幸せをつかむにはなにかを踏み台にしなくてはいけない。臆することなく突き進むには、(きょう)(じん)な心が必要だ。父と母はそれを乗り越えられなかった。しこりを残したままでいたから、足元をすくわれた。
 だが、絹香は両親を恥ずべき存在にはしたくなかった。彼らの愛は本物だった。その証が自分であり、一視である。これは一視とも意見は合致していた。
 しかし、彼は両親の物語のようにはなるまいと、ますます実直に勉学へのめり込んでいく。女性へみだりに愛をささやくなんてもってのほかであると突っぱねているらしい。
「あんなかわいらしいお顔をしていながら、気難しく『恋愛はくだらない』とおっしゃるのよ。まったく、どうしてあんなにわからず屋なのかしら。いったい、誰に似たんでしょうね」
 うららかな日差しの強い鎌倉の別荘のバルコニーで、沙栄が不満たっぷりに言った。絹香は顔をうつむけた。持っていた紅茶のティーカップが震える。
「なんだか心当たりがあるわ……」
「えぇ、そうでしょうとも。強情なところばかり似てしまって、本当に嫌になっちゃうわ」
 沙栄の刺々しい口ぶりに、絹香はますます縮こまった。
「一視にはよくよく言って聞かせます」
「うふふふ、冗談よ。一視さんには、わたくしがしっかりと教育を施して差し上げますから、お姉様はゆっくりのんびりとお過ごしくださいな」
「そ、そう? でも、まったく安らげないわ」
 すっかり萎縮していると、沙栄はケラケラと愉快そうに笑った。
 敦貴との再会から数ヶ月が過ぎ、季節が陽気になるにつれ周囲は目まぐるしく動いていた。敦貴に連れられて東京へ舞い戻ったものの一視の進学などの手続きもあり、ろくにくつろぐ時間もない。
 叔父と叔母は変わらずあの地で過ごしているらしい。今はもう隠居しており、すっかり表に姿を見せない。たまに顔を出す程度で大した付き合いはなくなった。
 瀬島は敦貴の援助で、実家から大学へ通うようになった。卒業までは面倒を見てもらえることになり、彼は別れも告げずに千葉(ちば)の実家へ戻っていった。
 そんな折、一番変わったのは沙栄だろう。なんと彼女は今、新たな恋が芽生えているという。
「まさか一視を気に入ってもらえるとは思いませんでした……」
「あら、わたくしはあの冬の日からずっと一視さんが気になっていたのよ。寒くて震えるわたくしにそっと手を差し伸べてくれるなんて……紛れもなく王子様でした」
 目を輝かせる沙栄だが、すぐに不満そうに頬を膨らませる。
「なかなかうまくいかないものね」
 一視の素っ気なさにはほとほと呆れるものだが、つい最近まで自分も同じように強情を張っていたから、偉そうに説教をできる身ではない。
「でも、恋は追いかけてこそ楽しいものよ。一視さん、こっちに来られてからはますますかっこよくなられて、とてもひとつ年下の男の子には思えないわ。なんでも知ってるし、すぐに覚えちゃうし。でも、やっぱり恋には興味を示さないのよね……」
「一視は照れ屋なんです。許してあげてください」
 弟の名誉のため、控えめにお願いする。と、沙栄は興奮気味に立ち上がった。
「まぁ、照れ屋ですって!? もしそうなのだとしたら、もっと押してもいいかしら? 押したら落ちてしまうかしら? うふふ、これは燃えるわね」
 そうして、沙栄は豪快に紅茶を飲んだ。その姿を見て思わず笑うと、沙栄は恥じらうように「ごほん」と咳払いした。
「まぁ、わたくしの話はともかく。絹香ちゃんはどんなご様子?」
 どうやらこれが本題なのだろう。沙栄の強い瞳には逆らえず、絹香はしどろもどろに答えた。
「えぇっと……お義父様に、ようやく認めてもらえました」
「まぁ! やったぁーっ!」
 沙栄が両手を上げて喜ぶ。その声が山の中をこだまし、海にまで及ぶ。絹香は恥ずかしくなって顔を覆った。
「よしてよ、そんな大声で……まだ、本決まりってわけではないのよ」
「でも、それはもう決まったも同然よ! あのお義父様に認めてもらえるだなんて、とてもとてもすごいことよ!」
 まるで我がことのように喜ぶ沙栄である。一方で、絹香は不安を隠しきれずに目を伏せた。
「でも、お義母様はわからないわ……」
「あら、お義母様は、ああ見えて女の子には甘々なのです。それはもうチョコレイトのごとく、とろとろに甘いのよ」
「そうかしら? お義父様よりも強敵な気がして、今から目眩がするのに」
「大丈夫! そりゃ、教育や教養にはとても厳しい人だけれどね、絹香ちゃんは礼儀正しいから問題ないわ。それに、絹香ちゃんがつらい目に遭っていたら、あの敦貴さんが黙ってないもの」
 それは想像に難くない。絹香は少し前向きになり、拳を握った。
「沙栄さんが言うのなら、大丈夫なのかもしれないわね」
「えぇ、自信を持って。わたくしも力になるわ」
 頼もしい沙栄が、ふいに絹香の白い手を取る。
「式が楽しみねぇ。絹香ちゃんなら白無垢は絶対に似合うし、でも西洋式のドレスもかわいいでしょうね。ふわふわの純白のドレス、素敵じゃない?」
「気が早いわ……」
「善は急げよ。こういうことは男性に任せず、要望をしっかり固めてねだるの。計画的にいきましょう!」
 沙栄の助言に、絹香は真剣にこくこくうなずいた。でも、やっぱり恥ずかしい。敦貴との婚姻が整う日がもうすぐ近い。考えただけで途方もない幸せを感じ、心がいっぱいいっぱいだった。顔から火が出そうだ。
「君たち、あんまりはしゃいでると、バルコニーから落っこちるぞ」
 背後から敦貴が呆れたようにのんびりと現れた。
「あら、噂をすれば、ですわね」
 そう言って、沙栄はおもむろに席を立った。
「ここから先はおふたりで、ごゆっくりお話くださいませ」
 絹香の肩をぽんと叩き、茶目っ気たっぷりに片目をつむる沙栄は敦貴に一礼してバルコニーから退散した。
 そんな彼女の背中を見送ってから、敦貴が椅子に腰掛けた。
「それで、なんの話をしていたんだね」
「女の話です。敦貴様はご興味ないかと」
 恥ずかしいので言葉を濁すと、敦貴は頼りなく眉を下げた。それがなんだか悲しげだったので、絹香は慌てて手を振る。
「大したお話ではないのですよ。たわいもないものです……式の着物のご相談でして……」
「ほう」
 たちまち敦貴は前のめりになり、興味深そうに絹香の顔を覗き込んだ。
「それで?」
「はい……純白のドレスか白無垢のどちらにしようかと……」
 すると、敦貴は深く考え込み、真剣な顔で絹香をジッと見つめた。
「白無垢だな」
 短く簡潔に答えられ、絹香は顔から火が出そうになった。一気に体温が上がった気がしていると、彼は不敵に笑って続けた。
「一等のものを仕立てよう。君が望むなら、ドレスも用意する。素材はシルクだな。絹香の名にふさわしい」
「ちょっと、敦貴様……?」
「どうした、気に入らないか? 足りないならもっと用意するが。それとも、恥ずかしくて言葉が出ないか? 君はいつもそうだな。恥ずかしがり屋にもほどがある」
 そこまでひと息に言われてしまえば、返す言葉はひとつしかない。
「こ、心を読まないでください……!」
 絹香は顔を覆って不甲斐ない声をあげた。
 敦貴の控えめな笑い声が降り注ぎ、ちらっと顔を覗かせると彼の細長い指が絹香の手に触れた。とても温かい手で包まれ、絹香も笑みをこぼす。
 やがて爽やかな風が髪をさらい、優しい時間がゆるやかに流れていった。
 愛する人がそばにいるだけで、不思議と胸がいっぱいになってくる。
 それは、焦がれて乞い願った幸せそのもの──。

【完】