一九〇七年──明治四十年。大日本帝国、横濱。
港に一隻の大型貨物船が停泊する。白いカモメが飛び交うその下で、威勢のいい男たちが積荷を降ろしていく。
その船に記されているのは『御鍵商社』という角張った商号。
地平線の彼方にある異国から反物を輸入し、販売する御鍵商社の社長、御鍵明寛は業界で知らない者はいないと言わしめるほどの商才を持っていた。周囲からの人望も厚く、華族ではないが一定の地位を確立していた。
彼には気立てのよい妻がいる。社長の椅子に座る前に大恋愛し、婚姻したという。この恋物語は近所でも噂になっていた。家柄に縛られず、政略的な良家の謀もなく、それはそれは幸せな恋であった。
そんなふたりの間には十歳の娘、絹香と七歳の息子、一視がいる。上の娘は父親譲りの我慢強さがあり、母親譲りの美貌があった。下の息子は病気がちで、泣き虫なのが愛らしい。将来の社長にしては頼りなくとも、ゆくゆくは立派な跡取りとなるだろう。
また、明寛には弟がいた。弟は兄を支え、兄弟ふたりで会社の繁栄と安寧を願っていた……はずだった。
その日も、港で従業員や日雇いの若者らが積荷を降ろしていた。
大海の背には大きな町がある。さらに内陸は大都会が近い。そんな異国情緒あふれるハイカラな港町に構えた豪邸の書斎にて、明寛が銃でこめかみを撃ち抜き、死亡した。一月、冷たい雪が降る日である。
自害の一因となったのは業績低迷から患った精神不安定だという。一方で明寛の妻、七重も持病がたたり、夫の死を追うように亡くなった。
明寛夫婦の死後、社員たちは弟の寛治を支持した。
それから八年──世は大正へ改元し、流行り廃りの移り変わりが激しい。人々の関心は、めくるめく華やかな社交界と芸能、諸外国との戦争、そして身近な恋物語へと傾く。
没落令嬢、御鍵絹香はその日を慎ましやかに生きていた。
美しく、繊細な目元と黒目がちな瞳は憂いを帯び、見る者に儚げな印象を与える。腰まで及ぶ黒髪は繊維のひとつひとつが絹糸のよう。先代社長の奥方を知る者はこぞって彼女を『七重様の生き写し』と称した。
常に笑みを絶やさず、令嬢であることを誇りにし、しかし鼻にかけることもなく、自ら率先して働くしたたかな少女だ。
だが、それは表向きの顔にすぎない。
『現し世に情けはない』と、絹香は十歳の時に学んだ。
父の自害から、母の病死まで時間はとてつもなく早く進んだ。運命のいたずらにしては、耐えがたいほどの不幸だった。
父母の葬儀にはたくさんの参列者がいたが、その中には面白おかしく記事にしようと企む下賤な記者もいた。彼らは娘である絹香にあれこれと難しいことや心ない言葉を投げつけた。
だが、彼女は毅然とする。葬儀の裏で泣いてぐずる一視に、眉を吊り上げながら言った。
『一視、男は泣くものじゃありません。明日のことを思い、大笑いするものです。お父様がよく言っていたでしょう?』
絹香は一視の手をぎゅっと握った。
『姉様の手は魔法の手。心が安らぐ魔法の手』
おまじないのように唱えると、みるみるうちに熱を帯びていく。ホカホカと温かな癒やしが指先の内側へと伝わり、一視はようやく涙を引っ込めた。
『あったかい……ぼく、ねえさまの手、大好きです』
『この手があれば、どんな傷だって癒やしてしまうのよ。でも……』
絹香はふと、目を伏せた。
どんな傷もたちどころに癒やしてしまう魔法の手──その能力を開花させるには、一歩遅かった。
転んで膝を擦りむいても、手をかざせばすぐに治り、病気ひとつしない。これがどうやら他人にも癒やしを施すことができるのだと知った時にはすでに遅く、絹香は悔しく歯噛みした。
『ねえさま?』
一視が不安そうに顔を覗き込む。
──いけない。この子の前では強くあらねば。
絹香は心に鞭打ち、笑顔を作る。
『いいこと、一視。これからはわたしがあなたを守ります。だから、大丈夫よ』
『はい!』
しっかりとした声で答える一視を絹香はたまらず抱き寄せた。
しかし、そんな姉弟の決意も虚しく、大人たちはふたりを容易に引き裂いた。
まもなくして、一視は母の遠縁に当たる『今利鉄鋼』の社長宅へ一時預かりとなったが、絹香は寛治の元へ養女として迎えられた。
だが、絹香はこの叔父が嫌いだった。その妻、照代とも気が合わないと思っていた。
父の教えでは、人に優しく、決して驕ることなく善良であることを説かれたものだが、このふたりにそのような善行を注ぐ価値はないと思っていた。
世間で取りざたされているような兄弟の絆とやらは、その実まるきり嘘であり、父と叔父はもとから不仲だったことを絹香は知っていた。ゆえに、なぜ寛治の家へ迎えられたのか、最初は皆目わからなかった。
だが、十八歳になった今ならわかる。彼らは衰退の一途をたどる御鍵家の砦となる善行を世に知らしめるポーズとして、不遇な絹香を引き取ったということを。
なにせ、家での仕打ちは劣悪である。引き取られたその日から、絹香は私物をすべて奪われた。着物や小物、父母の形見も、家も、弟もすべて。その代わり与えられたのは、寝起きするための屋根裏部屋だった。
御鍵寛治邸は諸外国を相手にする商社の社長という立場もあり、和洋折衷の造りだ。今はもう解体された絹香の生家も洋館と和館を組み合わせた建物で、幼い頃からベッドを使っていた。ただ、洋服は定着せず、普段は着物で生活していた。
叔父に引き取られてから、絹香の生活は大きく変貌した。
独房さながらの薄暗く狭い部屋に、かつて過ごした実家のような快適さはない。
近い天井と小さな窓、埃だらけの冷たい床板にももう慣れた。部屋履きも上等なものはなく、擦り切れた足袋である。着物は学友のお古をもらうしかなく、冬は寒さに震え、簡素なベッドで過ごす。
「さぁ、起きるのよ、絹香。早くしないと叔父様たちが起きちゃう」
そんな独り言を放ち、体を伸ばして起き上がった。寝間着の上からおさがりのショールを巻けば、なんだか貴婦人の起床を演出できるので楽しい。
絹香は新聞を読むだけのために毎朝五時に起きる。そのついでに、人手が足りない台所仕事をするのが女学校を退学させられてからの日常となっていた。
屋根裏部屋の独房から二階へ降り、寝静まる叔父たちの部屋も通り過ぎ、古い木材の階段を忍び足で降りていく。一階の居間を突き抜け、台所にある裏手口から外へ出る。
薄紫の空の中、朝焼けが雲間から流れていた。今日は洗濯物がよく乾きそうなお天気に違いない。
五月の早朝、初夏の香りが近づいているが港に近いここはわずかに冷える。遠くでカモメの鳴く声がし、その心地いい音を耳に取り入れながら新聞配達員を待った。
しばらくすると、背後から物音がした。振り返る。
「おはようございます、絹香さん」
書生、瀬島行人が純朴そうな笑顔を見せた。
「おはようございます、瀬島さん」
絹香は声を弾ませて挨拶した。優雅に一礼し合う。最近ふたりの間で流行っているのは、この〝華族ごっこ〟だった。
「絹香嬢、今朝もお早いですね」
「瀬島さんこそ、お早いですわね」
「……新聞はまだかな?」
「あら、もう終わり? 華族ごっこ、楽しいのに」
絹香は頬を膨らませた。すると、瀬島はクスクス笑い「失敬」と言いながら自分の髪を触る。生来のくせ毛がコンプレックスらしく、絹香はその頭を撫で回したいと常々思っていた。
自分よりひとつ年上の瀬島だが、弟のように感じてしまうのは親しみやすい人柄と少し頼りない性格だからだろう。優しい目は開いているのかいないのか近くで見なければわからない。ちょっと大きな鼻と綺麗な歯列が印象的な彼は、笑顔がとてもかわいらしい。
もう随分会っていない弟の幼い顔を脳裏に浮かべると同時に、今利家へ手紙を出さなければならないことを思い出す。
すると、唐突に瀬島が「あっ」と声をあげた。
「そうだ。絹香さん、よかったらこれどうぞ」
彼は着物の帯に差した本を絹香に渡した。
「あら、もしかして専門書?」
「そう。貧乏なもので、大学の図書館から借りてきたもので悪いんだけれど」
「とんでもない。嬉しいわ。それに、わざわざ大学の図書館からだなんて……近頃は貸本屋さんもあるというのに」
「貸本屋のものは古いので。やはり、最先端の学問は然るべき機関に眠っているものさ。それに、今日はあなたの誕生日ですから」
気取ったふうを装うが、すぐに照れ笑いを浮かべて恥ずかしがる。そんな瀬島に、絹香は小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
絹香は本を抱いて笑った。すると、瀬島はゆっくりと手の甲で絹香の頬を撫でた。彼の手は冷たく、皮膚に鋭く浸透する。絹香は驚いて一歩身を引いた。
彼はこの邸の中で唯一気を許せる友人ではあるが、髪に触れられるのは不本意だ。
「えーっと……新聞、遅いね」
瀬島は気まずそうに呟いた。
「そうね……」
あぜ道の向こうをふたりで見つめる。
ほどなくして、新聞配達員は頼りなげな自転車で御鍵邸へ到着した。
お金を払い「ご苦労様」と声をかけ、瀬島と共にようやく部屋へ入る。
さっそく台所の丸椅子につき、調理台の下で新聞に目を通した。
踊る活字をざっとななめ読みする様子を瀬島が見守る。彼は主人である叔父や叔母が起きてくるのを見張る役目も勝手に担ってくれていた。
「相変わらず、絹香さんは読むのが速いですね。きっと、女学校でも秀才だっただろうに。もったいない」
「仕方ないわ。女に学問は不要ですから」
瀬島の言葉に、絹香はやや皮肉を込めて返した。それに対し、瀬島は悔しげに吐息を漏らす。
「君の叔父上は間違っているよ。本当に心からそう思う」
「瀬島さん、集中できないわ。ちょっと黙ってて」
「うーん、冷たい……」
軽くあしらっても、彼は気を悪くするでもなく、この時間を楽しげに過ごしていた。絹香もこのささやかなひとときが心安らぐ時間だった。
新聞の一面は政治経済だ。事件や事故なども書かれており、本の新刊宣伝や医薬品の広告もあった。また、最近はどこそこの令嬢と庶民との心中話や大恋愛の模様が派手に報じられており、その模様を絹香は食い入るように読みふけった。
世間は毎日、飽きることなく事件が起きている。そのことを知れば、自分の世界は案外ちっぽけなものなのかもしれないと感じられた。
だが、あと一時間もすれば終わりを迎える。廊下を伝って流れる古時計の鐘が六時を告げれば、使用人が起きてきた。
瀬島が焦り声で絹香に合図する。
「絹香さん、そろそろ」
「えぇ」
絹香は新聞を綺麗に折り畳み、瀬島に渡した。
新聞係は彼の役目となっている。台所を出て、瀬島はすぐに「おはようございます」と礼儀正しい声を放った。その奥で、叔父の不機嫌そうな唸り声が聞こえた。
絹香は朝食の準備を始めた。
叔父は硬い米をふやかしたものを好むので、前日に握り飯を作っている。それを茶碗に置き、煎茶をかける。魚は焼き立てがよいので、前もって準備していた網の上に小アジをのせた。
叔父が新聞を読み終わる前には焼き上がるだろう。その間に味噌汁を作っておく。
台所は使用人が使いやすい従来どおりの和式で、土間にかまどがふたつ。火をかけ、あらかじめ煮干しで出汁をとった水を小鍋に張り、湯を沸かす。
次に手早く小松菜をざく切りにし、豆腐を丁寧にさいの目状に切った。沸騰したら味噌を溶き、味見する。味がなじんでいれば、豆腐と小松菜を入れて少し煮る。小松菜が鮮やかな緑を放ち、味噌の色味がふんわりと踊れば椀についだ。
すると、小アジがいい香りを漂わせた。ふっくらとした身と皮の隙間からジュワジュワと脂が浮かんでくる。小アジが焼けたら皿に移し、漬物を添えて完成だ。
これを使用人に持っていかせる。直接行けば「飯がまずくなる」と言われるから、顔を出さないようにしている。
さて、次は叔母用の朝食だ。今から米を炊けば十分間に合う。
ここの夫婦は朝食時間が別々なので、朝の台所は忙しい。また、主人の横暴さに心を痛めて辞める使用人が多いのでよく人が入れ替わり、常に右往左往している。絹香も学校で学んだとおり、ある程度の生活能力は身についているが、ひとりで作業を回すには腕があと四本は欲しいところだった。
叔母は品数が少ないとすぐに腹を立てる。錦糸卵、桜でんぶなどを用意し、小アジの臭みを抜いて下味をつけ、彩り鮮やかな麩を柔らかくふやかし、かまぼこを切る。
そうしているうちに、居間の方から「行ってらっしゃいませ」と瀬島のかしこまった声が聞こえた。
どうやら叔父は会社へ行くようだ。絹香の気が少しだけ晴れる。なるべく彼らと顔を合わせずに過ごすのが一日の目標だ。
おかずをそれぞれ小さな器に盛り付け、膳を整える。そして、若い使用人に部屋まで持っていかせた。それが終われば、他の使用人たちの手伝いと手紙を投函しに行く。そんな予定を頭の中で組み立てていると、瀬島が台所に戻ってきた。
仕事の前に、彼の朝食と弁当も用意する。瀬島はこれから大学へ勉強しに行くのだ。
「ご飯が炊き上がったから、すぐに支度しますね」
「ありがとう」
茶碗に白飯をよそい、味噌汁と漬物を出した。彼は手早く調理台の上で朝食にありつく。そんな彼の食べっぷりが気持ちよく、絹香は大きな握り飯を三つこしらえた。それぞれ梅、おかか、味噌と具を変えている。
竹籠に詰め、フタをしたところで突然、台所に若い使用人の娘が血相を変えて飛び込んできた。
「絹香さん! あ、あの、奥様が……お呼びです……!」
明らかに動揺の色を浮かべており、絹香はサッと血の気が引いた。瀬島も怪訝そうに食べる手を止める。
「……なにかしら」
絹香は拳をぎゅっと握った。
「何事もなければいいけれど」
瀬島も不穏を感じたか小声で言う。
「朝食が気に入らなかったのかもしれないわ……大丈夫、いつものことよ」
そう強がるも、握っていた手がわずかに震えた。台所から飛び出し、素早く階段を上がる。すれ違う掃除婦に挨拶もせず、叔母の部屋へ向かった。
「叔母様、絹香です」
木製の扉は西洋式のノックをして声をかけなければならない。
すかさずドアの奥から「入りなさい」と厳しい声が聞こえ、絹香は真鍮のドアノブを開けた。叔母はすでにベッドから起きていたが、寝間着のままでこちらを睨みつけている。
青白い肌には艶がなく、どことなく枯れた印象の叔母、照代はギョロリと大きな目玉で絹香を威圧した。
「なんなの?」
出し抜けに叔母はそう言い、憎々しげに絹香を見ている。なにを問われているのかがわからず、絹香は顔を強張らせた。
黙っていると、叔母は荒々しく絹香の元へ近づいた。そして、すぐに横っ面を弾かれる。
「私にあんなものを食べさせるなんて、恩知らずもいいところね!」
押し黙った絹香は、胸の中に黒い靄が広がるような気がした。目をつむり、奥歯を噛む。すると、もう一度、横っ面を叩かれ、ぐいっと髪の毛をつかみ上げられる。
「なんなの? その目は。本当にイライラする」
なにに対して叱られているのか、なにに対して反省すればいいのかわからない。だが、これだけはわかる。
叔母は朝食に文句を言っているわけではない。ただ、絹香を痛めつけたいだけなのだ。さめざめと泣いて許しを乞えば、叔母は喜ぶ。昔からそうで、すれ違いざまに足を踏みつけられたり髪をつかまれたりする。
明確な理由のない嫌がらせは日常化していて、絹香はただこの時間が早く終わることだけを考えた。
絶対に泣かない。喉元まで出かかった嗚咽を飲み込んで耐える。
「この化け物が」
吐き捨てるように嘲り笑う叔母から、絹香はゆっくりと離れた。
「朝食は作り直しますか?」
弾かれた頬を押さえることなく、冷静に問うと叔母は「フン」と鼻息を飛ばした。
「結構よ。もう下げてちょうだい」
「承知しました」
絹香は叔母の膳を静かに下げて部屋から出ようとした。
「待ちなさい!」
ドアに手をかけると叔母に呼び止められ、絹香はくるりと振り返った。
「いかがしました?」
打たれた頬の手当をしたい。早くしないと痕になりそうだ。そんなことを心配していると、叔母は静かに言った。
「今日は東京へお遣いをしてちょうだい」
「はぁ、東京ですか……?」
「次の週末、ここで商談パーティーをするんだそうよ。子爵家の長丘様がいらっしゃるの。主人が一流の料理人を呼び寄せろと言っていたのを思い出したわ。あなた、ご挨拶してらっしゃいな」
叔母の声は先ほどの癇癪から一変して冷静だった。淡々とした指示に、絹香は無感情に答えた。
「承知しました」
すると、叔母はもう用済みとばかりに手で追い払う仕草をする。
絹香は急いで洗面所へ向かい、鏡を見つめた。頬が腫れている。傷跡は大してひどくないものの、鮮血が丸い点となって鼻にかかっていた。叔母の爪がかすったのだろう。
絹香は傷を指先でなぞった。すると、みるみるうちに傷口が塞がれていく。次に両頬を手のひらで包めば、腫れがすっと引いていく。それに伴い、痛みもゆっくり和らいでいった。
「……あ、瀬島さんはもう出たかしら」
おそらく彼はもういない。「行ってらっしゃい」を言いそびれたことを悔やむ絹香は無意識に現実逃避していた。
使用人たちに台所の後片付けを頼み、絹香はそっと〝自室〟へ向かった。この邸に来て与えられたものだが、自分のものではない。外へ出ても恥ずかしくないよう、遣いに出る時や客人を招く際にのみ出入りを許される。皮肉なことにこういう時にしか、おしゃれができない。
絹香は淡い桃色の着物を取った。銀と白の糸が優美な曲線を描く繊細な刺繍の着物は、御鍵商社が扱う反物である。
帯は鳶色で、水色の睡蓮模様が描かれている。帯留めは淡い桜色を選び、五月の空の下でも浮かない爽やかな組み合わせだ。
化粧台に座って薄く白粉を顔に塗り、頬紅で色をつける。長い髪の毛を器用に結い、ふんわりと柔らかな耳隠しを仕上げた。
白い帽子をかぶりレースの手袋をはめれば、どこをどう見てもおしゃまなお嬢様。つい先ほどまで理不尽な扱いを受けていた惨めな少女の姿はどこにもない。
絹香は鏡の向こうの自分に微笑んだ。すると、鏡の彼女も優美に笑う。令嬢、御鍵絹香の出来上がりだ。
絹香は一視宛の手紙を持って、颯爽と玄関ホールへ向かった。使用人たちに十五時に戻ることを叔母に伝えるよう言いつけて家を出る。
無感情に笑顔を浮かべ、ご近所の人々に「ごきげんよう」と声をかければ、誰もが絹香を御鍵家の幸せな令嬢だと信じて疑わない。絹香に与えられた役は〝賢く、気立てのよいお嬢様〟であり、〝両親の死を乗り越えた健気な少女〟なのである。
その役を完璧に演じながら郵便局へ立ち寄った。
一視とは、あの別れ以来一度も会っていない。遠い九州の地で、彼は両親や姉の教えを守り、懸命に勉学に励んでいるという。
手紙の中での絹香は気さくで明るい姉を演じているものの、ここ最近は叔母からの嫌がらせが過熱したこともあって筆が乗らなかったのだ。一ヶ月近く返事を出せずにいたが思い切って手紙を投函した。
それから駅へ行き、路面電車で移動する。本来なら用心のため使用人を連れて街を歩きたいところだが、そこまでは許されていない。港の本社へ行けば、叔父の秘書たちがいる。しかし、彼らとの接触も叔父から許されていないので頼れず、ひとりで行くしかない。
「そうだわ。瀬島さんに会えるかしら」
ゆるやかな潮風を浴びながら彼の顔を思い浮かべつつ淡々と東京までの道を行く。
街は華やかで、着飾った人々が多い。女学生や職業婦人なども行き交い、ちらっと振り返って彼女らを見つめるも、すぐに目を逸らした。
自由な彼女たちを羨ましいなどと思ってはいけない。そう言い聞かせて、書き留められた住所を訪ねる。
「ごめんくださいまし」
通りに面した瓦屋根の家屋はいかにも庶民的で、開きっぱなしの戸口から顔を覗かせる。
商社の社長や財界の重鎮などの調理補助を任されるという腕利きの料理人は気難しそうな老爺であり、いかめしい仏頂面で絹香を出迎えた。
「おや、これはどうも……わざわざ絹香お嬢様にご挨拶をしていただかずとも、寛治様から直々にご連絡いただいておりましたのに」
「え?」
絹香は眉をひそめた。
「ご挨拶をするよう叔母上から仰せつかったのですが……」
すると、玄関の奥から家の者たちがヒソヒソとささやき合っているのが見えた。
「どうしてここまで……」
「わざわざ来なくても……」
そんなふうに言っているのが聞こえて、たちまち目の前が暗くなった。もしかすると叔母は、こうして恥をかかせるためにわざと遣いに出したのではないか。そんな思惑を読み呆然としてしまう。
「お嬢様?」
「あ、申し訳ありません。しかし、こうしてお会いできて光栄でございます。当日はぜひ我が御鍵家のため、ご尽力くださいませ」
そう早口に押し切り、主人の手を握って微笑む。すると、主人は曖昧に笑った。
「それでは、ごきげんよう」
絹香は家にも上がらず、踵を返した。
「お嬢様、お茶でも……」
「いいえ、早く帰るよう言いつけられておりますので」
頭が真っ白になり、とにかく逃げたかった。
ふいに八年前の──父の葬儀に駆けつけたあの記者たちののっぺりとした顔が脳裏をよぎる。なんだか、あの屈辱と似ていた。
「……笑うのよ、絹香。こんなこと、なんでもないでしょう」
小さく呟いて鼓舞すれば、心が落ち着いていく。
なんとか遣いを終えることができたのだ。まだ少し時間に余裕があるかもしれない。絹香は心の疲弊を押し込んで、大学の道を探した。通りすがりの人に道を訊ねて歩けば、先ほどの屈辱が薄れていった。
大通りには人々が行き交い、学生服の集団や軍服姿の規則正しい足音も聞こえ、大層賑やかだ。横濱も活気があるが、この都は別格で、石畳と建ち並ぶビルディングが近代的で華やかさを放つ。車の通りも多い。
絹香は気をつけながら歩いていたつもりだった。しかし、人混みの中を縫うようにして走ってくる車にまで気を回すことはできなかった。「危ない!」と鋭い悲鳴にも似た声が、まさか自分に浴びせられているとは思いもよらない。
体が強張って動けない。すると、後ろから誰かに抱きすくめられた。
「まったく……死にたいのか?」
深い男性の声が頭の上から降り注ぐ。気がついた時には車は脇で停まっており、人々が運転手を引きずり下ろそうとガヤガヤしている。
絹香は道に尻餅をついていた。しかし、その後ろには温かな壁がある。
「おい、君」
またも頭上から声が聞こえ、ハッとして顔を上げると、切れ長の目が不安そうにこちらの様子をうかがっている。色白の端正な顔立ちをした青年だった。青みがかったスーツに揃いの帽子をかぶっている。身分の高そうな紳士だ。
「あっ、も、申し訳ありません!」
「いや、無事ならよいのだが……少しは気をつけて道を歩きたまえ。その綺麗な着物より命が惜しいなら」
彼は安堵しながらも厳しく言った。
着物を汚したくないから動かなかったのだと思われているようだ。しかし、なにも反論できず、ただしおらしく顔を伏せるしかない。時間差で心臓がバクバクと大きく音を鳴らし、冷や汗が背中を伝う。
怖かった。どんな罵倒や嫌がらせも慣れていたのに、大きく無機質な機械が迫ってくることがこれほど恐ろしいものだとは想像もしていなかった。
頭が真っ白で声が出ない。そんな絹香に、青年は呆れたように苦笑する。
「立てるか?」
彼は絹香に手を差し出す。うながされるまま立ち上がるも、次の瞬間に左足首から鋭い痛みを感じた。ガクッと体勢を崩すと、彼が慌てて抱きすくめる。
「足が痛むのか?」
「えぇ……そのようです」
痛みに顔を歪めつつも、絹香は口元に笑みを浮かべた。すると、彼は形のいい眉をひそめた。
「奇妙な顔をして笑うな、君は。そうつらそうに笑うんじゃない」
「えっ……」
思わぬ言葉に戸惑う。
この身には不可思議な治癒の異能が宿っている。これくらい、すぐに治る。しかし、人前で使うのは利口ではない。絹香は青年の手を取りながら、歩けるかどうか試した。ズキズキするが、壁伝いに歩けばなんとかなる。あとは近くの物陰に隠れて異能を使えばいい。
「大変失礼いたしました。どうぞお気になさらず……」
「なにを戯けたことを。この私に怪我をした淑女を見放せと言うのか」
意外な言葉に絹香は両目をしばたたかせた。
「い、いいえ。そんなつもりは……」
「では、問題ない。家まで送ろう」
青年はさも当然のように言った。
「案ずるな。いま、車を用意する。どのみち、私の用事はすでに終わった。急ぎ、病院に向かおう。それよりも君の主治医に見せた方がいいだろうか」
絹香はますます困惑し、とにかく首を横に振った。
「どうぞ、お構いなく。わたしは、そのようにしていただく身分ではございません」
咄嗟に出た言葉に絹香はハッとし、口に手を当てる。青年も目を見開かせて驚きの様子をあらわにした。そして、まじまじと不審そうに見つめてくる。
「君、御鍵商社のご令嬢だろう? 名を絹香といったか」
「えっ……」
どうして名を知っているのだろう。どこかで会ったことがあるだろうか。こんな美しい男性を忘れるはずがないが、すぐには思い当たらない。
すると、彼は絹香の着物を指した。
「その着物は御鍵商社の製品だ。それに、御鍵家は昔から話題に事欠かない。知らぬ者はいないだろう」
その言葉に絹香はすぐ合点したが、先に素性を当てられるのはいい気がせず、警戒心を顔に張り巡らせた。
「失礼ですが、お名前を伺っても……?」
訊くと、彼は柔らかく口元だけで笑む。紳士らしく帽子を取って優雅に名乗った。
「長丘敦貴という。名くらい、聞いたことはあるだろう?」
「な、長丘様!?」
仰天のあまり目眩がした。
長丘家は明治維新後に名を挙げ、国家に勲功ある者として華族となった名家である。また、次の週末に御鍵家と取引をする相手。そんな子爵家の令息に助けられるなど、叔父や叔母に知れたらどうなるか。
絹香は開いた口が塞がらなかった。
「さて、もういいかな。ギャラリイが面倒だ」
その言葉に、絹香は周囲を見渡した。今や事故を起こした運転手は通行人から非難の嵐を受けており、怪我をしたこちらのことなど考えていないようだった。
絹香は迷った。しかし、答える間もなく敦貴が絹香を抱き上げる。
「えっ!? あの、長丘様……!?」
公衆の面前で抱き上げられるなど、それこそ大変な騒ぎになりかねない。
「しっかりつかまっていないと、落ちるぞ」
「っ!?」
慌てて彼の首に手を回すと、敦貴は満足そうに「うん」と小さくうなずいた。絹香はまともに顔が見られず、ただただ彼の肩に顔をくっつけている。
「米田。病院へ車を回せ」
「かしこまりました」
運転手と思しき男性の声が聞こえるが、絹香は顔を上げられずにいた。すると、敦貴が言った。
「絹香嬢、そうくっついていたら車に乗せられない」
「申し訳ありません……!」
「よほど痛むのだな。やはり先に医者へ行こう。御鍵殿には私から連絡する。それでいいな?」
「……はい」
彼の素性を知った今、逆らえるはずがない。華族であることも理由のひとつだが、なにより御鍵家の今後を左右する存在になるやもしれない相手だ。
敦貴は絹香を優しく慎重に車の中へ乗せた。
車とは、てっきり人力車なのだと思っていたが四輪車だった。心地いい革張りの座席、そして前方には運転席が。
先ほど車にぶつかりかけたこともあり、絹香は体を強張らせていた。だが、そんな心配もよそに敦貴は絹香の横に乗り込んでくる。
運転手の米田が車を発進させた。屋根はあるが扉がない。動き出せば、絹香はヒヤヒヤした。
「安心しろ。米田はあんな危険運転はしない」
まるでこちらの心を見透かしているみたいに、敦貴がサラリと言う。
絹香はようやく彼の横顔をうかがった。
すっきりとした目尻は凛々しく、長い睫毛が優美さを醸し出す。高い鼻に、薄い唇。その下に小さなほくろがある。女性的な儚さもあり、しかし首筋は太く、そこから下ればしっかりとした胸板があり、誰もが身を委ねたくなるような男性だ。
しかし、絹香は彼の表情から冷ややかさを感じていた。冷酷ではないと思うが、人好きのするような明朗さもない。端正な顔立ちがそう思わせるのか。
「なにか?」
見つめていると、彼は前を向いたまま訊く。口元は笑っているが、目元はいっさい笑っていない。
「いいえ」
絹香は慌てて正面に顔を向ける。不思議な空気をまとう彼の横で、とにかく心臓の音が聞こえないよう胸を押さえるしかなかった。
病院へ行くのは随分と久しぶりだった。叔父に引き取られてから一度もなく、そもそも絹香にその必要はなかった。
大きな病院は無数の医者や看護婦が行き交う。
その処置室で絹香は丁寧な診察を受けた。やはり足首を挫いてしまったようで、湿布薬を塗られ、その上から綺麗な包帯を巻いてもらった。まだ痛むが、家に帰ったらすぐに治そうと絹香は思う。
その間、敦貴は重厚な院長室の電話から御鍵商社へつないでいた。
「心配には及ばない。絹香嬢は責任を持って、私が送り届ける。その旨を社長へ伝えるように」
処置をしてもらった後、おずおずと彼の元へ行けば、そんな声が聞こえた。敦貴が伝えたのは、おそらく叔父の秘書か事務員だろう。直接話をしたわけではないと悟り、安堵と不安が半々のまま立ち尽くす。
「処置は済んだか」
彼は絹香を見ずに訊いた。
「は、はい!」
絹香は飛び上がって返事をした。そして、慌てて床へ膝をつく。
「このたびは長丘様のお手を煩わせたこと、大変申し訳ございませんでした。どのように御恩をお返ししたらよいか……」
「そう堅苦しいのは結構だ。まぁ、『怪我人を目の前で放置した』などと騒ぐ連中がいるかもしれんからな。いつどこで名に傷がつくかわからない」
彼は無感情に言葉を吐き出し、くるりと振り返った。
「やめなさい。怪我が悪化したら、それこそ本末転倒だ」
その言葉はもっともであり、絹香はすぐに立ち上がった。
「ありがとうございます、長丘様」
絹香はためらいつつ、彼の顔を正面から見つめた。
──やっぱり、不思議だわ。
冷たく、淡々としているのに言葉が優しい。彼の言動は身につけた服と同じように完璧で、一分の隙も見せない。
「では、絹香嬢。家まで送ろう。社長へはこちらから話を通してある」
「はい……なにからなにまで誠にありがとうございます」
深くお辞儀すると、敦貴がサッと脇を通り過ぎた。彼はドアを開け、絹香に手を差し出す。絹香はその手を取り、院長室を出る。世話になった医者に挨拶し、今度は自力で敦貴の四輪車へ乗り込んだ。
まるで、お姫様にでもなった気分だ。いつも〝華族ごっこ〟をしているのに、こういう時に限って優雅な動きがままならないことが悔やまれる。
そんな最中、米田が運転するフォード・モデルに向かって口笛を吹く人がいた。女学生たちの黄色い声も聞こえてくる。若い学生らにとって、高級製品である四輪車を乗りこなす上流階級は憧れの対象だ。
学生服の群れを横切り、絹香はふと瀬島の姿がないか少しだけ気になった。書生の彼を見つけさえすれば、あとは「この人と一緒に帰ります」などと理由をつけて車を降りられるかもしれない。
しかしそんな願いも虚しく瀬島を見つけられないまま、車は山道へ差しかかった。人通りもまばらになっていく。木漏れ日の中、蒸気自動車の音だけが鳴り響き、絹香も敦貴も口をつぐんでいた。
「随分と熱心に誰かを探していたが、もしかして恋人か?」
沈黙を破ったのは敦貴の静かな声。突然の問いに、絹香は驚いて彼を見つめた。
「なにをおっしゃって……」
「見ていればわかる。さては男との逢引の途中だったかな? その相手は学生か」
違うかい?と目で確かめてくる。その異様な鋭さに絹香は素直に舌を巻いた。しかし、彼の見立ては半分ハズレだ。
「……恋人ではありません」
「隠さなくていい。そもそも、君みたいな令嬢がひとりで街をうろつくという理由が皆目わからない」
「お、お遣いに、ここまで来ただけです」
「だったら使用人はどうした? それとも、御鍵家では大事なご息女をひとりで遣いに出すのが通常か?」
そう矢継ぎ早に問われれば、なにも言えない。
確かにそのとおりだ。ひとりで出かけるなんて最初から奇妙だった。これに気がつけないくらい社会から隔絶されていたのだと改めて知る。
絹香は黙り込んだ。それを肯定と受け取ったようで、敦貴は冷笑を浮かべた。
「ほう、家人に言えない秘密の恋愛か……恋だの愛だの、近頃はそういうものが流行っているが、よくもまぁそんな面倒なことをする」
「だから違います。瀬島さんとは、そのような関係ではありません!」
絹香は思わず声をあげた。途端に敦貴と目が合い、その深い瞳に好奇の色が浮かんでいるのがうかがえた。なんだか彼の術中にはまっているような気がしてならない。
「なるほど。からかってすまなかった」
そう謝る彼だが、口元には笑みを浮かべたままだ。まだ疑われているような気がし、絹香は仕方なく弁明した。
「瀬島さんはうちの書生さんです。その方にお会いできるかもしれないと思っただけでして、それ以上の関係はございません」
「ふむ……その瀬島という男、君が受けている仕打ちについてはなにか知っているのかな?」
その言葉が絹香の心に鋭く切り込んでくる。
「え?」
「君が受けている仕打ちだよ。ひとりで出歩かせる、遣いに出す、おまけに君の叔父上は君が怪我をしたと報告を受けても応対しようともしない。異常だ。これを問題にせず静観するのはどうかと思うがね」
「いえ、でも……」
絹香は言葉と共に唾をゴクリと飲んだ。
叔父との不仲に瀬島は関係ないが、敦貴の指摘も一理あるような気がしてならない。瀬島は絹香の身を案じているような素振りがあるものの、表立って叔父に意見しようとしなかった。主人と書生という関係なのだから、意見しないのは当然だろう。
しかし、敦貴の言葉が腑に落ちていく自分もいて、絹香は戸惑った。
この長丘敦貴という男は、人の心を見透かす異能でも持っているのだろうか。
訝りながら盗み見るも、彼はもう目を閉じてしまいなにも発することはなく、車内は再び沈黙した。
高級四輪車は道をすべるように走っていく。緑を抜ければ海が目の前に広がる。暖かい風が途端に冷たい潮風へ変わり、傾いた陽に照らされてキラキラと輝いていた。この景色が近づくにつれ、絹香の心臓は早鐘を打つ。
そうこうしているうちに、無言のドライブが終了した。米田は迷うことなく御鍵寛治邸へたどり着き、車を停めて事務的に告げた。
「到着いたしました」
「あ、あの、ありがとうございました」
絹香は思わず運転席に声をかけた。すると、米田はこちらを見ずに会釈した。
車から降りて手を差し出す敦貴の手を絹香は素直に取り、チラリと運転席を見やった。初老の男性は静かに目をつむったまま動かない。見えていないだろうが、改めてお辞儀した。
絹香は敦貴に支えられながら小さな鉄門を開けた。敦貴を伴っているので、いつも出入りしている裏手口は使わず表の玄関から入る。ガラスがはめ込まれた木製の玄関にはランプが灯っていた。
扉を開ける手が少しだけ震える。先ほどあった彼の発言もまだ頭の中に残っており、急激な不安に襲われた。
「た、ただいま戻りました……」
努めて冷静に声をかけるも、恐怖心を拭うことはできなかった。
すぐに玄関ホールで若い娘の使用人とばったり出くわす。彼女は絹香の姿を認めるなり、敦貴に挨拶もせず弾かれたように居間へ走った。
「奥様! 絹香さんがお戻りです!」
後ろに控える敦貴の来訪も一緒に伝えてほしかったが、そこまで気を回せなかったようだ。
「この嘘つき! いったい何時だと思っているのっ!」
叔母の金切り声が玄関ホールにまで響き渡り、絹香はさっと青ざめた。
敦貴が懐中時計を出したので、絹香はすかさずその脇から盗み見る。
現在、十七時。約束の時間から二時間も経過しているので叔母が怒るのも無理はないが、今は敦貴がいるので騒ぎを起こしたくない。凶悪な咆哮を放ちながら玄関ホールに出てくる叔母を食い止めるため、すぐさまホールの扉を細く開けて懇願する。
「叔母様! どうか、今は抑えて……お客様の御前です」
それだけ小声で言って扉を開け放つと、疑心たっぷりな叔母が顔を覗かせた。
「あ、あら……その方は?」
いつも頭ごなしに怒鳴り散らす叔母も、美青年を前にしてはうろたえて勢いをなくすようで表情を引きつらせた。もしくは絹香が男を連れてくることが想定外で、困惑しているのやもしれない。
「こちら、長丘敦貴様です。わたしが事故に巻き込まれてしまい、助けていただいたのです……叔父様にも連絡がいっているかと」
後ろの言葉は叔母にしか聞こえないよう彼女の耳元でささやいた。
この時間ならば叔父も帰っている頃かもしれない。しかし、この夫婦仲は冷え切っており、会話もろくに交わさない。
絹香は焦りと緊張で心臓が張り裂けそうだった。一方、叔母はぎこちなく微笑み、敦貴へ深々とお辞儀する。
「これはこれは、遠路はるばるご足労いただき、誠に恐縮でございます。まさか、この子が長丘様のお手を煩わせるなど……後できつく叱っておきますのでどうかご勘弁を」
叔母はしどろもどろに言い、彼を邸の中へ案内した。敦貴も会釈したが、帽子を取らなかった。
「主人からも長丘様へお礼をぜひ。さぁ、どうぞお上がりになって」
「失礼」
敦貴はそっけなく返し、ようやく帽子を取ると、叔母の案内で邸の中へ入った。
絹香は戸惑うまま、その後ろをついていった。廊下の突き当たりにある居間の扉を開けると、待ち構えていたかのように外行きの服装の叔父がいた。突き出た腹と赤ら顔、灰色の髭をたくわえた、見た目は父にそっくりな叔父、寛治である。
「あぁ、長丘様。このたびは絹香がお世話になりました」
敦貴の目の前では叔父も叔母も名演技を披露する。絹香は心底呆れたが、この読心術家の目を欺くことなどそう簡単にはいくまいと考えた。
敦貴はさっさとソファに座り、叔父たちをジッと観察しながら口を開いた。
「まさか商談パーティーの前にこうして相対するとは思わなかったが、これもなにかの縁でしょうな」
「いやはや、とんでもないご無礼をいたしまして。昔からこの娘はお転婆なところがございましてね。十八となった今でもまだ嫁のもらい手がないのですよ」
叔父が笑いを交えながら言う。縁談を寄越さないのは叔父の意向だが、絹香は反論できるはずがなく黙って聞いているしかない。
すると、敦貴も同様に笑った。
「なるほど。では、絹香嬢をうちで預かり、行儀見習いでもさせてみようか。どうだろう? その方が御鍵家のためにもなりそうだ」
敦貴の提案に、この場にいる誰もが目を丸くした。
「はい? 絹香を、長丘様の元に、ですか?」
叔父が慌てて問うと、敦貴は足を組んでふんぞり返った。どこまでも優位な彼の振る舞いが、余計にこの場の焦燥を煽る。
叔母は目を白黒させ、叔父も挙動不審になって言葉を探していた。
「そんなそんな、とんでもない……絹香を長丘様の元に置くなど……この娘は礼儀作法もままならないのです」
「だからそのための提案だ。しかし、礼儀作法がままならないのは彼女ではなくあなた方ではないかな」
滑らかな声音はとても冷ややかだ。絹香は天井を仰ぎたい気持ちに駆られたが、敦貴は構わず後を続ける。
「先ほど、ご夫人が絹香嬢を怒鳴りつけていた。いいや、他にも不審な点がある。絹香嬢の健康が危ぶまれているのではないかと私は懸念しているんだよ」
敦貴の声は茶会で世間話をするかのように軽やかではあるが、相手を黙らせるほどの力を持っている。
言葉をなくした叔父は絹香を睨んだが、すぐに不気味な笑みを浮かべた。その意味を読み取り、絹香はおずおずと口を開く。
「も、申し訳ありません、長丘様。そのお申し出はご遠慮させていただきたく……」
消え入るような声で断ろうとすると、敦貴は目を細めた。
やや時間を置いた後、敦貴は不満げに「ふむ」とうなずく。
「であれば、仕方ない。君は器量もよさそうだし、私の秘書として働いてもらいたかったのだが……まぁ、気が変わればいつでも連絡したまえ」
次々と出てくる言葉の意味がわからないが、思ったよりもあっさりと引かれてしまい、絹香は拍子抜けした。
「では、パーティーでまた。その際にはよい返事が聞けるといいのだが」
そう締めくくって彼は立ち上がり、使用人に持たせていた帽子を取る。
スタスタと居間を出ていく彼を、叔父たちは見送ることもできないほど放心していた。絹香も同じく呆けていたが我に返り、慌てて廊下に出る。
「あ、あの、長丘様!」
「なんだ。もう気が変わったのか?」
立ち止まって振り返る敦貴。
「いいえ、そんな大層なお役目、わたしに務まるはずがありません」
咄嗟に正直な気持ちが口から飛び出せば、彼は眉を曲げて不満をあらわした。
「そうか。残念だ。君をこの家から解き放とうとした私の厚意が無になった」
「はぁ……あの、なぜそこまでのことを……?」
敦貴の厚意はありがたく恐縮するものだが、手を差し伸べてくれる理由がいまいちわからない。すると、敦貴も首をかしげた。
「紳士たるもの、君みたいな美しい女性が困っているのを放っておくことはできない。さっきもそう言ったじゃないか」
「…………」
絹香は不信感を抱き、しばし無言になった。これがもし想いを馳せる殿方の言葉なら頬を紅色に染めているだろう。だが、彼の言葉はあまりにも淡々としていて熱がない。
「ほ、本気でおっしゃってます?」
「本気だよ。まぁ、初めはこんなにも不遇な令嬢だとは思わなかったが……これで御鍵家の劣悪さが明るみになったな。もっとも寛治氏はクサイと睨んでいたのだが、君のおかげで探偵を雇わずに済んだよ」
そう言うと敦貴は「クッ」と冷たく笑った。御鍵家の弱みを握るような物言いに、絹香は今度こそ天井を仰いだ。この八年間、家のため会社のためと耐え忍んできたのに、一番知られてはいけない人に知られてしまった。
絶望のあまり無意識に苦笑を漏らす。すると、彼は絹香の髪を手の甲で撫でた。
「君みたいな美しい女性に憂い顔は似合わない。もう少し自分を大事にしたらどうだ? この髪や着物みたいに」
絹香はもうなにも言えず「はぁ」と気の抜けた声で返事した。すると、敦貴は残念そうに踵を返してゆっくりと玄関ホールまで歩いていく。その背中をただ黙ってついていくと、彼は絹香に聞かせるようにひとりごちた。
「君を邸に招いて、そうだな……秘書もいいが、私の〝恋人役〟はどうだろう。君はなんだか他の娘とは違って思慮深いようだからちょうどいい」
「こ、恋人役……? あの、それも本気でおっしゃってます?」
突拍子もない言葉にだけはすぐに反応できた。
恋人役とはなんだろう。考えてみるも頭が働かず、また後ろからついていくだけでは彼の思考を読むことは不可能だった。
「本気だよ。謝礼も弾む。金で雇う〝恋人役〟だ。こちらの都合だから、乗り気じゃないなら詳細を話す義理もないが」
それにしては脈絡のない申し出だ。熱烈に誠意を込めた愛の告白ならば喜んで受け入れただろうが、陰気な玄関ホールの真ん中で事務的に告げられては現実味がない。愛の告白ではないのだから当然ではあるのだが。
顔をしかめていると敦貴が振り返った。帽子の下にある双眸は真剣そのもので、絹香は困惑するばかりだった。
「とにかく、気が変わったら私の元へ来るといい。この家に死ぬまで尽くすというのなら、なかったことにしよう。あぁ、見送りはここで結構だ。養生するように」
彼はくるりと踵を返して玄関を出ていった。バタンと扉が閉まるまで、絹香は呆然とする。
その場にゆるゆるとしゃがみ込むと、思い出したように足首が痛んだ。すぐに触れれば湿布の下にある断続的な痛みが徐々に和らぎ完治していく感覚がした。
「はぁ……」
だが、その安らぎも束の間で、ため息を漏らすと同時に叔父の怒声が耳をつんざいた。
「絹香!」
すぐに立ち上がり、乱れた髪と着物を整えながら居間へ入る。
叔父は絹香を忌々しそうにつま先から頭まで睨みつけた。叔母は主人の手前、黙っているが、威圧たっぷりに絹香を見ている。
「どういうことだ?」
叔父は口の端を痙攣させながら静かに訊いた。
しかし、なんと説明すればいいかわからない。答えが見つからず、絹香は顔を強張らせるだけだった。すると叔父は声を荒らげ、洋杖を振り上げた。その威嚇に怯える。
「答えろ! なぜあの若造がお前を欲しがる? お前、さては色目でも使ったのか? え? この卑しい化け物が!」
その罵声に絹香は身構え、目をつむる。
しかし、叔父はなにもしなかった。絹香を見下ろし、憎々しげになじる。
「お前など、なんの価値もない。そして、この家を出ることは許さん。これからも永遠に!」
この家から出られない。その言葉が強く耳に残り、恐怖と絶望に縛られる。
一視が一人前になって戻ってきたら、この家を去って自立するつもりだった。どこか遠くの家に嫁ぐか、身分を隠して働きに出るのもいいだろう。毎日、罵声を浴びせてくる叔父と叔母は、自分がいなければ幸せなのだと思っていた。
「お、叔父様は、わたしがお嫌いなんでしょう? どうして、わたしを引き取ったのですか?」
思わず問うが、答えはなんとなくわかっている。だから、彼の口が嘲るように吐く言葉も容易に想像できた。
「お前はこの家の飾り。意思などいらん。ただの人形だ」
そうだ。自分は社会的体裁のために引き取られただけの人形。理解していたはずだが、改めて突きつけられれば衝撃のあまり全身が震えた。
話が済んでも、絹香は自室へ行く気にはなれなかった。この家から逃げたい。だが、その術がない。道は塞がれ、どこにも行き場がない。
台所の丸椅子に座り込んでぼうっと考え事をしていると、敦貴の言葉が脳裏をよぎった。
──〝恋人役〟って……。
「ううん。ありえないわ。この家からは出られないんだから」
急いで振り払う。無駄な希望は持つまい。
陽が暮れてきたから、そろそろ瀬島が学校から戻ってくる。とにかく彼に相談してみよう。この悲しみを誰かに打ち明けたい。
そう思っていると、裏口から瀬島が顔を覗かせた。目元には疲労があり、いくらか狼狽しているよう。だが、絹香の胸中も不安でいっぱいだったので気遣う余裕がない。
「瀬島さん」
「やぁ、ただいま」
「おかえりなさい。あ、あの、お話があるのだけれど」
「奇遇だ。僕もあなたに話があります」
いつになく瀬島は強い口調で絹香の声を遮った。
彼の話を聞くべく絹香は先を促した。すると、瀬島は頬を引きつらせながら笑った。
「絹香さん、あの男、誰?」
唐突な問いに拍子抜けしていると、瀬島は苛立つように眉を吊り上げて絹香に迫った。
「あの男だよ。身なりのいい、あの男。君、今日は東京に来ていたんだね。それで、あの男とどこかへ出かけていたと」
「もしかして、長丘様といるところを見ていたの?」
「長丘──そうか、例の要人か。確か、華族の」
低く呟くと、彼は肩の力を抜くように苦笑した。そして、絹香を抱き寄せる。
「ちょっと、瀬島さん、なにを……!」
「見ていましたとも。あなたがあの男と一緒にいるのを。なんだか綺麗に着飾って、随分楽しそうだなって」
思わぬ言葉に、ひやりと肝が冷えた。
「僕はあなたを愛しています。お会いした時からずっと。不遇なあなたを大事にしてきたのは僕だけだった。それなのに、あなたは気づいてくれない」
力強く抱きしめる瀬島の力に絹香は怯えた。そんなふうに見られていたとは思わず、また彼を異性として意識していなかったこともあり、申し訳ない気持ちになる。
「瀬島さん、ごめんなさい……わたし、あなたと一緒にはなれないわ」
「なぜ?」
訊き返す彼の声が暗がる。
「叔父様が、わたしをこの家から出さないって……」
「それなら僕がこの家に入ればいい」
すかさず瀬島の柔らかな声が耳元を撫でた。その甘やかな吐息に体が硬直する。
家から出たい気持ちが強く、その申し出は受け取ることができない。そんな絹香に構わず瀬島は嬉々として後を続ける。
「夫婦になろう。そして、この家で暮らそう。叔父上には僕からお願いするから」
「瀬島さん、そんなにわたしのことを想ってくれるなんて……ありがとう。でも、やっぱりそれはできな──」
「嫌だ! そんなこと言わないでくれよ。あなたは僕のものだ」
いっそう強く抱きしめられる。彼の強烈な想いが恐ろしく感じられ、身をよじって逃れる。
「やめてください!」
改めて彼の顔をうかがうと、瀬島は動揺しているのか両目を大きく開いていた。
「でも、誰にも渡したくないんだ。ここまで言ってもまだわからないかい? あなたを愛せるのは僕だけだ。あなたが化け物でも、僕なら全部愛せるよ」
そうささやいて、彼は絹香の頬に触れた。今朝にも感じたものと同じ冷たさに身震いする。
「化け物……あなたまで、そう言うの?」
言葉にして吐き出すと、無意識に涙が目尻からこぼれ落ちた。
彼だけは叔父や叔母、他の使用人たちとは違い、絹香の異能を知っても態度を変えずに接してくれていた。むしろ友好的で、気にかけてくれているようだった。しかし、信頼していた彼も心の内では叔父たちと同じように考えていたのだろう。
すると瀬島は怯むようにさっと手を引っ込めた。絹香から離れ、台所からそそくさと逃げていく。
一方、絹香はその姿を目で追いながら、その場に立ち尽くしていた。どんな罵倒よりも耐えがたいものだった。強い喪失感を覚える。今まで散々痛めつけられた体だが、どんな傷よりも心が痛い。
絹香はたまらず台所の裏手口から外へ出た。
「……っ」
唇を噛んでも涙は止められない。堰を切るようにどんどんあふれていく。少し歩いて、あぜ道の脇でうずくまるも、頭の中は真っ白だった。
「もし。そこの君」
唐突に、深い男性の声音が降りかかってくる。ハッと顔を上げると、そこには涼しい顔つきの長丘敦貴がいた。
「どうして……お、お帰りになったのでは」
「君が出てくるまで待っていたんだよ。あんなことがあった後だ。なにか起きるだろうと思っていた……読みどおりだったな」
だが、彼の声は相変わらず感情がこもっていない。絹香は慌てて涙を拭った。
敦貴は軽薄に抱きすくめるでもなく、ハンカチを差し出すわけでもない。ただ、その場で絹香の様子をうかがっている。そんな彼の前では、乱れた心も不思議と落ち着いていった。
「あの、長丘様……」
絹香は努めて冷静な声を出した。
「わたしを長丘様の恋人役に取り立ててもらえるというお話、具体的にはどういうことだったんでしょうか?」
「ほう、気が向いたか」
「……興味があります」
もうあの家に居続けることはできない。限界だ。
これまでどんなに心を殺し『化け物』だと罵られても、異能で傷口を塞ぐかのごとく心の傷を隠して生きてきたが、結局はその場しのぎの荒療治であり深いところまでは癒やせないことをようやく悟った。
「よろしい。では話そう」
絹香の真剣さを読み取る敦貴も生真面目に腕を組んで言葉を紡いだ。
「私は常人より情が薄いそうだ。愛情なんてものもよくわからない。理解できない。それでもよいのだが──困ったことに許嫁が、私とは正反対の気質だ」
淡々と無感情に言う彼の言葉に嘘はないが要領を得ない。絹香は首をかしげた。
「と、言いますと?」
「つまり、彼女は愛情にあふれた生活をしている。一方で私は愛のない生活をしてきた。女と深い関係を築くこともなかったし、愛情を求められても返せない。だが、今後の夫婦生活に支障が出てはならないんだ。だから君を雇いたい」
「しかし、恋人とは雇うものなのですか?」
敦貴の提案は相手にとっては失礼千万だが、絹香も今しがた瀬島から歪んだ愛の告白を受けたこともあり正常な思考ではなかった。
絹香の真面目な問いに、敦貴も冗談めかすことなく平坦に返す。
「おそらく論外だが、私にも矜持がある。取り急ぎ愛情とやらを習得しておきたい。であれば、雇う方がはるかに効率的だ。君も安全な寝床を確保できる。どうだろう? 私と契約上の恋人になる気はあるかね」
次から次へと飛び出す無機質な言葉に、絹香は当然ながら不審を抱いた。
彼は本当に〝愛情〟を知るために尽くそうと考えているのだろうか。しかし、許嫁のためにまず女を知っておこうと考えているところ、彼女への敬意はあるのだろう。
「許嫁様には、恋人を雇う話をなされるのですか?」
「できないから困っているんだよ。もちろん他言無用でかつ至急だ。来年三月に彼女と結婚するまでの間、君は私と生活をする。契約終了後、君には手厚い支援をする」
それは、またとない好機だ。
絹香は敦貴を見つめた。心はすでに乾ききっている。彼の恋人を演じるくらい簡単だろう。
暗がりの中、絹香は姿勢正しく腰を折り曲げた。
「そのお役目、ぜひともお受けいたします」
凛として、はっきりと答える。顔を上げ、今までにないほど穏やかな微笑みを浮かべた。すると、彼も口の端をニヤリと吊り上げる。
「生意気な笑い方をする」
そう言いつつ、彼は美しい仕草で手を差し出した。
この手を取れば、もう後戻りはできない。そんな予感がしつつも、頭の中は浮かれることなくひんやりと冷静だった。
長丘邸は東京の中心街から少し離れた閑静な場所にあるという。洋装の彼とは違い、立派な日本家屋だった。真正面には大きな門がそびえ立ち、くぐり抜ければ立派な屋敷が目の前に広がる。周囲は森で囲まれていて、都会の賑やかさから隠されているようだ。
ここには敦貴と米田をはじめとする使用人だけが複数住んでいるという。
到着してすぐ絹香は使用人たちに迎えられ、なにも咎められることなく静かに床の間へ通された。い草の香りが鼻腔をくすぐり、知らない家だと感じられる。
「ここで待っていろ。叔父上に連絡してくる」
敦貴は使用人たちを部屋の外へ待機させ、どこかへ向かった。絹香は部屋にひとり、残される。
待つこと数分。彼は静かに戻ってきた。
「ひとまず、今日のところは話をつけた」
「どうやって黙らせたんです?」
「なんてことないさ。私に逆らえる者はいない。とはいえ改めて後日、商談パーティーで君とのことを話し合う。君も同席したまえ」
「承知しました」
叔父たちは絹香を取り戻そうとするだろうか。しかし、敦貴の手を取った今なら怖いものはないはずだ。
「さて、君はひとまず客間へ案内する。好きに使うといい」
敦貴はそっけなく言い、さっさと部屋を出ていった。
彼は思わず見惚れてしまいそうなほどとても美しい。しかし、言動のせいかまったく心が惹かれない。
使用人の案内を受け、絹香は息を整えて部屋を後にした。
一週間後──御鍵寛治邸にて。
混乱を避けるため、話し合いは商談パーティーが始まる前に行うこととなった。
飾り立てられた居間にはあの料理人が豪勢な大皿をいくつも用意しており、七面鳥の丸焼きは実に見ごたえのある一品だが吟味する余裕などない。陰鬱とした空気が漂う。
絹香は叔父と叔母、さらには瀬島の非難めいた視線に耐えながら敦貴の後ろに控えた。背後には米田が衛兵のように立っていたので、乱暴なことはされないとひとまず安堵する。
「絹香を預かりたいとは、どういうことですかな? 本当にこの娘を秘書かなにかに取り立てると? そのような仕事が務まるとは思いませんが」
寛治は青筋を立てながらも笑いを交えて訊いた。一方、敦貴は冷たくあしらった。
「問題ない。この家で彼女の才を持て余す方がもったいない。御鍵家のご令嬢を、この私が気に入ったと言っているんだ。それに取引も再開させる。これ以上の不足があるのか」
「いいえ、不足など……ただ、この娘が長丘様に粗相をしでかさないか不安で」
しばらくごねる寛治だったが、敦貴の気品たっぷりな風格に圧倒されているのは目に見えて明らかである。叔母も瀬島も脇に控えてこの交渉を見届けていたが、あからさまに不満をあらわにしつつなにも言わない。
そんな不甲斐ない彼らをさらに追い詰めるかのごとく、敦貴は長いため息を投げつけた。
「はっきりしないな。では、言葉を選ばず正直に申し上げよう。彼女はとても心を痛めている。この家での仕打ちがあまりにも劣悪極まりなく、あなた方への信用もない。このことを公にすれば世間からの批判が──」
「ど、どうぞ、仰せのままに!」
敦貴の言葉を遮った寛治は大仰にひれ伏した。最初から最後まで敦貴が優位であり、この展開は避けようがない。
寛治の動揺ぶりを敦貴は満足げに眺めた。足を組み替えてソファにふんぞり返る。
「よろしい。これでパーティーが楽しめるな」
彼のその言葉に、御鍵家の者たちは全員凍った笑いを漏らす。絹香はやはり恐ろしくて顔を上げることはできなかった。
こうして絹香の身柄は敦貴の預かりとなり、事前にすべての盟約が結ばれた無意味なパーティーが終了した。
「ふぅ……」
長丘家へ戻り、ようやく緊張が解けた絹香はしきりに安堵の息を漏らす。
てっきり一週間過ごした客間へ向かうのだろうと思っていたのだが、邸に着くなり応接間でひとり、待機させられていた。
ぼんやりと蝋燭の灯りを眺めていると、使用人ではなく敦貴が顔を出す。
「絹香」
深い声音で呼ばれ、胸がドキリと跳ねた。彼は部屋着である着物をまとっており、上げていた前髪も下ろしていた。
「部屋の準備が整った。案内しよう」
「え?」
突然のことなので反応が鈍くなる。これに敦貴は片眉を曲げて不審そうに返した。
「今日からこの邸が君の住まいだ。あの客間では使い勝手が悪いだろう?」
「そんな……わたしにはもったいないです」
そう答えるも敦貴は「来い」と言わんばかりに無言で部屋を出ていく。その後ろを慌ててついていくしかなく、絹香は少ない荷物を抱えて長い廊下を歩いた。
使っていた客間よりも邸の奥深くへと進んでいけば、おもむろに敦貴が一室の前で立ち止まる。
そこは玄関から程遠く、窓から立派な枯山水が一望できる場所にあった。
無言のまま部屋の戸を開けて中へ入る敦貴の後ろから、絹香はこわごわ顔を覗かせるようにして一歩ずつ入る。
御鍵家で使っていた独房とは違い、殺風景ながらも広々として生活に必要なタンスや化粧台、文机、押入れなどがあり、とても使いやすそうだ。
床板に置かれた白い花瓶が大層美しく、そこに生けられた菖蒲が青々と鮮やかな色を放っていた。燃える行灯の火が温かい。
──やっぱりわたしにはもったいない部屋だわ。
そんなことを胸の内に秘めていると、敦貴が口を開いた。
「では、改めてよろしく頼む」
至って冷静に事務的な挨拶をする。その双眸には輝かしい光も希望も、愛も情もない。そもそも持ち合わせていない。そんな彼のために絹香は心を捧げると誓う。
「はい、なんなりとお申し付けください」
静かに両手をついてかしこまると、呆れの笑いを投げかけられた。
「そう堅苦しくしないでくれ。私と君は恋人なのだから」
「はぁ、そうおっしゃるのでしたら……わたしは長丘様をどうお呼びしたらよいでしょうか」
律儀に問うと、敦貴は大して面白くなさそうに鼻で笑った。
「敦貴でいい」
絹香は顔を上げた。
廊下に立つ彼は、部屋着用の地味な着物をまとうだけで無気力そうになる。先ほどまで叔父と対峙していた凛々しい華族の青年とは思えない。
「では、敦貴様。ふつつかものではございますが、よろしくお願いいたします」
「あぁ」
彼はそっけなく返し、スタスタと廊下を歩いてその場から姿を消した。
絹香は息を整えて辺りを見回した。今日からここが住まいになる。
緊張からようやく解放されたと同時に、一抹の不安を抱いた。恋人初日だというのに、出だしがこんなにも事務的でよいのだろうか。
偽りとはいえ、給金をいただくとなるならば、恋人らしく振る舞うべきではないか。これでは給金泥棒となってしまうのでは。
そもそも、こんなに立派な居を構える子爵家令息の恋人役とはなにをしたらよいのだろう。無事に契約終了まで命を果たすことができるだろうか。
思わず勢いで飛び込んだ世界だが、これが真っ当な仕事であるとは決して思えないのもまた事実で、だんだん現実を感じ始める。
「いいえ、これは不誠実な契約。愛なんかどこにもないのだから、しっかり務めるのよ」
絹香は頬を思い切り叩いて意気込んだ。しかし、あまりにも痛むのですぐに治癒した。
長丘敦貴は幼い頃から優秀だった。人間の動向を観察し、場の空気をいち早くつかみ、大人の要望にきちんと応える。それは由緒正しい血筋によるものだろう。
彼が生まれた頃より父は金融、諸外国との貿易、さらには学問まで幅広いビジネスを束ねる辣腕だった。母は文部大臣の家系に当たる名門華族令嬢であり、自ら教鞭をとるほどの才女である。そんなふたりの血を色濃く受け継いだのだから、間違いなく優秀である。
しかし、彼には学友と呼べる相手も、張り合う同志も、羨望する師もいない。生まれついての天才にはごくありふれた家族の形もなく、幼くして与えられたのは巨万の富と確固たる地位。両親と過ごした記憶はなく、使用人たちに囲まれ手厚く大切に育てられた──。
「敦貴様は、人の心を読むのです」
米田がふと漏らした言葉に、絹香は耳を疑った。
弟への手紙を出しに行こうと、米田の運転する車で街へ向かっている。
「それは、いったいどういうことですか?」
「言葉どおりです。あの方は聡い。異能でも持っているのかと疑う者も中にはおりますが、そのような非現実的なものは皆無です。命が惜しければ妙な勘ぐりはされませぬよう」
米田の静かな声に、絹香は緊張した。
すると、彼はバックミラーでチラリと絹香を盗み見る。
「なにも脅しているわけではありません。あなたと敦貴様のことを知っているのは私だけです」
絹香に使用人は与えられていない。出かけの際に米田をつける程度である。他の使用人に敦貴との契約を知られてはならないためだが、米田だけでも十分だった。
「もっとも、私は敦貴様が誰かに興味を持つことを多少なりとも嬉しく思っております」
それにしては感情が乏しい。長丘家で過ごすようになって二週間経ったが、どの使用人も表情が変わらない人形のようなので不安に思っている今日この頃だ。それはこの米田も同じで、彼は言葉とは裏腹に沈着冷静で心が読めない。
「ともかく、敦貴様の前で感情をさらけ出すのは厄介です。あの方は人の言葉の裏を見て、こちらの感情を読み取ろうとします」
「そうなんですか……そんな方が慕う許嫁様とは、いったいどんな方なんでしょう?」
絹香は率直に訊いた。
「名は矢住沙栄様。『矢住外貿株式会社』のご令嬢です。敦貴様は対応にお困りのようですが……なにせ、おふたりは愉快なほど性格が正反対で」
敦貴曰く沙栄は『愛情にあふれた生活をしている』とのこと。確かに正反対なふたりのような気がしてならない。
「しかし、これは沙栄様が生まれた頃から両家の父君が会社の統合を約束するために取り決められました。端的に言えば政略結婚でございます」
米田の流れるような説明に、絹香は感心した。
「では、沙栄様は幼い頃から敦貴様との婚姻を言い聞かされて育ったのでしょうね。将来を約束されたお相手との婚姻はさぞ夢のようでしょう。敦貴様は王子様ですね」
もちろん、沙栄にとっての王子様だ。そんな絹香の言葉に、米田は初めて笑った。
「ははぁ、なるほど。〝王子様〟というのは西洋の寝物語に出てくる皇族のことですな」
「えぇ。矢住外貿のご令嬢ならば、知っているやもしれませんね」
なんとなく想像がつく。絹香もまた幼い頃がそうだったからだ。諸外国との貿易を生業にする家柄ゆえ、各国からの嗜好品や工芸品、現地の読み物などがお土産だった。
両親のような恋愛結婚も魅力的だが、幼い頃から約束された婚姻というのも乙女ならば誰しも心ときめく夢のひとつ。そんな望みは叶わないと知りながら、絹香もつい最近までは素敵な殿方との婚姻生活に妄想を膨らませていたものだ。
思わずため息がこぼれる。沙栄と同じ貿易会社の令嬢なのに、どうして今はこうも立場が違うのだろう。
「絹香様」
米田に呼ばれてハッと顔を上げると、車はいつの間にか郵便局の前に着いていた。
「あ、ありがとうございます、米田さん」
「礼には及びません……あの、絹香様」
彼は少し言いよどんだ。
「なんでしょう?」
「敦貴様は完璧主義です。ゆえに、妻となる方の期待を裏切ることができないのではないでしょうか。そうお見受けします」
「…………」
「ですから、敦貴様をよろしくお願いいたします。こんなことを頼むのは、なんだか筋違いのような気がしてなりませんが」
米田の声は迷いを含んでいた。これにどう答えたらよいかわからず、絹香は曖昧に笑って車から降りた。
急いで郵便局へ手紙を預け、長丘邸へ戻ることにする。車に戻ると、米田が静かに訊いてきた。
「お買い物などはよろしいのですか?」
先ほどのぎこちない空気はすでに失せ、彼は無表情だった。わずかながら時間をあけたおかげで、あの気まずい空気が緩和されたように思えた絹香は気を取り直して答える。
「えぇ。安全な寝床があるだけで十分ですから」
御鍵家に自身の持ち物はないので、最低限度の着替えのみを携えて長丘邸に飛び込んだ。あの淡い桃色の着物は敦貴のはからいで呉服店に補整を頼んでおり、今日は涼やかな藤色に繊細な花弁が散りばめられた借り物の着物を身にまとっている。上等ながら控えめな色みだ。
満足げに微笑む絹香に対し、米田は困惑気味に唸った。
「うぅむ……そうですか……」
物欲のなさを怪しんでいるような、そんな濁し方だ。またも気まずい空気が漂うが、米田はそれきりなにも言わず車を邸へ走らせた。
平日の暮らしは、御鍵家にいた頃より随分とゆるやかだった。使用人との接触を避けていれば、部屋で裁縫をするか読書をするかのどちらかだ。
しかし、あくまでも花嫁修業として身を置かせてもらっているので、長丘家へ来たその翌日からお茶やお華の先生らに挨拶をした。手習いをするのは久しぶりなので、週に一度の稽古事が楽しみでもある。
一方で夜が近づくにつれて焦燥に駆られることがあった。もし敦貴が部屋に来て、恋人としての営みを提案されたら困る。
だがそれも杞憂だった。彼とはあの商談パーティー以来ろくに顔を合わせていない。会社や学習塾、銀行の理事を務める彼はとても忙しく、出張で家を空けることもよくあるそうだ。身構えたこちらがバカだったと、肩透かしを食らった気分になる。
米田の話を聞く限り、敦貴はおそらく恋人とはなんたるか考えるのは二の次のようだ。ひとまず許嫁と同年代の女性と暮らしてみた、とそれだけで恋人と認識しているのかもしれない。
これはきっと、こちらから仕掛けないとダメなのだと悟る。とにもかくにも給金泥棒にだけはなるまいと固く誓う絹香はその夜、敦貴の戻りを玄関先で待っていた。
「ただいま」
敦貴が戻ったのは午後十一時半だった。
「お帰りなさいませ」
三つ指をついて折り目正しく深々と主の前に伏す。
「なんの真似だ?」
彼は使用人に上着と帽子を預けながら言った。
「敦貴様、お話がございます」
周囲の怪訝な目に耐えながら静かに申し出ると、彼は「ふむ」と冷めた様子で返した。
「聞こう」
そうして、彼は絹香の脇を通り過ぎる。その後を絹香はしずしずと追いかけた。
敦貴の部屋は、絹香の部屋と同じく清潔で殺風景だった。ただ、広さが違う。タンスや文机があるが、畳の上には重厚な絨毯が敷いてあり、真鍮のポールがある。洋タンスや外国製の大きな姿見も。ふすまの向こうは寝室だろうか。ふすまには蓮の花を模した美しい絵画が描かれている。
彼は絹香の前でネクタイをしゅるりと取った。
「さっそく妻気取りなのかと思ったが、違うらしいな」
「わたしは妻ではありません。あなたの恋人です」
すかさず言葉を返すと、敦貴は長く嘆息して自嘲気味に笑った。
「恋人と妻、なにが違うのだろうな。私には女との付き合いはよくわからない」
そう言う彼のネクタイを、絹香はすかさず使用人のように受け取った。
「まずは着替えてもいいかな?」
「えぇ、どうぞ」
すでにシャツのカフスを外していながらなにを今さら断りを入れるのかと頭の片隅で呆れながら、絹香はしばし彼の着替えを手伝った。
敦貴は藍色の着物に替えた。その際、絹香はただただ使用人と同じく平静にその場に居続けた。それを奇妙に思ったのか、敦貴は首をかしげる。
「……絹香」
「はい」
「君は使用人のような動きをするが、それが日常だったのか?」
「……弟の着替えは手伝っていましたわ」
咄嗟にごまかすも口の端が引きつった。もちろん嘘ではないが、八年も前の話であり言い訳とするには少々苦しい。
すると、絹香の苦笑いの意図を読んだのか敦貴が鼻で嘲笑する。
「弟……一視といったか。私を幼い弟御と同じように見ているわけだ、君は」
「そういうつもりじゃありませんけれど」
「では、男の着替えも平気で見られるほど、君の生活は乱れていたわけかい?」
絹香は憤慨して目を見開かせた。
出会い頭からそうだったが、彼はこうして他人の心を探り、先回りしてこちらの言葉を塞ごうとするのが癖なのだろう。
その手には乗るまい。こちらも散々、叔父や叔母の口撃に耐えてきたのだ。
不満げに見ていると、敦貴の指が絹香の顎をつかんだ。無理やり上を向かされ、絹香の胸はドキッと爪弾いた。
彼の美しい顔が近い。たちまち心臓が落ち着かなくなる。
「そんなふうに睨んできたのは君が初めてだよ」
危険な香りを放つ黒目に見つめられ、絹香は頬を引きつらせた。またもや米田の忠告が脳裏をよぎる。『命が惜しければ──』。
「心配するな。私に逆らったとしても君は殺さない」
その言い方では、絹香以外なら殺すと同義ではないか。肩が震える。
「……敦貴様、わたしの心を読むのはお控え願います」
声が上ずりそうになりながらも抵抗を試みる。
一方で敦貴は絹香の反応を楽しんでいるようで、ようやく手を放すと素早く帯を締めた。
「それで? 話というのは?」
問われてハッと我に返る。
「あ、えぇと、恋人についての提案をしようと……」
「そういえばそうだな。結局、あの強奪パーティーの後から君とはまともに話していない」
「強奪パーティーって……」
「君をあのろくでもない家から強奪するためだけのパーティーだった。肥え太った叔父上の赤ら顔がたまらなく愉快だったよ」
あの叔父の名誉を守る気概はないが、他人から親族をバカにされるのは不本意だ。絹香が笑わずにいると、敦貴は肩をすくめた。
「そう真に受けるな。さて、恋人か……君はどんな提案をするんだろう? 前の男の代わりに私を利用しても一向に構わないが。それとも、本当に私に愛だの恋だのを教えてくれるのかな?」
絹香は訂正するのも面倒に思えたが、少々の苛立ちも見せまいと努めて冷静に言った。
「まず、敦貴様が目指す理想の恋人をお教えください」
「理想の、恋人……?」
彼は初めて日本語を口にする欧米人のように固い口調で訊いた。腕を組んで考える。その場に座り込み、絹香にも座るよう指示する。
絹香はためらいながら淑やかに正座した。
「そうだな……まず、女と言えば許嫁の沙栄が思い浮かぶ。明朗快活、可憐で非の打ちどころがない淑女ではあるが、ふわふわと夢見がちで、かわいいものが好物であると体現している女だ」
「乙女の典型ですね」
「あぁ、典型を地でいく愛すべき許嫁だ。そもそも、我が国の淑女たちはそう教育されている。彼女も例に漏れず、良妻となるだろう」
「では、敦貴様もそのような女性がお好みなのでしょうか?」
「……どうだろう」
彼は初めて言葉に揺らぎを見せた。つまらなそうに目を細める。
「言い寄る女性はすべて、私に愛情を求めてきた。だから、彼女らが好む言葉や贈り物をした。が、私の心が動くことはなかった」
「うぅん……難儀ですね……」
絹香は肩を落とした。
彼は女性の扱いに慣れているそうだが、諸外国を相手にしても引けを取らない程度の処世術でしかなく、感情を動かすほどの恋慕は経験がないのだろう。
絹香は自分に置き換えて考えてみた。
父と母は大恋愛の末の結婚で、ふたりが生きていた頃は愛情あふれた家庭だった。周囲の人間も昔の学友も恋物語が好きで、自然と憧れたものだが、理想の相手というものをきちんと思い描いたことはなかった。
また、世間の大多数の恋愛は成就しないことを知っている。つい先日も新聞が心中事件を大々的に取り上げていた。
身分の違う男女の激しい恋。身を滅ぼすほどに愛に蝕まれ、死を選んだふたりは悲恋だが、さぞかし幸せだったろう。それをも嘲りそうな彼に、どうやって恋人という存在を教えたらよいのか──眼の前が暗くなる。
「そもそも、どうして恋人なんでしょう? 愛人ではいけないのですか?」
絹香はかねてより疑問に思っていたことをおずおずと訊いた。すると、彼は至って真面目に答えた。
「愛人は、私がその女性を熱烈に恋い焦がれ愛さなければ成立しないと思っている。また、本妻ありきの存在だろう」
「そうですか……だから〝恋人〟なのですね」
恋人を金で雇う方が効率的と言い張る人だから、合理性のある答えが返ってくると思っていたが、実際に敦貴の〝定義〟は絹香も納得ができるものだった。
うなずいていると、敦貴は唇を緩めて笑った。
「君は賢いな。話が早くて助かる」
「……賢くありません」
「そうふてぶてしく言うな。褒めているんだから素直に喜びなさい」
「はぁ……」
今まで貶されることはあれど褒められることはめったになかったもので、考え方が少々卑屈になっているのだろうか。
すると敦貴が気だるそうにまぶたを落とした。小さくあくびする。
「随分とお疲れのようですね」
思わず言うと、彼はバツが悪そうに顔をしかめた。
「失礼。つい、疲れが表に出た。この時間はいつもひとりでいるから気が抜ける」
「そうでしたか……それは、大変失礼しました」
これ以上いると、敦貴の機嫌を損ねてしまうやもしれない。絹香は立ち上がろうとした。しかし、彼は「待て」と制止する。
「いい考えがある」
敦貴が名案とばかりに目を見開かせて言う。
「この時間は、私の話し相手をしろ。それと、手紙のやり取りもしてみよう」
「よ、よろしいのですか?」
絹香が驚きを隠せず前のめりに訊くと、彼はこくりとうなずいた。
「いかにも巷で流行りの〝恋人〟らしいじゃないか。もし、これで私の心が動かなければ別の方向を考える。それでどうかな?」
意外にも敦貴は乗り気だ。なんとなく、からかわれているだけのような気がしてくるが、これは給金泥棒を免れる好機でもある。
「構いません」
無論、断るはずがない。
絹香の即答に、敦貴は満足げに「うん」とうなずいた。
***
絹香が部屋を出ていった後、敦貴は彼女が出た反対の方向から自室を出た。そして、米田を呼ぶ。どこからともなく現れる米田は背筋を伸ばして敦貴の前に立つ。
「それで、今日はどうだった?」
なんの前置きもなく訊くと、米田は目を伏せて静かに言った。
「はい。今日は弟御への手紙を出しに郵便局へ行きましたが、怪我を気にするわけでもなく、ごく自然に振る舞っておられました。やはり完治しているようです」
「そうか……あとは、他になにかあったか?」
「いいえ。街へ出たというのに、買い物などご興味を示されません。食事はされているようですが、お稽古の時間以外は常に思いつめた様子でした」
米田の報告に、敦貴はしばらく思案した。
「……やはり、彼女はなにかあるな」
今はそれだけしかわからない。あの家に長く囚われていたからか、彼女の様子は不自然なまでに普通だ。まるで心を偽ることが当たり前のような。ただただ気の毒になる。
「引き続き、彼女を見張るように。また、他に怪しい動きがあったら報告しろ」
「承知しました」
米田はさっと引き下がり、夜の冷たい廊下へ消えた。
ホタルがちらつく小池の中、ささやくように聞こえてくるのはカエルの鳴き声で、落ち着いた低音が辺りに立つ。
敦貴は縁側で涼もうと座った。
勢いで絹香を保護したが、彼女は確かに今まで出会ったどの女よりも用心深く、とても賢い。そんな彼女を相手にするのを楽しんでいる自分がいる。
最初は沙栄と同年代の女であり、令嬢であるから恋人役にうってつけであると思った。しかし絹香は不遇であり、ひとつ言葉を間違えれば反発心むき出しの顔をする。それでいて脆い。不思議な女だ。実に興味深い。そう思える自分の心境に違和感を抱くまでがここ最近の習慣になりつつあった。
「はぁ……女に興味を持つとはな……」
この変化を、敦貴はあまり好ましく思わなかった。
仕事をさばくのは得意だが、人心を扱うのは面倒だ。他人の心を読み、効率よく物事を運ぶのが有意義であり、相手を深く思いやることは徒労である。だが、沙栄との婚姻を控えた今は腹をくくるしかない。
帳の中へため息を投げつければ、カエルが驚いて池の中へ潜っていった。
そもそも、昔から沙栄が苦手なのだ。
今年で二十五になる敦貴だが、沙栄は結婚適齢期を迎えたばかりの十六歳。年が離れた彼女の相手をするのは最初のうちはよくとも一生となれば気が遠くなる。
沙栄が周囲から愛されて育っているということは、彼女が幼い頃に会って学んでいた。そんな彼女を他の女性たちと同じようにあしらうわけにはいかない。それにもし沙栄を傷つけるようなことがあったら、自身のプライドが許さないだろう。
ひとまず絹香を沙栄だと思って接してみればいい。そうすれば、この結婚前の憂鬱も解消できるはずだ。
「しかし、絹香は……」
攻略が難しい女である。またなにを秘めているのか未だわからない。それがわずかに魅力的ではあるが。
──まぁ、この興味も一時的なものだろう。
そう自己解釈し、敦貴はようやく床へついた。
***
翌朝早く、絹香は目を覚ました。最初の数日はうまく眠れず、朝食の時間に遅れるなどの大失態をしたものだが、長丘家での生活に慣れれば朝日よりも先に起床できていた。
髪をとかし、こっそり部屋の戸を開ける。使用人たちはもう起きているだろうか。廊下に出て、台所を探す。玄関に置かれた古時計は五時半を指していた。
使用人部屋は炊事場近くの大部屋だ。まだ眠っている侍女たちもいれば、起き出して支度を整える者もいる。
「絹香様?」
声をかけてきたのは、ほうれい線が目立つ年増の女だった。ぼんやりとした素朴な顔立ちである。彼女は怪訝たっぷりに絹香を見ていた。
「こんなところになにか御用で?」
「えぇっと……今朝の新聞、ありますか?」
絹香はごまかすでもなく、正直に要望を告げた。しかし、それがますます侍女の疑心をかきたてるようで、彼女は眉をひそめた。
「新聞ですか? ご令嬢様が新聞をお読みになるんですか?」
その言い方は咎めの色を含んでいる。絹香は口の端を伸ばして愛想笑いを返した。
「ないならいいんです……朝早くにごめんなさいね」
「いえ。新聞なら、まず敦貴様がお読みになります。その後でしたらお届けしますが。敦貴様もまだ起きてらっしゃらないでしょうから」
「そ、そうですよね。ごめんなさい。朝食まで、ちょっと暇だったから訊いてみただけ……後で持ってきてもらえると助かります。えぇっと、あなた、お名前は?」
すると、彼女はツンとした態度で名乗った。
「恒子でございます」
「恒子さん。では、よろしくお願いします」
「はぁ」
絹香はすぐにその場を離れた。だが、恒子の不審げな声はしっかり耳に届いた。
「女が新聞だなんて。物好きな令嬢様もいるものだこと」
その呆れた声に、絹香は怒るでもなく、むしろがっかりしてしまった。
世間では女性の労働環境や社会進出について声をあげる者が出てきたが、まだまだ根付くほどではない。男女共に〝こうあるべき〟という概念に縛られている。それが悪いわけではないが、少々息苦しさを感じる。
恒子の態度は冷たかった。早朝の緩やかな時間に顔を出す外部の人間に、不満をあらわすのもわからなくはない。
主がいきなり囲い込んだ、どこぞの令嬢である。ろくに説明もなく、突然居座り始めた絹香を好ましく思わない人もいるのだ。すべての使用人が敦貴へ忠誠を誓って仕えているわけではないのだろう。
絹香は素早く部屋に戻り、仕方なく文机に座った。読書もいいが、刺激的な文章が読みたいところだ。
そういえば昨夜、敦貴からの提案で文通をすることが決定した。彼はどんな手紙を書いてくるのだろう。ほんの少し好奇心が湧く。
「そうだわ。先に手紙を書いてみようかしら……でも、お話することがあまりないわね」
引き出しに入っている便箋とペンを取る。なんとなく書き出してみた。
「拝啓、長丘敦貴様……少し堅いかしら? 世間の恋人たちはどうやって文通しているの?」
そもそも、ひとつ屋根の下で行うことでもないような気がする。しかし敦貴は〝巷で流行りの恋人〟を演出したいのだという。口ではそう言っていたが、本心なのかどうか絹香には判然とせず筆が進まない。しかし、仕事である以上は彼に従わなくてはならないのだ。ここでまごついている場合ではない。
「あぁ、逆らえばどうなることやら。首が危ないわ」
おどけるように自身の首を触ったが、途端におそろしくなる。
もし、なんらかの制裁により斬りかかられたとして、傷口を触る余裕さえあれば再生は可能なのだろうか。手や足首を切り落とされたとしても、撫でれば治せるのだろうか。
──なにを考えてるの、わたしは。
おそろしいことを考えている自分に寒気がしてくる。
数年前、霊能力というものが流行ったが、学者や記者がこぞって霊能者たちをもてはやした。しかし、インチキだとされて悲惨な末路をたどっている。絹香の能力は本物ではあるが、いつ誰に露見し、見世物のごとく扱われるか知れたものじゃない。
「あっ、瀬島さん……」
咄嗟に彼を思い出した。
『化け物』と罵った彼は、絹香の異能を知る人だ。もし彼がこの情報をどこかに流したら、長丘家との付き合いも、さらには御鍵家の存続も危ぶまれる。絹香は苦々しく唾をゴクリと飲んだ。
──異能のことを絶対に知られてはいけない。
便箋をくしゃくしゃに丸める。
楽しい話題を考えよう。年頃の女性らしくかわいい無邪気な文章を送るのだ。敦貴が求めていることを考えなければ。
そうして試行錯誤した末、なんとか一枚を書き上げた。
長丘敦貴様
梅雨の香りが刻々と訪れてくる今日この頃、敦貴様との文通が楽しみで、待ちきれずに筆を取った次第でございます。
今日は、僭越ながらわたしの幼少時代の話をさせてください。まず、お互いを知ることから始めた方がよろしいかと思います。
さて、わたしは御鍵商社の社長、御鍵明寛と妻、七重の長女として生まれました。
父は横濱の出身ですが、母は遠い福岡の大きな工業都市で生まれ育ったそうです。
父は学生時代、旅行のため九州に向かいました。その際、母と出会いました。運命の出会いです。目が合った瞬間に恋に落ちたと、よく話して聞かせてもらいました。
父には許嫁がおりましたが、母との婚姻を望み、周囲の反対を押し切って夫婦になったそうです。母は鉄鋼業を営む大工場の娘でした。これが良縁を結ぶこととなり、父の会社や諸外国との貿易をするため、港を手にすることもできました。
そんなふたりの物語は、なんだかおとぎ話のようですが、こうして大恋愛の末の婚姻もあったということをお伝えいたします。
父は忙しく、何日も家を空けることが多かったのですが、わたしをいたくかわいがってくださりました。母は明るくひょうきんな性格で、いつも笑顔を満開にしていました。
弟の一視が生まれてからは、四人家族、仲良く暮らしていました。毎年写真を撮って、家に飾るのが恒例でございました。父と母はとても仲睦まじく、わたしと一視がいる前ではとにかくふたりでわたしたちを楽しませてくださいました。
異国のパティスリーのワッフルを食べさせてもらった時、父はわずかに顔をしかめました。口に合わなかったようなのですが、そのお顔が大層面白く、お髭にジャムをこぼしてしまっていて、母が大笑いするのを思い出します。
そこまで読み返し、絹香は思わず鼻をすすった。まぶたの裏に映る在りし日の思い出に、つい涙腺が緩む。慌てて天井を見上げて笑った。
父のキレのよい大声と、母の明るいころころとした笑い声、幼い一視の泣きべそや、初めて『ねえさま』と呼んでくれたあどけない笑顔……。
胸にしまっていた思い出が一気にあふれ、絹香は思わず口を押さえた。長年泣くまいとこらえてきた癖で、誰が見ていなくとも涙を流すのは敗北であると心を頑なに縛りつけている。
家族の思い出を延々と語れば、便箋は三枚にわたった。それを丁寧に三つ折りにして封筒に入れる。これをいつ敦貴へ届けようか。
そう思った頃、ようやく屋敷の中が慌ただしく朝の支度を始めていた。朝日ものぼっている。今日は曇り空で、いよいよ紫陽花が蕾を開く時期に差しかかる。
外の空気を吸おうと、絹香は障子窓を開け放った。すると、廊下の奥から洋服姿の敦貴が通りかかるのが見えた。
「敦貴様!」
思わず呼ぶと、彼ははたと足を止めた。不思議そうにこちらを見つめる。
「おはようございます」
絹香の声に彼はわずかにうなずき、居間へ向かおうとする。その後ろを絹香は追いかけるべく部屋を飛び出した。
「あ、あの!」
「なんだ?」
「お、お手紙を……書いてみました」
「ほう、さっそくか。張り切っているな」
敦貴は片眉を上げて絹香をジッと見つめた。無感情な彼に、絹香は物怖じせずに手紙を渡す。
「お手すきの際に、お読みくださると嬉しいです」
「あぁ、わかった。ありがとう」
彼はためらいもせず、まるで取引先からの挨拶状でももらったかのように事務的に受け取った。内ポケットの中に入れ、さっさとその場から去る。
素直に受け取ってもらえたことにひとまず安心する。情緒は欠片もないのだが。
「うまくいきますように!」
願掛けをするかのごとく、絹香は両手を合わせて敦貴が去った廊下に祈った。
***
まさか彼女から先に手紙を受け取るとは思わなかった敦貴は、内ポケットに入れた手紙を落としていないか、たまに気にしていた。朝食の時も、仕事に出かける時も、会食に向かう時も。
いつ読むべきかわからず、移動中はその機会をうかがっていた。
「米田」
「はい、なんでございましょう」
「手紙をもらったことがあるか?」
「手紙、ですか……子供の時分に文通相手がおりましたが、たわいもない子供の遊びでしたよ」
運転中の米田は探るでもなく淡々と答えた。
「まさか手紙の返し方を知らないわけではないでしょう?」
「当たり前だ」
敦貴はフンと鼻息を飛ばした。しかし、その勢いもすぐに失せる。
「手紙は、いつ読むべきなんだろうな」
「今お読みになればよいでしょう。銀行へはまだ距離があります」
「いや、こういうのはひとりの時に……なんでもない」
敦貴はため息をついた。柄にもなく戸惑っている。
米田はなにも訊いてはこなかった。敦貴がまだ物心がつく前から仕えている米田だが、当時から余計な口出しをすることはなく、深入りもしてこない。
幼い頃からの付き合いであるゆえに、米田も敦貴の心象に敏感だった。
「まぁ、お早めに読むことをお勧めいたします」
その助言に、敦貴は真面目にうなずいた。
長丘家が運営する企業は、運送会社、ホテル、学習塾、銀行と多岐にわたり、今日は視察のため銀行の専用執務室にいた。
頭取との面会まで時間がある。その間、大きな部屋でひとりきりだった。敦貴は執務机の上で、柔らかな和紙の封筒を出した。絹香からの手紙だ。
米田の助言をもとにさっそく便箋を開き、すばやく目を通す。
便箋三枚にわたって綴られていたのは、確かにたわいもない子供の遊びのような何気ないものだった。いつも目を通すような公文書などではなく、人間味を感じるものだった。
また、このようなものを受け取るのは初めてではなかったが、きちんと目を通した試しがない。
絹香の字は流麗で達筆だが、ところどころ丸みがあり、とくに平仮名は柔らかい曲線を描いている。そこから語られるのは、実際のところつまらない物語だった。
どこの令嬢も似たりよったりな生い立ちである。沙栄といい、絹香といい、やはり上流階級の娘たちは愛されて育つのだろう。家族の愛情を知らない自分とは、遠くかけ離れた世界に生きている。そもそも愛情とやらが目に見えないものだから、彼女にとってそれがどれほどの幸福であったかも推し量れない。共感も難しい。
敦貴は鼻で笑い、手紙を机に放った。
「やはり、くだらないな……」
心を動かすようなものは感じられない。それに、一通の手紙では絹香のことを知る手がかりは少ない。彼女は父母が亡くなった後の話を書いていなかった。
──まるで、隠しているようだ。
では、彼女の本心を引き出すような話を促してみてはどうだろうか。
そんなことを考え、なんとなく引き出しの中から便箋とペンを出す。そして、絹香の言葉をなぞるように書き出した。
御鍵絹香様
五月雨に潤う入梅の候、貴姉におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
今朝よりいただいたお手紙、拝読しました。
一家団欒の情景が、貴姉の筆からありありと伝わってきました。
「まずはお互いを知ることから」とのことで、私も筆をとってみたものの、これといった幸福な思い出などなく、つまらぬ話となりましょう。
勝手ながら割愛させて──
そこまで書いたところで、敦貴はペンを止めた。そして、便箋に大きくバツを書いた。
紳士ならば女性を立てるようにうまく話をはずませるのがセオリーだ。相手に合わせて会話をする努力をしなければ、おそらくここで文通は途絶えるだろう。なにより、絹香から『手紙もまともに書けない』などと思われては面目が立たない。
敦貴は天井を仰いだ。
豪奢なシャンデリアが吊るされた、奥行きのある天井には四隅に鳩の彫刻がある。壁はすべて重い濃色で、調度品は黒檀でできている。机とテーブルとソファだけの部屋で、とくに面白みのある風景ではない。外を見やれど、あるのは蒸気機関車の煙に埋もれる土蔵造りや木造建築ばかりだ。
もう少し情緒豊かな話はできないものだろうか。
敦貴は腕を組んだ。
絹香について知りたいことはなんだろう。それはもちろん、父母の死からの生活である。しかし、彼女は話したがらないだろう。また、米田からの報告で悟った彼女の不審な能力──足首の治癒の早さ。もしくは特殊な医術を持っているのかどうか。
しかし、初手からこんな話を持ちかけるのは野暮だ。そうして消去法で考えた結果、いかにも平凡で間の抜けた質問しか思いつかなかった。
とにもかくにも書いてみる。ある程度、文字をしたためていけば書き直すのが面倒に思えてきたので、そのまま筆を進めた。
「長丘様、よろしいですか?」
ドアの向こうから声が聞こえる。ノックの音を無視していたらしく、相手の声音は困惑に満ちていた。敦貴は手紙を折り畳み、封筒に入れた。
「あぁ、入りたまえ」
「お待たせいたしまして、申し訳ございません」
「いや、構わない」
敦貴はなに食わぬ顔で、ふた回りも年上の頭取を迎え入れた。
***
華道の家元が邸に見えるまで、絹香は黙々と新聞を読んでいた。
今日も世間は政府への批判や事件などを取り上げている。それらを真面目に読み耽り、恋愛小説の枠は最後にとっておく。もっぱら、好きな食べ物を最後に食べる性格だ。
新聞で連載中のそれは、実話を元に作られたような糖分たっぷりの熱烈な物語だった。身分違いの恋をする男性の主人公が、儚げな美少女との逢瀬で悟る一場面。物語は佳境で、できることなら最初から読んでみたかった。
「ふむ……恋愛とはいつだって見知らぬ男女から始まり、いつの間にか落ちているもの……」
感銘を受けた文章を紙に書き写す。
その時、部屋の前で猫が踏みつけられたような呻き声が聞こえた。不審に思い、戸を開けると、洗濯物を落とした侍女がうずくまっていた。苦悶の表情には脂汗が浮かんでいる。面長の侍女は今朝会った恒子ではないようだ。
「大丈夫ですか!?」
駆け寄ると、侍女はふるふると首を振った。
「こ、腰が……外れたみたいに、痛いです」
「まあ、大変だわ。ぎっくり腰かしら」
絹香は辺りを見回した。助けを呼べる人はおらず、絹香はおろおろと侍女の腰に触れた。
「この辺りが痛む?」
「は、はい……っ」
「大丈夫よ、すぐに楽にしてあげるわ」
尾てい骨より上の少し丸みのある部分に手を当てると、侍女は声にならない悲鳴をあげた。よほど痛むらしい。
絹香は手のひらに熱をこめた。優しくさすると、侍女の顔がわずかに和らいでいく。
「お、お嬢様、いったいなにを……?」
「少しさすっただけよ。どうですか? 痛みは引きました?」
「えぇ……あれ? 軽くなった」
「じゃあ、もう大丈夫ね」
絹香は急いで立ち上がり部屋に引っ込んだが、ふと思い立ち戸から侍女の様子をうかがった。
「あなた、お名前は?」
「はい、ゐぬと申します」
「ゐぬさん。覚えたわ。念のため、お医者様にかかってくださいね。お大事に」
そう言って、返事も待たずにピシャリと戸を閉めた。
異能を使ってしまった。今さら緊張して動揺する。しかし、痛みに苦しむ人を黙って見過ごせるはずがない。彼女が黙っていてくれたら幸いだが……。
絹香は迂闊な行いを反省した。これは敦貴に知られないようにしなければと、決意はいっそう固くなる。
「お嬢様、ありがとうございました」
戸の向こうから、ゐぬが言う。その声は見違えるほどにすっきりしている。
絹香はゆるゆると障子に口を寄せた。
「このこと、他の人には内緒ですよ」
それが届いたかどうかわからない。ゐぬは落としていた洗濯物を回収し、部屋の前から去った。
それからとくに問題もなく、お華の稽古の後は地味な灰紫色の着物で過ごしていた絹香は敦貴が戻るまで自室で繕い物をしていた。
「絹香」
障子戸の向こうから、敦貴が声をかけてくる。
「はい!?」
つい返事が裏返った。化粧はしていたものの、まさか彼が部屋を訪ねてくるとは思わず、絹香は慌てふためく。
「入るぞ」
「はい、どうぞ……」
返事をするなり戸が開く。敦貴は仕事から帰ってすぐ部屋へ来たようで洋装のままだった。相変わらず無感情な顔でこちらを見つめている。
「お帰りなさいませ……お出迎えもせず、申し訳ありません」
「いや、いい。手紙を書いたから、先に渡そうと思ってな。着替えと食事を済ませたら呼ぶから、今夜も部屋に来なさい」
「しょ、承知しました」
絹香は両目をしばたたかせながら答えた。彼はしっかりと封をした白い封筒を寄越し、そっけなく部屋を出ていく。まさか敦貴が一日で手紙を書いてくるなど思いもせず、絹香は動揺した。
「……仕事がお早いことで……えぇっと、先に読んでしまってもいいのよね」
あの言い方からして、そう解釈してよさそうだ。
絹香は丁寧にペーパーナイフで封を切り、便箋を出した。
御鍵絹香様
五月雨に潤う入梅の候、貴姉におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
今朝よりいただいたお手紙、拝読しました。
一家団欒の情景が、貴姉の筆からありありと伝わってきました。
「まずはお互いを知ることから」とのことで、私も筆をとってみたものの、これといって幸福な思い出などなく、つまらぬ話となりましょう。
私は愛にあふれた家庭で育ったわけではなく、屋敷を一戸与えられてからは米田をはじめとした使用人と暮らしていました。
幼い頃から家庭教師をつけ、学問や礼儀作法などに励み、幼稚舎から大学まで学業成績では上位を修めてまいりました。他、音楽、剣術、武術、馬術なども嗜みましたが、ただただ己を磨くための稽古事でありました。
これらの師範や専門家を呼びつけることは可能ですので、入用でしたら遠慮なく申し付けください。
長丘敦貴
こちらは便箋三枚を入れたが、敦貴は一枚で事足りるほどに少なかった。
しかし、彼はとても生真面目で、筆も丁寧なものだった。普段の威圧的な態度とは大違いである。この落差に絹香は驚き、思わず頬が緩んでしまった。
手紙をもらうのはいつだって嬉しいものだ。今までは弟の一視くらいしか相手がいなかったので、新鮮な気分を味わっている。
「案外、楽しいものだわ……ふふふっ」
ひとつ屋根の下で、遠距離の恋愛ごっこをしている。そう思うと、胸の奥が弾むようで、久しぶりに浮かれた。
絹香はクスクスと忍び笑い、髪をとかした。彼に会うのが、昨日より幾分も楽しみになる。
「絹香様、よろしいでしょうか」
障子の向こうから侍女の声が聞こえる。ゐぬだろうか。
「はい」
返事をすると、戸を開けたのは恒子だった。今朝、彼女はきちんと新聞を持ってきてくれたのだが、依然として仲良くなれそうな気配はない。今も恒子は固い表情で絹香に言う。
「敦貴様がお呼びです」
「わかりました。すぐに向かいます」
絹香は手紙を文机の上に置いた箱へ仕舞い、身なりを整えて部屋を出た。
敦貴となにを話そうか。手紙のことに触れてもいいのだろうか。いや、手紙は手紙だけの会話にとどめておこう。
絹香は高揚するあまり廊下を急ぎ足で進んだ。
敦貴の部屋へ向かう間、幾人かの使用人たちとすれ違い、その中にゐぬもいた。元気そうでなによりだ。
彼女たちが膳を片付けているところを見るに、敦貴の食事は済んだのだろう。
絹香は呼吸を整えて、敦貴の部屋の前に正座して声をかけた。
「敦貴様、絹香です」
「入れ」
すぐさま彼の声が障子戸の向こうから聞こえ、絹香は静かに戸を開けた。
彼は文机に向かって座っており、絹香に背を向けていた。振り返らない。そんな凛々しい背中に、おずおずと話しかける。
「敦貴様、お手紙ありがとうございました」
「あぁ、読んだか」
「はい。楽しく拝読いたしました」
「楽しく? つまらんものだったろうに。物好きなことを言う」
敦貴の背中は気を抜いたように小さく丸くなった。そして、彼は眠たそうにこちらを見る。
「まぁ、最初のうちはあんなものかと思ったが……初手で切り捨てるほどのことではないからな。明日もよろしく頼む」
その言葉の意味がよくわからず、絹香は首をかしげた。
「初手で切り捨てる、とは?」
「君の話がつまらなかったということだよ」
すかさず敦貴は抑揚のない声で言う。絹香は頬を引きつらせ、顔をうつむけた。
「そう、でしたか……つまらなかったのですね……申し訳ありませんでした」
「いや。こちらが勝手に期待をしていただけだった。構わん。初めから期待を上回る仕事ができれば世話ないさ」
「ご期待に添えず、申し訳ありません」
他に言葉が見つからず、結局は謝るしかなかった。
返事をもらっただけで舞い上がっていたが、敦貴はただ礼儀として返事をしただけにすぎなかったのだ。
絹香はすっかり消沈した。対し、敦貴はのんびりとあくびをする。
「案外、難しいものだな。恋愛というのは」
「……お言葉ですが、恋愛は学問やお稽古事によって身につくものではありません。いつだって見知らぬ男女から始まり、いつの間にか落ちているものなのです」
絹香はもどかしくなり、つい厳しい言葉を投げかけた。今日の新聞に寄稿された他人の恋物語から引用しただけである。
これに、敦貴が片眉を上げて反応した。
「ほう。君、新聞を読むのか? それは今朝の連載小説の一節だったはずだ」
「え? はい……」
彼もあの小説を読んでいたことに驚いたが、それよりもまず恥ずかしさが込み上げる。
「叔父の家では誰よりも早く起きて、こっそり読んでおりました。申し訳ありません」
「女が新聞なんて」と蔑まれるに違いないと覚悟したが、彼はただただ感心げにうなずいていた。
「謝ることはない。それにしても変わった趣味を持っているな」
「俗世とのつながりが欲しくて……これくらいしか楽しみがなかったのです」
「なるほど。あの家じゃまともな教育を受けることもできないだろう。学校も退学させられたのかな? あの叔父上なら『女に学問は不要』と熱弁を振るったに違いない」
容易に言い当てられ、絹香は挙動不審に目を泳がせた。一方で敦貴は切り込むように迫ってくる。
「なにを恥ずかしがっている? 私に恋愛がなんたるかを教えようと意気込んでいたんじゃないのか?」
「……こ、心を読まないでください」
絹香はそれだけ返した。一方、敦貴は悪びれることなく鼻で笑った。
「慣れてくれ」
「慣れてしまったら、心を閉じます」
意固地になって生意気な口を叩くと、敦貴はからかうように片眉を上げた。
「うちの使用人たちはそうしているぞ。心を読まれたら困るような後ろめたさがあるから悪いんだ」
絹香はまじまじと彼を見つめた。こうなったら失礼ついでに訊いてみよう。
「敦貴様って……ご友人はいらっしゃいます?」
「いない」
──でしょうね。
絹香は呆れた。そのわずかな感情も敦貴は読み取っていく。
「そんなもの、必要ない。しかし、君だっていないんだろう? 君が学校を退学した後、幾人の学友が心配した?」
「それは……」
敦貴の言葉に、絹香は思わず怯んだ。
そんなこと、考えもしなかった。学友たちの多くは良家に見初められて退学し、忙しい毎日を送っている。卒業せずに嫁ぐのが淑女としての格というものである。つながりといえば文通しか手段がないが、文を送る余裕などないだろう。
黙っていると、敦貴はつまらなそうにため息を落とした。
「今日はもういい。また明日にしよう。寝る」
無慈悲にも会話の終了を宣言される。絹香は仕方なく引き下がった。
「おやすみなさいませ」
部屋の戸を閉め、絹香はがっくりと肩を落としたまま部屋へ戻った。
手紙を書かねば。今の自分には、これしか彼にアプローチする術がない。
新聞を読むことに興味を示した様子だったから、それについて書いてみようか。時事の話は手紙のネタに事欠かないから、何枚も便箋を使えそうだ。その中で彼の興味を惹くものを探ってみたい。
絹香は拳を握って、気合いを入れた。
「絶対、楽しんでもらいますからね」
不敵に満ちた声は誰もいない廊下に響くことなく、静かに夜の月だけが聞いている。上弦の月はさながら、笑うように細める目だった。
敦貴との文通は最初のうちは毎日行われたが、だんだんと間隔が遠のいていく。彼の仕事が忙しくなり、家を空けることがたびたびあるからだ。出張も多いので、帰らない日はことさら暇だった。二日に一度の間隔で手渡しの文通を行えば、ひと月後にはすでに五、六回ほどのやり取りを経ている。
しかし、敦貴は手紙でも日常会話でも受け身だった。彼の好きなもの、嫌いなもの、趣味趣向など探ってみるも、答えはいつも「とくになし」なので、会話が進まない。
絹香は試行錯誤したが、いくら時事を手紙に織り交ぜたとしてもしょせんは新聞からの情報であり、世界を股にかける彼と議論を交わすにはあまりに浅識だった。無理は禁物だと思い直し、時事に関する話は早々に諦める。
手応えが感じられないまま日だけが過ぎていき、これでいいのかと自問自答するも、いつの間にか一日が終わっていた。
そんな日々を過ごすうちに、初めての給金をいただく日がやってくる。毎月十日、敦貴から手渡しで現金五十円が支払われることになっているが、これは職業婦人の花形であるタイピストの平均月給とほぼ同等の金額らしい。
この日、敦貴は大阪での仕事を済ませ、ようやく帰宅したのが夜中の十二時近い時間だった。食事は外で済ませたらしく、あとは着替えるだけである。
カフスを取った敦貴は不機嫌そうに眉間を険しくさせていた。絹香は声をかけられるまで黙々と待ち続ける。
「……絹香」
「はい!」
「今日は給金を払う日だったな」
彼は気だるげにこちらを見た。その視線が痛い。
「はい……まだなんの成果も出していないので、心苦しいのですが」
絹香は率直に言った。すると、彼は「そうだな」と冷たく相槌を打つ。
絹香は敦貴の着物を用意した。前もって使用人が綺麗に畳んでいたもので、自分はなんの助力もしていない。つくづく役立たずに思えてしまう。
そんな絹香に追い打ちをかけるように敦貴が言った。
「確かに、このひと月、君はなんの成果も出していない。使用人の方がよく働いている。給金泥棒と罵られても文句は言えまい」
「心を読まないでください……!」
「顔に書いてある」
敦貴は鼻で笑いながら絹香が差し出した着物を受け取り、さっさと着替えを済ませて奥の寝室へ向かった。蓮が描かれたふすまの先にはすでに用意された布団があり、今すぐにでも眠れる環境だ。
その脇を通り、おもむろに床板を外す。そこからなにやら金具を触る音がする。どうやら、床下に金庫を置いている様子。
そんな仕掛けを見てもよいものか、絹香は視線に困った。見ないふりをしておく。こういう余計なものを見てしまうと、後で言いがかりをつけられそうで厄介だ。
敦貴は金庫から給金袋を出した。そして、ふすまを閉めて戻ってくる。
「今月分だ。ご苦労だった。以降も励むように」
「頂戴いたします……」
罪悪感が全身に渡り、絹香は苦笑いで受け取った。だが、初めての給金に心が踊らないはずがない。中身は後で見よう。喜びを見せないように袂の中へ差し込む。
つくづく不思議だ。こんな仕事が成立するのだろうか。世間一般の仕事とは比べ物にならないのでは。
絹香はすぐに浮き足立った心に活を入れ、気を引き締めた。
対し、敦貴は妙に動きが鈍かった。その場にあぐらをかいて座り、頬杖をついて絹香をジッと観察している。
「……敦貴様、まだなにか?」
「…………」
返事がない。彼は目をシパシパさせてぼうっとしている。なるほど、眠たいのだとようやく気がついた。
「お疲れのようですね」
「あぁ……まぁ……眠い」
そう答える口も重い。絹香は心配になって顔を覗き込んだ。
「大阪でのお仕事はいかがでした?」
「あぁ……そうだな……まぁ、それほど退屈はしなかったな」
「左様ですか。それはようございました」
「うん」
いつもより覇気のない声が返ってくる。今日の彼はあからさまに疲れている。無防備すぎて甚だ不気味だ。
「もうお休みになられては?」
「いや……明日の話をしようと、思っていたんだ」
敦貴はあくびをしながら言う。仕方なく絹香も付き合うことにした。
「明日の話とは?」
「あぁ、明日は休日だ。大口の仕事も片付いたところだから、君をどこかに連れていってやろうと思ったんだが……なにか欲しいものはあるかね」
そう訊かれ、絹香は眉をひそめた。
「それって……」
「恋人は休日に出かけるものだろう? 大阪の支店長から聞いた」
支店長というのはおそらく銀行関係の部下だろう。思わぬ申し出に絹香は前のめりになった。いつもは受け身でそっけない敦貴が自ら誘ってくるなんて、これは確実に進歩だ。
しかし、すぐに理性が働く。
「敦貴様、お忘れですか?」
「なにを?」
「敦貴様には許嫁の沙栄様がいらっしゃいます。それなのに、わたしと出かけるなんて、周囲によからぬ誤解を招く可能性がありますわ」
「よからぬ、誤解……?」
敦貴は腕を組んだ。しばし沈黙した後、合点したように唸るも首をかしげて絹香を見る。
「周囲への誤解を懸念しているのだな。しかし、それではこの契約の根本を否定することになる」
「そうですけれど……恋人というのは、男女が成す営みでございますゆえ、そのお考えは正しいのですが……わたしたちは偽物の恋人なのです。不用意な行動は慎むべきです」
念を押すと、敦貴は冷ややかに睨んだ。
「あぁ、わかっている」
そのぶっきらぼうさに、絹香はたちまち萎縮し口をつぐんだ。
「この邸で完結するのなら、別に君じゃなく使用人でも問題なかったんだが」
確かに、彼の考えも理解できる。
絹香は顎に手を当てて考えた。しかし他に回避する文句が出てこないので、納得せざるを得ない。
「おっしゃるとおりです……が、よいのでしょうか?」
「私がよいと言っている。君は私の、仕事上のパートナーというやつだ」
「仕事上のパートナー、ですか。相方という意味ですね」
「そう捉えてくれ。正直、君の手紙は退屈で仕方がない。それに、手紙は面倒だ。書く時間が惜しい。そして、精神的な負担にもなる」
その意味がわからず、絹香は首をかしげた。精神的な負担になるような失礼なことは書いていないはずだ。話がつまらないのは確かに負担かもしれないが。
すると、敦貴はため息交じりに口を開いた。
「返事を書かなければという強迫観念が働くんだよ。私の手紙を待っている君を思うと、気が散って仕事に差し支える」
「そう、ですか……申し訳ありません」
絹香は落胆した。仕事の邪魔をしているとは夢にも思わなかった。
「わたしは、敦貴様との文通が楽しかったのですが……お邪魔になるのでしたら仕方ないですね」
たわいない手紙を書くのは迷いもあるが、楽しかった。そして、ぎこちなくも生真面目に返事をする敦貴の心遣いが嬉しかったのだが……。
肩を落とすと、敦貴は頭をかいて顔をしかめた。
「そんな顔をするな。文通はやめない」
「えっ?」
「君はまだ人生の半分も語ってないだろう? いつもその日の稽古や天気の話など、代わり映えのない話がつまらんと言っただけだ。もっとさらけ出して書いてみなさい。私は君のことが知りたいんだ」
彼の言葉はまたしてもぶっきらぼうだ。しかし、冷たさはない。気を抜けば眠ってしまいそうなほどまばたきが遅く、またあくびをする。ゆえに、彼の気持ちがわかりにくくて疑わしい。
「本当にそう思っておられますか?」
「思っている」
「……でも、わたしのあの家での話なんて、恥ずかしくてとてもできません」
敦貴の即答に面食らいつつ、正直な気持ちをおずおずと述べる。
絹香も叔父の家での生活について、誰かに相談したくはあった。だが、それこそつまらず、出てくる内容がすべて暗い色に染まりそうで怖かった。毒物じみた過去を持っている自分を恥じていた。それを敦貴に知られるのが嫌だ。
また普段は心を読んで深くは踏み込もうとしないくせに、こういう時に限って彼はろくに頭を働かせずうとうとしているので少々不満を感じてもいる。
「……敦貴様?」
声をかけてみるも、彼は返事をしない。腕を組んでそのまま静かに寝入ってしまった。
「そんな。嘘でしょう……ねぇ、敦貴様。起きてください。お布団で寝ましょう」
肩に触れた途端、敦貴の首がガクンと落ちた。慌てて受け止めると、敦貴はそのまま絹香の肩の上に伸しかかった。
──どうしましょう……どうしたらいいの?
敦貴の体を抱きしめるようにして中腰でいる。ふわりと香る白檀が上品で、鼻腔に届いた瞬間に絹香の心臓がせわしなく動く。無防備に眠る男性を抱きしめているという状況を再認識し、恥ずかしさが全身に回った。
「敦貴様、起きてください! 明日のお話をするんでしょう? まだ寝ないでください!」
助けてほしい。でも、誰も通りかからないでほしい。
揺さぶってみようか。さすがに外部から眠りを邪魔されては覚醒するはずだ。
「し、失礼します……」
敦貴の肩に手を起き、控えめに揺する。
「敦貴様、起きてください」
「……嫌だ」
ボソボソとした声が返ってきた。顔を覗き込んで見るが、彼は眠っていた。声に反応して答えただけか。それにしては受け答えがしっかりしている。
わざと困らせるような性格でもないから、絹香はただただ焦っていた。すると、肩にもたれる敦貴がゆっくりと言った。
「君は……温かいな」
なにを意味するかわからない言葉。それから彼はもうなにも発することなく深い寝息を立ててしまった。
考える余裕などなく、とにかく今は一刻も早く彼を布団へ寝かせたい。ここは引きずってでも床に入れるしかないのでは。腕力に自信はないが、こうなったらやるしかない。
絹香は敦貴の後ろに回った。そして、無礼を承知でズルズルと引きずり、寝室のふすまを開けた。六尺以上ある背丈の男を動かすのはつらいものである。数分を要し、最終的には敦貴を布団の中へ転がした。
「さすがに世話が焼けますよ!」
小声で苛立ちを向ける。眠っているのでなにを言っても構わないと判断した。
絹香は呆れて行灯の火を消した。使用人の前でもこんなふうなのだろうか。国を守る役目を担う人材とはいえ、あまりにも無防備ではないか。そう思ったが、ふと彼の生い立ちを思い出す。
彼は幼い頃からひとりだった。使用人に囲まれていても、孤独だったに違いない。
布団で寝息を立てる彼の姿は、おそらく誰も知らないのではないだろうか。
そこまで考えて、ふと手のひらを見る。気づかぬうちに熱を持っていた。
──まさか、わたしが原因?
癒やしの異能のせいで敦貴の睡眠を誘発したのか。ありえる。
「敦貴様……」
真っ暗な寝室で、彼の耳元に口を寄せてみる。
「ゆっくりお休みください」
寝顔を間近で見ると、その麗しさに見惚れた。
しばらくした後、絹香は自室に戻って高鳴る胸を抑えながら床についた。まだ心臓が緊張している。抱きとめた彼の温度が全身に残っており、新鮮な感情があふれ出す。
絹香は頬に手を当てた。この熱は感情から来るものだ。
普段は威圧的で沈着冷静な彼の意外な一面に不覚にもときめいている。慌てて煩悩をかき消した。
「はしたないわ。あぁ、もう、敦貴様のお顔が頭から離れない……!」
冷たい布団に入れば少しは熱も冷めるだろうか。灯りを消して、暗がりに顔を埋める。
ダメだ。まだ胸が鼓動を鳴らし、辺りが静かでは余計に心音が際立っていく。小さく丸まって目をつむった。
「絹香、しっかりして。敦貴様は偽物の恋人。好きになってはいけないの。これは、ごっこ遊びなんだから」
しかし、いくら言い聞かせても深く眠ることはできず気がつけば朝で、そういえば手紙を書いていなかったと後悔した。
***
敦貴の目覚めは規則正しい。六時半にはきっちり目が覚めるが、今日は頭がすっきりしなかった。その割に体は幾分も軽やかで、凝っていた肩がとても柔らかい。
眠りも深かったようだが、眠っている位置がいつもと違う。寝相は悪くない方なのに今日は布団の端っこで眠っていた。はて、昨夜のことがうまく思い出せない。
「……給金は渡したよな?」
思わず呟く。そして床板を外し、金庫を確認する。絹香宛の給金袋がないので、おそらく手渡してあるのだろう。では、その後どうなったのか。出かけることを彼女にきちんと約束をした覚えがない。
敦貴は釈然としないながら寝室を出て、朝の支度を始めた。休日だろうとしっかり身支度をし、読書をしながら朝食を待つ。たまに仕事の公文書に目を通すこともあるが、今日は仕事を持ち込んでいなかったので手持ち無沙汰だった。
「おはようございます、敦貴様」
障子戸の向こうから侍女の恒子が声をかけてくる。彼女は敦貴の身の回りを世話する役目を担っているので、当然、朝食の支度をしに毎朝やってくる。
「入れ」
「失礼いたします」
恒子は伏し目で膳を運んできた。
「おはよう、恒子」
「おはようございます。今朝の朝刊もどうぞ」
「あぁ。すぐに読むから、これを絹香に渡すように」
「かしこまりました」
恒子は無感情に返事した。彼女が米びつに入ったホカホカの白米を茶碗に盛る間、敦貴は新聞を読んでいた。
最近、情勢が乱れている。内閣もころころと変わり、庶民たちの運動が頻発しているらしい。活気づくのは結構だが、少々行きすぎではないかと思う今日この頃である。
恒子が茶を入れると同時に、敦貴は新聞を畳んだ。いつもならもう少し読みすすめるのだが、気が乗らなかった。連載中の小説も読み飛ばす。
白米に浅漬、味噌汁、数品の小鉢という簡素な膳をさっさと済ませた。
その間、恒子は寝室の布団を畳み、洗濯物と一緒に持っていく。そして洗濯場で待機する侍女たちに渡し、また敦貴の部屋へ戻ってきて今日の着物を選ぶのだ。平日は洋装の支度を、休日は和装の支度をし、敦貴が食事を済ませるまでに脇へ着物を畳んで置いておく。しかし、今日の敦貴は恒子の選んだ着物を見て迷った。
「今日は、もう少し軽い色みにしてくれないか」
敦貴の言葉に、恒子は顔をハッと上げた。
「お気に召しませんでしたか?」
その問いには答えず、敦貴は自らタンスの中を物色した。
「絹香はもう起きているだろうか?」
敦貴は着物を選びながら訊いた。すると、恒子は「はぁ」と気の抜けた声をあげた。
「早起きされる方ですし、もう起きてらっしゃるのでは?」
「呼んできてくれ」
「……はぁ。かしこまりました」
恒子は怪訝そうながらも素直に部屋から下がっていった。
絹香がどんな服を着るかで、着物の合わせ方が変わるだろう。だったら、絹香に決めてもらう方が効率的であると敦貴は思った。
ほどなくして、床板を踏むふたり分の音が近づいてくる。絹香はおどおどとした様子で入ってきた。
「おはようございます……」
「おはよう。絹香、ちょっと来てくれないか」
タンスの前で悩む敦貴の横に、絹香がおずおずと近寄った。その後ろで、恒子が膳を片付ける。彼女が完全に部屋から下がった時、敦貴は絹香の顔を見た。
「君に着物を選んでもらいたいんだが……そんなに顔を赤くしてどうした」
困惑気味な様子で無言になるのはいつものことだったが、今朝の絹香は体調がすぐれないように見える。敦貴の問いに、彼女は珍しく「ふぁっ、えぇっ、あの」と慌てふためくばかりで要領を得ない。
「はっきり言え。熱でもあるのか?」
さらに顔を覗けば、彼女は一歩後ずさって顔をうつむけた。
「おい、絹香」
「はっ、あの、申し訳ありません……」
やはり奇妙だ。声をかけるだけでこんなに緊張することなど、あまりなかった。ますます訝り、彼女の顔色から心象を読み取ろうとしたが無理だった。見当もつかないので、なんとももどかしくなる。
すると、絹香が意を決したように言った。
「あ、敦貴様……あの、昨夜のこと、覚えてらっしゃいますか?」
「は?」
なんだろう。覚えがない。
「覚えてらっしゃらないんですか!?」
絹香が驚愕の表情を浮かべる。敦貴は素早く思案した。
「昨夜……寝る前に約束したよな?」
「や、約束……は、できませんでした」
「えっ」
思わぬ回答に、敦貴も素っ頓狂な声をあげてしまう。絹香はなおも顔を赤くしており、目を合わせないようにしていた。すると、なんだかこちらまで不安になってくる。
「絹香、昨夜はなにがあった?」
「え……っと、敦貴様が、大層お疲れだったようなので、その、お布団に……」
絹香はしどろもどろに言葉を発した。濁してしまうところを見るに、嫌な予感を察知する。
寝ぼけた拍子に、なにか妙なことをしでかしたのか。さっと血の気が引き、自分が動揺していることにすぐさま気がついた。不安を覚え、焦りを感じるのは初めてのことだった。
「待て、言うな。もういい」
女の口から言わせる内容じゃないかもしれない。すると、絹香も敦貴の顔色から心情を察知したらしく、大仰に手を振って訴えた。
「あ、あの、誤解しないでください! 過ちはありませんから!」
「……そ、そうか。それはなにより……すまない」
あまりの勢いに拍子抜けし、付け加えるように謝った。
絹香はホッと安堵し、ぎこちなく笑った。こういう時、彼女はいつも取り繕うのが上手なはずなのにいつもより下手に笑うものだから、敦貴は気まずくなってタンスに目を落とした。咳払いし、場の空気を整える。
「今日は君と一緒に出かけるから、着物を選んでもらいたいんだ」
話を元に戻すと、絹香はまたも固い表情で笑った。
「お出かけするのはお控えした方がよいと、昨夜に提案したのですが……」
「なに? 私の申し出を断るのか?」
まさか断られるとは思わず、敦貴は眉をひそめて責めるように彼女を見た。すると、その圧に耐えられなくなったらしく、絹香はあわあわと慌てて両手を振った。
「いえ! お申し出は大変嬉しいのですが……」
「『ですが』? 恋人の役目を放棄するつもりか?」
「いえ、そうじゃなく……このやり取り、昨夜もしたんですけれど」
絹香の心底困ったような口ぶりに敦貴はため息をつき、タンスの引き出しを閉めた。
今まで言い寄ってきた女性に振り回されることは多々あるも、申し出を断られるのは一度もなく不本意だ。せっかくまとまった休みが取れるのだから、時間を有効活用したい。
「では、旅行にしよう」
「え?」
「鎌倉に別荘がある。母方の家の私有地だ。そこなら誰もいない。人目を気にする必要はないだろう」
「えぇっ?」
絹香は挙動不審になった。天井を見上げ、左右をキョロキョロ見渡し、敦貴を見上げる。そしてその目線がまた下へ向かっていく。
「敦貴様、どうしてそこまでのことを? いえ、恋人役ですから、仕事をお与えくださるのは大変ありがたいのですけれど……でも……」
絹香は警戒しているのだろう。敦貴はどう答えたらよいものか、しばし考えあぐねた。
彼女を恋人役に任命したのは自分だ。すべては許嫁、沙栄のため。手紙や会話をするだけでは進展がなく、愛情を習得できているのか実感が持てない。
それに、基本的に女性に断られるという経験がないので意地になっているのは薄々感じていた。そして導き出した答えは……。
「面子のためだ」
きっぱり答えると、たちまち絹香の顔がどんよりと曇った。
「左様ですか……わかりました。謹んでお受けいたします」
なにか気に障ることでも言っただろうか。絹香はそれきり口をつぐんでしまった。どことなく不満を抱くようでもあるが、どうすることもできない。
敦貴は絹香に旅行の支度をするように言いつけ、あとは使用人たちにもその旨を伝えた。
***
旅行は来週の予定となり、絹香はあれこれと買い物をしなくてはならなかった。それまで自分の持ち物は最低限しかなく、給金をいただいてから買いに行こうと決めていたのだ。
しかし、その買い物に、やはり敦貴も同行することになった。米田もいるとはいえ、それなりに有名な長丘家令息と街を歩くのは心に負担がかかる。それに、敦貴はどこへ行っても目立つのだ。
街の中心に最近できた、なんでも揃うという百貨店へ来たが、誰も彼もが振り返ってはささやき合う様子が散見され、絹香はうつむきっぱなしだった。
せっかくの華やかな百貨店なのに、楽しむ余裕がない。きらびやかな調度品や南国らしい植物など珍しいものがあったのだが、あまり目に入れることができず、絹香は前を歩く敦貴の後ろを追いかけるだけ。
見目麗しい青年に連れ添うのが、どこの馬の骨ともわからぬ娘であるのがたまらなく恥ずかしく肩身が狭い。絹香はすっかり自信をなくしていた。それを敦貴は読み取らず、とにかくことあるごとに絹香にあれやこれを買い与える始末である。
面子がかかっているのだと彼は言った。おそらく誘いを断ろうとした仕返しなのかもしれない。絹香はやや疑心暗鬼であった。
旅行用のカバンはガマ口の革製で、しっとりなめらかな質感。下着や着物の替え、浴衣なども上等な素材のものを選び、さらには小物や化粧道具までを勝手に店員へ見繕ってもらうという、今までに経験したことのない豪華な買い物だった。
それから百貨店の最上階にあるパーラーで休憩することとなり、それまで生きた心地がしなかった絹香はようやく息を整えて切り出した。
「敦貴様、あの……」
疲れている絹香に対し、彼はどこ吹く風で平静そのものである。
「こんなにたくさんのもの……立て替えていただくのはありがたいのですが、その、お支払いがいつになるやらわかりませんよ……」
「なにをたわけたことを。これは私からのプレゼントだよ」
なに食わぬ顔でサラリと言われ、絹香は思わず立ち上がった。
「そこまでしていただく義理はありません!」
取り乱すあまり、失礼な言葉を投げつけてしまう。だが、敦貴は不思議そうに眉をひそめるだけだった。
「義理……恋人は一緒に出かけて、プレゼントを贈るものだと聞いたのだが」
「それも大阪の支店長さんからの情報ですか? だから実行に移そうとお考えに?」
「あぁ。私だって本気なんだ。悪いが、付き合ってくれ。そういえば、浅草に劇場があったな。『凌雲閣』も流行っている。君がどうしても行きたいのなら連れていくが」
絹香は頭を抱えて悩んだ。突然の積極的な行動についていけない。ここで素直にうなずけばよいのか、彼と自分の身を案じて行動を控えるよう注意した方がよいのか……答えは出ない。
実際、恋人がどんな遊び方をしているのか、てんでわからないのだ。
新聞や小説で読むものといえば、会えない寂しさを噛みしめ、たまに会えた時の喜びを分かち合って公園で語らうか、人目を忍んで川辺を眺めるか。
こうして豪勢に買い物を楽しみ、パーラーに立ち寄って甘味を食すという上級の遊び方は知らない。周囲にいるのも上流階級の人間ばかりだ。経験のないキラキラした空間に気後れしてしまう。そして、自分がいかに狭い世界で生きていたのかをまざまざと思い知らされる。
一方で、敦貴はこの景色にしっかり溶け込んでいた。今日の彼は、涼やかな白藍の着物で、濃い藍の縦縞が入っている。帯は落ち着きのある、まるで夜更けのような色だった。揃いの色の山高帽を見るところ、すべて特注のようである。
彼は青みのある色がよく似合う。簡潔でまとまりのある配色を着こなす彼が爽やかでかっこいい。
賑やかなパーラーの一角に座っていると、やはりこの状況は〝恋人〟のように映るのだろうか。絹香は自分の格好を改めて見直した。
勿忘草のような淡い青に、細やかな淡桃の毬が袖と裾にあしらわれている。帯は濃い古代紫がつややかで、上等の織物だ。束髪くずしに帯と揃いの大振りなリボンをつけている。
すでに購入されていたと思しき二着のうちどちらかを選べと、ほとんど命令に近い口調で敦貴に圧され、仕方なく選んだのがこの装いだった。もう一着は、フリルのブラウスに上品な紫苑色のスーツ・ドレスという洋装だった。ドレスを着こなし、街を闊歩する勇気はない。
応酬も面倒になってきたところで、敦貴が頼んだ甘味が運ばれてきたので話はいったん中断された。
目の前に置かれたのはいつか昔に食べた、サクサクの生地と粉雪のような砂糖があしらわれた格子型の菓子、ワッフルだった。脇にはリンゴのジャムが添えてある。
「洋菓子を食べたことがあると、君が手紙に書いていたからな」
敦貴が柔らかな声で言った。彼は紅茶を頼んでいたようで、大きな口のティーカップに角砂糖をひとつ落として混ぜている。
絹香は目をしばたたかせた。
「どうぞ。遠慮なく食べるといい」
「……いただきます」
しばらくモジモジとしていたが観念した。そろそろと銀色のフォークをサクサクの生地に差し込む。ひと口の大きさにし、ジャムをつけて食べる。
すぐに舌へ伝わるリンゴの酸味と甘みに頬がゆるんだ。そのままワッフルを噛めば、奥行きのある生地の甘みに感動してしまう。
鼻を抜けるまろやかな甘さが惜しく、ひと口、またひと口と手が止まらなくなる。こんなにおいしい菓子の味をすっかり忘れていた。
「うまいだろう。ここの菓子は東京でも指折りの腕前だと聞く」
「はい、とてもおいしゅうございます」
絹香は素直に言った。すると、敦貴は気を抜くように小さく微笑んで、すぐに咳払いした。
夢のような休日が過ぎ去り、だが翌週も彼と一緒に旅行へ行く。絹香はその日が来てほしいような、来てほしくないような心境だった。
前日は緊張でろくに眠れやしなかった。それでも体にはいっさいの不調がなく、これもまた異能のせいかと思うと憂鬱になる。いっそ熱でも出して寝込みたかったが、仮病を使うわけにはいかない。
手紙を書くのも恥ずかしくなり、おざなりになっていた。敦貴もなにも言ってこないので、おそらく文通はもう行わないだろう。
絹香は先日の買い物で着た勿忘草色の着物を選び、米田の車に荷物を預けた。
「行ってらっしゃいませ」
使用人たちの声が聞こえ、振り返ると敦貴が屋敷から出てきた。彼の姿が見えると、絹香も深々とお辞儀する。敦貴は構わずそのまま車に乗り込んだ。
絹香も後に続く。その姿を見送る使用人たちの様子は想像したくない。結局、彼は使用人たちにもろくに説明せず、絹香との旅行を決行したのだった。
「さて、行こうか」
敦貴の心象はまったく読み取れない。絹香は曖昧に笑って、ただただおとなしく車に揺られるしか術がなかった。
鎌倉は異国情緒漂う西洋建築物があちこちにあり、冷たい潮風が心地いい人気の避暑地だ。緑と青空が夏の風情を思わせ、セミの鳴き声すら涼しげだ。
敦貴の母方の持ち物だというこの地は、外界から隔離されるように森が鬱蒼と生い茂り、自然豊かだった。その森を抜ければ白浜が現れる。奥にはキラキラとまたたく碧い水平線を望む。じっくり見つめてしまうほど、海への懐かしさを感じていた。
このあふれる自然の中、ひっそりと建つのは切妻屋根の木造洋館だった。白い外観に窓枠やバルコニー、支柱は焦げ茶色という、その色合いが意外にもかわいらしさを醸す。立派な円筒形の展望台が玄関の横に設置されている。
ある程度の持ち物は別荘に送っており、絹香のカバンには簡単にまとめた化粧品が入っている。それを米田が屋敷の中へ運んでいった。
「絹香」
車から降りた敦貴が呼ぶ。森の奥にある海を見つめていた絹香はハッと振り返った。
「そこからでなくとも、この展望台から海が見えるぞ」
「本当ですか!」
思わず高揚する。この反応に、敦貴は少し面食らっていた。
「なんだ。道中、黙りこくっていたから不機嫌なのかと思っていたのに」
彼の言葉に、今度は絹香が驚いた。
「そんなふうに思われていたんですか?」
「あぁ」
──敦貴様でも心が読めないこともあるんだわ。
普段は探るように質問攻めにし、こちらの口を塞いでくるのに、今日の彼は手紙や夜に見せるゆるみがある。誰もいない休日なのだから当然と言えば当然だが。
敦貴の後ろから、絹香は邸の中へ足を踏み入れた。
緑がかった乳白色のシャツは縞柄で、吊りベルトと紺色のネクタイといった洋服をさらりと着こなしており、そんな彼の後ろを動きにくい着物でついていく。
さっそく展望台の階段をのぼる敦貴についていこうと必死に追いかける。しかし彼の歩幅と合わず、絹香は遅れをとった。
背中が見えなくなり、さらに慌てていると、敦貴が下りてきた。
彼は無言で手を差し出してくる。その手をためらいがちにとると、敦貴はゆるやかに階段をのぼり始めた。
時折、階段の踊り場の窓から差し込む陽の光が眩しかった。邸の中はひっそりとしていて、とても涼やかだ。
三階が最上階であり、そこは木目が柔らかなドームだった。前方に海が広がっている。
「しばらく来てないから、立て付けが悪くなっているかもしれないな」
そうこぼす敦貴が窓を開け放った途端、うねる潮風が流れ込んできた。絹香は彼の横に立った。
窓の向こうにはバルコニーがあり、横に伸びる海を一望できる。キラキラとまばゆい白波と、反射する陽光、美しい碧がとても清々しく、心が落ち着く。
「気に入ったようだな」
敦貴が満足そうに目尻を緩める。絹香はほころばせていた顔を伏せた。
「心を読まないでください」
「それくらい、読まなくともわかる」
絹香は恥ずかしくなり、顔をそむけた。
「そうか。君は海の街で生まれたんだったな……」
こちらの恥じらいに構わず、彼はバルコニーに身を乗り出しながら言った。
「東京は窮屈か?」
「いいえ。これ以上ないくらい毎日が夢のようで。憧れの場所です」
「その割に君は私と歩く時、ずっと周囲をうかがっていた。東京は嫌いなのかと思っていたんだが」
「それは……」
──敦貴様の横にいるのがわたしでよいものか、罪悪感が働くのです。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「私の隣にいることが不満か?」
「違います」
「では、こうかな。自分はしょせん〝恋人役〟だから、間違いのないよう振る舞わなければいけない。それくらいわかってくれ、とでも考えているのかな」
「……っ!」
絹香は思わず顔を上げ、不満あらわに唇をとがらせる。だが、その苛立ちも長くは続かず、彼の笑顔を捉えた瞬間、すべての時が止まった。
敦貴はふわりと目尻を垂らしていた。破顔とまではいかず、うっすらと微笑んでいる。陽の光を浴びる彼の横顔はあまりにも精巧で、美しかった。
「敦貴様、素敵です」
絹香は驚きのあまり、つい口に出した。すると、敦貴がゆるめていた口の端をキュッと結んだ。そして、バルコニーから背を向けて部屋の陰に隠れていく。
「あまり風に当たるな。体に障る」
そう言い残し、彼は展望台を下りていった。
***
不覚だった。敦貴は階段を下りながら、口の端を揉んだ。
感情が表に出ることはあまりなく、ただただ求められたものに応じて顔を変えているにすぎない。しかし、どうしてか絹香の前では自分でも気づかぬうちに心に秘めた感情が漏れてしまう。
こちらが優位に立っているはずなのに、いつの間にか絹香に立場をひっくり返されているような気がしてならない。今回の旅行も、彼女が買い物に出たがらず、共に出かけるのすら拒むから提案したものであり、妙な意地が働いた。絹香に断られたのが我慢ならなかったのだと改めて思う。
──柄にもない。
また、同時に情けなくなる。絹香の恋人として振る舞おうと意識すればするほど、調子が乱されていく。
「待って、敦貴様……」
考えていると、背後から絹香がパタパタと危なっかしく追いかけてきた。
「慌てて下りると危ないぞ」
そう言いかけて振り向くや否や、彼女の足がずるっと階段をすべる。
「っ!」
短い悲鳴を抱きとめるように、敦貴は腕を伸ばした。彼女は手すりをつかんだが間に合わず、そのまま仰向けに倒れていく。
敦貴は咄嗟に絹香の後頭部に手を回した。なんとか頭を守ることができたものの彼女に覆いかぶさる形になっており、互いに顔が近かった。
絹香の白くきめ細やかな肌と、赤く染まった頬紅、大きく見開かれた澄んだ瞳はまるで星空のよう。完璧なまでに美しく、ずっと見ていたくなる。
その時間、どちらの呼吸も聞こえなかった。息を止めていることに気がつき、ハッと我に返ると敦貴は静かに訊いた。
「無事か?」
真っ赤だった絹香の顔が瞬時に青ざめる。
「申し訳ありません」
「まったく、怪我でもしたらどうするんだ。ここから医者までは時間がかかるんだぞ」
絹香を抱き起こしながら、敦貴は苛立ち交じりに言った。しかし、絹香は困惑気味に眉をひそめて笑う。
「平気です。ご心配には及びません。わたしは丈夫なので」
「なにを言ってるんだ。ついこの前、車に驚いて足を挫いただろう」
鋭く指摘すると、彼女は両目をしばたたかせた。そして、気まずそうにうつむく。
「そうでした……」
その声があまりにも意外そうなので不審を感じた。
──まさか忘れていたわけではあるまい。
敦貴は冷静に考えた。あの怪我はちょっとやそっとのことで治るものではない。米田の報告にもあったが、いつの間にかすでに完治している。だんだん挙動不審になる彼女を、敦貴は目を細めて見つめた。
「絹香」
立ち上がる絹香の手首をつかむ。
「君、私になにを隠している?」
「えっ」
絹香の真っ黒な瞳が揺らいだ。彼女は敦貴の目を見ているが、動揺のあまり言葉を失っている。
「君の足はそう簡単には治るはずがないんだ。正直に言いなさい」
そこまで言えば、絹香は唇を震わせて怯えた。つかんだ手首までもが震え、その振動を感じた。
「あ……あの、敦貴様……わたし……」
絹香は赤い唇から呻くような声を漏らす。そして、やはり顔をうつむけた。
そんな顔をされたら、まるでこっちが脅しているようだ。いや、脅しているのか。彼女にとって、よほど聞かれたくない内容なのだろう。
敦貴はため息を落とし、彼女の手首を放した。絹香の顔がわずかに上がり、おずおずとこちらを見る。
「もういい」
「申し訳ありません……」
絹香は声を絞り出した。
そんな怯えた声で謝らせたかったわけじゃない。しかし、今の自分が彼女にとって脅威なのだと気づけば言葉を諦めるしかなかった。
敦貴は憤懣やるかたない気持ちのままその場から離れ、一階の居間へ引っ込んだ。
彼女といると、煩わしいほどに心がざわつくのだ。いちいち感情に揺れ、彼女の動向ひとつひとつに敏感になる。他人など、どうでもよかったはずなのに。
出窓に置いた肘掛け椅子に座り、外へ目を向けた。心のざわつきを静めるため、清らかな緑をぼんやりと眺める。すると、道の向こうから白いパラソルがこちらに近づいてきた。
目を凝らせば、黄色の華やかなワンピースの少女と物腰柔らかそうな着物の老女がこの別荘に歩いてやってくる。来客の予定はなく、この旅行を知っているのは限られた使用人だけのはずだ。
敦貴は慌てて外に出た。夏の日差しのせいで蜃気楼でも見ているのかと思った。しかし、そこにあったのは紛れもなく現実だった。
「あ、敦貴さーん! お久しゅうございますー! 沙栄が参りましたよー!」
ころころと鳴る鈴音のような声を響かせる矢住沙栄がパラソルを持ち上げて登場した。
沙栄はニコニコと楽しげな笑みで屋敷の中へ入ってきた。お付きのばあやが疲れた様子だったので、米田に紅茶を作らせている。
居間のソファに敦貴と沙栄、ばあやが向かい合わせで座った。敦貴が暖炉側に座り、部屋全体が見渡せる。すると、二階からようやく絹香が下りてきた。ちょうど沙栄たちが座る方向に階段があり、絹香と目が合う。彼女はこちらの状況を察したように、ゆっくりと上段へ戻っていった。
そんなヒヤヒヤしたこちらの状況をつゆ知らず、沙栄は愛嬌を振りまいてくる。
「うふふ。お会いするのはわたくしの誕生日会以来ですね。ちょうど、わたくしもこっちの別荘に滞在しておりまして。ご挨拶に参りましたの」
「そういう時は事前に連絡を入れてほしいところだな。いっさい聞いてないが」
「なんて言うんでしたっけ……あぁ、そうそう〝サプライズ〟ですわ!」
沙栄が元気よく前のめりになる。敦貴は表情を動かさないよう努めた。沙栄を困らせるということは、自分も困るということ。面倒は避けたい。
敦貴は話題を変えた。
「髪を切ったのか」
沙栄はつややかでまっすぐな黒髪を肩の位置で切り、内巻きにしている。先日、会った時は大切に伸ばしていたはずだが、急な様変わりに驚く。
すると、彼女はあっけらかんと答えた。
「えぇ、わたくしにはこっちの方が楽で。都会的でおしゃれでしょ? うふふふっ」
「……そうか。それはなにより」
すると、米田がワゴンに紅茶のポットとカップをのせて運んでくる。よどみのない動作で米田は三人分の紅茶を用意した。英国紅茶は沙栄のお気に入りだ。
「ありがとう、米田さん」
沙栄が微笑みながら言うと、米田は一礼して下がった。
濃い眉が凛々しく、ほっそりとした顔立ちの沙栄は絹香よりふたつ年下だが幼く見えてしまう。こうして突然押しかけてくることも含み、彼女の自由奔放さに呆れる。
敦貴は紅茶をひと口含んだ。上品な渋みがあるダージリンは、やはりストレートに限る。気持ちを切り替えるにはうってつけだ。
味を堪能してから敦貴は、目の前で紅茶にミルクを流している沙栄に訊いた。
「どうして私がここにいると?」
「敦貴さんのお父上から聞きましたわ」
「……そうか」
敦貴は苦々しく思ったが、顔に出すまいと懸命に努力した。
確かに休暇を取ると各方面に申告したが、まさか父にまで届いているとは思いもしない。沙栄の恐ろしいところは、なぜか父と親しいところだ。外堀を埋められているようで、ますます気に食わない。
すると、沙栄がいたずらに笑いながら言った。
「懐かしいですわね……昔、ここで敦貴さんと初めて会った時のことを思い出します」
「そんなこともあったな」
「はい。あれはわたくしがまだ四つくらいのことでしたね。敦貴さんは十三歳でいらっしゃいました。わたくしがあまりにもわがままなものですから、敦貴さんが怒って口をきいてくれなくなって……悲しくて泣きわめいてしまいました」
そう言って、沙栄は舌を小さく出した。
敦貴はソファの背にもたれた。思えば、沙栄を泣かせたあの日から、彼女に苦手意識を持ってしまったのかもしれない。今も昔も変わらずにいるつもりだが、やはりあの頃の自分も幼かったのだと認識する。
そうして懐古にふけると会話が持たず、沙栄が勝手に話題を変えた。
「ねぇ、敦貴さん。いま、御鍵家のお嬢様がいらっしゃるんでしょう?」
思わず耳を疑う。
「その話は誰から聞いた?」
「敦貴さんのお母上ですわ」
「……そうか」
敦貴は頭を抱えそうになった。おそらくあの邸で誰かが情報を漏らしているらしいことを把握する。それが誰なのか気になった敦貴は、目線だけで米田に合図した。脇に控えていた米田がすぐに外へ出ていく。東京の長丘家へ戻り、探るように手配した。
そんなやり取りに構わず、沙栄は好奇心たっぷりにせがんでくる。
「一緒に来ていらっしゃるのですよね? わたくし、ぜひお会いしたくて参ったのですよ」
そこまで知られているならば隠し立てする方が怪しくなる。敦貴は仕方なくソファから立ち上がった。
「少し待っていてくれ。呼んでくる」
「はい!」
彼女の元気な声を背にし、敦貴は素早く階段を駆け上がった。
絹香は二階の部屋でジッと息をひそめていた。そんな彼女に沙栄の相手を頼むのが、わずかに心苦しい。また、先ほど威圧的な態度をとったことが気まずく、まだ顔を合わせたくない。
深呼吸してノックする。「はい」と声がかかり部屋に入れば、絹香は落ち着き払った様子でこちらを見ていた。微笑をたたえたその面持ちは仕事をするために気合いを入れたようである。
「すまない。沙栄が来た」
「やはりそうなのですね……まさか、こんなことが起きるとは……」
絹香は物わかりがよく、こちらの状況を把握したように苦笑を浮かべる。敦貴は髪をかき上げ、脱力気味に口を開いた。
「しかももっと悪いことに、君に会いたいそうだ」
「まぁ……それは、想定外ですわね」
絹香は眉間にシワを寄せて渋面になった。
「あぁ。なんでも、うちの母から君のことを聞いたらしい。この情報を漏らしたやつが長丘家にいる。だが、沙栄の様子からして、君が私の恋人役であることは知らなそうだ」
「では、わたしはどうしたらよいのでしょう?」
「おそらく話し相手でも欲しいんだろう。この別荘に泊まらせることはないから、適当に話を合わせてくれないか」
すると、絹香は両目を細めて静かに言った。
「承知しました」
絹香はすっと立ち上がり、表情を強張らせた。感情を押し込めて従順に尽くしてくれるのはありがたいが、彼女の心が見えなくなるとこちらが困ってしまう。
敦貴は悟った。今、自分は人生で一番気が動転していると。
***
矢住沙栄とはどんな人物か。
絹香は先ほどあった敦貴との出来事をいったん、頭の中から放り出して務めを果たそうと居間へ向かった。
黄色のワンピースに、ふわふわと愛らしい短い内巻きの髪型をした少女がいる。
彼女は振り返って絹香を見た。そしてキラキラと好奇心旺盛に目を輝かせ、立ち上がるや否や駆け寄ってきた。
「絹香さーん! お会いしたかったです!」
大きく両手を広げて絹香を包み込むように抱きしめる。
「あ、あの……!?」
「ハグです、ハグ! きゃー! 本当にお人形さんみたいにかわいらしい人!」
あまりのはしゃぎぶりに絹香は思わず敦貴を見たが、助けてくれそうになかった。米田もいない。
「初めまして、矢住沙栄です。お話に聞いていたとおりの人でよかったわ。わたくし、長丘家の方に聞いたんですの。御鍵家のお嬢様が敦貴さんの元で花嫁修業をなさってるって。ぜひともお話がしたかったんです!」
ペラペラとなめらかに話をする沙栄に、絹香はなんと答えたらよいか困った。気の利いた言葉も思いつかず、ただただ口の端を持ち上げて愛想笑いするしかない。
「そう、なんですか……お会いできて光栄です、沙栄様」
「やだ、沙栄様だなんて。〝沙栄ちゃん〟って呼んでくださいな。わたくしも〝絹香ちゃん〟ってお呼びしますね。うふふふっ」
「それは……あの、えーっと」
ここは従うべきか。敦貴を見ると、彼は能面さながらの無表情を貫いていた。なにを考えているのかさっぱりわからない。
絹香は渋々「沙栄様」とは呼ばずに「沙栄さん」と呼ぶことにした。一方で沙栄は勝手に「絹香ちゃん」と呼ぶので任せるしかない。
沙栄は絹香をソファに座らせて、ばあやと共におしゃべりを始めた。同時に、敦貴はまるで影のようにひっそりと気配を消す。
──なんて人……。
絹香は心の中で盛大に嘆いた。敦貴の非情さが恨めしい。
話には聞いていたが、この矢住沙栄という人物は確かにかわいいものが好物であるかのような、ふわふわと夢見がちな花の乙女だった。最初はなにか企みがあって、絹香を探っているのかと思っていたが、そんな素振りはいっさいない。疑うことを知らぬ純真無垢そのものである。
彼女は好きな菓子や物語などの話題を振ってきた。
「ワッフル、ご存知? あ、知ってるのね! おいしいわよねぇ、癖になっちゃいそう。もちろん、おまんじゅうも大好きよ。でも、餡が重たくって、何個も食べられないじゃない?」
そういえば、彼女は御鍵家と同じく貿易会社の娘だ。幼い頃から西洋文化に敏感で、こういった話をする機会に飢えていたのかもしれない。
それから外国土産の話が続き、沙栄はとくに西洋のおとぎ話が大好物らしかった。サンドリヨンや人魚姫などは絹香も一時期、憧れたので懐かしくなる。なんとなく話を合わせていると、沙栄の勢いに拍車がかかった。同志を見つけたとばかりにはしゃいでくれる。
「あぁ、やっぱり同じだわ。ほら、ばあや、言ったでしょう。絹香ちゃんはわたくしととても相性がいいのよ。絶対にそうだと思ってたわ」
興奮気味に話す沙栄に、ばあやは淑やかに「そうですわね」とうなずく。絹香は照れ隠しに笑った。
「絹香ちゃん、笑うととても美しいわ。あぁ、素敵。もっと笑ってほしいな」
その期待には応えられない。絹香は袖で口元を隠した。
自分では意識していなかったのだが、人見知りのようだ。いや、沙栄のような女性に出会ったことがないからではないか。だが、それもしっくりこない。
絹香は遠く離れた記憶を掘り起こした。
沙栄は亡くなった母によく似ている。奇妙な安心感と戸惑いはおそらくそのせいだろう。
懐かしさで鼻の奥がうずく。それを悟られまいと、必死に心を押し殺していた。
それから、沙栄は敦貴との婚姻のことや敦貴との思い出を語って聞かせてくれた。そのほとんどが米田から聞いていたものや彼との文通で知ったことばかりだった。
やはり敦貴は素顔や本心を誰かに見せたがらない性格らしいことが読み取れる。
彼女が繰り出す言葉の端々に、敦貴への尊敬と好意がにじみ出ていた。熱烈な恋心を抱いていると確信する。
「敦貴さんはおとぎ話の王子様みたいなの。とても素敵な方でしょう? 優秀で地位もおありで、女の子の憧れですわ。そう思いますでしょう?」
彼女は何度もそう言うが、絹香は敦貴が〝王子様〟だとは思えなかった。
確かに敦貴はおとぎ話の王子のように美しい。だがその実、他人の心を読んで先回りし、相手の口を塞ぐ悪癖の持ち主である。意地悪とでも言うのだろうか。
絹香はそう解釈している。それとも、敦貴は沙栄のことを本当に大事に想っていて、沙栄だけに素顔を見せているのかもしれない。
そう考えると、自分の存在がいかにも使用人と同じ身分であるということがまざまざと思い知らされた。
──わたし、なんでがっかりしているのかしら。
買い物や旅行に連れていってもらっただけで、何度も助けてもらっただけで、自惚れてしまっていたのかもしれない。律していたつもりが、いつの間にか隙だらけだったことに気がつく。
「絹香ちゃん?」
ハッと顔を上げる。沙栄が心配そうに見ていた。いつの間にかどんよりと表情を曇らせていたようだ。
すると、ようやく背後から敦貴が現れた。
「昼寝をしていた。君たち、随分と打ち解けているようだな」
「あら、敦貴さん! 聞いてください。わたくし、絹香ちゃんと仲良くなりましたよ!」
「そうか。それはなにより」
そっけない態度なのは相変わらずだ。それでも沙栄は気に留めることなく話を続けようと口を開く。しかし、それは敦貴によって遮られた。
「もうすぐ夜だ。沙栄、別荘まで送ろう」
「えぇっ? もう!? まだお話したいことがたくさんあるんですのよ」
「ダメだ。父上に叱られても知らないぞ」
「それは困ります! はぁ……仕方ないですわね……絹香ちゃん、またおしゃべりに付き合ってね」
敦貴に背中を押されながらも、沙栄は絹香に振り返って言った。畳んだパラソルを小さく振ってくる。
その笑顔が憎めないから困る。絹香は小さく手を振り返した。沙栄の声は夕焼けの中でもよく通り、背中が見えなくなるまでなかなか気が抜けなかった。
どうやら歩いていける距離に泊まっているらしく、敦貴が沙栄に寄り添って歩いていく。それを見届けて、絹香はソファにしなだれかかった。
どっと疲れがあふれていく。こんなに気を張る一日は久しぶりだ。御鍵家での日々よりも格段に楽だが、別の緊張感がある。しばらく呆けたように天井を眺めて、沙栄との時間を思い返した。
親しみやすく、男性へ素直に甘えられるかわいい女性。きっと、世の男性は明朗快活な女性を好ましく思うはずで、沙栄はすべてを兼ね備えている。確かに敦貴と正反対な性格だが、それゆえに大事にしなければと気にかけているのも無理はない。ただ、一日相手をすると疲れてしまうことは身に沁みてわかった。
「明日も来られたら身がもたないわ……」
そうしてひとりごとを天井に投げていると、ほどなくして敦貴が戻ってきた。
「安心しろ。沙栄は明日東京に戻るそうだ」
聞いていたのだろうか。思わず身構える。
しかし、敦貴はなに食わぬ様子で絹香の前に座った。その顔は、夜に見せる時のような無気力なゆるみがある。
「悪かった。急にこんなことを頼んで」
また心を読んだのかと思ったが、あまりにも素直な謝罪だったので驚いてしまう。
「沙栄は、ああして一日中ずっとしゃべっている。そのどれもが脈絡ないもので、予測不可能。対応が難しい」
「でも、未来の奥様でしょう? 避けては通れない道ですよ」
「あぁ。だから、君で慣れようとしているんだ。そもそも、女性と長時間過ごすというのは、私にとって苦難でしかない」
敦貴は肘掛けに腕を立て、疲れたように顎をのせた。絹香をジッと見つめている。対し、絹香はなんと言えばよいかわからず、目のやり場に困っていた。
「……君はおとなしくて可憐だな」
ふと、敦貴が呟いた。
「沙栄みたいにおしゃべりじゃなく、静かで落ち着きがある。隠しごとは多いようだがな」
「昼間のこと、怒ってらっしゃいますか?」
「いいや。ただ、気になってはいる」
敦貴はそっけなく答えた。
あの時、彼は真に迫る様子で絹香に問いかけた。
足の怪我が治っていることに、敦貴が不審を抱かないはずがない。迂闊だった。どうにかこの異能を悟られない方法はないものだろうか。
考えていると、敦貴が眠そうに窓の外を眺めていた。橙色の太陽が差し込んでくる。翳る横顔が気だるげで、なにを考えているかわからない。その横顔に不覚にも見惚れてしまう。
一瞬、彼の頬に触れたいと思ってしまった。そんな邪な思いをすぐにかき消すと、敦貴が視線だけをこちらに向けた。
「絹香」
「はい……」
「恋慕とは、なんなのだろう?」
敦貴の問いに、絹香はなにも答えられない。ほんの一ヶ月前は偉そうに誰かの恋物語を語っていたが、なんだかわからなくなってくる。
恋慕とはどんなものなのだろう。これをもし恋だというのなら、確実に危ない橋を渡っている。自覚したら戻れない。だから、絶対に認めるわけにはいかない。
彼を好きになってはいけないのだ。彼の仕草にいちいち感情を乱すのはよくない。
絹香は平常心を心がけた。それが返答に迷っていると捉えられたのか、彼はため息をついて目を閉じた。絹香もただ座って太陽の傾きを眺め続ける。
そんなゆるやかな時間が終わるのは、それから数分後のことだった。
「……食事にしよう。そろそろ米田も帰る頃だ」
そういえば、米田の姿を随分と見かけていない。
「米田さんはどちらへ?」
「彼には仕事を頼んだ。沙栄に絹香のことを漏らした者を探っている」
「そうだったんですね……確かに、わたしなんかのことを長丘家の外へ知られたら一大事ですわ」
「まぁ、それもあるが。その前に君の身の安全を確保しないといけないだろう。私のわがままで付き合ってもらっているのだから、全力で君を守りたい」
敦貴の無感情な声が強い言葉を放ち、絹香は困った。ここで頬を染めたらいけないとわかってはいても、心臓がトクンと音を鳴らして体温が上昇する。
「絹香、顔が赤いぞ。熱でもあるのか」
「違います! もう、敦貴様ってば、そういうことを平気でおっしゃるのですね。心臓が持ちませんわ」
絹香は顔を覆った。しかし敦貴には不可解だったらしく、真剣な表情で訊いてくる。
「どういう意味だ?」
「それは……」
「私のせいか」
なおも真剣な調子の敦貴である。絹香はたまらず早口で噛みついた。
「そうです。敦貴様のせいです。あなたのような殿方は路傍に咲く雑草に、無償で厚意を振りまいてはなりません」
チラリと見上げると、敦貴が口元に手を当てていた。困ったように眉をひそめている。
「礼儀だと思っていたんだが、いけないことだったのか……」
「いえ、いけないことではないんですけれど。敦貴様は乙女の心をわしづかみにする力を持っています。自覚なさった方がよろしいかと」
──勘違いしてしまいますから。
なんとか濁そうとするも、敦貴は生真面目に思案していた。そして涼やかに訊く。
「ふむ。それは、つまり君も私に惚れているということかな?」
「……っ!」
絹香は頬から蒸気が出そうになるほど熱くなった。
すると、敦貴の細い目が大きく開いた。しばらくふたりで見つめ合っていたが、いたたまれなくなった絹香はソファから下りた。
「食事の支度はわたしがします!」
そう宣言し、台所へ飛び込む。
彼の驚いた顔がわずかに赤らんでいた。それが意外で、とても愛しく感じる。
──どうして、そんな顔をするの?
胸の奥がぎゅっと切なくなり、絹香は台所の壁をパタパタ叩いた。