御鍵寛治邸は諸外国を相手にする商社の社長という立場もあり、和洋折衷の造りだ。今はもう解体された絹香の生家も洋館と和館を組み合わせた建物で、幼い頃からベッドを使っていた。ただ、洋服は定着せず、普段は着物で生活していた。
 叔父に引き取られてから、絹香の生活は大きく変貌した。
 独房さながらの薄暗く狭い部屋に、かつて過ごした実家のような快適さはない。
 近い天井と小さな窓、(ほこり)だらけの冷たい床板にももう慣れた。部屋履きも上等なものはなく、擦り切れた足袋(たび)である。着物は学友のお古をもらうしかなく、冬は寒さに震え、簡素なベッドで過ごす。
「さぁ、起きるのよ、絹香。早くしないと叔父様たちが起きちゃう」
 そんな独り言を放ち、体を伸ばして起き上がった。寝間着の上からおさがりのショールを巻けば、なんだか貴婦人の起床を演出できるので楽しい。
 絹香は新聞を読むだけのために毎朝五時に起きる。そのついでに、人手が足りない台所仕事をするのが女学校を退学させられてからの日常となっていた。
 屋根裏部屋の独房から二階へ降り、寝静まる叔父たちの部屋も通り過ぎ、古い木材の階段を忍び足で降りていく。一階の居間を突き抜け、台所にある裏手口から外へ出る。
 薄紫の空の中、朝焼けが雲間から流れていた。今日は洗濯物がよく乾きそうなお天気に違いない。
 五月の早朝、初夏の香りが近づいているが港に近いここはわずかに冷える。遠くでカモメの鳴く声がし、その心地いい音を耳に取り入れながら新聞配達員を待った。
 しばらくすると、背後から物音がした。振り返る。
「おはようございます、絹香さん」
 書生、瀬島(せじま)行人(ゆきひと)が純朴そうな笑顔を見せた。
「おはようございます、瀬島さん」
 絹香は声を弾ませて挨拶した。優雅に一礼し合う。最近ふたりの間で流行っているのは、この〝華族ごっこ〟だった。
「絹香嬢、今朝もお早いですね」
「瀬島さんこそ、お早いですわね」
「……新聞はまだかな?」
「あら、もう終わり? 華族ごっこ、楽しいのに」
 絹香は頬を膨らませた。すると、瀬島はクスクス笑い「失敬」と言いながら自分の髪を触る。生来のくせ毛がコンプレックスらしく、絹香はその頭を()で回したいと常々思っていた。
 自分よりひとつ年上の瀬島だが、弟のように感じてしまうのは親しみやすい人柄と少し頼りない性格だからだろう。優しい目は開いているのかいないのか近くで見なければわからない。ちょっと大きな鼻と綺麗(きれい)な歯列が印象的な彼は、笑顔がとてもかわいらしい。
 もう随分会っていない弟の幼い顔を脳裏に浮かべると同時に、今利家へ手紙を出さなければならないことを思い出す。
 すると、唐突に瀬島が「あっ」と声をあげた。
「そうだ。絹香さん、よかったらこれどうぞ」
 彼は着物の帯に差した本を絹香に渡した。
「あら、もしかして専門書?」
「そう。貧乏なもので、大学の図書館から借りてきたもので悪いんだけれど」
「とんでもない。(うれ)しいわ。それに、わざわざ大学の図書館からだなんて……近頃は貸本屋さんもあるというのに」
「貸本屋のものは古いので。やはり、最先端の学問は然るべき機関に眠っているものさ。それに、今日はあなたの誕生日ですから」
 気取ったふうを装うが、すぐに照れ笑いを浮かべて恥ずかしがる。そんな瀬島に、絹香は小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
 絹香は本を抱いて笑った。すると、瀬島はゆっくりと手の甲で絹香の頬を撫でた。彼の手は冷たく、皮膚に鋭く浸透する。絹香は驚いて一歩身を引いた。
 彼はこの邸の中で唯一気を許せる友人ではあるが、髪に触れられるのは不本意だ。
「えーっと……新聞、遅いね」
 瀬島は気まずそうに呟いた。
「そうね……」
 あぜ道の向こうをふたりで見つめる。
 ほどなくして、新聞配達員は頼りなげな自転車で御鍵邸へ到着した。
 お金を払い「ご苦労様」と声をかけ、瀬島と共にようやく部屋へ入る。
 さっそく台所の丸椅子につき、調理台の下で新聞に目を通した。
 踊る活字をざっとななめ読みする様子を瀬島が見守る。彼は主人である叔父や叔母が起きてくるのを見張る役目も勝手に担ってくれていた。
「相変わらず、絹香さんは読むのが速いですね。きっと、女学校でも秀才だっただろうに。もったいない」
「仕方ないわ。女に学問は不要ですから」
 瀬島の言葉に、絹香はやや皮肉を込めて返した。それに対し、瀬島は悔しげに吐息を漏らす。
「君の叔父上は間違っているよ。本当に心からそう思う」
「瀬島さん、集中できないわ。ちょっと黙ってて」
「うーん、冷たい……」
 軽くあしらっても、彼は気を悪くするでもなく、この時間を楽しげに過ごしていた。絹香もこのささやかなひとときが心安らぐ時間だった。
 新聞の一面は政治経済だ。事件や事故なども書かれており、本の新刊宣伝や医薬品の広告もあった。また、最近はどこそこの令嬢と庶民との心中話や大恋愛の模様が派手に報じられており、その模様を絹香は食い入るように読みふけった。
 世間は毎日、飽きることなく事件が起きている。そのことを知れば、自分の世界は案外ちっぽけなものなのかもしれないと感じられた。
 だが、あと一時間もすれば終わりを迎える。廊下を伝って流れる古時計の鐘が六時を告げれば、使用人が起きてきた。
 瀬島が焦り声で絹香に合図する。
「絹香さん、そろそろ」
「えぇ」
 絹香は新聞を綺麗に折り畳み、瀬島に渡した。
 新聞係は彼の役目となっている。台所を出て、瀬島はすぐに「おはようございます」と礼儀正しい声を放った。その奥で、叔父の不機嫌そうな(うな)り声が聞こえた。
 絹香は朝食の準備を始めた。
 叔父は硬い米をふやかしたものを好むので、前日に握り飯を作っている。それを茶碗(ちゃわん)に置き、煎茶をかける。魚は焼き立てがよいので、前もって準備していた網の上に小アジをのせた。
 叔父が新聞を読み終わる前には焼き上がるだろう。その間に味噌(みそ)(しる)を作っておく。
 台所は使用人が使いやすい従来どおりの和式で、土間にかまどがふたつ。火をかけ、あらかじめ煮干しで出汁(だし)をとった水を小鍋に張り、湯を沸かす。
 次に手早く小松菜をざく切りにし、豆腐を丁寧にさいの目状に切った。沸騰したら味噌を溶き、味見する。味がなじんでいれば、豆腐と小松菜を入れて少し煮る。小松菜が鮮やかな緑を放ち、味噌の色味がふんわりと踊れば(わん)についだ。
 すると、小アジがいい香りを漂わせた。ふっくらとした身と皮の隙間からジュワジュワと脂が浮かんでくる。小アジが焼けたら皿に移し、漬物を添えて完成だ。
 これを使用人に持っていかせる。直接行けば「飯がまずくなる」と言われるから、顔を出さないようにしている。
 さて、次は叔母用の朝食だ。今から米を炊けば十分間に合う。
 ここの夫婦は朝食時間が別々なので、朝の台所は忙しい。また、主人の横暴さに心を痛めて辞める使用人が多いのでよく人が入れ替わり、常に右往左往している。絹香も学校で学んだとおり、ある程度の生活能力は身についているが、ひとりで作業を回すには腕があと四本は欲しいところだった。
 叔母は品数が少ないとすぐに腹を立てる。錦糸卵、桜でんぶなどを用意し、小アジの臭みを抜いて下味をつけ、彩り鮮やかな()を柔らかくふやかし、かまぼこを切る。
 そうしているうちに、居間の方から「行ってらっしゃいませ」と瀬島のかしこまった声が聞こえた。
 どうやら叔父は会社へ行くようだ。絹香の気が少しだけ晴れる。なるべく彼らと顔を合わせずに過ごすのが一日の目標だ。
 おかずをそれぞれ小さな器に盛り付け、膳を整える。そして、若い使用人に部屋まで持っていかせた。それが終われば、他の使用人たちの手伝いと手紙を投函(とうかん)しに行く。そんな予定を頭の中で組み立てていると、瀬島が台所に戻ってきた。
 仕事の前に、彼の朝食と弁当も用意する。瀬島はこれから大学へ勉強しに行くのだ。
「ご飯が炊き上がったから、すぐに支度しますね」
「ありがとう」
 茶碗に白飯をよそい、味噌汁と漬物を出した。彼は手早く調理台の上で朝食にありつく。そんな彼の食べっぷりが気持ちよく、絹香は大きな握り飯を三つこしらえた。それぞれ梅、おかか、味噌と具を変えている。
 竹籠に詰め、フタをしたところで突然、台所に若い使用人の娘が血相を変えて飛び込んできた。
「絹香さん! あ、あの、奥様が……お呼びです……!」
 明らかに動揺の色を浮かべており、絹香はサッと血の気が引いた。瀬島も怪訝(けげん)そうに食べる手を止める。
「……なにかしら」
 絹香は拳をぎゅっと握った。
「何事もなければいいけれど」
 瀬島も不穏を感じたか小声で言う。
「朝食が気に入らなかったのかもしれないわ……大丈夫、いつものことよ」
 そう強がるも、握っていた手がわずかに震えた。台所から飛び出し、素早く階段を上がる。すれ違う掃除婦に挨拶もせず、叔母の部屋へ向かった。
「叔母様、絹香です」
 木製の扉は西洋式のノックをして声をかけなければならない。
 すかさずドアの奥から「入りなさい」と厳しい声が聞こえ、絹香は真鍮(しんちゅう)のドアノブを開けた。叔母はすでにベッドから起きていたが、寝間着のままでこちらを(にら)みつけている。
 青白い肌には艶がなく、どことなく枯れた印象の叔母、照代はギョロリと大きな目玉で絹香を威圧した。
「なんなの?」
 出し抜けに叔母はそう言い、憎々しげに絹香を見ている。なにを問われているのかがわからず、絹香は顔を強張らせた。
 黙っていると、叔母は荒々しく絹香の元へ近づいた。そして、すぐに横っ面を弾かれる。
「私にあんなものを食べさせるなんて、恩知らずもいいところね!」
 押し黙った絹香は、胸の中に黒い(もや)が広がるような気がした。目をつむり、奥歯を()む。すると、もう一度、横っ面を(たた)かれ、ぐいっと髪の毛をつかみ上げられる。
「なんなの? その目は。本当にイライラする」
 なにに対して叱られているのか、なにに対して反省すればいいのかわからない。だが、これだけはわかる。
 叔母は朝食に文句を言っているわけではない。ただ、絹香を痛めつけたいだけなのだ。さめざめと泣いて許しを乞えば、叔母は喜ぶ。昔からそうで、すれ違いざまに足を踏みつけられたり髪をつかまれたりする。
 明確な理由のない嫌がらせは日常化していて、絹香はただこの時間が早く終わることだけを考えた。
 絶対に泣かない。喉元まで出かかった嗚咽(おえつ)を飲み込んで耐える。
「この化け物が」
 吐き捨てるように嘲り笑う叔母から、絹香はゆっくりと離れた。
「朝食は作り直しますか?」
 弾かれた頬を押さえることなく、冷静に問うと叔母は「フン」と鼻息を飛ばした。
「結構よ。もう下げてちょうだい」
「承知しました」
 絹香は叔母の膳を静かに下げて部屋から出ようとした。
「待ちなさい!」
 ドアに手をかけると叔母に呼び止められ、絹香はくるりと振り返った。
「いかがしました?」
 打たれた頬の手当をしたい。早くしないと痕になりそうだ。そんなことを心配していると、叔母は静かに言った。
「今日は東京(とうきょう)へお遣いをしてちょうだい」
「はぁ、東京ですか……?」
「次の週末、ここで商談パーティーをするんだそうよ。子爵家の長丘様がいらっしゃるの。主人が一流の料理人を呼び寄せろと言っていたのを思い出したわ。あなた、ご挨拶してらっしゃいな」
 叔母の声は先ほどの癇癪(かんしゃく)から一変して冷静だった。淡々とした指示に、絹香は無感情に答えた。
「承知しました」
 すると、叔母はもう用済みとばかりに手で追い払う仕草をする。
 絹香は急いで洗面所へ向かい、鏡を見つめた。頬が腫れている。傷跡は大してひどくないものの、鮮血が丸い点となって鼻にかかっていた。叔母の爪がかすったのだろう。
 絹香は傷を指先でなぞった。すると、みるみるうちに傷口が塞がれていく。次に両頬を手のひらで包めば、腫れがすっと引いていく。それに伴い、痛みもゆっくり和らいでいった。
「……あ、瀬島さんはもう出たかしら」
 おそらく彼はもういない。「行ってらっしゃい」を言いそびれたことを悔やむ絹香は無意識に現実逃避していた。

 使用人たちに台所の後片付けを頼み、絹香はそっと〝自室〟へ向かった。この邸に来て与えられたものだが、自分のものではない。外へ出ても恥ずかしくないよう、遣いに出る時や客人を招く際にのみ出入りを許される。皮肉なことにこういう時にしか、おしゃれができない。
 絹香は淡い桃色の着物を取った。銀と白の糸が優美な曲線を描く繊細な刺繍(ししゅう)の着物は、御鍵商社が扱う反物である。
 帯は鳶色(とびいろ)で、水色の睡蓮(すいれん)模様が描かれている。帯留めは淡い桜色を選び、五月の空の下でも浮かない爽やかな組み合わせだ。
 化粧台に座って薄く白粉を顔に塗り、頬紅で色をつける。長い髪の毛を器用に結い、ふんわりと柔らかな耳隠しを仕上げた。
 白い帽子をかぶりレースの手袋をはめれば、どこをどう見てもおしゃまなお嬢様。つい先ほどまで理不尽な扱いを受けていた惨めな少女の姿はどこにもない。
 絹香は鏡の向こうの自分に微笑んだ。すると、鏡の彼女も優美に笑う。令嬢、御鍵絹香の出来上がりだ。
 絹香は一視宛の手紙を持って、颯爽(さっそう)と玄関ホールへ向かった。使用人たちに十五時に戻ることを叔母に伝えるよう言いつけて家を出る。
 無感情に笑顔を浮かべ、ご近所の人々に「ごきげんよう」と声をかければ、誰もが絹香を御鍵家の幸せな令嬢だと信じて疑わない。絹香に与えられた役は〝賢く、気立てのよいお嬢様〟であり、〝両親の死を乗り越えた健気な少女〟なのである。
 その役を完璧に演じながら郵便局へ立ち寄った。
 一視とは、あの別れ以来一度も会っていない。遠い九州(きゅうしゅう)の地で、彼は両親や姉の教えを守り、懸命に勉学に励んでいるという。
 手紙の中での絹香は気さくで明るい姉を演じているものの、ここ最近は叔母からの嫌がらせが過熱したこともあって筆が乗らなかったのだ。一ヶ月近く返事を出せずにいたが思い切って手紙を投函した。
 それから駅へ行き、路面電車で移動する。本来なら用心のため使用人を連れて街を歩きたいところだが、そこまでは許されていない。港の本社へ行けば、叔父の秘書たちがいる。しかし、彼らとの接触も叔父から許されていないので頼れず、ひとりで行くしかない。
「そうだわ。瀬島さんに会えるかしら」
 ゆるやかな潮風を浴びながら彼の顔を思い浮かべつつ淡々と東京までの道を行く。
 街は華やかで、着飾った人々が多い。女学生や職業婦人なども行き交い、ちらっと振り返って彼女らを見つめるも、すぐに目を逸らした。
 自由な彼女たちを羨ましいなどと思ってはいけない。そう言い聞かせて、書き留められた住所を訪ねる。
「ごめんくださいまし」
 通りに面した瓦屋根の家屋はいかにも庶民的で、開きっぱなしの戸口から顔を覗かせる。
 商社の社長や財界の重鎮などの調理補助を任されるという腕利きの料理人は気難しそうな老爺(ろうや)であり、いかめしい仏頂面で絹香を出迎えた。
「おや、これはどうも……わざわざ絹香お嬢様にご挨拶をしていただかずとも、寛治様から直々にご連絡いただいておりましたのに」
「え?」
 絹香は眉をひそめた。
「ご挨拶をするよう叔母上から仰せつかったのですが……」
 すると、玄関の奥から家の者たちがヒソヒソとささやき合っているのが見えた。
「どうしてここまで……」
「わざわざ来なくても……」
 そんなふうに言っているのが聞こえて、たちまち目の前が暗くなった。もしかすると叔母は、こうして恥をかかせるためにわざと遣いに出したのではないか。そんな思惑を読み呆然(ぼうぜん)としてしまう。
「お嬢様?」
「あ、申し訳ありません。しかし、こうしてお会いできて光栄でございます。当日はぜひ我が御鍵家のため、ご尽力くださいませ」
 そう早口に押し切り、主人の手を握って微笑む。すると、主人は曖昧に笑った。
「それでは、ごきげんよう」
 絹香は家にも上がらず、(きびす)を返した。
「お嬢様、お茶でも……」
「いいえ、早く帰るよう言いつけられておりますので」
 頭が真っ白になり、とにかく逃げたかった。
 ふいに八年前の──父の葬儀に駆けつけたあの記者たちののっぺりとした顔が脳裏をよぎる。なんだか、あの屈辱と似ていた。
「……笑うのよ、絹香。こんなこと、なんでもないでしょう」
 小さく(つぶや)いて鼓舞すれば、心が落ち着いていく。
 なんとか遣いを終えることができたのだ。まだ少し時間に余裕があるかもしれない。絹香は心の疲弊を押し込んで、大学の道を探した。通りすがりの人に道を(たず)ねて歩けば、先ほどの屈辱が薄れていった。
 大通りには人々が行き交い、学生服の集団や軍服姿の規則正しい足音も聞こえ、大層(にぎ)やかだ。横濱も活気があるが、この都は別格で、石畳と建ち並ぶビルディングが近代的で華やかさを放つ。車の通りも多い。
 絹香は気をつけながら歩いていたつもりだった。しかし、人混みの中を縫うようにして走ってくる車にまで気を回すことはできなかった。「危ない!」と鋭い悲鳴にも似た声が、まさか自分に浴びせられているとは思いもよらない。
 体が強張って動けない。すると、後ろから誰かに抱きすくめられた。
「まったく……死にたいのか?」
 深い男性の声が頭の上から降り注ぐ。気がついた時には車は脇で停まっており、人々が運転手を引きずり下ろそうとガヤガヤしている。
 絹香は道に尻餅をついていた。しかし、その後ろには温かな壁がある。
「おい、君」
 またも頭上から声が聞こえ、ハッとして顔を上げると、切れ長の目が不安そうにこちらの様子をうかがっている。色白の端正な顔立ちをした青年だった。青みがかったスーツに(そろ)いの帽子をかぶっている。身分の高そうな紳士だ。
「あっ、も、申し訳ありません!」
「いや、無事ならよいのだが……少しは気をつけて道を歩きたまえ。その綺麗な着物より命が惜しいなら」
 彼は安堵(あんど)しながらも厳しく言った。
 着物を汚したくないから動かなかったのだと思われているようだ。しかし、なにも反論できず、ただしおらしく顔を伏せるしかない。時間差で心臓がバクバクと大きく音を鳴らし、冷や汗が背中を伝う。
 怖かった。どんな罵倒や嫌がらせも慣れていたのに、大きく無機質な機械が迫ってくることがこれほど恐ろしいものだとは想像もしていなかった。
 頭が真っ白で声が出ない。そんな絹香に、青年は(あき)れたように苦笑する。
「立てるか?」
 彼は絹香に手を差し出す。うながされるまま立ち上がるも、次の瞬間に左足首から鋭い痛みを感じた。ガクッと体勢を崩すと、彼が慌てて抱きすくめる。
「足が痛むのか?」
「えぇ……そのようです」
 痛みに顔を(ゆが)めつつも、絹香は口元に笑みを浮かべた。すると、彼は形のいい眉をひそめた。
「奇妙な顔をして笑うな、君は。そうつらそうに笑うんじゃない」
「えっ……」
 思わぬ言葉に戸惑う。
 この身には不可思議な治癒の異能が宿っている。これくらい、すぐに治る。しかし、人前で使うのは利口ではない。絹香は青年の手を取りながら、歩けるかどうか試した。ズキズキするが、壁伝いに歩けばなんとかなる。あとは近くの物陰に隠れて異能を使えばいい。
「大変失礼いたしました。どうぞお気になさらず……」
「なにを(たわ)けたことを。この私に怪我をした淑女を見放せと言うのか」
 意外な言葉に絹香は両目をしばたたかせた。
「い、いいえ。そんなつもりは……」
「では、問題ない。家まで送ろう」
 青年はさも当然のように言った。
「案ずるな。いま、車を用意する。どのみち、私の用事はすでに終わった。急ぎ、病院に向かおう。それよりも君の主治医に見せた方がいいだろうか」
 絹香はますます困惑し、とにかく首を横に振った。
「どうぞ、お構いなく。わたしは、そのようにしていただく身分ではございません」
 咄嗟(とっさ)に出た言葉に絹香はハッとし、口に手を当てる。青年も目を見開かせて驚きの様子をあらわにした。そして、まじまじと不審そうに見つめてくる。
「君、御鍵商社のご令嬢だろう? 名を絹香といったか」
「えっ……」
 どうして名を知っているのだろう。どこかで会ったことがあるだろうか。こんな美しい男性を忘れるはずがないが、すぐには思い当たらない。
 すると、彼は絹香の着物を指した。
「その着物は御鍵商社の製品だ。それに、御鍵家は昔から話題に事欠かない。知らぬ者はいないだろう」
 その言葉に絹香はすぐ合点したが、先に素性を当てられるのはいい気がせず、警戒心を顔に張り巡らせた。
「失礼ですが、お名前を伺っても……?」
 ()くと、彼は柔らかく口元だけで笑む。紳士らしく帽子を取って優雅に名乗った。
「長丘敦貴という。名くらい、聞いたことはあるだろう?」
「な、長丘様!?」
 仰天のあまり目眩(めまい)がした。
 長丘家は明治維新後に名を挙げ、国家に勲功ある者として華族となった名家である。また、次の週末に御鍵家と取引をする相手。そんな子爵家の令息に助けられるなど、叔父や叔母に知れたらどうなるか。
 絹香は開いた口が塞がらなかった。
「さて、もういいかな。ギャラリイが面倒だ」
 その言葉に、絹香は周囲を見渡した。今や事故を起こした運転手は通行人から非難の嵐を受けており、怪我をしたこちらのことなど考えていないようだった。
 絹香は迷った。しかし、答える間もなく敦貴が絹香を抱き上げる。
「えっ!? あの、長丘様……!?」
 公衆の面前で抱き上げられるなど、それこそ大変な騒ぎになりかねない。
「しっかりつかまっていないと、落ちるぞ」
「っ!?」
 慌てて彼の首に手を回すと、敦貴は満足そうに「うん」と小さくうなずいた。絹香はまともに顔が見られず、ただただ彼の肩に顔をくっつけている。
米田(よねだ)。病院へ車を回せ」
「かしこまりました」
 運転手と思しき男性の声が聞こえるが、絹香は顔を上げられずにいた。すると、敦貴が言った。
「絹香嬢、そうくっついていたら車に乗せられない」
「申し訳ありません……!」
「よほど痛むのだな。やはり先に医者へ行こう。御鍵殿には私から連絡する。それでいいな?」
「……はい」
 彼の素性を知った今、逆らえるはずがない。華族であることも理由のひとつだが、なにより御鍵家の今後を左右する存在になるやもしれない相手だ。
 敦貴は絹香を優しく慎重に車の中へ乗せた。
 車とは、てっきり人力車なのだと思っていたが四輪車だった。心地いい革張りの座席、そして前方には運転席が。
 先ほど車にぶつかりかけたこともあり、絹香は体を強張らせていた。だが、そんな心配もよそに敦貴は絹香の横に乗り込んでくる。
 運転手の米田が車を発進させた。屋根はあるが扉がない。動き出せば、絹香はヒヤヒヤした。
「安心しろ。米田はあんな危険運転はしない」
 まるでこちらの心を見透かしているみたいに、敦貴がサラリと言う。
 絹香はようやく彼の横顔をうかがった。
 すっきりとした目尻は凛々(りり)しく、長い睫毛(まつげ)が優美さを醸し出す。高い鼻に、薄い唇。その下に小さなほくろがある。女性的な儚さもあり、しかし首筋は太く、そこから下ればしっかりとした胸板があり、誰もが身を委ねたくなるような男性だ。
 しかし、絹香は彼の表情から冷ややかさを感じていた。冷酷ではないと思うが、人好きのするような明朗さもない。端正な顔立ちがそう思わせるのか。
「なにか?」
 見つめていると、彼は前を向いたまま訊く。口元は笑っているが、目元はいっさい笑っていない。
「いいえ」
 絹香は慌てて正面に顔を向ける。不思議な空気をまとう彼の横で、とにかく心臓の音が聞こえないよう胸を押さえるしかなかった。

 病院へ行くのは随分と久しぶりだった。叔父に引き取られてから一度もなく、そもそも絹香にその必要はなかった。
 大きな病院は無数の医者や看護婦が行き交う。
 その処置室で絹香は丁寧な診察を受けた。やはり足首を(くじ)いてしまったようで、湿布薬を塗られ、その上から綺麗な包帯を巻いてもらった。まだ痛むが、家に帰ったらすぐに治そうと絹香は思う。
 その間、敦貴は重厚な院長室の電話から御鍵商社へつないでいた。
「心配には及ばない。絹香嬢は責任を持って、私が送り届ける。その旨を社長へ伝えるように」
 処置をしてもらった後、おずおずと彼の元へ行けば、そんな声が聞こえた。敦貴が伝えたのは、おそらく叔父の秘書か事務員だろう。直接話をしたわけではないと悟り、安堵と不安が半々のまま立ち尽くす。
「処置は済んだか」
 彼は絹香を見ずに訊いた。
「は、はい!」
 絹香は飛び上がって返事をした。そして、慌てて床へ膝をつく。
「このたびは長丘様のお手を煩わせたこと、大変申し訳ございませんでした。どのように御恩をお返ししたらよいか……」
「そう堅苦しいのは結構だ。まぁ、『怪我人を目の前で放置した』などと騒ぐ連中がいるかもしれんからな。いつどこで名に傷がつくかわからない」
 彼は無感情に言葉を吐き出し、くるりと振り返った。
「やめなさい。怪我が悪化したら、それこそ本末転倒だ」
 その言葉はもっともであり、絹香はすぐに立ち上がった。
「ありがとうございます、長丘様」
 絹香はためらいつつ、彼の顔を正面から見つめた。
 ──やっぱり、不思議だわ。
 冷たく、淡々としているのに言葉が優しい。彼の言動は身につけた服と同じように完璧で、一分の隙も見せない。
「では、絹香嬢。家まで送ろう。社長へはこちらから話を通してある」
「はい……なにからなにまで誠にありがとうございます」
 深くお辞儀すると、敦貴がサッと脇を通り過ぎた。彼はドアを開け、絹香に手を差し出す。絹香はその手を取り、院長室を出る。世話になった医者に挨拶し、今度は自力で敦貴の四輪車へ乗り込んだ。
 まるで、お姫様にでもなった気分だ。いつも〝華族ごっこ〟をしているのに、こういう時に限って優雅な動きがままならないことが悔やまれる。
 そんな最中、米田が運転するフォード・モデルに向かって口笛を吹く人がいた。女学生たちの黄色い声も聞こえてくる。若い学生らにとって、高級製品である四輪車を乗りこなす上流階級は憧れの対象だ。
 学生服の群れを横切り、絹香はふと瀬島の姿がないか少しだけ気になった。書生の彼を見つけさえすれば、あとは「この人と一緒に帰ります」などと理由をつけて車を降りられるかもしれない。
 しかしそんな願いも虚しく瀬島を見つけられないまま、車は山道へ差しかかった。人通りもまばらになっていく。木漏れ日の中、蒸気自動車の音だけが鳴り響き、絹香も敦貴も口をつぐんでいた。
「随分と熱心に誰かを探していたが、もしかして恋人か?」
 沈黙を破ったのは敦貴の静かな声。突然の問いに、絹香は驚いて彼を見つめた。
「なにをおっしゃって……」
「見ていればわかる。さては男との逢引(あいびき)の途中だったかな? その相手は学生か」
 違うかい?と目で確かめてくる。その異様な鋭さに絹香は素直に舌を巻いた。しかし、彼の見立ては半分ハズレだ。
「……恋人ではありません」
「隠さなくていい。そもそも、君みたいな令嬢がひとりで街をうろつくという理由が皆目わからない」
「お、お遣いに、ここまで来ただけです」
「だったら使用人はどうした? それとも、御鍵家では大事なご息女をひとりで遣いに出すのが通常か?」
 そう矢継ぎ早に問われれば、なにも言えない。
 確かにそのとおりだ。ひとりで出かけるなんて最初から奇妙だった。これに気がつけないくらい社会から隔絶されていたのだと改めて知る。
 絹香は黙り込んだ。それを肯定と受け取ったようで、敦貴は冷笑を浮かべた。
「ほう、家人に言えない秘密の恋愛か……恋だの愛だの、近頃はそういうものが流行っているが、よくもまぁそんな面倒なことをする」
「だから違います。瀬島さんとは、そのような関係ではありません!」
 絹香は思わず声をあげた。途端に敦貴と目が合い、その深い瞳に好奇の色が浮かんでいるのがうかがえた。なんだか彼の術中にはまっているような気がしてならない。
「なるほど。からかってすまなかった」
 そう謝る彼だが、口元には笑みを浮かべたままだ。まだ疑われているような気がし、絹香は仕方なく弁明した。
「瀬島さんはうちの書生さんです。その方にお会いできるかもしれないと思っただけでして、それ以上の関係はございません」
「ふむ……その瀬島という男、君が受けている仕打ちについてはなにか知っているのかな?」
 その言葉が絹香の心に鋭く切り込んでくる。
「え?」
「君が受けている仕打ちだよ。ひとりで出歩かせる、遣いに出す、おまけに君の叔父上は君が怪我をしたと報告を受けても応対しようともしない。異常だ。これを問題にせず静観するのはどうかと思うがね」
「いえ、でも……」
 絹香は言葉と共に唾をゴクリと飲んだ。
 叔父との不仲に瀬島は関係ないが、敦貴の指摘も一理あるような気がしてならない。瀬島は絹香の身を案じているような素振りがあるものの、表立って叔父に意見しようとしなかった。主人と書生という関係なのだから、意見しないのは当然だろう。
 しかし、敦貴の言葉が()に落ちていく自分もいて、絹香は戸惑った。
 この長丘敦貴という男は、人の心を見透かす異能でも持っているのだろうか。
 (いぶか)りながら盗み見るも、彼はもう目を閉じてしまいなにも発することはなく、車内は再び沈黙した。