日は七夏と校内を見回ったが、今日は紗代とともに外の見回りだ。
 放課後になると校門を出て、栞里は紗代から見回りの基本ルートを学びながら、二人で街を歩く。

「本当は、こんなに頻繁に見回りなんてやらなくてもいいのだけどね」

 日があまり差し込まない裏通りを歩きながら、紗代は肩をすくめてみせた。

「日を置いて、週に二回くらいでいいの。二日連続で探したって見つからないことが多いし、せいぜい見つかってもネズミくらいのごくごく小さなヘイトリッドだもの。そんなに小さいと、変に逃げ回られて逆に退治しづらいしね……」
「……」
「でもレンダちゃんも言ってた通り、今は大規模な調査に向けての準備期間だから、いつも以上に念入りに退治しておかないといけないの。まだ魔法に慣れてない栞里ちゃんには負担をかけるけど……」
「…………」
「……栞里ちゃん?」

 心配そうに紗代に顔を覗き込まれて、栞里ははっとした。

「ご、ごめん。ぼーっとしてた。話は聞いてたから……えっと……週に二回は大規模なネズミの準備期間だから、二日連続で逃げ回るレンダをいつも以上に念入りに退治しなきゃいけない……んだっけ?」
「それじゃあレンダちゃんがすっごく可哀想ね……」

 どうやら間違っていたらしい。
 栞里はバツが悪そうに顔を背けた。

「……栞里ちゃん、ちょっとじっとしててくれる?」

 紗代はそう言うと、栞里の両頬を包み込み、自分の額を栞里のそれにくっつけた。
 目をぱちぱちと瞬かせる栞里の目の前で、しばらく瞼を瞑って集中していた様子の紗代だったが、ほどなく栞里から顔を離す。

「熱はないみたい。よかったわ。もしかしたら、体調が悪いのに連れ回しちゃってたのかと思ってたから」
「むぅ……紛らわしくてごめんなさい」
「いいのよ。私、これでも先輩だもの。後輩の面倒を見るのは先輩の勤め。七夏ちゃんも同じようなこと言ってなかった?」
「……言ってた」
「でしょう? ふふっ、そういうことよ。だから気にしないで」

 七夏も同じような言動はしていたが、紗代は彼女と違い、普段から纏う雰囲気が大人っぽい。体つきも出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ女性らしいものだ。
 年上らしい魅力溢れた振る舞いに栞里は若干感嘆としつつ、こくんと大人しく頷いた。

「でも……熱がないんだったら、なにか困り事とか悩み事でもあるのかしら?」

 図星だったので、栞里はビクンッと肩を跳ねさせる。

「今日、最初に会った時からずっと上の空って感じだったもの。それもなんだか、少し落ち込んでいるような感じで……言いたくないなら言わなくてもいいけれど……」

 まるで自分のことのように眉尻を下げて悲しむような紗代を目にして、栞里は今朝の出来事を思い返した。
 まだ外が暗い時間に一人で外出していた澪。
 もっとも、その二時間後に彼女は何事もなく帰ってきたけれど……。
 今、澪が栞里の家に居候しているのは、常に二人で行動して危険を減らすことが目的であるはずだ。
 それなのに澪は栞里に一言も告げず、一人で外に出た。
 ……澪はきっとなにか、栞里に隠し事をしている。
 そうでなければ、魔導協会の指示に逆らい、一人で危険を冒してまで外に出たりしないだろう。
 しかし隠し事とは、隠したいから、知られたくないから隠し事と呼ぶのである。
 それを、栞里が勝手に紗代に相談していいものだろうか。
 そんな風に返事に詰まってしまう栞里を見て、紗代は答えてもらえなかったことに少し寂しそうに肩をすくめつつも、「ちょっと休憩しましょうか」と近くの石段を指し示した。
 紗代が先に座り、その横に促されるまま腰を下ろすと、紗代は少し悩むように腕を組んだ。

「んー……ねえ、栞里ちゃん。魔法少女になるためには、その子に特別な資格が必要ってレンダちゃんが言ってたの、覚えてるかしら?」

 栞里は首肯する。
 栞里のように未成年で、なおかつ特別な資格を持つ少女。それが魔法少女になるための条件だったはずだ。

「それはね、素質でも資質でもなくて、あくまで資格なの」
「あくまで資格?」
「そう。素質や資質は生まれつきの能力のことを指すけれど、資格はそうじゃないでしょう?」

 あえて素質や資質という単語を使っていない。
 そこに意味があると紗代は言う。

「わかるかしら。魔法少女になるための資格というものはね、先天的にではなくて、後天的に備わる類のものなの」
「後天的に……」
「私や七夏ちゃんは中学に通っていた頃に魔法少女に勧誘されたわ。その時にはすでに資格が備わっていて、それを見初められたから。でも、あなたと澪ちゃんが誘われたのは高校に上がった後。あるいは、その直前に」

 その意味がわかる? と、指を一つ立て、わかりきった答えを紗代は問いかけた。

「……私と澪に資格が備わったのは、まだ最近の出来事だってこと?」
「ご明答」

 立てていた指をくるくると回し、紗代はその指先を自身の目に向ける。

「もちろん、精霊の目が常にこの街の人たち全員に行き渡ってるってわけじゃないから、多少のズレはあるけれどね」
「……魔法少女になるための資格って、いったいどういうものなの? なにがきっかけで、そんなものが私たちに備わったの?」

 先天的にではなく、後天的に備わるもの。
 だとすれば、なにかそれを得るための条件があるはずである。
 その条件とは、いったいなんなのか。
 ここまでもったいぶられたなら、聞かずにはいられない。

「……」

 紗代は一旦沈黙し、瞼を閉じ、間もなくして再び口を開いた。

「その思想や心のあり方に大きな変革をもたらすような出来事を経験すること……それが、魔法少女の資格を得るための条件よ」
「大きな変革?」
「たとえば、そうね……大切だった人が亡くなったり、とかかしら」
「……」

 そう言われて栞里が思い出したのは、まだほんの数ヶ月前、母が病気で亡くなった時のことだった。
 毎日のように病院に通ったところでなにができるわけでもなく、母が亡くなる寸前まで、ただ見ていることしかできなかった。

「もちろん、資格を得るに至るまでどれだけの刺激が必要かには個人差はあるわ。人によっては、ちょっとした出会いや経験でも開花し得る。でもその条件さえ満たせば、心が不安定な十代以下の女の子なら誰しもが資格を手にできるとされているの」
「……なるほど」
「栞里ちゃんは……なにか、心当たりがあるのよね?」

 栞里は自分が今どんな表情をしているかわからなかったが、紗代はなにか察したように、辛いことを思い出させてごめんね、と申しわけなさそうに微笑んだ。

(紗代は……どうしてこんな話、私にしたんだろう)

 栞里がなにか悩んでいたり、落ち込んでいたりしていることを察して気にしてくれているのは、わかっていた。
 でもそのことと、今のこの魔法少女の資格の話になんの関係があるのか。栞里にはまだ、その繋がりが掴めなかった。
 もしかしたら単に雑談のつもりだったのかもしれないけれど、どうにも栞里には、紗代がこのタイミングでそんな他愛もない話をしてくるようなのんきな女性には思えなかった。

「……栞里ちゃん」

 さきほどまでより力が入った確かな声音に促されるように顔を上げると、彼女は真剣な表情で栞里をまっすぐに見つめていた。

「実を言うとね。私と七夏ちゃんは、あなたと澪ちゃんの経歴を資料で把握してるの。だからあなたが抱えている痛みも……澪ちゃんが抱えている苦しみも、私たちは第三者として知っている」
「澪の苦しみ……?」
「そう。栞里ちゃんは、なにか夢を見なかった? たとえば、そう。悲痛に染まった、後悔ばかりが残るような、暗く冷たい夢……」
「……」

 心当たりはあった。
 そうだ。澪が一人で出て行ったことも、栞里が悩んでいる要素の一つでもある。
 だけど一番は、その夢であった。
 なんてことのない普通の中学生だった少女が、ある日突然光る瞳の化け物に――精霊獣にすべてを奪われる、そんな夢だ。
 守りたかったものをなに一つとして守れず、自分だけが生き残ってしまった夢。
 視点は完全にその少女のものだったから、それが誰の記憶なのかは正確にはわからなかった。
 けれど今日の朝、澪が出ていく時に見せた最後の横顔が、その夢の少女の思いと重なってしかたがなかった。
 だからこそ栞里は出ていく澪に声をかけることもできず、帰ってきた彼女に事情も理由も聞くことができずにいたのだ。

「……魔法少女の間では、密かに語られてるこんな話があるわ」

 紗代は栞里から視線を外し、遠くの空を眺める。

「互いを思い合う魔法少女がそばで眠りについた時、お互いが資格を得るに至った夢を見る」
「それは……」
「私たちはそれを心の共鳴と呼んでいるわ。栞里ちゃん。あなたが見たその夢は、本当にあったことよ」

 紗代はどうやら初めから、栞里の様子がおかしい原因におおよその検討がついていたようだ。
 澪の過去の出来事と、心の共鳴という現象を知った上で、栞里と澪の二人が同じ家で寝食をともにした翌日、熱はなく体調に問題ない栞里の様子がおかしかった。
 そうなれば確かに、なにがあったのかの答えなど自ずと導かれる。

「……とは言え、あなたと澪ちゃんの昔のことを多少知ってると言っても、私も七夏ちゃんも、しょせんは無関係の第三者」

 紗代はふるふると首を横に振る。

「そんな私たちがどれだけ励まそうとしようとしたって、そんなもの、上から目線の押しつけがましい自己満足にしかならない。だからずっと知らないふりをして黙ってたの……ごめんね?」
「それは別にいい、けど……」

 無関係の第三者。どれだけ励まそうとしても、しょせんは自己満足。
 その言葉が栞里の心に重くのしかかる。
 澪を元気づけたい。その悲しみを、ほんの少しでも和らげてあげたい。
 今、抱いているこの思いも……そうなのだろうか。
 結局は自己満足に過ぎず、澪には届かない。そんなものなのだろうか。
 そんなことを考えていると、ぽんっ、と。不意に栞里の頭の上に手が置かれる。
 紗代の手だ。
 突然のことに目をぱちくりとさせる栞里に、紗代はくすりと笑みを漏らす。

「七夏ちゃんから聞いたの。栞里ちゃんはたぶん、気に入った人の頭を撫でる癖があるんだって」
「私にそんな癖が……」
「自覚なかったのね」

 紗代は優しい手つきで手を動かしていく。

「きっとそれは、栞里ちゃんが知っているからなのよね。その温もりの大切さを。いつか誰かにこうして頭を撫でてもらうことが、栞里ちゃんは大好きだったのね」
「……」
「そんな辛い顔しなくたって大丈夫。あなたの思いは、きっと澪ちゃんに伝わるから」

 心でも読めるのかというくらい、落ち込んだ栞里のためにかけてくれる言葉の数々は的確だった。

「さっきも言ったでしょ? 互いを思い合う魔法少女が……って。あなたが澪ちゃんをそうやって思っているように、澪ちゃんもまた、あなたを思っている」
「澪が……私を?」
「そう。あなたの力になりたい。助けになりたい。そんな風に思っている」
「あ……」

 それはもう、澪の口からとっくに直接聞いていた言葉だった。

「栞里ちゃん。あなたは私や七夏ちゃんとは違うわ。澪ちゃんにとって、あなたは第三者なんかじゃない。夢を見たっていうのはね……そういうこと」
「紗代……」
「だから自分を信じて? 栞里ちゃん自身が、やるべきだと思ったことを貫くの。それが一番良い未来に繋がってるはずだって、私は思うわ」

 なんて言うと、紗代は朗らかに微笑んだ。
 ……胸の内がぽかぽかと温かい。
 紗代はさきほど、自分たちはしょせんは第三者だと言った。自分たちがなにを言っても、自己満足に過ぎないと。
 それでも彼女たちは、ずっと栞里と澪のことを気にかけてくれていたのだろう。
 過去の出来事は変えられないのだとしても、今日は、明日は、笑えるようにと。

「紗代」
「んー? なにかしら」
「ありがとう」
「ふふっ。ええ。ほんのちょっとでも力になれたのなら、よかったわ」

 澪にどんな言葉をかけられるかは、まだわからない。
 もしかしたら届かないかもしれないし、拒絶されるかもしれない。
 だとしても、彼女を今のまま一人きりにさせてはいけないのだと栞里は思う。
 たとえその過程が異なっていようとも、一人になることを寂しいと感じる気持ちは、同じはずだと思うから。
「はーい、それじゃあ今日はここまでだね。皆、今日もおつかれさま」

 魔法少女としての見回りを終えて部室に戻ってきた四人に、魔導協会からの連絡事項を話した後、レンダはそう締めくくった。
 協会からの連絡は、二週間後の土日に精霊獣エプシロンを対象とした大規模な調査を実施することが決定したこと。それまでは、今まで通りパートナー同士で同居すること。
 主にはその二つだった。

(精霊獣……個体、エプシロン)

 昨日聞いた時は、まだ他人事のようだった。
 テレビ越しにニュースを聞いているような、そんな感覚。
 だけど今はもう知っている。エプシロンとは、澪の家族を奪ったものの正体だ。
 そして昨日ここで見た資料にあった、奇跡的に無事だったという一人の目撃者。それこそが澪である。

(……澪)

 横目で彼女の顔を覗いてみる。
 普段通りの表情を張りつけているが、ふっと栞里が視線を下げると、その拳が固く握られていることに気づく。
 昨日レンダの話を聞いていた時も、同じような反応をしていたのだろうか。

「明日と明後日は土日で休日ってことになってるけど、緊急の呼び出しが来る可能性もあるから電話にはいつでも出られるようにしておいてね」
「はーい。って言っても、確かエプシロンが行動起こす時って電波妨害の魔法とか使ってくるんじゃなかったっけ?」

 七夏が確認を取ると、レンダが困り顔で頭を抱えた。

「それなんだよねぇ。今ちょうど協会の方でそれの対策中でねー。その対策が完了するのが予定的にちょうど二週間後くらいでさ」
「あー、だから二週間後に大規模な調査……」
「ほんと、厄介な魔法を作ってくれたものだよ。いくら僕たち精霊でも、瞬時に魔法を作れるわけじゃない……ましてや、同じ精霊が作った魔法への対策となるとね。どうしても時間がかかるんだ」

 レンダは、やれやれと肩をすくめた。

「でもまあ、いくら電波妨害って言っても効果範囲は必ず存在するから、その外にいる人同士なら連絡が取れる。必ずしも呼び出しが来ないってわけじゃないから、一応注意しててね」
「ほいほい。了解ー」

 そんなこんなで解散となり、七夏と紗代はそれぞれお疲れさまと口にして去っていく。
 栞里も軽く手を振り返し、いざ澪とともに帰ろうと思ったが、一つやり残したことを思い出した。

「栞里ちゃん? 帰らないの?」
「ん……ちょっとレンダと話がある。すぐ終わるから、外で待っててほしい」
「はーい。じゃあ、校門前で待ってるね」

 そう言うと、やはり普段通りの明るい顔で微笑んで、澪は部室を後にした。
 夢を見なければ、澪がとてつもなく重いものを抱えていることに、ずっと気づかなかったかもしれない。
 彼女自身、誰にも心配させまいとしているのだろう。
 一番苦しいのは澪のはずなのに、まるで自分から一人になるみたいに、いつだって気丈に振る舞っている。

「それで栞里、話ってなにかな。栞里はまだ魔法少女になって間もないし、なにか質問とか?」

 小首を傾げるレンダに向き直ると、栞里は制服の袖をめくり、魔力結晶が埋め込まれた腕輪を外した。

「いらない魔法がいくつかあるから、代わりに新しい魔法を入れてほしい」
「ありゃ……そういうの、まずはデフォルトの魔法に慣れてからの方がいいと思うけど……まあでも確かに、栞里の特異魔法のことを考えると、いらない魔法もいくつかあるか」

 栞里から腕輪を受け取ると、レンダは「どんな魔法がいいの?」と希望を聞く。
 昨日はまだ考えが固まっていなかったが、今はもう、どんな魔法が必要かのイメージは明確にできていた。

「今から聞くみたいな魔法がもしあったら、それを入れてほしい」

 そう前置きして、栞里はレンダに欲しい魔法の具体例を告げた。



   ✿   ✿   ✿   ✿



 栞里が昇降口から出て校門の方を見ると、栞里に気づいた澪が手を振っていた。

「おかえり栞里ちゃん。レンダちゃんとなに話してたの?」
「ん、ただいま。ちょっと魔法入れ替えてもらってた。あと、これ」
「……? これは?」

 栞里が澪に手渡したのは、クマ柄のお守りだ。

「レンダが渡し忘れたって」
「そうなんだ。精霊獣関係で最近物騒だもんね」

 澪と並んで、帰路を歩く。
 話題は自然と今日の魔法少女活動のことになっていった。

「栞里ちゃん、今日は紗代先輩と一緒だったよね? 紗代先輩、どうだった?」
「ん……よく私のことを見てて、気にかけてくれた」
「そっかー。紗代先輩ってすごく落ちついてて、ほんわかってしてて取っつきやすくて……なんていうか理想のお姉さんって感じでしょ? えへへ。実は憧れの先輩なんだ」

 栞里が見た夢によれば、澪は実際に妹がいるお姉ちゃんのようだったから、より一層憧れが強いのだろう。
 栞里は、かつて澪の身に起きたことについて、いつ話を切り出そうか迷っていたが、少なくともこんな人通りがある場所でする話ではないだろうと思い直し、一旦その思考は打ち切る。
 今は澪と他愛もない話を続けよう。

「栞里ちゃん。ちょっと寄って行きたいところがあるんだけど、いいかな?」
「……? うん」

 今日は栞里と紗代のペアも、澪と七夏のペアもどちらもヘイトリッドには遭遇しなかったため、昨日より帰る時間は少し早い。
 夕暮れに染まり行く空を見上げる。
 近場なら寄り道しても暗くなる前には帰れるだろう。

「ありがとね。じゃあ、こっち来てー」

 栞里の自宅への道から外れ、澪の案内に従って進み始める。
 なにか買い物でもしていくのか。あるいは、澪の家に忘れ物でも取りに行くのか。
 そんなのんきな想像をしながらついていった先にたどりついた場所は、病院だった。

(ここは……)

 そこは栞里にとっても馴染み深い場所だ。
 母が亡くなる数ヶ月前まで毎日のごとく通っていた、母の病室があった病院である。

「ここはね、魔導協会が支援してる施設の一つなの。病院とか、孤児院とか……協会はそういう世界中のいろんな施設に支援してて、その代わりに魔法の存在の隠蔽とかに力を貸してもらってたりしてるんだって」

 澪の説明を聞きながら中に入っていく。
 病院についた頃から、澪がなにか怪我でもしてしまったか、それともどこか調子が悪いのかと栞里は心配していた。
 だけどそんな思考は、澪が受付で口を開いたタイミングで吹き飛んだ。

「父と母と、妹の面会に来ました」
「っ――」

 夢の記憶がよみがえる。普通の夢と違い、時間を経てもおぼろげになることのない、現実感が伴った不思議な夢。
 あれが澪の記憶の再現だとするのなら、澪以外の澪の家族は皆、精霊獣に襲われてしまっている。
 だが思い返してみれば確かに、夢の中の三人はあくまで気を失って倒れていただけで、命を落とした人間は一人もいなかった。
 今もまだ生きているのは自明だ。
 だけど精霊獣の被害にあった人たちは、確か……。
 栞里は澪の方を見るが、彼女は栞里をちらりと一瞥しただけで、なんの説明もしてくれない。

「栞里ちゃん。こっち」
「……」

 病院への道中はそれなりに話をしながら歩いていたが、今は互いに無言だった。
 栞里が見た夢のこと。澪の両親のこと。ここにつれてきた理由。
 聞きたいことは山ほどあったけれど、そのどれもが見境なく頭の中で混ざり合って、うまく言葉になってくれない。
 それに、その答えは急がずとも間もなくあちらからやってくるということも、栞里はなんとなく理解していた。

「ついたよ。お父さんは別部屋だけど……」

 澪と同じ凪沢の姓を持つ二人の名前が書かれた病室の前で立ち止まって、澪が栞里の方に振り返る。
 引き返すか、否か。そんなことを問いかけるような視線だった。
 栞里がそれを正面から見返すと、栞里の意を汲み取った澪は小さく頷いて、病室の戸を開ける。

「入って」

 先に入った澪の手招きに応じ、栞里も中に足を踏み入れた。
 二つあるベッドの片方には大人の女性が一人、そしてもう片方にはまだ一〇歳前後だろう小さな少女が横になって瞼を閉じ、眠っている。
 それだけなら普通の病室だったのだが、唯一異様だったのは、二人とも器具でベッドに拘束されていたことだ。
 二人のうち、小さな少女の方に澪が近づくと、物音に気がついたのか、少女がおぼろげに瞼を開けた。

「かほ。お姉ちゃんだよ。元気にしてた?」

 澪が微笑みながら声をかけてからしばらく、少女――かほは返事もせず、ぼーっとしていた。
 顔を右に向け、左に向け、それから澪に向けて。

「おーえぁー?」

 そんなことを、彼女は言った。
 呆然とする栞里をよそに、澪はかほに言葉をかけ続ける。

「ちゃんとご飯食べた?」
「いぅあー」
「看護師さんに迷惑かけてない?」
「まーう。う、う、うあーおー」
「……わたしのこと、覚えてる?」
「へあーぅ、おあーっ」

 頷くとも、首を横に振るともしない。
 ただ舌足らずの無感情な声が、病室にこだまする。
 まるで、生まれて間もない赤ん坊のようだった。
 精霊にとっての栄養。それは、人間の精神。記憶、思い出。
 かつてレンダが語った、精霊の正体が頭をよぎる。
 そうだ。精霊獣に襲われたということは、記憶を食われたことを意味する。
 たとえ体は生き残っていようとも、家族や友人との思い出も、努力し打ち込んだ経験も、当たり前のように使っていた言語さえ、全部忘れてしまうことを意味していた。

「……ぅ?」

 かほの声で目が覚めたのだろう。
 澪の母が横たわっているもう片方のベッドの方で呻き声が聞こえて、栞里と澪はそちらに視線を向けた。
 澪の母は初めこそ朦朧とした眼で天井を見上げていたが、突如目を見開いたかと思うと、これでもかというほど大きく口を開けた。

「ああぁああああああっ! うぅぁああああああっ!」

 ガシャガシャと拘束具を鳴らし、焦点の定まらない瞳をあちこちに向けて、口の端から涎が垂れることにも構わず、大声を上げる。
 栞里が目を丸くして固まっていると、澪はその横を通り過ぎて、自らの母に近づいていく。

「大丈夫だよ、お母さん。なんにも怖くないよ。怖くないから、ね」

 言いながら、澪は手を伸ばした。子どもをあやすように、頭を撫でる。
 澪の母はその一瞬、叫び声をやめた。
 声が届いたのだろうか。そう思いかけた次の瞬間、彼女は思い切り澪の手首に噛みついた。

「痛っ……!」
「澪!」

 栞里は即座に澪の母を澪から引き剥がして、痛々しく歯型がついた澪の手首に《回復》の特異魔法を使う。
 澪の母は、そんなものを気にも留めず、また叫び始めていた。

「ありがとう、栞里ちゃん」
「……澪……これは……」
「……そう。これが、精霊獣エプシロンに襲われた人たちの末路だよ」

 大の大人が、癇癪を起こした子どものように暴れている。そんな目の前の光景は誰がどう見ても異常だった。
 かほの方も、その叫び声を聞いて泣きわめき始めた。もう収拾はつけられそうにない。
 澪は慣れた様子で看護師を呼ぶと速やかに病室を退去して、廊下をしばらく歩いた後、誰もいないベンチに座った。

「……澪は、いつから気がついてたの? 私が澪の過去を知ったこと」

 長い沈黙を経て、最初に言葉を発したのは栞里の方だった。
 澪が気づいていたことは明白だ。そうでなければ、あんな様子の自分の家族を見せようだなんて思うはずがない。
 澪は苦笑して答えた。

「そんなの朝に出て帰ってきてからすぐに気がついたよ。だって栞里ちゃん、明らかに様子おかしかったんだもん」
「そう、だった?」
「どこに行ってたの、とか全然聞いてこないし。今日はずっと雰囲気暗かったし……授業中も上の空、は昨日もだったけど……」

 それにね、と澪は続ける。

「わたしも……夢、見たから。栞里ちゃんのお母さんが亡くなる、少し前の夢」
「……」

 互いを思い合う魔法少女が、互いが資格を得るに至った夢を見る。
 それが心の共鳴という現象だとすれば、栞里が澪の夢を見たように、澪が栞里の夢を見たこともまた、至極当然のことだ。
 栞里と違って澪は心の共鳴については知らないはずだが、それでも直感的に気がついたのだろう。
 栞里が同じように、澪の夢を見たことを。

「知られないようにずっと気を張ってたのに、夢でばれちゃうだなんて……魔法少女って不思議な存在だよね」
「……」
「栞里ちゃんは優しいから、きっとわたしを元気づけようと一所懸命悩んでくれてるんだろうなって、そう思ってた」

 ぽつぽつと澪は言葉を漏らしていく。

「だからね、申しわけないなぁ、って思ってたんだ。わたしなんかのことで気に病ませちゃって、申しわけないなぁ……って」
「……澪は、『なんか』なんかじゃない」

 わたしなんか。
 そんな風に自分のことを軽んじて考えてほしくなくて、そう口を挟んだ。
 けれど澪は栞里の言葉を受け入れるつもりはないようで、首を横に振る。

「わたしなんて、なんかでいいんだよ。わたしは栞里ちゃんとは、皆とは、違うから」
「違うって……」
「……栞里ちゃんは知らないだろうけど、特異魔法っていうのはね、その人の心のあり方を表したものなの」

 急に、魔法の話になる。
 だけどそこに澪が自分を卑下する理由の一端があるのだろうと察し、栞里は黙って話の続きを待った。

「その人がかつて望んだこと。その人が抱いた憧れ。強い思い。そういう心が形になったものが、特異魔法なの」

 そう言って、澪は自分の手首を見下ろす。
 そこはさきほど、自らの母親をなだめようとして噛みつかれた箇所だった。

「栞里ちゃんの特異魔法は、すごく優しいよね。これ以上ないくらい優しくて……綺麗な力」
「そんなこと……ない」
「ふふ。そんなことあるよ。栞里ちゃんは、ずっとずっと治してあげたかったんだよね? 毎日毎日、日を経るごとに、どんどん病状が悪化していくお母さんを……」

 わたしにはもったいないなぁ、なんて彼女は続ける。こんな綺麗な力を使われていいほどの人間じゃないのに、と。
 栞里はなにも言えず、押し黙ることしかできなかった。

「栞里ちゃんだけじゃない。皆が手を取り合えるような七夏先輩の《調和》も、誰かへの憧れが形になったみたいな紗代先輩の《模倣》も、わたしには眩しすぎるの」

 澪は不意に懐から十円玉を出すと、そのまま握りしめた。

「……どれもわたしの《破壊》とは大違いなんだもん」

 澪が次に手を開いた時、そこに十円玉は存在しなかった。
 代わりにあったのは、かつて十円玉だったわずかな黒い塵だけだ。

「《破壊》……それが澪の……」
「そう。栞里ちゃんとはまるで正反対で、誰かを傷つけて、壊すことしかできない……そんな心を持つ人間なんだよ、わたしは」

 澪はかつて妹のかほを守りたい一心で、包丁を手に精霊獣に挑みかかった。
 でも結局その刃は届かなかった。おそらくは、その精霊獣が行使した魔法に阻まれて。
 だからこそ、澪は望んだのだ。
 ただ、《破壊》を。
 もしあの日の自分に、あの精霊獣の魔法を破壊し、殺せるだけの力があれば――と。
 家族を元に戻すことではない。過去の事実を否定し、復讐のための力を得ることを澪は望んだ。望んでしまった。

「最初はね、お父さんやお母さん、かほの意識が戻ったって聞いた時、もしかしたらって気持ちがあったんだ」

 精霊獣に家族を襲われ、魔導協会に保護されて以来しばらくは、眠ったままの家族の病室を訪れて眺めるだけだった。
 大切なものを失ったような空虚感の奥に、まだどこかしら期待があったのだ。
 目が覚めたら、なんてことないように笑って迎えてくれて、またあの幸せに戻れるかもしれない。
 でもそんな期待は、目覚めの知らせを受けて病室を訪れた最初の日に崩れ去った。

『お母さん、目が覚めたの!?』

 病室の扉を開けると、母はベッドで横たわって天井を見上げていた。その目は確かに開いている。
 嬉しさに涙が溢れそうだった。なくしたものが戻ってくる気がした。
 だけど母に近づくと、澪はその異様さに気がついた。

『いぅー。うぅーあー』
『お母さん……?』
『あぅー』

 この頃はまだ拘束されていなかったものだから、澪の母は突然ごろごろと体を動かし始めたかと思うと、そのままベッドから転げ落ちた。
 澪は慌ててベッドに戻そうと近づいた。しかし澪の母は澪には目もくれず、まるで歩くことさえ忘れたみたいに四つん這いになって歩き始める。

『どう、したの……? お、お母、さ……』

 近くでもう一度声をかけてようやく澪のことに気づいたようで、澪の母が澪を見た。
 まだほんの少し、期待していた。
 自分の名前を呼んでくれるかもしれない。覚えてくれているかもしれない、と。
 ……だけど。

『おあーっ』
『ひっ』

 赤ん坊のようなつたない声を上げ、手を伸ばしてくる母の手を、澪は無意識に振り払っていた。
 澪の心が、こんなのは自分の母親などではないと拒絶した。
 そうしてその時、ようやく澪は理解した。
 もう澪以外の家族の誰一人として、今まで一緒に過ごした思い出を覚えていない。
 自分は、一人になったのだと。

「……ずっとずっと、消えてくれないの。お父さんやお母さん、かほのことを考えるだけで、どうしようもない怒りが湧き上がって、わたしの心を支配するの」

 ぎゅう、と。澪は胸の前で手を強く握りしめる。

「今回だってね……わたしは、栞里ちゃんを傷つけるためにここに来たんだよ」
「私を……傷つける?」
「わたしの家族の状態を見せれば、わたしを止めることを諦めてくれると思ったから」

 今までに見たことがない、怒りの感情をたたえた暗い表情を彼女は浮かべていた。
 栞里の前では、ずっとそれを隠してきたのだろう。
 でも本当はきっと、自分のすべてを奪ったエプシロンに対して、彼女はずっと怒っていた。

「栞里ちゃんは気づいてるんでしょ? わたしが朝に外出してた理由」
「……精霊獣エプシロンを探し出して、始末するため」

 澪は頷いて肯定する。

「もし見つけられても……たぶん、敵わない。精霊は魔法少女よりずっと強いらしいから。ましてや新米魔法少女のわたしなんかじゃ、絶対返り討ちだと思う」
「……」
「でもね。それでも、せずにはいられないの。お父さんやお母さん、かほと同じような末路になるんだとしても……やめられない」

 澪は、懇願するように栞里を見た。

「だから、栞里ちゃん……わたしのことは放っておいていい。救わなくていい……忘れてくれたっていいから。どうか……わたしのことは諦めて?」
「澪……」
「わたしの、一生のお願い」

 姿勢を正し、澪は真摯に頭を下げた。
 栞里は、澪が今、どんな気持ちなのかを想像してみる。
 澪の家族の状態に、自分の母親を当てはめて、想像してみる。
 ……痛みで胸が張り裂けそうだった。

(……どうすれば……)

 一番苦しいのは自分のはずなのに。一番悲しいのは自分のはずなのに。
 忘れてくれたっていいだなんて。
 そうされることの痛みを誰よりも知っているはずなのに、そんなことを自分から言ってしまえるくらい傷つきながら進もうとしている彼女を、どうすれば癒やしてあげられるだろう。
 誰にもすがろうとしない彼女に、辛い時は目一杯甘えていいのだと、どうすれば教えてあげられるのだろう。

(お母さん……)

 ――一つ目は、言葉を大切にすること。言葉は力を持つから。
 ――あなたの言葉が誰かを救うこともあれば、きっと、誰かを傷つけることもある。その責任は他の誰でもない、あなたのものなの。
 母から言われた、大切にしてほしいと言われた三つのことのうちの一つ。
 どんな言葉なら澪に気持ちを伝えられる?
 どんな言葉なら……。

「……澪」

 まだ、わからない。まだ見つからない。
 それでも少なくとも、今の彼女をこのままにしておくわけにはいかない。
 その一心で栞里は口を開いた。

「澪は一つ、勘違いしてる」
「……勘違い?」
「私は澪を止めたいわけじゃない。澪の力になりたいと思って、ここにいる」
「えっと、それって……?」
「つまり、澪の精霊獣探しを手伝いたいってこと」

 そう言うと、澪は見るからに狼狽え始めた。

「な、なに言ってるの栞里ちゃん!? そんな、き、危険だよっ? 下手したら栞里ちゃんも……!」
「危険云々は澪には言われたくない」
「そ、それは……でもっ」
「どうして慌てるの? 澪は、私を傷つけるためにここに連れてきたんでしょ?」
「ちがっ……わない、けどっ……これはわたしの問題で……!」

 乱心した栞里をどうにか止めようと躍起になっている澪を見て、ああ、と栞里は気づいた。
 結局のところ、澪はただ、栞里を巻き込みたくないだけなのだ。
 栞里を傷つけるためだなんて彼女は言っていたけれど。
 きっと彼女は、わざわざそうなるように仕向けた自分を誰よりも嫌って、栞里が傷つく以上に、自分で自分の心を傷つける。
 澪は嘘つきだ。
 嘘をつくにはいささか純粋すぎて、不器用な嘘つき。

「ねえ、澪」

 一度言い始めたら、次々に言葉が浮かんでくる。
 言いたいことがたくさんあった。伝えたいことがたくさんあった。

「お金は……とても大事だから。人間社会において九割以上のものはお金で買える」
「え? う、うん」

 急になんの話? と、澪は目をぱちくりとさせる。

「私が作った卵焼き、おいしかった?」
「おいしかった……よ?」
「ちょっとしたことで澪とおかえりとただいまって言い合うの、実は私結構気に入ってる」
「わたしもそれは悪い気はしないかなって思ってた、けど……」
「あのLEINっていう謎の通話アプリももっと使って澪と話してみたい」
「謎ではないよ……?」
「勉強会も楽しかった。あの疑いようもなくコアラのぬいぐるみも、澪に気に入ってもらえてたみたいで嬉しかった」
「えっと……栞里ちゃん……?」

 栞里がなにを言いたいのか掴めないようで、澪は困惑している。
 けれど栞里が言いたいことなど、本当に簡単なことだ。

「澪。澪は私を巻き込まないように、私を遠ざけようとしてる。わざと嫌われるようなことをしてまで。違う?」
「……それは……」
「自惚れかもしれないけど……それは澪が、私のことを大切だって思ってくれてるからだって、私は感じてる」

 大切だから、失いたくない。父や母、妹と同じようになってほしくない。
 澪は栞里のことを、そう思ってくれている。
 でも澪はまだ気づいていない。それは結局、逆も同じことなのだ。
 夢を見たということは、お互いがお互いを思っているということで、それはつまり、栞里もまた澪のことを大切に思っているということで。
 同じように、失いたくないと思っている。

「澪。私は澪がいなくなったら、悲しい。澪が私のことを忘れたら、もっといっぱい悲しい」
「……栞里ちゃん……」
「私がいなくなったら、きっと澪がたくさん悲しんでくれるように、私も澪と同じ気持ちになる」

 澪は、辛そうだった。
 どうかそんなこと言わないでほしい。お願いだから、もう、自分なんかに構わないでほしい。
 そう懇願するような、悲しい顔だ。
 でも栞里は、澪にそんな顔をしてほしいわけじゃなかった。
 だからまだ、伝えなくてはならない。
 もしかすれば彼女がもっと辛く、悲しい思いを味わう結末に終わるだけかもしれなくても、伝えなくてはならない。

「私は澪と出会ってから過ごした時間の全部を、大切だって思ってる。でも……それだけじゃない。私はまだ、もっと先のことを夢見てる」
「先のこと……?」
「うん。私はもっと澪と一緒にいたい。もっといっぱい話して、遊んで、それから……」

 照れくさそうに、それでいて嬉しそうに、栞里は言った。

「――いつか澪と、本当のパートナーになりたい」

 胸の前に手を当てて、心からの好意と感謝を込めて、栞里は澪に向かって笑いかけた。
 ――パートナーとして、栞里ちゃんの助けになりたいの。
 思い出す。
 澪がその言葉をかけてくれた時に感じた、かけがえのない気持ちを。
 暗い深海の底にいたような心の奥に、ぽうっと明かりが灯って、ドキドキと胸が高鳴るような、不思議な感覚。
 それを思い返しさえすれば、栞里はもう、どんな時だって笑えるような気さえした。

(そうだ……これが、私が澪に伝えたかったもの……)

 これが母を亡くし、心に穴が空いたように空虚に過ごしていた栞里が、澪からもらったものだ。
 知ってほしかった。たったの数日だとしても、一緒に過ごしたその短い時間を、栞里がどれだけ大事に思っているのか。愛しているのか。
 もしこれでも思いが届かず、「そんなのどうでもいい」と拒絶して破滅の道を歩むようなら、もう栞里には澪を止められない。
 だからせめて、さきほど澪が栞里に願ったように、栞里もまた澪に願ってみる。
 もしも澪が同じ気持ちなら、これから先もその時間を一緒に紡いでほしい。
 そう、強く願う。

「…………ずるい……」

 長い沈黙を経て返ってきた言葉は、そんな三文字だ。
 はっと栞里が澪の顔を見てみれば、彼女は泣いていた。
 悲しさも嬉しさも、過去の思いも未来への思いも、全部が全部ごちゃまぜになったような顔で、大粒の雫を大量に瞳から流して泣いている。
 そんな反応をされるとは露ほども思っていなかった栞里は、思わずその涙を拭おうと澪の顔に手を伸ばした。
 けれど澪はそんな栞里の手を置き去りにして、栞里の胸に飛び込む。

「み、澪?」

 背中に手を回し、これでもかというくらい強く抱きしめて、戸惑う栞里を離そうとしない。

「わたしは……先のことなんて、考えたくなかったのに……なんで……なんでそんなずるいこと言うの……」

 終わるつもりだった。
 もう一度精霊獣に挑んで、それで終わりにするつもりだった。
 生き残るつもりなんて、本当は最初からなかったんだ。
 父や母、妹と同じ末路をたどるなら、それでもいいと諦めていた。
 始まったばかりの高校生活も、魔法少女としての日々も、栞里との語らいも。
 すべてを奪った精霊獣を見つけるまでの、最期の思い出作りのつもりだったのに。
 なのに。
 なのにどうして、そんなわたしに未来の話なんてするのか。

「ひどいよ、栞里ちゃん……ひどい……」
「……ごめんね」

 違う、違う、違う。
 澪は何度も首を横に振った。
 謝ってほしいわけじゃない。そうしなきゃいけないのはむしろ、澪の方なのだ。
 だから、答えなければ、と思った。
 栞里の思いに、願いに、答えなければ。

「……わたしも……」

 澪は、その続きを言ってしまえば、今までの自分の強がりのすべてが容易く崩れてしまうことを知っていた。
 そのことをずっと拒絶していたはずだったのに。それだけは言ってはいけないと、何度も自分に言い聞かせていたのに。
 一度言い始めてしまったら、それは心の底からの本音のように、するりとこぼれ落ちた。

「わたしも、もっと皆と……栞里ちゃんといたい……いたいよ。栞里ちゃんと……いつの日か、正式なパートナーになりたい……」

 望んでしまった。終わりにするはずだった未来を。
 ありえるかもしれない未来を夢想して、自分もそこに行きたいと、思ってしまった。
 もう、堪えるのは無理だった。
 ずっと一人で抱えて隠していた痛みが溢れ出す。誰にも見せずにいた涙が堰を切って止まらない。

「……お父、さん……お母さん……ぅ……かほぉ……」

 栞里の胸に顔を埋めたまま、澪は泣きわめいた。
 栞里はそんな澪の背中に手を回すと、微笑みながら、もう片方の手で頭を撫でる。

「……澪。私も澪を手伝うよ。一緒にエプシロンを見つけ出して、私たちの手で、全部終わりにしよう」
「……うん」
「負ける気なんてない。絶対に勝って、私も澪も、その先を一緒に生きるの」
「……うん」

 栞里と澪がしようとしていることを知ったら、七夏や紗代、レンダはなにがなんでも止めようとするだろう。
 これはそれほどまでに危険なことだ。
 だけど、やめるつもりは毛頭なかった。
 これ以上、誰も悲しむことがないように。
 そして澪と同じ未来を生きるために、必要なことだ。
 必ず勝つ。そして、二人で生き残る。

「澪も、約束だよ」
「…………う、ん」

 涙声で言葉を支えさせながらも、確かに澪はそう答えた。
 澪が泣き止むまで、栞里は澪をよしよしと撫で続ける。
 澪が栞里を拒絶しようとすることは、もうなかった。
 二人が栞里の家に帰ってくる頃には、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。

「その……本当にごめんね、栞里ちゃん」
「それは何度も聞いた。澪が謝ることじゃない」

 家族の状態を事前になにも教えず病院に連れて行ってしまったこと。栞里に辛い気持ちを味わわせたこと。他にもいろいろ。
 そんなことの一つ一つで、道中ですでに同じ謝罪の言葉を数え切れないほど聞いていた栞里は、若干呆れながら同じ答えを返す。
 しかし栞里の返事に、すっかり瞼を泣き腫らしてしまっている澪は「そうじゃなくて」と、ふるふる頭を振った。

「その……服……」
「服?」
「栞里ちゃん気づいてないけど……わたしが泣いたせいで、ぐちゃぐちゃになってるから……それも、よりにもよって制服が……」

 気まずそうに視線をそらす澪の言葉を聞いて、栞里はようやく自分の体を見下ろして、その惨状に気がついた
 澪が顔を埋めていた辺りが湿ってふやけて汚れてしまっている。

「…………乾けばきっと大丈夫」
「答えるまで間があったけど……」
「……」

 栞里は無言で制服を摘むと、湿った部分を鼻に当てて息を吸い込んだ。
 澪は一瞬ぽかんとした後、瞬時に顔を真っ赤に染めて栞里に詰め寄る。

「ちょ、ちょっとぉ!? なにしてるの栞里ちゃんっ! 汚いよ!?」
「大丈夫……澪の香りしかしない。これなら乾けば大丈夫……」
「全然大丈夫じゃないからぁっ!」

 主にわたしの方が! という心の声が今にも聞こえてきそうな叫びだった。

「ク、クリーニング代ならわたしが出すし……ちゃんと洗おう? ねっ?」
「むぅ」
「制服は大事にしないと!」

 澪の凄まじい剣幕に押されて、栞里はしぶしぶ了承する。
 澪は心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。

(し、栞里ちゃん、たまに平気な顔でとんでもないことしでかすなぁ……)

 動転したせいで未だドキドキと激しく脈打っている心臓を落ちつかせながら、澪は栞里とともに居間に向かった。
 昨日と同じように二人で台所に立って、夕飯を作る。
 昨日と同じように……。

「えへへ」

 栞里に家族の様子を見せに行こうとした時から、澪はもう、栞里と今まで通りに接することはできなくなるだろうと思い込んでいた。
 でも今、すべてを話した後でも変わらず、栞里は自分の隣にいてくれる。
 それがなんだかたまらなく嬉しくて、澪は調理中、たびたび堪えきれず笑みをこぼしてしまっていた。

「昨日はわたしが先に入れてもらったから、今日は栞里ちゃんが先にお風呂かな。その制服も、あんまり長く着てない方がいいだろうし」

 夕飯を食べ終えて、澪がそう言うと、栞里は肯定の返事も否定の返事もせず、じっと澪を見つめ始めた。

「えっと……どうかした? 栞里ちゃん」
「昨日は一人ずつだったから、今日は一緒に入ろう」
「はい? ……え、えぇええっ!? 一緒にって、あの、一緒にお風呂に入るってことっ?」
「それ以外にどんな意味が?」
「い、いや……でも……」

 高校生にもなってそれは……と澪が躊躇していると、栞里が見るからにしょんぼりし始める。

「むぅ……駄目?」
「だ、駄目…………ではない、けど……」
「……けど?」
「…………駄目じゃない、です」
「そっか。じゃあ、せっかくだから一緒にお風呂、入ろう」

 お風呂の話になった時に、ずっとそれを言い出そうとしていたのだろうか。
 二人で一緒に入るのがそんなに楽しみなのか、栞里の目はきらきらとしていた。
 そんな目をされては前言を撤回して断れるはずもなく、澪は縮こまりながら栞里の後に続いた。
 着替えを用意し、脱衣所で服を脱いで、浴室へ。
 一緒に入るとは言っても、栞里の家はそこまで広くはないし、お風呂も一般家庭のそれと大差ない。
 さすがに十代後半の少女が二人入るには手狭で、当然ながら体を洗うのも順番ずつだ。

(……もしかして、わたしが一人になる時間がないよう、栞里ちゃんなりに気を遣ってくれたのかな……)

 一足先に体を洗い終え浴槽に浸かっている澪は、髪を洗う栞里をぽーっと眺める。

(わたしはもう……平気なのになぁ)

 今なら、なんとなくわかる気がする。
 自分はたぶん、きっとずっと心のどこかで、誰かに自分のことを全部話して、思い切り甘えてしまいたかったのだ。
 痛みも、悲しみも、苦しみも、怒りさえも。
 その全部を受け止めて、受け入れてほしかった。
 でも、そうしてくれるような人はもういないから。そうしてくれるかもしれなかった人こそを、失ってしまったから。
 だから諦めてしまっていた。
 でもそんな自分に、栞里が手を差し伸べて、救ってくれた。
 感謝してもしきれない。

(……それにしても……)

 年甲斐もなく栞里の胸に抱きついて、泣きわめいた時のことを思い出す。
 あんなことをしでかしてしまった恥ずかしさだとかなんだとか、そういう気持ちはもちろんあるが、澪が今思い出しているものはそういう感傷的、もといセンチメンタルな感じのものでは全然なく、もっとずっと現実的なものだった。

(…………栞里ちゃんの胸、柔らかかったな……)

 あられもない姿で体を洗う栞里を見ながら、澪はそんなことを思った。

(紗代先輩よりは小さいにしても……栞里ちゃんもなかなかだよね。や、紗代先輩が大きすぎるだけなんだけど……でもわたしは、栞里ちゃんくらいの方が好きかも)

 頭の中だからと割と好き勝手なことを考えつつ、澪は栞里から視線を外すと、比べるように自分の体を見下ろした。

(……ちんちくりんだなぁ)

 はぁ、とため息をつく。
 ちょっとはあるけれど、栞里や紗代には到底及ばない。七夏になら勝てるかもしれないが、五十歩百歩だ。

(うーん……大きいのと小さいの……)

「栞里ちゃんは、どっちが好きなんだろ……」
「私がどうかしたの?」
「栞里ちゃんは、大きいのと小さいの、どっちが好きなのかなって……」
「なんの大きさ?」
「なにって、だからむ――――ひゃわぁっ!? し、し、栞里ちゃんっ!?」

 髪と体をちょうど洗い終え、急に名前を呼ばれたから反応しただけだったのだが、なぜか異様に驚かれて、逆に栞里の方が目を丸くした。

「え。ど、どうしたの澪。大丈夫……?」
「だ、だいじょ、だいじょぶ……だ、だけど、い、い、いつからわたし……ど、どこから口に出てた、の……?」
「私が大きいのと小さいの、どっちが好きかって……結局なんの話?」
「えっと、あの、その……か、か、か」
「か?」
「カレーのにんじん! 栞里ちゃんは大きく切ったのと小さく切ったのどっちが好きなのかなってっ!」

 目を右往左往とさせた後、瞼を力いっぱい閉じながら全力で言い切る。
 あまりにも苦しすぎる言い訳だったが、栞里はこんなしょうもない言い訳で納得してしまったようで、なるほどと頷いた。

「私は小さい方が食べやすくて好き。中に火も通りやすくて、口の中で柔らかくとろけてくれる。澪は?」
「わ、わたしはその、大きくも小さくもない普通くらいの大きさが、食べごたえもあっていいかなって」
「そっか。じゃあ明日は澪の好みに合わせたカレーにしよう」

 どうやらカレーを食べたいと思われてしまったようである。
 得意げに人差し指を立てて提案する栞里に澪は内心謝った。
 入浴を終えると、栞里の部屋で他愛もない話をする。
 栞里はたびたびあくびをして、ずいぶんと眠そうにしていた。
 それもしかたない。澪が朝早くに出かける際の物音で目覚めて、ずっと起きたままだったのだ。
 澪は早朝の外出をここ最近何度も続けていたから慣れたものの、栞里はそうではない。

「明日は休日だから、一日中精霊獣探しができるね」

 今日は明日に備えて寝ようということになると、明日することを確認するように栞里が言った。

「……うん。でも、栞里ちゃん。本当に……」

 本当についてくるの? と。
 言いかけた言葉は、栞里に制止される。

「私も澪と同じ気持ちだって、そう言った」
「……ん」

 栞里がいなくなったら澪が悲しむように、逆も同じだ。
 そう言われたら、澪はもう言い返せない。

「……ねえ、栞里ちゃん」
「うん?」
「今日は、一緒のお布団で寝てもいい?」
「うん」

 二つ返事だった。
 お風呂の時は栞里が言い出したことだったが、今回は澪の方からだ。

(えへへ。わたしはもう平気だけど……今日くらい弱ったふりして甘えたって、罰は当たらないよね)

 澪は栞里の布団に潜り込むと、向かい合って横になった。
 顔が近くて、なんだかちょっとこそばゆい感じがして、少しずつ体温が上がってくる。
 照明が消えると、栞里の顔が見えなくなって、ちょっとだけ不安になった。
 だから澪は、布団の中で栞の手を手探りで探し当てて、ぎゅっと握った。
 栞里の体温が、手のひらを通して伝わってくる。

(栞里ちゃんの匂い……なんだか、安心する……)

 次第に澪の意識は遠くなっていく。
 二人で入る布団の中はちょっと狭くて、少し暑苦しかったけれど。
 大切な人と手を通して繋がっている距離感と、その居心地は、他のどんな場所よりも心地よく、心から安心できるものだった。
 窓越しに聞こえる小鳥のさえずりに栞里が目を覚ますと、眠る澪の顔が目の前にあった。
 一瞬思考がフリーズした栞里だが、昨日、一緒の布団で寝たことをすぐに思い出す。

「……澪」

 ささやくくらいの小さな声音で、名前を呼んでみる。
 返事はなく、澪は変わらず規則正しい寝息を立てている。
 まだ寝ているなら無理に起こすこともないだろうと判断し、栞里は澪を起こさないようにゆっくりと上半身を起こした。
 朝食を作るため、ベッドから出ようとしたところで、自分の手の片方が澪のそれと固く繋がれていることに気がつく。

「……」

 それがなんだか甘える子どもみたいに思えて、気がついた時には、栞里は寝ている澪の頭を撫でてしまっていた。

(そういえば、私も昔、こんな風にお母さんと一緒に寝てたっけ)

 もっとも栞里の場合は、子どもだった栞里の方からではなく、むしろ母の方から毎日のごとく嬉々として誘われていたのだが……。

(あの頃のお母さんも……今の私と同じ気持ちだったのかな)

 当時のことを思い返しながら澪の髪をくすぐっていると、ふと、その頬が当初より赤みを帯びていることに気がついた。
 よく見てみれば耳も同様に朱色に染まっており、足ももじもじと小刻みに動いている。
 なんとなく、というかほぼ確信を持って、栞里は口を開いた。

「…………澪、起きてる?」
「………………起きてない、です」

 なんて答えると、おそらくはずっと薄目を開けていた眼を外気に晒して、恥ずかしげに縮こまったのだった。



   ✿   ✿   ✿   ✿



 朝食と身支度を済ませ、家を出た栞里と澪は、並んで街の中を歩いていた。
 昨日まではほぼ制服で過ごしていたが、今日は土曜日で休日のため、二人とも私服である。
 とは言え、目的が目的だ。いざという時に邪魔になったり転んだりしたりしないよう、動きやすい軽装を選んできている。
 ついでに栞里は七夏から譲り受けたメガネもつけて、魔力の痕跡も見えるようにしていた。
 澪は魔力操作は得意な方らしく、もう道具を使わずとも魔力を見ることはできるようだ。

「エプシロンの動向について、澪はどれくらい把握してるの?」

 そろそろ桜も見れなくなってきてしまった並木道を進みながら、栞里は呟く。
 澪は栞里が魔法少女になる以前から、エプシロンを探すためにある程度行動を起こしていたはずだ。
 だからなにか心当たりでもないかと澪の方を見たのだが、澪は申しわけなさそうに首を横に振った。

「ごめんね。実は、わたしが危ないことしそうだっていうのはレンダちゃんにもちょっと危ぶまれてて……ここ最近まで家に監視もついてたし、あんまり大きくは動いてなかったんだ」

 家に監視。そういえば、レンダもそんなことを言っていた気がする。
 あの時は『一人だと危険だから』といったニュアンスだったが、実際のところはそれに加え、エプシロンが一度活動した場所としての警戒と、澪が危険なことをしでかさないかの監視の二つの意味も含まれていたのだろう。
 しかし同時に、レンダが言っていたように、今の魔導協会は人手不足の問題も抱えてしまっている。
 だからこそ、栞里の家に澪が同居するようになったことを皮切りに、監視の目もなくなった。
 そしてそれによってようやく澪はまともに動けるようになったのだった。

「一応、便利そうな地図アプリを使って自分なりに調べてはいるんだけどね」

 澪は自分のスマホを取り出すと画面を操作して、そのアプリを呼び出す。
 栞里も横から覗き込んでみると、画面上に表示されたこの街の地図の上に、さまざまな色の線や記号が書かれている。

「えっとね……まず赤いバツ印がエプシロンが過去に実際に人を襲ったところで、右下の小さな数字がその時間帯。黄色で囲ってある部分が、もう魔導協会が目星をつけて密かに警戒してる場所」

 澪は画面上を指差しながら丁寧に説明していく。

「緑の線は協会がよく巡回している基本ルートで……青い線は、私がエプシロン探しで行ったことがある場所。それから青い丸は、巡回ルートではないけど協会の関係者っぽい人を見かけたところかな」
「……澪。大きく動いてなかったって言ってなかった?」

 一個人で調べるには凄まじいほどの情報量とまとめ具合だ。
 栞里が疑わしそうな目線を向けると、澪はぺろりと舌を出した。

「えへへ、動いてはないけど調べられてないとは言ってないからね。それにしばらく協会に保護されてた関係で情報は結構持ってるんだよ、わたし」

 レンダちゃんとかよく寝てるから書類も見放題だったし、と得意げに澪は続けた。
 栞里の中でレンダの評価が三段階くらい落ちた瞬間であった。

「……でも、こうして見てみると、協会は結構広範囲で調査してるんだ」

 澪が実際に足を運んだという青い線が引いてある部分はさすがに少ないが、それでもその短い線の上に、協会の関係者らしき人を見かけたという青い丸がちらほら見受けられる。
 特に協会が注意しているらしい黄色で囲ってある部分も、今まで人が襲われた赤のバツ印の位置からある程度の推論を立てて定めているように感じた。

「これだけやってるのに尻尾が掴めない……ってことは」
「ってことは?」
「……エプシロンは、協会の調査情報を掴んでる?」

 あくまでも可能性の話に過ぎないが、そう仮定してみれば、これから調べるべき場所にもだいぶ目星がつけられる。

「やっぱり栞里ちゃんもそう思う?」
「澪も?」
「うん。これはわたし個人の考えなんだけどね……エプシロンの正体は、レンダちゃんと同じように協会に所属してる精霊の一人なんじゃないかなって思ってるの」

 協会に所属する精霊はヘイトリッドを主な食事として、むやみに人の記憶を食べることを禁止されている。
 もしもエプシロンの正体が魔導協会に属する精霊だというのなら、すなわち裏切り者にほかならない。

「なるほど……確かにそれなら、いくら調べても尻尾が掴めないのにも説明がつく」
「精霊の姿は魔法で作ったものだから、いくらでも誤魔化しもきくだろうしね。でもそうなると、わたしがあの夜に見たエプシロンの顔や姿も、どの程度参考になるか……」
「ふむぅ……」
「たぶんだけど、裏切りの可能性には協会の人たちも気づいてるんじゃないかなって思うの。でも大々的にそんな推測を口にしたら、当然エプシロンに警戒される……」

 栞里はここで、二日前にレンダから見せてもらったエプシロンについての資料の内容を思い出した。

「……だから資料には、精霊の裏切りを示唆するような記述はなかった?」
「うん。何度も言うみたいに、全部推測に過ぎないけどね」

 ともすれば自分の人生を投げ売ってでもエプシロンを見つけ出そうとしていた澪の推測ならば、じゅうぶん信頼に足るものだ。
 つまるところエプシロンを探すのならば、この地図上の印がついた箇所以外のどこかということになる。

「それじゃまずは、近くのこの辺から行ってみよっか。栞里ちゃんもそれでいい?」
「ん」

 こうして二人は、澪の地図アプリを参考に調査を始めた。
 エプシロンを見つけることももちろん重要だが、もう一つ注意すべきこともある。
 それは魔導協会所属と思しき者に、栞里と澪の目的が露見しないように気をつけることだ。
 もし独断でエプシロンを探そうとしていることが知られれば、まず間違いなく保護されて新たな監視をつけられる。
 そうなればもう自由にエプシロンを探して回ることはできない。
 幸いなことと言えば、栞里と澪の二人とも、まだ新米の魔法少女という点だろう。
 協会の人間にほとんど顔が知られていない関係上、そもそも協会の所属だと悟られる危険自体少ない。
 ただし栞里と違い澪は一度魔導協会に保護されているし、精霊獣事件の被害者の家族でもある。わかる人にはわかってしまう可能性もあった。

「似合うかな?」

 そういうわけで栞里と澪の二人は急遽、澪の軽い変装用の小道具を買うために衣料品店を訪れていた。
 少し大きめのキャスケット帽をかぶった澪が、姿見の前でくるりと回る。

「ん。似合ってる」
「えへへ……でも、なんだかちょっと残念そうな顔してるよ?」

 本当は似合ってないんじゃ……? と不安そうにする澪に、栞里はふるふるとかぶりを振る。

「じゃあ、どうしたの?」

 澪の問いに栞里は帽子の上から、ぽんっと澪の頭の上に手を置いて答えた。

「帽子越しだと……撫でにくい」

 むむむ、と無念そうに唸る栞里。なにやらこだわりがあるようだ。
 なるほどねぇ、と澪は苦笑した。

「……でも、似合ってるのは本当。これまで制服かパジャマしか見てなかったから、私服の澪は新鮮。帽子でさらにおしゃれになった。いじらしく咲いた花みたいで、とても可愛い」
「へっ!? あぅ、えとっ、その……うぅ……あ、ありがと……」

 なんてことないように急に持ち上げてくるものだから、澪は一気に顔を朱に染め上げて、しぼみがちに返事をした。

「し、栞里ちゃんも、雰囲気が普段と違って見えて……すごくかっこよくて、可愛い、よ?」
「ん。ありがと」
「め、メガネも! 凛々しくて知的に見えていい感じ!」
「これはエプシロンを少しでも見つけやすくするためにつけてるだけだけど……私はまだこれがないと魔力の痕跡が見えないし」
「…………むー……」

 澪なりに頑張って褒め返したつもりだったのに、なんてことないように流されて、澪はぷくーっと頬を膨らませた。
 しかし澪はそこで良いものでも見つけたように顔を上げると、小走りで栞里の横を通り抜けた。
 栞里の背後の商品棚にあった物を手に取り、栞里が声をかける間もなく会計を済ませて、栞里のもとに戻ってくる。

「はい、栞里ちゃん」
「……ヘアピン? もらっていいの?」
「うん。昨日たくさん迷惑かけちゃったから、そのお詫びとお礼を兼ねて……かな?」
「そんなのいいのに」
「わたしがしないと気が済まないだけだからいーのっ。それにね、さっき一目見た時に思ったの。絶対栞里ちゃんに似合うって。だからこれ、栞里ちゃんにつけてみていい?」
「……ん」

 目を閉じて、頭を差し出した栞里の髪に、澪は買ってきたヘアピンをつける。
 変に髪型を変えると本人も違和感を覚えるだろうから、邪魔にならないようサイドの髪をほんの軽くまとめる程度だ。

「はい、できたよ」
「……花の飾りがついてる」

 姿見でヘアピンを確認し、指先で触れる。
 さきほど澪がこのヘアピンを持っていった棚を見る。そこにはご丁寧にモチーフとなった花の名前も書かれていた。

「ルリトウワタ?」
「別名オキシペタラム、ブルースターなどだって」

 栞里の聞いたことがない花の名前だったが、いつの間にやらスマホでネット検索をかけていた現代っ子こと澪が横から補足する。

「咲いた花の形が青い星みたいだからブルースターって呼ばれるようになったみたい。花言葉は……ふふ」
「……? どうしたの?」
「花言葉は、幸福な愛。信じ合う心、だって。栞里ちゃんにぴったり」
「ぴったりかな」
「ぴったりだよ。だって栞里ちゃんがそういう人だったから、わたしは今もこうして一緒にいられるんだもん」

 栞里はもう一度鏡の前に立って、ヘアピンをつけた自分を見る。
 そこで栞里は自分の口角がわずかに上がっていることに気がついた。

(……そっか。嬉しいんだ、私)

「ありがとう、澪」
「あ……う、うん……どういたし、まして」

 栞里の笑顔に弱い澪は、顔を赤くして口ごもる。

(あ、あれ……褒めても全然照れてくれなかったから仕返しのつもりだったのに、これ結局わたしが二度恥ずかしい思いをして終わっただけじゃ……)

 うー、と澪は頭を抱えてうずくまる。
 栞里はそんな澪を見て不思議そうにしていた。
 なにはともあれ澪の軽い変装用の小道具ことキャスケット帽を買い終えた二人は、ようやく本格的なエプシロン探しを始めたのだった。
「全然見つからない……」
「見つからないねー……」

 道中の段差に腰を下ろし、若干の休息を取りながら、ため息をこぼす。
 澪が持つ地図アプリを頼りに、印がついていない箇所を巡っていた栞里と澪だったが、結果は芳しくなかった。
 そも、栞里と澪よりずっと人数が多く情報も手段も持っている魔導協会でさえ未だ補足できていない相手である。
 栞里と澪の二人が必死になって捜索したところで、遭遇できる可能性はずっと低い。
 無論それは栞里も澪も重々承知なのだけども、一日中探し回ってもなんの手がかりも得られないという徒労感はいかんともしがたいものだった。

「あっ」

 澪がなにかに気づいたように声を上げたかと思えば、さっとキャスケット帽を深くかぶる。
 澪がさきほどまで見ていた方に目線を向けてみれば、少し遠くの方をメガネをかけた二人の女性が歩いていた。
 一見しただけでは普通の通行人にしか見えない。しかしよく観察してみれば、その二人はまるでなにか探しものでもしているかのように、さり気なく周囲に視線を配っている。
 その二人が栞里たちとは別の方角に消えたのを確認すると、栞里は澪の肩をぽんぽんんと軽く叩いた。
 澪はそれにおそるおそる顔を上げ、きょろきょろと辺りを見渡してから、ほっと息をつく。

「協会の人、だったよね。今の」
「たぶん」

 澪はスマホの地図アプリの今いる地点に、協会の関係者らしき人を見つけた印として、青い丸を書き込む。
 澪が協会から盗んだ情報の外を巡っているはずなのに、こうして書き込んだ青い丸の数は、今日だけでもう四つ目だった。
 澪は青い丸の数を数えて、ふーむ、と唸る。

「ひぃ、ふぅ、みぃ……協会の情報の外を探してるはずなのにこんなに見つかるってことは、やっぱり協会の人たちも情報が盗まれてる可能性は考えてるのかな」
「だと思う」
「もしかしたらわたしたちが今やってることなんて、協会の人たちが毎日やってることなのかもね……」

 きっと栞里や澪が考えている以上の策や考えを、魔導協会は実施してきている。
 それだけやっても、まだ見つかっていない。
 栞里と澪の二人程度がエプシロンを見つけられる可能性自体、ずっと低いのだと思い知らされる。

「……もう結構な時間だねー」

 すでに西の空は夕焼けに染まり、東の空も藍色を帯びて、夜の訪れを予感させた。

「今日はもう引き上げよっか。さすがに夜に探すのは危険すぎるから」
「……でも、夜の方が見つけられる可能性は高いと思う」

 昼間は人目が多く、その犯行を関係のない一般人にさえ容易に見られてしまう危険がある。
 少しでも騒ぎが起きれば、協会はすぐさま駆けつけるだろう。エプシロンもその危険は留意している。
 実際、澪はかつて夜中に家をエプシロンに襲撃されたし、過去の被害のほとんども同様だ。
 本当にエプシロンを見つけ出したいのなら、おそらく日が沈んだ後こそが本番だ。
 しかし澪は栞里の提案に首を振った。

「わたしね、お父さんやお母さん、かほの仇を討ちたいって気持ちはもちろんあるけど、今はそれだけじゃないの」
「それだけじゃない?」
「えへへ……面と向かって言うと、ちょっと恥ずかしいけど……栞里ちゃんが昨日わたしにくれた言葉を思い出すとね、胸の奥の方があったかくなるんだ」

 澪は自分の胸の前に手を置いた。

「大切な思い出がいっぱいあったはずなのに、もうそんなこと家族の誰も覚えてなくて、ほんの少し昔を思い出すだけでも辛くて苦しくてしかたなかった。でも今は……栞里ちゃんがくれたこの温もりがあれば、いつか笑顔で思い返せる日が来る気がするの」
「澪……」
「だからいいの。こんな気持ち初めてだから、うまく説明できないけど……その……栞里ちゃんが一緒なら、わたしはそれでいい」

 澪はそう言って、照れくさそうに頬をかいた。

「ん……わかった。じゃあ続きはまた明日にして、今日はもう帰ろう」
「うんっ」
「と思ったけど、もう冷蔵庫に食材がないんだった。スーパー寄ってから帰ろう」
「あ、うん」
「ふふふ。そしてなんと私はちゃんと覚えている。今日は澪のリクエストのカレーにするって約束したこと」
「あはは……」
「気合を入れて辛口……ちょうどいい中辛……お母さんが好きだった甘口……どれも悩ましい……」

 妙に張り切って悩み始めた栞里を見て、澪は苦笑した。
 カレー云々は澪の苦しい言い訳から生じた勘違いなのだが、なんだかんだで澪も楽しみになってきていた。
 だから敢えて勘違いの訂正はせず、「甘口がいいな」と希望を告げて、栞里の横を歩いた。
 スーパーマーケットに入ると、二人は早速食材の吟味を始めた。
 今日作るカレーの材料はもちろん、後日の献立もつらつらと考えながら、食品をカゴの中に積んでいく。

「あら」

 そんな折、夜が近いこともあり、少し二人で手分けをして買う物を漁っている時だった。

「あ。ご、ごめんなさい」

 振り返った拍子に、澪は同じように買い物をしていた女性に軽くぶつかってしまった。
 澪が頭を下げると、その女性は「いいのよ」と返して、不思議な薄ら笑いを浮かべて去っていった。

「……あれ」

 ふと足元を見ると、小さく畳まれた紙切れが落ちていることに澪は気がついた。
 さっきまでは落ちていなかったものだ。
 もしかしたら今ぶつかった人の落とし物かもしれない。だとしたら、早く拾って届けないと。
 そう思い、紙に触れた瞬間、澪は言いようのない違和感を覚えた。
 これ自体はただの紙だ。それは間違いない。
 だけどなにか、普通と違うような……。

(……これ……もしかして、魔力?)

 網膜に魔力を張って見てみれば、そこには確かに、ヘイトリッドが残すような魔力の残滓があった。
 不審に思いつつ、紙切れを開く。
 そしてそこに書いてあった文字に、澪は大きく目を見開いた。

『家族の記憶を取り戻したければ、
 五年前の冬、妹にマフラーをプレゼントした小さな公園に一人で来なさい。
 誰かに知らせるようなら、私はもう人前に出てこない。
 あなたの家族の記憶は永遠に戻らない。
 私は常にあなたを見ている。

 あなたを愛するエプシロンより』

 バクバクと、うるさいくらいに心臓が脈を打つ。
 呼吸が乱れる。紙切れを持つ手が震える。
 ――エプシロンが、近くにいる。

「さっきの……!」

 さきほどぶつかった女性の顔を、澪は見ていなかった。
 彼女は一度もこちらに顔の正面を向けずに立ち去った。
 それは敢えてそうしていたのだと今更になって気がつく。
 精霊は人間の姿をかたどっている時、その瞳が見る角度によって色を変える。それが見えないようにしていたのだ。
 慌てて後を追ってみたが、もうどこにもその後ろ姿は見当たらなかった。

(……でも……)

 澪はまた紙切れに視線を落とす。
 常にあなたを見ている。この文章を見る限り、まだ近くにいることは間違いない。
 だけどそれは、澪の動きを監視するためだ。
 監視して、協会に連絡するような怪しい素振りを見せれば、即座に逃げるため。
 闇雲に手を打てば、せっかくの手がかりを失う羽目になってしまう。

(それに……『家族の記憶を取り戻したければ』って……)

 澪はてっきり、一度精霊に食べられてしまった記憶は二度と戻らないものだと思っていた。
 人が胃の中で消化してしまったものを食べる前の状態に戻せないように、もう消えてなくなってしまったのだと。
 もしかしたら、こんなものは澪を確実に一人でおびき寄せるためだけの嘘っぱちに過ぎないのかもしれない。
 だけどおそらく澪がそう考える可能性まで考慮した上で、エプシロンはこの紙切れを落としていった。
 なぜなら『五年前の冬、妹にマフラーをプレゼントした、あの小さな公園』という、その一文。
 澪は心当たりがあった。
 そしてそれは、澪と妹のかほ以外の誰も知らない思い出のはずなのだ。
 少なくとも、かほの記憶はまだエプシロンの中に残っている――暗にそう伝えるような、意地の悪い文章だった。

(……どうすれば……)

 もし栞里に接触を図れば、その時点でエプシロンは澪の前に現れなくなるだろう。
 なら、今すぐ電話で協会に知らせれば、あるいはエプシロンが逃げる前に間に合うだろうか?
 ……いや、エプシロンは電波を妨害する魔法を使うことができる。そしてそれを、おそらくもう使われている。
 スマホを取り出したところで、どうせ圏外だ。
 どれだけ考えたところで、結局のところ澪に提示されている選択肢は、エプシロンが思い描いた二つしかない。
 家族の記憶を取り戻すことを完全に諦め、栞里のもとへ戻るか。
 たとえすべてを失うかもしれなくても、今すぐ一人で指示された場所へ向かうか。

(……お父さん……お母さん……かほ……)

 笑い合ったあの日々は、もう戻らないと思い込んでいた。
 たとえ寂しくても、この痛みを抱えたまま、この先を生きていくしかないと思っていた。
 でももしかしたら、ほんの小さな可能性なのだとしても……またあの日常に、戻ることができるかもしれない。
 ふつふつと湧き上がる淡い期待が、澪の心を惑わしていく。
 それがエプシロンの思い通りの展開だとわかっていても、溢れ出る思いを止めることはできなかった。

(…………ごめん……栞里ちゃん……わたしは……)

 逡巡の後、栞里がいる方向に背を向けた澪は、建物の出口へ向かって駆け出した。
 家族の記憶を取り戻すため、かつて思い出を刻んだ公園を目指す。

(……栞里ちゃん、嘘つきでごめんね……)

 最後にほんの一瞬だけ振り返り、心の中でそう告げて。
 澪は、暗闇の向こうへと姿を消した。
 栞里が最初に異変に気づいたのは、行き交う人の一部が妙にざわめき始めた時だった。
 すれ違う彼らは皆一様にスマホを見て、訝しげな反応をしている。
 その時の栞里はまだ、どうしたんだろう、と軽く思う程度で、ほんの少し違和感を覚えたに過ぎなかった。
 だけど最初はわずかでしかなかったそれは、時間が経つにつれてふつふつと湧き上がり膨らんで、言い表し難い不安感を栞里の内に募らせていく。

(……澪、戻ってくるの遅いな)

 平時なら、軽く店内を歩いて探すくらいで済ませていただろう。
 だけどなんとなく嫌な予感がしていた栞里は、早めに合流するためにも澪に入れてもらったLEINのアプリで連絡を取ってみることにした。
 そしてその時に、すれ違った人たちが訝しげにしていた理由をようやく理解する。

「圏外……?」

 電波が届かない山奥だったりするのならわかる。
 だけどここは、なんてことのない街の、普通のスーパーマーケットだ。
 それも周り様子を見る限り、栞里一人の問題ではなく、おそらくここら一帯の全員の電波が繋がらなくなっている。
 ――って言っても、確かエプシロンが行動起こす時って電波妨害の魔法とか使ってくるんじゃなかったっけ?
 不意によぎる、昨日の七夏の言葉。
 嫌な予感は確信に変わり、栞里の額を冷や汗が流れ落ちた。

「波打て、追憶の海――!」

 ショッピングカートを放り出し、急な動作に驚く人たちの視線を棚で遮って、変身に必要なワードを唱えた。
 澪がまだ店内にいる、などという甘い考えは栞里の中にはない。
 彼女が協会の監視から外れて間もないこの時期の、栞里と澪が一時的に離れたタイミングでの、近場での電波妨害。
 狙いなど知れているというものだ。
 衣装の変化が完了すると、すぐに腰のホルスターからハンドガン型の補助具を取り出して、認識阻害の魔法を装填して引き金を引く。
 棚の影から飛び出した彼女を気に留める人は、もういなかった。



   ✿   ✿   ✿   ✿



 栞里とエプシロンを探していた頃は夕暮れだった世界は、今はもう夜の闇に包まれていた。
 春にしては少し肌寒い空気が頬を撫で、吹き抜けていく。
 薄暗い雲の向こう側にかすかに見える、爛々と輝く満月は、世界にぽっかりと空いてしまった穴のようだ。
 あるいは人の記憶を喰らうあの化け物は、あの穴の向こうからやってきたのかもしれないと、澪はそんな妄想をしてみる。

「……」

 指定された公園までやってきた澪は、その敷地内に足を踏み入れた一瞬、どこか別の場所に迷い込んだかのように錯覚した。
 冷房がかけられた部屋に入る際に感じる温度の変化のように、自然的ではない何者かのよって作られた環境の違いに、澪の感覚が違和を訴える。
 目に魔力を通して周囲を見てみれば、その正体は容易に突き止められた。
 この公園全体を覆うように、ドーム状の魔力の膜が張り巡らされている。
 試しに一度来た道を戻り、その膜の外へ出ようとしてみると、澪の手は膜に弾かれた。

「無駄よぉ。あなたはもうここから逃げられない」

 電撃を受けたように痺れを訴える手に顔をしかめていると、そんな女性の声が上空から降り注いだ。

「精霊獣……個体エプシロン」

 声に振り向いた先では、一羽の黒いカラスが羽ばたいていた。
 夜に闇に紛れるその姿が辺りの電灯に照らされ、公園の中心までやってくると、ぐにゃりと陽炎のごとく空間が揺らぐ。
 カラスの姿は歪みの向こうへと消え失せ、一人の女性が姿を現した。
 忘れようもない、すべてを失ったあの日に見た化け物と同じ姿、同じ声。
 そして、薄暗い闇の中で輝く多色性の瞳。

(カラスに化けて……)

 精霊は人間と動物の姿を使い分ける。
 それは澪も当然知っていたが、鳥類に変化している可能性までは頭が回っていなかった。

(……道理で今まで見つからずにいられたわけだね)

 人間ばかりでなく、鳥類を含む小動物すべてを見て回るなど、土台無理な話だ。
 もとより逃げるつもりなどない澪は、公園を包む膜に背を向け、エプシロンと相対する。
 嗤っている。見覚えのある笑みだ。
 あの夜と同じ、人を見下し、食い物としか思っていない目をしている。

「この結界領域はねぇ、あなたを迎えるために特別に用意したものなの。ここは隔絶した世界……外からは抵抗なく入ることはできるけれど、中からはどうやっても出られないわぁ」
「……こんな大規模な魔法を使ったら、すぐに協会が駆けつけてくるよ」
「それはどうかしらねぇ? 外から入れるようにしたのは、あなたを招き入れるためでもあるけれど、もう一つ別の意味もある」
「別の意味?」
「外からはね、この領域の境界は透過して見えないのよ。ふふっ、さながらマジックミラーのようにねぇ」

 自分が作った道具を誇らしく語るかのごとく、エプシロンは自慢げに公園を包む膜を見上げる。

「外から見えているここの景色は、私があらかじめ記録しておいた二四時間前の光景。実際に確信を持ってここに来ない限り、この中で起きていることには誰も気づけないし気づかない」
「……」
「言ったでしょう? 隔絶した世界だと。逃げ道なんてどこにもないわぁ。あなたはもう、ここで大人しく私の贄となるしかないの」

 エプシロンは歓迎するように大仰に両手を広げながら、静かに歩み寄ってくる。
 澪はそれに鋭く目を細めて、自身の魔力結晶が埋め込まれた腕輪をかざした。

「逃げるつもりなんて最初からない。もちろん、あなたの食事になるつもりも」
「へえ?」
「――咲いて、約束の四つ葉」

 澪が変身に必要なワードを唱えると、桃色の魔力がその身を包み込んだ。
 澪の心と魔力結晶が繋がることで潜在能力が強引に引き出され、感覚の領域を引き上げていく。

「あらぁ。これまたずいぶんと可愛らしい魔法少女衣装ねぇ。それがあなたの理想の姿?」

 各所に備えつけられたフリルが、ひらひらと風になびく。
 胸元にはリボンの飾りを付け、その中心に四つ葉の模様が描かれた小さなブローチをあしらえている。
 魔力と同じ桃色を多分に含んだその派手なワンピースは、物語の題材として語られる魔法少女の姿そのものだった。
 エプシロンが言うように、これが澪の理想の姿、魔法少女としての憧れだ。
 かつて幼い頃に見た魔法少女のアニメの主人公の服を、ほとんどそのまま再現している。
 だけど澪は、自分が彼女と同じ存在にはなれないことを知っていた。
 アニメで見たその主人公の少女は、いつも明るく笑顔を浮かべ、どんな苦難にも決して屈せず、仲間たちと強敵を打倒していた。
 でも、自分は違う。
 栞里や七夏、紗代やレンダとの日々を最期の思い出作りなどと侮辱した思いで、偽物の笑顔を浮かべていた。家族を失う痛みに耐えられず自暴自棄になっていた。
 そして今も、栞里との約束を破って一人でここに立っている。
 今のこの希望に溢れた衣装は本来、自分が着ていいようなものではないのだ。

「……あなたに一つ、言っておきたいことがある」
「なにかしらぁ?」
「あなたが今まで食べてきた人たちの記憶を全部解放して、大人しく降伏して。そうすればわたしも手荒な真似はしない」

 手に持ったステッキ型の補助具を向けながら言い放つ澪の要求に、エプシロンは目を瞬かせた後、堪え切れないと言った風に口元に手を当てて笑った。

「そんなもの、私がどう答えるかなんて、あなたが一番わかっていることでしょう? 他でもないあなたなら」
「じゃあ、質問を変える。わたしがあなたを倒せば、今まであなたが食べてきた人たちの記憶は戻ってくる?」
「あなたが、わたしを? ふっ、ふふ、ふふふふふふっ! ずいぶんとジョークがお上手なのねぇ」
「っ……答えて! 戻ってくるの!? こないのっ? どっち!」

 声を荒げて澪が問い詰めれば、エプシロンはそこで一度笑みを引っ込め、瞼を閉じた。
 すると、エプシロンの雰囲気が変化する。
 人を見下し、食糧としか見ていなかったような彼女が纏う空気が、まるで違うものに変質した。

「『おねーちゃん、ありがとー。このマフラー、わたしのたからものにするね!』」
「――――っ」

 それは澪にとって心地のいい、幸せの匂いだった。
 姿が重なる。かつての妹との思い出と、その表情が、空気が、声が。
 失った思い出を心が求めるかのように、手を伸ばしてしまう。
 だけどすぐに、はっと正気に戻った。
 その手が伸びる先にあるものは、妹のかほなどでは断じてない。
 エプシロンの雰囲気はすでに元に戻っていた。人を見下し、あざ笑う、あの悪魔の微笑みだ。
 そんなものに、澪は手を伸ばしてしまっていて――。
 ずっと抑え込んで隠していた怒りのタガが簡単に外れて、全身を駆け巡った衝動に激しく歯を食いしばりながら、澪は手に持っていたステッキを振るった。
 ステッキから放たれた桃色の魔力の玉は、エプシロンの少し手前で弾かれるようにして消滅する。
 あの日の夜、澪がエプシロンを包丁で刺し貫こうとした時と同じ、見えない壁だ。
 だけど魔力が見える今ならわかる。あれは魔法だ。
 今澪が放った魔球と同じ、魔力を物質化して作られた障壁が、エプシロンを囲うように全方位に展開されている。

「ひどいわぁ。せっかくあなたが喜ぶと思って、妹さんの声から感情まで全部再現してみせたのに」

 手が震え、視界が狭窄し、息が乱れる。
 体調が悪いわけではない。澪の身を焦がす溢れ出んばかりの憤怒に、澪の体が耐え切れないだけだ。
 落ちつかなきゃ、落ちつかなきゃ。
 冷静さを欠いたら、相手の思うつぼだ。
 今すぐにでも次の攻撃を仕掛けそうになる心を自制して、何度もそう、自分に言い聞かせる。

「うふふ。そんな熱烈な瞳を向けてくれちゃって。嬉しいわぁ。やはりあなたを選んで正解だった」
「わたしを、選んだ……?」
「まさかこの私が、本当にただの気まぐれであなたを生かしたと思ってる? なんの打算もなく見逃したと?」

 エプシロンは嗤っている。
 変わらず、澪のすべてを奪ったあの日の夜と同じ顔で。

「幸せな思い出ってねぇ、おいしいのよ。この上なくね。ふふ……私がそのことに気がついたのは、数ヶ月前、興味本位で人の記憶をつまみ食いしてみた時だったわ」
「……」
「本当に少し、それこそ本人も忘れていたような小さな記憶の欠片……でもたったそれだけで、私の心には激震が走ったわ。この世界にこんなにおいしいものがあったんだってねぇ」

 まるで恋をする乙女のように顔に手を当て、その頬を朱に染める。
 気味が悪かった。気色悪い。

「それから私はたくさんの人の記憶を頂いたわぁ。初めは少しずつ……でも次第に我慢できなくなって、より多くの人間の記憶を食べたくなった。そして私はその衝動に従った。それが精霊として本来あるべき姿だって、私の本能が言っていたから」
「欲に負けただけのくせに」
「ふふっ。怒りに飲まれているあなたには言われたくないわねぇ」

 まるで自分と澪が同類だとでも言うような言い草に、澪はさらに表情を険しくする。
 しかしここでエプシロンは少し憂いを見せるように、小さくため息をこぼした。

「でも、協会もそろそろ感づき始めててねぇ。このまま狩り(・・)を続けていたら、いずれ捕まるだろうって悟ったわ」
「そのまま捕まればよかったのに」
「そうもいかないわぁ。誰だって命も記憶も惜しいものでしょう?」

 どの口が、と澪は心の中で毒づいた。
 その誰もが惜しいと感じるものを、今まで散々食い物にしてきたくせに。

「捕まらないためには、そろそろ人の記憶を食べるのをやめなきゃいけない……でもその前に、どうしても一つだけ食べておきたいものがあったの」
「……それは?」
「――魔法少女の記憶」

 ぴくり、と澪の目元が動いた。

「私の勘がささやくのよ。魔法少女の記憶は、きっと他のどんなものよりもおいしいって。人を魔法少女に変えることができる私たちの心に触れる力は、元々はそのためにあるんだってねぇ」
「……」
「でも、協会の魔法少女を食べることは簡単にはできないわぁ。基本二人一組で動いているし、片方を仕留め損ねたら足がついてしまうもの。中には戦闘経験が豊富で、精霊ですら手こずる猛者もいる……そんなものに手を出すのは愚の骨頂」

 だからずっと探していたの。
 そう言って、エプシロンはねっとりと舐め回すような目つきで澪を見た。

「あなたのように、たった一人でも私を追いかけてきてくれるような未熟な魔法少女の存在を」
「っ……」
「あの夜、あなたを初めて見た時、私は確信したわぁ。家族のため、妹のため、恐怖を抑え込んで私に立ち向かわんとする姿……あなたなら必ず、魔法少女となって私を討ちに来てくれる」

 エプシロンに家族の記憶を奪われてからのすべての軌跡が、エプシロンの手の上だった。
 魔法少女になったことも、エプシロンを倒そうと探していたことさえも。

「そしてあなたは私の期待通り、この場所にやってきた。ふふっ、こんなに嬉しいことは他にないでしょう? 私たちは離れながらもずっと思い合っていたのよぉ? お互いに会いたいと、ずっとねぇ」
「……言いたいことは、それだけ?」

 声を耳にするたび、話を聞けば聞くたびに、澪の中には苛立ちが募る。
 なんでこんなのが生きてる。なんでこんなやつが。
 どうしてこんなやつのために、わたしの大切な家族が犠牲にならなければならなかった。
 真実がなんであれ、理由がなんであれ、もう関係ないしどうでもいい。
 なにを聞かされようと、どうせやることは変わらないのだ。
 お互いに。

「もういい。お母さんたちの記憶が戻ってきても、こなくても、どうせあなたを倒すことに変わりはないから」
「ふふふっ。そうね、そうねぇ。こんなに私を思ってくれてるんだもの。私もその思いに応えて、食べてあげなきゃねぇ」

 指を唇に当て、舌なめずりをする。

「全部余さず――あなたの愛するパートナーちゃんとの思い出まで」
「――――」

 ――いつか澪と、本当のパートナーになりたい。
 あの時感じた思いを、願いを、こいつは――。
 澪の頭の中で、ぷつんっとなにかが切れた。
 力任せにステッキを振るい、これ以上ない全力の魔法を撃ち放つ。
 怒りを抑えるなどという思考は、もはや澪の中には存在しなかった。
 あの日の夜に振りかざした包丁より何倍も威力があるはずの澪の魔球は、何発放とうと当然のようにエプシロンには届かない。
 エプシロンの一、二メートルほど手前で見えない壁に衝突し、脆く崩れ去る。
 わかっていたことだ。魔力結晶の魔法では、精霊が行使する魔法の威力を上回ることはできない。
 勝機があるとすれば、おそらくただ一つ。
 精霊にはなく魔法少女にはある、精霊が魔法少女を恐れる理由たる唯一の力――特異魔法だ。

「受け止めてばかりもなんだから、私もちょっと手を出してみようかしらねぇ。殺さない程度に」

 エプシロンが手をかざすと、その背後に、魔力で形作られた一つの図形が現れた。
 魔法陣。人間には理解できない、精霊のみが解する世界の理だ。

「くっ……!」

 魔法陣から槍のように伸び、まっすぐに迫ってきた物質化した魔力の塊を、澪は間一髪で回避する。
 澪がいた箇所を通り抜けた細長い塊は、澪の背後に着弾すると、地面に穴を開け激しい土埃を撒き散らした。
 まともに受けたらただでは済まない。本当に殺さない程度に撃ったのかと疑うような威力だった。

「あらぁ? ちょっと加減を間違ったかしら。でもまあ大丈夫よねぇ。魔法少女は四肢をもがれても案外生きてたりするものだしぃ。まぁ、数分で死んじゃうけど」

 エプシロンが再び手をかざす。
 さきほどよりも魔法陣の数はさらに増え、四つとなっていた。

「ほらぁ。必死に避けなさいな。晩餐前の余興だもの。せいぜい楽しくいきましょう?」

 何度も何度も、絶え間なく魔槍が放たれる。
 変身の副次的効果で動体視力は飛躍的に向上し、ある程度身体能力も上がっているが、だからと言って簡単に避けられるわけではない。
 エプシロンがさきほど言っていたように、澪はまだ未熟な魔法少女だ。魔法少女になってからほとんど時間が経っておらず、戦闘経験も乏しい。
 今はなんとか避け続けることができているが、このままではやられるのは時間の問題だった。

「なら……!」

 ステッキに意識を集中させ、合計六つの魔球を一気に形成する。
 そして避けるために動かしていた足の先をエプシロンの方へ向け、一直線に走り出した。

「そんなもので私の魔法を相殺できるとでも?」

 エプシロンが魔槍を撃つ。
 狙いは澪の脚だ。逃げる手段をなくし、少しずついたぶるため。
 その槍の軌道を見極め、澪も魔球の一つを放った。
 エプシロンの言う通り、普通なら澪の魔球はエプシロンの魔槍を前に容易く消失し、澪の脚を射抜かれていたことだろう。
 だけどあくまで普通なら、だ。
 エプシロンが予見していたであろう未来に反し、澪の魔球と衝突したエプシロンの魔槍は、ともに脆く砕けるようにして消滅した。

「これは……」

 エプシロンは瞠目しつつも、二の槍、三の槍を射出する。
 明らかに澪の魔球より単純な威力は上の魔法だ。
 だがそのすべてに澪は自身の魔球を合わせ、さきほどと同じように相殺してみせる。
 ここまでやってみせれば、エプシロンもこの魔球がただの魔球ではないことに気がついたようだ。
 この魔球には澪の特異魔法、《破壊》の要素が混ぜ込まれている。
 そのせいで徐々に自壊が始まっており、持続時間が短いなどの欠点もあるが、その名の通り破壊力だけは折り紙つきだった。
 四の槍も同じく相殺し、エプシロンが四つの魔法陣を使い切ったことで、次の魔法を準備するまでの一瞬の間が生まれた。
 その隙を縫って、澪は五つ目の魔球をエプシロンに向けて放つ。
 その魔球はあと一歩エプシロンには届かず、少し前の地面に着弾し、激しく舞い上がった土埃がエプシロンの視界を遮る。

(槍の方はなんとかできても、自壊してる魔法なんかじゃ、きっとあの固い障壁は破れない……でも!)

 澪は迷いなく土埃の中に身を突っ込むと、最後の魔球を斜め上に向けて放つ。
 エプシロンは埃を払うように横切った魔球の方に目線がつられ、再装填した魔槍の先端を向けた。
 だが、澪がいるのはその反対側だった。魔球を放つと同時、身をかがめて左側に潜り込んでいる。

「直接わたしの魔法を打ち込めば……!」
「っ、背後を……」

 ステッキを振るい、障壁にぶち当てる。

(か、たいっ……! でも……!)

 力を入れれば入れていくほど、バキバキと魔力の障壁がひび割れていく。
 あの日の夜は破れなかった。だが澪のこの魔法は、この壁を打ち破るためにこそ発現したものだ。
 ならば打ち破れない道理などない。

「っ、やった……!」

 卵の殻が割れるかのようにパリンッと障壁が破れて、澪の顔に喜色が表れた。
 だが次の瞬間、ぞっとした感覚が澪の中を駆け抜ける。
 急に時間が遅くなったかのように鈍くなった感覚の中、ふと視線を上げれば、それまでの空気が一変し、冷徹に澪を見下す精霊獣の姿がそこにあった。

「調子に乗らないでよねぇ、獲物風情が」

 澪のステッキの先端がエプシロンに触れる――その寸前で、澪とは比較にならない凄まじいスピードで手が伸びてきた。
 その手はステッキを持つ澪の腕を難なく掴み、それから。
 バキンッ――と。
 なんの容赦なく、凄まじい握力をもって握りつぶす。

「ぎっ、あ――!?」
「ちょっと手加減してあげればいい気になって」

 新たに魔法陣が展開される。そしてその箇所は、澪の真下だ。
 痛みに吹き飛びそうになる意識をなんとか持ち直して、澪は体を後ろにのけぞらせて回避を図る。
 しかし完全に避けるには至らなかった。なにせ、澪の潰れた腕がまだエプシロンに掴まれている。
 脚が持っていかれた。魔槍が地面から天へと昇り、血しぶきの噴水が宙に上がる。

「おっと、危ないわねぇ」

 澪は自身の潰れた腕を介して、エプシロンの手に《破壊》を打ち込もうとした。
 しかし、今までの人生で一度として感じたことのない凄まじい痛みに意識が乱され発動が遅れ、危なげなくエプシロンに手を離されてしまう。
 澪は腕が解放されたことで、ぐちゃり、と自身の血溜まりの中に沈んだ。
 片腕と、両足。それが、今の攻防で使い物にならなくなった部位だ。
 腕は握られた前腕部分が見るも無残なほど細く圧縮され、前後の手首と後腕に押し出された肉が膨張し、ぶちぶちと皮膚を破って出てきている。
 脚は、膝から先がない。絶え間なく赤黒い液体がこぼれ続けている。

「は、ぁ……はぁ、ぁ……ぁ、あぁ……ぎ、ぅぅ……」

 視界が歪む。音が遠くなる。
 口の中が乾いて、おびただしい血の異臭に吐きそうだった。

「ぎっ!?」

 落としてしまったステッキを掴もうと伸ばした、無事だったもう片方の腕も、躊躇なく踏み潰された。
 声にならない悲鳴を上げて、這いつくばる。
 ステッキを握るための手も、逃げるための足も失った澪には、それ以外にできることがもうなかった。

「あなたのように自分の能力に振り回されるだけの小娘が、この私に太刀打ちできるわけないでしょうに……私の障壁を破って、よもや私に勝てるだなんて思い上がったのかしらぁ? 勘違いも甚だしいわ」
「あぐぅっ!?」

 腹を蹴りつけられる。腕を潰した時とは違い、殺さないようにある程度加減されているが、今の澪にはそれだけで形容しがたい激痛が走る。
 苦しみ、ひれ伏し、呻き声を上げる澪を眺め、多少溜飲を下げたのか、エプシロンの表情に笑みが戻った。

「まあ、いいわぁ。もう身のほどはわきまえてくれたみたいだしねぇ。余興はもうおしまい。そろそろあなた自身を頂くとするわ」
「ぁ……ぅ……」
「さようなら。そしていらっしゃい。私が待ちわびた、愛しい記憶」

 澪の首根っこを掴み、エプシロンが大きく口を開ける。
 魔法少女になった時と同じ、自身の心に触れられる感覚がした。

(……ごめんね……栞里ちゃん……)

 やはり結局一人では、エプシロンには敵わなかった。
 すべてを失う。その直前に澪が思い浮かべたのは、こんな自分とともに未来を生きたいと願ってくれた、一人の少女の姿だ。
 たくさんの初めての気持ちをくれた人。ただ一緒にいるだけで幸せで、自然と笑顔がこぼれた人。
 もっと一緒にいたい。その思いが溢れて止まらない。
 ……でもこの思いさえも、もうなくしてしまう。忘れてしまう。
 その事実に、澪の心は耐えられそうになかった。だけどすでに、澪に抗うすべなんて存在しない。
 失意のまま、ぽろぽろと涙をこぼすしかなくて。
 気がつけば、澪の口はぽつりと、最期の願いを紡いでいた。

「たす……けて……しおり、ちゃん……」
「――――っ」

 その願いは、叶うはずがなかった。
 澪は約束を破って、一人でここに来た。今はもう澪とエプシロンしか知らない思い出の場所へ。
 だから涙で滲んだ視界の向こうに、雲から顔を出した月を背にする彼女の姿が見えた時、澪は一瞬、それが幻覚ではないかと疑った。

「照準補正!」
「障壁」

 エプシロンが澪の記憶を喰らう行為を中断し、一度は澪に破られた全方位への障壁を再展開する。
 栞里が不意打ち気味に上空から放った魔弾は激しい衝突音を奏でたものの、エプシロンの障壁には傷一つつけられずに消えてしまう。

「どうやってここが……でも、無駄なことを。そんなものじゃ私の魔法には敵わない」

(栞里……ちゃん? 本当、に……?)

 もう会えないと思い込んでいた想い人の姿を見て、諦めていた澪の心に、再び小さな火が灯った。
 歯を食いしばり、激痛に耐えながら可能な限り上半身を捻って、その反動を乗せて潰れた両腕を思い切り振り回す。
 そしてその両手の指先が、エプシロンの体と障壁の内側、それぞれに触れた。

「っ、あなた……!」

 エプシロンの方は魔法の効果が及ぶ直前で澪を手放し体を離したことで、傷を与えることはできなかった。
 だけど障壁の方は違う。ほんの一瞬しか触れていないため壊すには至らなかったが、触れた箇所には大きな亀裂を入った。
 その亀裂に栞里の魔弾が炸裂し、エプシロンの障壁が砕け散る。
 エプシロンは小さく舌打ちをすると、続く魔弾を回避するため、澪を置いてその場を飛び退いた。
 そしてエプシロンが立っていた場所に入れ替わるようにして栞里が着地する。

「しおり、ちゃん……」

 エプシロンと相対する、幻ではない、確かにそこにいる大切な人の背中を見て、澪はその名を呼ばずにはいられなかった。
 倒れ伏す澪を見下ろすと、栞里はその凄惨な様相に顔をしかめた。

「……動かないで」

 澪のそばにかがんで肩に手を添えると、栞里の特異魔法が発動し、澪の傷が治り始める。
 潰れた腕は元の大きさを取り戻し、腫れていた皮膚も正常な色彩に変化する。
 飛び散った血は脚の中に戻っていき、失った部位さえ再生して、澪の肉体は万全の状態を取り戻した。
 ついさきほどまで絶えず感じていた耐えがたい激痛も嘘のように消え失せている。
 澪が栞里の魔法を見たのは彼女が包丁で手を切ってしまった時の一度きりだったので、ここまでの効力があったとは知らず、目を丸くした。

「これは、《回復》の特異魔法……? それも相当強力な……」

 あのエプシロンも、これには驚かずにはいられないようだ。

「立てる?」
「う、うん」

 起き上がり、体の状態を確認してみるが、違和感は少しもない。
 さすがに戦いで失った魔力までは戻らないが、それ以外の身体的な要素はやはりすべて、エプシロンと相対する前の不自由ない状態を取り戻している。
 これだけのことをしてみせたというのに、栞里にはほとんど疲労の色は見られない。
 これが特異魔法。精霊が唯一恐れる力なのだと、澪は再認識する。

「栞里ちゃん……わたし……」

 家族の記憶を取り返すためには半ばしかたなかったとは言え、澪は一緒にエプシロンを倒すという栞里との約束を破って、一人でここに来た。
 エプシロンに記憶を喰われる寸前にこそもう一度その顔を見ることを望んでしまったが、いざ目の前にするとどうにも合わせる顔がなくて、澪は目を伏せた。

「……澪。顔を上げて」

 栞里が澪の正面に立って、澪の両肩を掴んだ。
 澪はその時なんとなく、栞里は優しいから落ち込んだ自分をなぐさめてくれるのだろうと、そんな予想をしながら言われた通りに頭を上げた。
 しかしそんな甘い期待をしていた澪に炸裂したものは、思いっ切り振りかぶった凄まじい頭突きであった。

「ゔぇっ!? え、なん、えっ? い、いたっ、痛い……」
「っ、つぅ……」

 せっかく治ったのに新しい怪我が増えてしまった。だってこれ絶対たんこぶもんである。
 あまりの威力に、食らった澪ばかりでなく栞里までも頭を押さえて顔を歪めている。
 ちょっと遠くの方でエプシロンでさえ、唐突な頭突きにポカンと呆けていた。

「し、栞里ちゃん? なんでいきなりこんな……」
「……お母さん式お仕置き……昔危ないことした時に、一回だけやられた……」
「お、お仕置き?」
「平手だとぶたれた人だけ痛いけど、頭突きなら二人とも同じ痛みを味わえるから、って……でも、ほんとに痛い……」

 ふるふるとかぶりを振って、栞里は額に当てていた手を下ろした。
 赤く充血して、見るからに痛そうだ。きっと自分も同じ惨状になっているのだろう、なんて澪は思う。

「……一人で勝手に突っ走ったことは、これで許す。けど……」

 栞里は澪にふらふらと近づくと、澪の手をぎゅっと握りしめる。
 澪はそこでようやく、栞里が小刻みに震えていることに気がついた。

「本当に……心配したんだから」
「あ……」

 栞里は、今にも泣きそうな顔で怒っていた。
 栞里が震えている理由も、澪はすぐに察する。
 ここに来るまで、ずっと彼女は不安だったのだ。
 怖くて怖くてしかたがなかった。
 澪が無事かどうか。もう手遅れではないか。
 もしかしたら澪はもうすでに、病院で見た澪の家族と同じように、すべてを忘れた廃人になってしまっているかもしれない。
 したくもないそんな妄想が頭の中にこびりついて、離れてくれない。
 そんな思いを胸の内に抱えながら、きっと栞里はここまでやってきたのだ。

「……ごめんね。本当に……ごめんなさい」

 どんななぐさめの言葉なんかよりも、栞里のその思いこそが澪の心を強く打って、澪は本心から頭を下げた。
 栞里はそんな澪をじーっと見つめ、肩をすくめると、澪の頭を撫でる。
 だけどその撫で方はいつもと違って少々乱暴だ。
 なんというか、本当にわかってるの? って感じの疑わしそうな手つきで。
 ……どうやら申しわけないと思うと同時に、それと同じくらい心配してくれたことが嬉しいと感じていたこともバレてしまっているようである。
 澪がいたずらっぽく舌を出して笑ってみせると、栞里は追加のお仕置きと言わんばかりに人差し指で澪の額のたんこぶをつつく。
 それからようやく、栞里は安心したようにかすかに口元を緩めた。

「あらあら……のけ者にしてくれちゃって、妬けるわねぇ」

 栞里と澪のやり取りを傍観していたエプシロンが、冗談交じりによよと泣き真似をする。
 エプシロンの声を聞くだけで眉をひそめ、不快感をあらわにする澪を手で制し、栞里はエプシロンと相対した。

「……一応確認する。あなたが精霊獣エプシロンで相違ない?」
「ええ。そういうあなたは、そこの澪ちゃんのパートナーちゃんねぇ」
「……私のこと、知ってるの?」
「もちろん。なにせ今日は日がな一日、あなたたちを空から観察してたもの」
「空から……」

 栞里も精霊が動物に姿を変えられることは当然知っている。
 鳥類に変化し、尾行されていた。その答えにたどりつくまで時間はかからなかった。

「昨日の朝方、澪ちゃんが一人で私を探してる姿を見つけてねぇ。やっと協会の監視が外れたみたいだったから、昨日のうちにこの場所を作り上げて、今日はずっと機会を窺っていたの」
「……やっぱり(・・・・)

 驚くことなく、平坦な声音で栞里がそう返答すれば、エプシロンはぴくりと目元を動かした。

「やっぱり? どういうことかしらぁ」
「どうもこうもない。あなたが澪に目をつけていたことは知っていた。そして、いずれ必ずまた接触を図ることもわかってた。ただそれだけのこと」
「え……え? い、いつの間にそんな……?」

 栞里のその答えには、エプシロン以上に澪が瞠目する。
 当たり前だ。だってそんなこと、澪は栞里から一ミリたりとも聞いていない。
 だが、ハッタリではないだろう。栞里はなにか確固たる自分の考えを持ってそう言っている、と澪は感じた。
 栞里は困惑している澪の方に振り返ると、なにか言うか言わまいか迷うような素振りをしてから、結局言うことにしたようで口を開いた。

「……澪に教えると、自分を囮にするとか言い出しそうだから黙ってた」
「し、信用がない……」

 ……でも確かに言っていただろう。自分が狙われていると知っていたなら。

「澪には悪いけど……私にとっては澪の家族の仇を討つことよりも、澪の方が大事だったから。できることなら澪をそんな危険に晒したくなかった……ごめんね」
「……えへへ。気にしないで栞里ちゃん……ありがとね」
「……ん」

 結局は栞里のそんなささやかな望みは叶わず、二人が離れた隙に澪一人だけが誘導され、危惧したこととほとんど同じ展開になってしまったが……間に合ってよかったと栞里は心底から思う。
 加えて、こうして実際にエプシロンをあぶり出すこともできた。
 結果オーライと言うにはまだ早すぎるが、二人揃ってエプシロンと相対している今の状況は、決して悪いものではないはずだ。

「……どうして私の狙いに気づいたのか、参考までに聞いてもいいかしら」

 笑みを引っ込め、少し警戒したように。
 そんなエプシロンに、栞里はいつ攻撃されても対応できるよう神経を張り巡らせる。

「簡単な話。私は澪の家族があなたに襲われる夢を見た」
「夢……魔法少女同士が近くで眠りについた時にたまに起きるっていう、共鳴現象ねぇ」
「そう。そしてその夢を見た時から、私はずっと不思議でしかたなかった。どうしてあなたはあの時、澪を見逃したのか」

 あの時エプシロンは、気分がいいからだとか、もうすぐ協会が駆けつけてくるからだとか、適当な理由を口にしていた。
 上位の存在として振る舞い、哀れな澪に慈悲を与えてやろうと言わんばかりの、傲慢な態度。
 だけど、栞里にはどうもそれがしっくり来なかった。

「エプシロンは、人の記憶を食べたい欲に飲まれた低俗な化け物。そのくせして協会からは怯えて逃げ回るだけの、弱い者いじめが大好きな臆病者」
「……言ってくれるわねぇ」
「そんなエプシロンに、目撃者の澪をただ見逃す心の度量なんてない。もし本当に食べないつもりなら、その場で澪を殺してたはずだって私は思った。でも」

 栞里には精霊の常識はわからない。だけどそれを人間に当てはめれば、自ずと答えは見えてくる。
 エプシロンは人間社会で言うところの、連続殺人犯だ。警察に所属していながら、警察を恐れて逃げ続ける犯罪者。
 そんな犯罪者が、人をその手で殺めたところを誰かに見られた。そうなった時に取る行動なんて一つ以外にありえない。
 すなわち、その目撃者を始末すること。
 だけどエプシロンは、

「あなたは澪の記憶を食べず、殺しもしなかった。他の人間にはそうしていたはずのことをしなかった。その時点で、あなたの狙いが澪に関係するなにかであることは明白だった」

 魔導協会に所属しているのなら、わずかでも証拠を残す恐ろしさは身にしみて知っているはずなのに、必要もないそんなリスクをわざわざ冒して。
 今まで散々大勢の人間を手にかけてきたくせに、その大勢のうちの一人でしかないはずの澪だけは見逃した。
 澪をなんらかの目的のために利用する気満々だ。
 まさかそれが、今日すぐに起きる出来事とまでは読めてなかったけれど……。

「……なるほどねぇ。澪ちゃんと違って怒りや恨みに囚われていないぶん、物事の本質がよく見えているみたい。褒めてあげるわぁ」

 エプシロンは獰猛に口の端を吊り上げて、演説でもするかのごとく両手を広げた。

「あなたの言う通りよぉ。私の目的は、魔法少女の記憶を食べること。そろそろ協会の目を欺くのも難しくなってきたから、最後にそれだけは食べてみたくてねぇ」
「……そんなことのために澪を?」
「そんなこと、そんなことねぇ。おいしいものを食べたいという衝動は、全生物に共通する欲求でしょう? 私も、そしてあなたも」
「……」
「ふふ。自分の感情も制御できず、たった一人でも私を探そうとするだろう澪ちゃんは、まさしく適任だったのよ。いっそ愛おしいほどに愚かでしょう? 敵うはずがないことなんて本人が一番知っているはずなのにねぇ」

 くすくすとあざ笑うエプシロンを、澪は悔しそうに睨みつけた。

「でもねぇ……栞里ちゃん、と言ったかしら? あなたが言うことが本当だとして、それでもまだ一つわからないことがあるのよ」
「わからないこと?」
「簡単な話。あなたがどうやってこの場所を探し当てたのか、ということよ。目に魔力を通そうと、この結界領域の魔法は外からじゃ見えないはず。なのにこの短時間で、あなたはどうやってここまでやってきたのかしらぁ?」

 エプシロンが澪に招待状を送り、澪がスーパーを飛び出してから栞里が今この場にやってくるまで、さほど時間は経っていない。
 エプシロンは澪の行動を逐一注意して観察していたから、なにか目印を残していたというわけでもなかったはずだ。
 そんな状況で、この短期間でただ闇雲に探すだけでここに来るのはまず不可能である。

「それこそ簡単な話。澪とあなたの関係を知ってから、私は万が一に備えて澪に私の持ち物を持たせていた」
「えっ? そ、そうだっけ? で、でも、わたし、栞里ちゃんからなにも受け取ってなんか……あ」

 澪はそこで、昨日栞里を澪の家族のもとに連れて行く前、校門でクマ柄のお守りをもらったことを思い出した。
 もしかして、あれが?

「あなたの持ち物……ということは、追跡の魔法ねぇ」
「そう。服に匂いが移るように、長く持ち続けたものには少なからず魔力がこびりつく。それは本来、魔力を通した目にすら映らないくらい薄い。普通は、魔法を使おうと追跡することはできない……」
「でも自分自身の所有物に限れば、自身の魔力を手がかりに容易に追跡することができる、か……ふぅん、考えたわねぇ」

 栞里の知識はレンダからの受け売りだが、同じ精霊であるエプシロンも栞里が語った現象については把握しているようだ。納得したように頷く。

「で、でも、あれはレンダちゃんからだって……」
「……半分嘘。でも、半分は本当にした」
「本当にした?」

 余計わからないという風に疑問符を浮かべる澪を横目に、栞里は新しい魔法を魔力結晶に入れてほしいとレンダにお願いした時のことを思い出す。

『はい、これでご注文の魔法は入れたよ。代わりに修復とか、他の魔法をいくつか消しちゃったけどね』

 レンダから魔力結晶と腕輪を返してもらうと、栞里はそれを元の腕に取りつけた。
 そして今度は懐から別の物を取り出す。

『問題ない。あとレンダ、これ』
『うん? なにこれ。お守り? くれるの?』
『上げる。けど、すぐに返してほしい。澪に渡し忘れたから渡しといてって言いながら』
『ちょっと言ってる意味がわからないんだけど……』
『これを澪にプレゼントしたいけど、私のものだって知られると遠慮されると思うから、レンダのものってことにしたい』
『……それ、本当に一度僕に渡さなくても、そういうことにして渡しておくけどいい? って聞いておくだけでいいんじゃない?』
『……お母さんがよく言ってた。言葉は大切にしなさい、って。だから私はできることなら嘘はつきたくない。こうやって一度レンダに渡せば半分は本当になる。それが私のギリギリの許容範囲の嘘』
『はあ……不器用なんだねぇ、栞里は。まあでも、そこが君の魅力なのかもね。じゃあ、はい。澪に渡し忘れたから渡しといてー』
『承った』

 レンダはあの時、栞里が澪と心の共鳴を果たし、澪の夢を見たことに気がついただろう。
 直前に追跡の魔法を魔力結晶に入れてもらっていたから、お守りを渡す本当の意味にも気がついていたかもしれない。
 澪に万が一のことがあった時、駆けつけるようにするためのものだと。
 だけどレンダはそんな栞里を見逃した。
 理由は簡単だ。
 協会はまだ栞里と違って、澪が再度狙われる確率が高いことを把握していなかった。
 おそらく協会は、自分たちが駆けつけるのが早かったから澪が助かったと思っている。
 きっとエプシロンがそう見えるように細工したのだ。
 でなければ、ただ一人の生き残りである澪の監視を解いたりしなかったはずだ。
 お守りも魔法もしょせん万が一のためのもの。そう判断し、パートナーを心配する一心での栞里の行動を、レンダは見逃したのだ。

「そのお守りは元々は私の持ち物。子どもの頃、お母さんからもらったの……栞里のぬいぐるみと同じクマさんのお守りだって……」
「あっ……」

 そこで澪がした表情は、なんとも言えない苦笑いだ。
 だって栞里のぬいぐるみと言えば、あれだ。疑いようもなくコアラのぬいぐるみだ。
 澪はなんだか、母からそれを受け取った時、ぷくーっ、とむくれる幼い頃の栞里が目に浮かぶようだった。

「……今はもう澪の持ち物だから、あと数日もすれば私の魔力なんてすっかり消えてるはずだった。時期が悪かったね、エプシロン」

 過去を振り払い、エプシロンに銃口を向け、銃弾代わりに言い放つ。
 そんな栞里に、エプシロンは堪えられないという風に、くつくつと喉を鳴らした。

「時期が悪い? ふふっ、良いの間違いじゃなくてぇ?」
「……嬉しそうだね」
「もちろんよ。だって私、あなたの話を聞いて安心したもの。変に警戒して損しちゃったわぁ」
「安心?」
「あなた、他のどこにも行かず一直線にここまで来たでしょう? じゃないと早すぎるもの。電波妨害は今も使っているし、誰かに連絡できたわけでもない……つまり、他に増援が来ることはない」
「……」
「今日はずっとあなたたちを見てたから、私、知ってるのよぉ? あなた、まだ魔法少女になって間もないでしょう? メガネ、つけてたものねぇ」

 七夏からもらった、魔力の残滓を見られるようになるメガネ。
 見た目は普通のメガネで、時折見かけた協会の関係者らしき人にも気づかれなかった代物だが、さすがに一日中観察されていれば、その正体にも感づかれる。

「力の使い方もまともに知らない小娘が二人……ごちそうが一つ増えたのに、喜ばないはずがないじゃない」

 そこでエプシロンは一度、栞里と澪から視線を外す。
 そうして彼女が見たのは、この公園の時計台だ。

(とは言え……協会もバカじゃないから、あまり悠長にもしていられないわねぇ。遊べるだけの時間はまだまだありそうだけど、ね)

 エプシロンが両手を広げると、その背後の空中に魔法陣が出現する。
 それを見て、澪は表情を険しくした。
 澪一人だけが相手の時、エプシロンは手加減していたと言っていたが、どうやら本当だったようだ。
 澪を相手にする時は四つだったものが、今は倍の八つになっている。一人につき四つで、八つがちょうどいいとでも言うように。

「さぁ、行くわよぉ? 死んだらおいしくなくなっちゃうから、私のために、頑張って避けてねぇ? ふふっ」

 魔法陣が光り、魔法の槍が一斉に放たれる。
 栞里と澪はそれぞれ逆方向に飛び退いて、再び戦いの幕は上がった。
 栞里も澪も、今まで命をかけた戦いなんてものを経験したことはない。
 もっとも、それは栞里や澪だけでなく、この平和な国に住むほとんどの人間がそうだろう。
 命が脅かされることへの張り詰めた恐怖も、想像を絶する形容しがたい痛みも、ほとんどの人間が知らない。
 強いて挙げるのなら、この前ヘイトリッドと戦った時こそが、栞里にとって命がけの戦いに近い経験だった。
 ただあの時は、七夏がいた。栞里が危なくなったらすぐに助けられるようにしていてくれた。
 だが今、ここに七夏はいない。

「っ……!」

 魔法の槍が頬をかすめる。同時に、片耳が音を失った。
 耳が吹き飛んだ――その事実に気がついて、一瞬遅れて痛みがやってくる。
 即座に自分の耳を特異魔法で復元したものの、痛みに気を取られている間に、さらなる魔槍が放たれていた。
 寸前で左に避けたが、間に合わなずに今度は右腕が持っていかれる。赤黒い液体とともに、半壊し、潰れた片腕が宙を舞う。
 激痛に顔をしかめつつ、栞里はこの右腕もすぐに再生させた。
 飛び散った血は栞里の中に戻り、潰れた腕は宙を飛ぶ流れに逆らい元あった場所に帰還して、本来の形を取り戻す。

「やっぱり凄まじい回復力……自分の魔力が通っていれば一瞬で復元できるのねぇ」

 戦いが始まって、すでに数分が経過している。
 次々と休みなく放たれる魔槍を前に、栞里はなすすべがない。
 最初に一度、魔弾で迎撃しようとしたこともあったのだが、容易く粉砕され脇腹を貫かれてからは、もう試していなかった。 
 魔法陣は八つで、一つ撃てば一つが消える。だけど何発か撃つ間に新しい魔法陣が再び形作られ、同じ攻撃を放ってくる。
 これでは一斉に放った場合を除き、連続で射出している限り装填の隙がない。
 栞里が耐えられているのは、エプシロンのこの魔槍が、栞里と澪の二人に分散されているおかげだった。
 もしもこの八つの魔法陣がすべて栞里に向けられていたなら、とっくに勝負はついている。

「それにしても想像以上に粘るわねぇ。だったら今度は……」

 一度エプシロンの攻撃の嵐が止み、魔法陣が消える。
 そのタイミングで栞里は魔弾を、澪は魔球をそれぞれエプシロン目がけて放つものの、彼女はそんなものまったく意に介さない。
 そのエプシロンの態度を証明するかのように、栞里たちの攻撃は固い障壁にはばまれ、その一切が通らなかった。

「単純に増やしてみましょうか」

 そしてエプシロンが手を広げると、再び魔法陣が出現する。
 その数、合計一〇だ。さっきまでは八だったから、ただ二つ増えただけに過ぎない。
 だが、そのたったの二つが二人にとっては脅威だった。
 魔法陣は何発か魔法を放つうちに復活する。だけどその復活までのタイムラグのうちに魔法を撃ち尽くしてしまったら、一瞬の間が生まれる。だからその連射速度には限界があった。
 だが今この瞬間、魔法陣が一つ増えることによって、その限界の速度が上がったのだ。

「くっ……」

 このままではジリ貧だ。いつかやられる。
 激化した攻撃の最中でそう感じた澪は、ステッキを両手に持って意識を集中させると、その周囲に六つの魔球が出現させた。
 そして澪は魔槍を避け続ける選択肢を捨て、一直線でエプシロンへ向かって駆け出す。

「それはさっき見たわぁ」

 栞里へ向けられていた魔法陣がすべて、澪の方を向く。
 どうせ栞里の攻撃では障壁を傷つけられない。ならば危険なのはこちらだ。そんなエプシロンの思考が見て取れた。
 澪の魔球は六つしかない。これでは、これから放たれる一〇の魔槍すべてを迎撃することはできない。

「澪! そのまま走って!」

 一瞬足が止まりかけていた澪にそう叫びかけて、栞里は引き金を引いた。
 悔しいが、確かに栞里の魔弾ではエプシロンの障壁を突破することができない。
 最初にやってきた時に一度エプシロンの障壁を壊せたのは、澪が事前に綻びを作ってくれていたからに過ぎなかった。
 だから栞里が狙ったのはエプシロン本人ではなく、その背後だ。
 銃口から放たれた物質化した魔力弾が、今まさに再生成されたばかりの魔法陣そのものを貫き、消滅させる。

「っ、魔法陣の段階で……」

 二つ、三つ。栞里はここまでの戦いのパターンから魔法陣が再生成される箇所を予測し、発生と同時に魔弾が穿つように仕向ける。
 そしてその調子で四つ目も狙ったが、その時には魔法陣の出現箇所そのものを変えて対処され、栞里の魔弾は空を切った。
 まずい。これではまだ七つだ。澪の魔球は六つだから、一つ足りない。

「ありがとう栞里ちゃん!」

 しかし栞里の危惧とは裏腹に、澪はそう大声でお礼を言って、今度は足を止めようとはしなかった。
 撃ち尽くした後に装填の隙が生まれることもいとわず、エプシロンは七つの槍をフルオートの銃器にように乱射する。

(変身で動体視力が上がってる今なら……目で追える!)

 変身の魔法で引き上げられた動体視力をもって、澪はそのすべてを見極め、的確に魔球で打ち消していく。
 だけどそれができるのは六つ目までだ。最後の七つ目は対応できない。

「一つ、くらいならっ!」

 七つ目の槍を、澪は直前で体を低くして下を通り抜ける形で回避する。
 一歩間違えば、頭が吹き飛んでいた。澪の背筋をひやりと冷たいものが走る。
 だがいずれにせよ、遠距離から撃ち合っていただけでは、そう遠くないうちに二人ともやられていた。
 危険を冒しただけの価値はあったはずだ。なぜなら、またエプシロンに近づくことができたのだから。
 澪はステッキを、栞里はハンドガンを構えた。
 澪は障壁を破壊するため、そして栞里は障壁が破壊された瞬間を狙うためだ。
 完璧なコンビネーションだった。
 だが、

「それで? さっきも私に近づいて、いったいなにができたのかしらぁ?」
「え、壁がな――」

 ステッキを振るおうとした澪へと、エプシロンは自ら距離を詰めた。
 それは本来であれば、障壁が邪魔をして近づけない距離である。
 どういうわけか、今のエプシロンには障壁が存在しない――否、澪がすべての魔槍に対処したと同時に、エプシロンが自ら障壁の魔法を解いていたのだ。
 障壁を破壊しようとしていた澪と、その瞬間を狙っていた栞里は、同時に虚を突かれる。
 その刹那が命取りだった。

「あぐぅっ!?」

 少し前の再現をするように、エプシロンは近づいてきた澪の腕を尋常でない速度で掴むと、いとも簡単にへし折る。
 澪の苦痛の声を聞き、栞里が半ば反射的に発砲しようとすると、エプシロンは素早く澪の腕を引っ張って、栞里の射線上に彼女を置いた。
 そうなれば当然、栞里の引き金にかけた指は止まってしまう。
 エプシロンはそれに口の端を吊り上げると、澪を軽く上に放り投げ、彼女の腹に尋常ではない威力の回し蹴りを放った。

「あ――――」
「澪っ!」

 凄まじい速度で吹き飛ばされた澪の体は、木の幹に衝突して止まった。
 幹が軋み、舞い落ちた木の葉が、澪の吐いた血で赤く染まる。
 まだなんとか意識はあるようだったが、どうやら立ち上がることができないらしい。
 木を支えにして懸命に起き上がろうとするが、その足はがたがたと震えるだけで、まるで役に立たない。

(早く治さないと……!)

 澪の惨状を見た一瞬、栞里はその注意をエプシロンから澪に移してしまった。 
 自分なら治せる。その思考が隙を生んだ。

「判断ミスねぇ」
「っ、エプシロ」
「今の私には障壁がないのだから、とにかく撃ちまくればよかったのに」

 気がついた時には懐に潜り込まれていた。
 咄嗟に銃口を向けようとしたが、もう遅いとばかりに容易く手で払われて、顎を蹴り上げられる。

(い、意識が……)

 威力自体は大したことがなかった。後で記憶を食べるため、頭を吹き飛ばさないよう加減されている。
 一番の問題は、顎を通して脳を揺さぶられたことだ。
 《回復》の特異魔法を持つ栞里に、中途半端なダメージは無意味だ。どんな傷でも瞬く間に治すことができる。
 だがそれは、気絶さえしなければという注釈がつく。
 気を失えば、もう魔法を使えない。その時点で終わりだ。

(気絶、だけは……!)

 意識を強く保ち、特異魔法を行使する。脳の状態を復元する。
 完全に気を失う前になんとかそれには成功したが、その間、栞里は無防備だった。
 栞里がはっとした次の瞬間には、澪と同じようにエプシロンに蹴り飛ばされていた。

「がっ――! ぐっ、う……! は、ふぅ……はぁ、は、ぁ……」

 金属の柱が歪むほど強く衝突し、目の前で閃光が弾けて、体のあちこちが悲鳴を上げる。
 今の衝撃で途切れてもなんらおかしくなかった、未だ残る意識を懸命に繋ぎ止め、栞里はまた、特異魔法を使う。
 潰れた内臓も、折れた骨も、すべてが元通りになっていく。ちょうど背中に触れていた、歪んでしまった柱さえも。
 この力がなければ、栞里はもう何度死んでいたかわからない。
 栞里は苦々しく顔を歪めながら、時計台の柱を支えに立ち上がった。

「へえ、なかなか意思が強いのねぇ。まだ気絶しないなんて。でもこれでもう、澪ちゃんを助けには行けない」

 ご丁寧に、栞里が飛ばされた方向は澪とは逆方向にある、公園の時計台だった。
 澪を回復させるため、彼女が倒れている方へ行くためには、エプシロンを越えていかなければならない。

「……って、あらぁ? 澪ちゃんはもう動けないのかしら」

 障壁を再展開しながら、エプシロンは澪の方を振り返る。
 澪は栞里と違って《回復》の魔法がない。
 受けた傷も、流れ出た血も戻らない。
 重傷を負った澪は、つい数秒前までどうにか起き上がろうと奮闘していたが、もうそれもできないようで、ぐったりと木の幹に寄りかかっていた。

「ふふ。それなり手応えがあったし、肋骨はもちろん、もしかしたら背骨も折れてるかもねぇ。まぁ、澪ちゃんは後でおいしくいただくとして……さて、これで一対一ねぇ? 栞里ちゃん」
「……」

 栞里を気絶させることではなく、初めからこの状況が本命だったようだ。
 栞里と澪を相手にする上で、エプシロンにとって厄介だったものは二つあった。
 その二つとは、つまり特異魔法。自身の障壁を唯一打ち破ることができる澪の《破壊》と、中途半端な傷なら瞬時に治してしまう栞里の《回復》だ。
 だけどそれは片方だけなら問題にならない。
 澪一人なら障壁がどうこう以前に、地力で打ち勝てる。栞里一人なら、障壁を壊すことができない。
 エプシロンが恐れたことは、その二つがまったくの同時に襲いくることだ。
 すなわち、エプシロンの障壁を壊すことが可能な澪を栞里が延々と治し続け、次々に手を打たれること。
 それこそをエプシロンは警戒し、澪を動けない状態にした上で二人を引き離したのだ。

「仲間思い。良い言葉よねぇ? 澪ちゃんも栞里ちゃんも、あなたたちはお互いを思い合っている。でもだからこそ、どちらかが危機に瀕した時、もう片方が未熟を晒してしまう……」

 でもね、とエプシロンは微笑んだ。

「私、好きよ。そういう温かな感情は。だっておいしいもの」
「……あなたは……おいしいものを食べたい以外に、楽しいことはないの?」
「あるわよぉ? こうやって人間をいじめてる時間が好きだわぁ。だって私、弱い者いじめが大好き、らしいものねぇ」

 少し前に栞里に蔑まれたことへの意趣返しでも言わんばかりに、くつくつと笑う。
 対話は通じない。わかっていたことだ。
 相手は人間でもなければ、もはやレンダのようなまっとうな精霊でもない。
 ただの獣だ。自分が何者かなんて悩みもしない、己の欲望に従うだけの正真正銘の化け物に過ぎない。

「まだ抗うの? あなたの力じゃ、私の障壁は打ち破れないのに?」

 栞里が再び二つのハンドガンの銃口を向けると、エプシロンはバカにするように鼻を鳴らした。

「諦めたらぁ? どうせあなたじゃ私には勝てないんだから」
「……どうかな」

 栞里がレンダに入れてもらった魔法は、追跡の魔法だけではない。
 元々栞里は、精霊獣が澪に接触してくることを予想していたのである。
 ならばその対策のための魔法を入れてこないはずがなかった。
 ……もっとも、今まで使わずにいたことからわかるように、使い勝手が良い魔法だとはとても言えないが……。

(今、エプシロンは完全に油断してる。初撃は避けない……今なら必ず当てられる。どうにか、これで決められれば……)

 引き金に指をかける。
 魔弾ではエプシロンの魔法に敵わないことは、もう身にしみて理解した。
 だから栞里が今から使うのはごく単純に、それよりもずっと威力が高い、ただそれだけが取り柄の魔法だ。

「っ――これは……!?」

 栞里が二つの引き金を引くと、魔弾より太く鋭い藍色の閃光が宙を切り裂き、エプシロンに襲いかかった。
 魔弾や魔球の一発のみ発射するタイプとは違い、これは大量の粒子の集団を絶え間なく叩きつける、ビームに近い砲撃の魔法だ。
 基本的に魔力結晶の魔法はエプシロンには通じない。しかしこれだけの威力があれば、あるいは。

「ちっ」

 障壁に亀裂が入ると、エプシロンは素早く魔球を二つ出現させて栞里に放った。
 これまで何度も使っていた魔槍ではなかったのは、エプシロンも多少なりとも突然のことに焦っていたからだろう。
 魔槍よりも構造が簡単で、作るのが早い魔球が咄嗟に出た。
 そしてそのおかげで、栞里は間一髪助かったのだった。

「ぐっ……!」
「……あらぁ?」

 エプシロンが放った魔球は、なぜか避けようともしない栞里の両腕を難なく弾き飛ばし、砲撃を放つ手を止める。
 あまりにも簡単に自分の魔法が当たったことで、エプシロンは訝しげに眉をひそめた。
 エプシロンが栞里に与えた傷は当然ながら次の瞬間には傷一つなく完治するが、今の魔法が運良く魔球だったからその程度で済んだだけだ。
 もし魔槍であれば、治癒する間もなく死んでいただろう。

「……くふ、ふふふっ、ふふふふふふっ!」

 なにがおかしいのか、エプシロンは腹を抱えて笑い始める。
 そうして今の一撃で決められなかったことに唇を噛む栞里を見やり、からかうかのようにパチパチと拍手した。

「いやぁ、良い魔法だったわねぇ? この私の障壁に罅を入れるなんて、大した魔法だわぁ。ちょっと驚いちゃった」
「……」
「でも今の魔法、どうやら致命的な欠陥があるみたいねぇ」

 栞里が銃口を向ければ、呼応するようにエプシロンも魔法陣を生み出す。
 その魔法陣の数は、たったの一つ。
 だけどそれだけで、栞里が引き金にかけていた指は止まってしまった。

「やっぱり。その魔法、反動が大きすぎるんでしょう? あれだけの威力だもの。当然よねぇ。撃っている間は制御に手一杯で、まともに動くこともできない」
「……どうかな。できないふりをしてるだけかも」
「はぁ? なにその下手くそなハッタリ。棒読みすぎるわよぉ? ふふっ、これは傑作」
「…………」

 苦手なりに頑張って見栄を張ったのに一瞬で見抜かれた上に傑作とか言われて、栞里はイラッとして目元をピクつかせた。
 ……しかし実際のところ、すべてエプシロンの言う通りでもあった。
 この魔法は威力だけは折り紙つきだが、それ以外がてんでダメなのである。
 さきほどの魔球だって、あれが仮に魔槍だったら冗談抜きで栞里は死んでいた。
 だから今まで使わなかった……というよりも、危なすぎて使えなかったのである。
 だがここまで来たら、もう背に腹は代えられない。
 さきほどエプシロンの障壁を破りかけたことで、その威力のほどは証明できた。
 どうにかこれを使いこなし、エプシロンを退け、一刻も早く澪を助けなくては。