***
(中略)
女学校への進学はあまり歓迎されませんでした。というのも、わたしが叔母へ口答えをしたのがきっかけだったように思います。今となってはなにを言って怒らせたのかが思い出せませんが。
女学校時代はそれなりに楽しめました。恥ずかしながら、家では安心ができずにいました。それもわたしが極度に怯えていたからでしょう。
父の死は衝撃でした。とにかく悲しく、いったいどうして父があんな死に方をしなくてはならなかったのかわかりません。それから、自然と新聞に興味を抱きました。
しかし、父の死の真相はわかりませんでした。叔父の話によれば、やはり経済面での心配ごとがあったそうです。
それにしても不思議なものです。父は前日まで、わたしたち家族の前では穏やかで、とてもそのようなことを考えているとは思えなかったので……。
それでは、今回はここまでにさせていただきます。
やはり、昔話は苦手です。つらいものが込み上げてしまいますゆえ。
御鍵絹香
絹香の手紙を移動中の車で読んだ敦貴は、難しい顔つきをしていた。手紙を封筒におさめ、上着の内ポケットに入れる。
──彼女はまだなにかを隠している。
そう直感する。
しかし、絹香の父親への思いがこんなにも赤裸々に語られるとは予想していなかった。書けと言ったのは自分なのだが、どうせまたつまらない報告をするのだろうと高をくくっていた。おそらく彼女も変わろうとしていることがうかがえる。あの夏の夜に見せた彼女の憂いを取り除きたい。
彼女が秘めるものは確かに不幸そのもので、大層つらい目に遭ってきたことは明らかだった。それでもあのひどい叔父や叔母を配慮しようと心がけているようで、彼女の家族への情はとても清らかなものであると推察できる。
その深い優しさに敦貴は感心しつつも呆れていた。家族に対して憧れもなければ情もない自分とは正反対であり、羨望すら感じる。反面、理解しがたい。ひどい仕打ちを受けてきたら、非情な性格になっていてもおかしくないだろうに。
「私は、こうはなれないな」
絹香は「相手のことを案じ、思いやる心があれば愛せる」と言っていたが、まだまだその心構えが十分にできていないと感じていた。
「敦貴様、到着いたしました」
運転席から米田が言う。どうやら停車したことに気がつかず、しばらく考え事をしてしまったらしい。
今日は本家で父と会う。主に近況報告だけだが、沙栄との婚姻の話も進められるのだろう。気が重い。しかし、行かねばならない。
絹香からもらった手紙を思い返しながら、敦貴は地へ降り立とうと足を踏み出す。すると、米田が言った。
「敦貴様」
「なんだ」
「絹香様のお父上についてを話題にしてみてはいかがです?」
「は……」
米田の提案に、敦貴は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「毎回、義三郎様との会話が五分も持たないじゃありませんか。仕事の話だけでなく、たまにはこういう妙なところから攻めてみてはどうでしょう」
まるで絹香からの手紙の内容を把握しているような言い方である。敦貴は不審を抱いた。バックミラーに映る米田の目からはなにも読み取れない。
「その助言はありがたく受け取っておこう」
「えぇ」
「だが、米田。手紙の中身まで監視しろとは言ってないぞ。それとも、誰かに聞いたか?」
「経験と勘による推察です。敦貴様もお得意の」
米田はうつむき加減に笑った。それはなんだか、いたずらが成功したかのような子供っぽさだった。最近、彼とはこういう会話が増えた気がする。
米田は信頼できる男だ。敦貴が子供の頃から唯一懐いた使用人だった。絹香が慕う父親や兄弟のような存在と言うにふさわしい。
敦貴は座席に戻り、少し肩の力を抜いた。
「ちなみに、絹香の周辺で妙な動きがある者は見つかったか?」
かねてより調査していたものである。この際だから進展を聞こう。
「はい、沙栄様への密告をしていた者は見つかりました。友永ゐぬがそうです。しかし、これに悪意はなかったようですね。問い詰めたところ、沙栄様からの圧力に耐えられなかったそうです」
なんとなく想像がつく。沙栄のあのしつこさに、寡黙で人見知りなゐぬが耐えられるはずがない。さっさと白状し、仕事にかかりたいとでも思ったに違いない。そこまで考え、敦貴はため息をついた。
「そうか」
「しかし、絹香様の周辺はまだまだ不穏でございます。父上の自害に関する話にはなかなか黒い事情があるようです。お気をつけを」
「そのために我が父上に訊けばいいのだな。わかった。そういうことなら多少は乗り気になれる」
敦貴は颯爽と車から降りた。そして、分厚い門をくぐり抜ける。
長丘本家は敦貴が住む邸よりもさらに大きく、どっしりとした構えの迫力ある邸だ。切妻屋根がいっそうの風格を思わせる。
広い庭園には秋桜の花が咲き乱れており、完璧なまでに手入れが行き届いている。
玉砂利の中をしばらく歩けば、ようやく玄関が見えた。子供の頃は見上げるのもためらうほどに威圧的だったが、今は無遠慮にくぐれる。
使用人が総出で迎え入れ、厳かに広間まで案内される。
長い廊下を行き、ふすまを開けると父、義三郎が気難しい顔つきで座っていた。敦貴と同じくすらりとしており、白髪が混じった髪は衰えを知らない。丸メガネをかけているところを見ると、最近は目が悪くなったようだ。
「敦貴か」
「はい。お呼びくださり、誠に光栄でございます、お父様」
「まぁ、そこに座りなさい」
「失礼いたします」
許しを得て、敦貴は静かに父の真正面に座った。
さて、ここからが面倒だ。こちらから話しかけなければ、絶対に口を開かない父である。小学校時代、それでお互いになにも話さず日だけが暮れたことを何度か経験している。
「お久しぶりでございます。お父様の方もお変わりないようで」
父は肘掛けにもたれかかっており、探るように息子をジッと見つめる。その目を見返し、敦貴は咳払いして話を続けた。
「お母様は今日はどちらに?」
すかさず答えたのは、部屋に控える使用人だった。
「奥様は本日、私塾の方へ視察に」
「あぁ、なるほど。お母様も相変わらずのようですね。塾生だけでなく、講師たちも戦々恐々としているでしょうな。そろそろ控えさせた方がよろしいのでは」
母、イツの厳格さはその辺りの私塾を凌駕するという噂である。母の熱心な教育方針のおかげで、敦貴も文武両道を極められたのだが──母は教育家であるが家庭には不向きな人であることは、ここにいる全員が知るところである。
敦貴の提案に、父はただ唸るだけだった。
呼び寄せておいてその態度はなんだと常々思うが、こんなことで憤るほど精神は薄弱ではない。
「沙栄はどうですか。最近よく、ここを訪れると聞きます。お父様、沙栄とは随分と親しくしていただいてるようですね。ありがとうございます」
「うむ……まぁ、扱いには困るが、可もなく不可もなくといったところかな」
「賑やかなことは結構ですがね。私も少々、手を焼いてます」
「御鍵の娘はどうだね」
父にサラリと訊かれ、敦貴は目を見張った。
「あぁ……絹香のことを気にされているとは思いもしませんでした」
「突然、お前が招き入れたというから、そりゃあ気になるものだよ。そんなに矢住との婚姻が不満かね」
核心をついた父の言葉に、敦貴は敗北を感じた。
父に逆らっていると捉えられているのだろうか。いや、むしろ、それだけ息子のことを手厚く思いやっているのだろうか。
沈黙を選ぶと父はニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
「構わん。そもそもお前に浮いた話のひとつもなかったことが問題なのだ」
「絹香は、そういった相手ではありません」
「さて、どうかな」
父は機嫌よく小刻みに肩を震わせて笑った。本当に性根が曲がった男だと心の奥深くで毒づく。
昔から父は息子の綻びを目ざとく見つけてはそれをチクチクと回りくどくからかうのが趣味なのだ。心を読まれているような錯覚をする。そして、そんな父親にそっくりな自分に嫌気が差すのも常だ。
なにを言っても反論のかっこうになり、すなわち肯定しているに等しい。ここは黙っておくことにする。
「で、どうだね。絹香とやら、確か御鍵商社の前社長……明寛の娘だったな」
「おや、ご存知でしたか」
敦貴は上目遣いに見た。すると父は顔をうつむけ、足の爪をいじる。
他人に無頓着な父が数年前の事件を覚えていることは珍しいと思った。同時に、父の言動を脳内で反芻し解釈する。
「お父様。以前、御鍵家となにかありましたか?」
敦貴の問いに父はなにも答えない。では、もうひと押しだ。
「明寛氏の自害は当家と関係がありますか? 例えば、金融に関する不当などで揉めた、というような。明寛氏の自害は精神不安定だったからという報道でしたが、そこまで追い詰めるなにかがあったはずですよね」
御鍵商社が頼りにしていた金融会社は、大本をたどれば長丘家が取り仕切る会社の系列である。直接の親交はなかったものの、いわば御鍵商社も長丘家の傘下であるようなものだ。もしかすると、理事を務める義三郎が当時、なんらかの圧力を加えたことによる不幸だったのかもしれない。
すると、父はそんな息子の考えを見抜くようにまぶたを大きく開かせた。ぎょろりと大きな目玉があらわになり、敦貴はゴクリと唾を飲む。
やがて、父がささやくように言った。
「お前、私を疑うのか?」
「えぇ、まぁ。端的に言えば、そうなりますね」
正直に答えると、父はまた顔をうつむけて唸った。しばらく、広間には微弱な緊張が走る。
敦貴にはなんの勝算もなかったが、父が声を荒らげることはないと踏んでいた。百戦錬磨をくぐり抜けて華族へのぼり詰めた父、義三郎である。『すべてを疑え』と敦貴に教えてきたのは他でもない父なのだ。その教えを忠実に守っているだけのこと。
やがて、父は鼻を鳴らして唸った。
「敦貴」
「はい」
「御鍵商社の件、後のことはお前に任せる」
その言葉に、敦貴はわずかに怯んだ。話の筋が見えない。しかし、御鍵家とはつい最近商談をした間柄である。仕事に関してだろうか。それとも、事件の全容をもっと調べてもよいという意味か。どちらにせよ、逆らうことはできない。
「承知いたしました」
敦貴は素直に受け入れた。
「その絹香という娘も一度、こちらへ連れてきなさい」
「はい?」
思わず聞き返してしまう。途端に父が鷹のような鋭い目で睨んできたので、敦貴はすぐさま言葉を改めた。
「承知いたしました。そのように取り計らいましょう」
「うむ」
それきり、父はなにも言わずに立ち去った。ふすまが閉じられ、敦貴だけが広間に残される。
しばらくそのままの姿勢で座っていたが、もう戻ってくる様子もないので肩の力を抜いた。まったく、実家だというのに居心地が悪い。
それにしても、父の思惑が読めない。
やはり、御鍵家とのトラブルがあったのやもしれない。もしくは、関わりがあるのでは。なんにせよ、任されたからには役目をまっとうしなくてはならない。
それから数分後、茶のひとつも出ないまま敦貴は長丘本家を後にした。
***
その夜、いつものように敦貴の部屋へ向かった絹香は、彼の後ろでジッと座っていた。彼は着替えてから、文机に座ったまま黙りこくっている。
こうしていると、なんだか恋人を通り越して夫婦のようだ。母もこうして父の後ろで静かに控えていたものだ。
「絹香」
唐突に、敦貴が言った。
「私は君の父上について調べてみようと考えている」
「はい?」
どういう意味なのか皆目わからない。困っていると、敦貴はチラリと振り返った。
「君の手紙を読んだ。父上の死は謎がある。どうも腑に落ちない。君もそうなんじゃないかね」
その言葉に、絹香は思案げに宙を見る。
確かに、父の死は不思議なところがある。警察の調べや叔父の言葉に違和感があったものの、嘆き悲しんでいる暇がなかった。
どう答えたものか迷っていると、彼は左手で畳をトントンと叩いた。「来い」という合図だろう。絹香はおそるおそる近づき、横に座る。
「君のことを知るには、まず初めの事件から遡る必要がある。どうだ、不満か?」
「いえ……ありがたいお話ですが、なんとお答えしたらよいやら」
「それにしては浮かない顔だな」
絹香は気まずくうつむいた。
「どうして、わたしのことをお知りになりたいのですか」
ただの恋人役でしかないのに。もうすぐお別れをする間柄なのに。心の中にまで踏み込まれては困ってしまう。そんなわずかな恨みも込めて彼を見る。
敦貴は眉をひそめた。そして、言葉を選ぶような素振りをする。
「君が『お互いを知ることから始めた方がいい』と言った」
それは最初に手紙でこちらから提案したことだ。しかし、絹香は納得できない。
「もう十分では」
「不十分だ。私は君のことが知りたい」
「……敦貴様のお心が、わたしにはよくわかりません」
いったい、なにを考えているのだろう。彼の表情は相変わらず無である。いや、彼の心を知ろうとしていないのは自分じゃないか。わずかにそんなひらめきが浮かぶ。
もっと彼に寄り添ってもいいのかもしれない。これが役目なのだから。
「では、わたしも敦貴様のことが知りたいです。なにを考えて、わたしにこうして親しくしてくださっているのか、お聞かせ願えますか?」
すると、敦貴は目をしばたたかせた。一瞬だけ、彼の感情が浮かんだ。その瞬間を見逃さないよう、少し距離を詰める。
「敦貴様?」
彼が黙ったのを逆手にとり、絹香は悪知恵を働かせた。
「敦貴様、恋人には正直な気持ちを打ち明けるものです。わたしはもう言いました。熱烈な感情を語るまではなくとも、たったひと言だけでもよいのです。わたしを沙栄さんだと思って、今の敦貴様のお気持ちを教えてください」
彼が踏み込んでくるならこちらもとことん踏み込もう。絹香の意思は固かった。
だが、絹香の勢いに比例するかのように彼はふいっと顔をそむけた。
「敦貴様」
少し焦れる。すると、彼は静かにも苛立たしげに返した。
「別荘で、君は言ったな。『わたしは人形ですか』と」
「え? はい……」
「『人形』とは言い得て妙だと思った。もしかすると、私も同じなのかもしれない」
言葉の意味を考える。だが、自分はともかく彼がそうだとは考えにくい。
「敦貴様が人形だなんて、そんなこと……」
「いや、そうだ。私の表情が読み取れないのは、そういうことだ。つまり私は、感情が乏しい。求められたことにしか対応できない。つまらない人間なんだ」
それは、いつか手紙に綴られていたことでもあった。
地位も富もあり、なに不自由なく育ったものの愛情を知らずに大人になってしまったと自嘲気味に笑う彼の姿を思い出す。きゅっと胸が切なくなり、絹香は顔を歪めた。
「そんなことおっしゃらないでください」
慰めにもならない気休めの言葉が出てくる。それは彼を気遣ってか、自分を守るためか、今の絹香には判然としなかった。
敦貴は拗ねた子供のように頑固に背を向けた。
「君が言えと言ったんだ」
「そうですけれど……」
「はっきりしないな。そういうところは直した方がいいぞ」
そう指摘されてしまえばぐうの音も出ない。絹香は消沈し、唇を噛んだ。
「いいんだ。こんなことで怒ったりはしない。君はよく尽くしてくれている。私の妙なわがままに付き合ってくれているだけだからな」
敦貴はぶっきらぼうに言った。そこに含まれる彼の感情はやはり見えない。でも、なにもないわけではないのだろう。もしかすると、彼自身が心に潜めた感情の正体に気づいていないのかもしれない。
「敦貴様、もしかして本当に拗ねてらっしゃいます?」
無礼を承知で訊いてみれば、すぐさま彼は振り向いた。
「絹香、言葉がすぎるぞ。慎め」
「すみません。つい……」
だが、恋人役としては十分な働きだったはずだ。こうやって彼の奥底に眠る感情を紐解けば、沙栄にも心を開けるのではないだろうか。
あともうひと押しだと手応えを感じていると、敦貴はもうお開きだとばかりに立ち上がった。着物の中に腕を入れ、絹香を冷たく見下ろす。
「それで話が逸れたが、君の父上について調べるから、そのつもりで。あとは一ヶ月後の週末、君を本家に招待することになった」
「え?」
「異論は認めない」
「あ、敦貴様?」
「以上だ。下がってよろしい」
ピシャリと言い放たれてしまえば、もうどうすることもできない。絹香は渋々下がることにした。一礼して敦貴の部屋の障子戸を閉める。
そして、今しがた宣告されたことを頭の中で復唱する。
「本家……って、長丘家の本家? どうして……?」
絹香はこれから身に起こることが悪いものである予感がした。絶対によい話ではない。これはもしや、彼の心に踏み込んだ罰だろうか。
しばらく廊下で佇み、よろよろと部屋へ戻る。その途中、大きな満月の光が差し込んできた。とっぷり更けた十五夜は眩しいばかりで、思わず顔をそむけた。
***
瀬島行人は御鍵邸の居間のソファに腰かけ、主の前で小さく縮こまっていた。
向かいに座る寛治は洋酒をたしなみながら、ただただ威圧的に瀬島を見つめている。彼は何度かため息を漏らし、そのたびに瀬島はビクビクと肩を震わせる。こういうことは今までに一度もない。
「瀬島」
ようやく寛治の口が動く。
「はい、旦那様」
「最近どうだね。大学の方は」
「えっ……えーっと、まぁ、それなりに」
言ってすぐ曖昧な返答をしたと後悔し、姿勢を正す。
「学業の方は問題ありません。成績も伸びましたし、これもひとえに旦那様のご支援のおかげでございます」
機嫌をとるための言葉を並べてみるも、寛治は大して興味を持たなかった。
またも沈黙が続く。こういう空気に耐えられない。瀬島は得体の知れない恐怖に駆られ、極度に緊張してしまう。
「……あの、旦那様」
訊いてもいいだろうか。むしろ、訊いた方がよいのだろうか。
瀬島はこの場から逃げ出したい一心で言った。
「今日はいったい、どういう……?」
すると、寛治はゆっくりと視線を上げて瀬島を睨んだ。
「お前、絹香を好いていただろう?」
その問いに、瀬島は息を飲む。喉元が絞まるかと思った。そんなこちらの反応を見て、寛治は嘲るように笑った。
「やはりそうか……」
「なにを急にそんなことをおっしゃるんですか? 僕が、絹香さんを……なんて」
「とある筋から仕入れた話だ。まぁ、気にするな。そこでだ、折り入って頼みがある」
寛治は洋酒のグラスをテーブルに置いた。
なにを頼むというのだろう。まったく想像ができない。瀬島はゴクリとつばを飲んで続きを待つ。だが、うまく飲み込めなかった。
「僕になにをさせるつもりですか?」
「今度、絹香を呼び戻すのだ。あれの弟が十二月に九州から上京してくるというから、どうしても戻らねばならないわけだ」
「そう、なのですか……あの長丘様がお許しになられますかね」
弟の上京で、家出娘が戻ってくる。まったく、奇妙な話だ。
彼女が出ていってからもう随分になる。これまで頑なに戻ろうとしなかったのに、弟の上京を理由に戻ってくる。その事実を何度か反芻するうち、心に闇が広がった。
「そこでだ、瀬島」
寛治の言葉が続き、瀬島はハッと我に返る。
「絹香の一時帰宅中、なんとしてでもあいつを引き戻せ」
「は……」
「できるだろう? あんなのを好いているような物好きなのだし」
瀬島は悩んだ。絹香を引き戻した場合、彼女はこの叔父に蔑まれて、ボロボロな布切れみたいに痛めつけられるのだろう。しかし彼女は治癒の異能を持つ。傷くらい平気なはず──自分の手元に置けるのならかえって好都合だ。
「わかりました。では、ひとつ、僕の願いを聞いてもらえませんか」
「いいだろう。金か? それとも絹香との婚姻か? 確約はできないが、考えてやらんでもないぞ」
その言葉もどうだか。約束したところで守る気のない軽々しさがある。
瀬島はカラカラに乾いた口で果敢に挑んだ。
「絹香さんとの婚姻は魅力的です。ゆくゆくは僕を会社に取り立ててもらいたいと思っています」
「そうか。うむ、いいだろう」
寛治はあっさり了承した。会社の後を継ぐという意味合いも込めたつもりだが、きちんと伝わったのか心配なところだ。
しょせん、守る気のない約束なのだろう。それでもいい。未来よりも現在が大事だ。
瀬島は深々と一礼した。
「ありがとうございます。なんとしてでも、絹香さんを取り戻します」
こちらも確約のできない約束だ。
瀬島は拳を握り、こめかみから伝う汗を袴の上に滴らせた。
ここ最近は、あの恒子と会う機会が増えた。子供の頃に世話になった姉のような存在である恒子には、絹香についてあれこれ話していた。
「まぁ、なるほどなるほど……それはまた坊っちゃんにとって一大事ですわね」
「そうなんだ。でも、絶対にやってみせるよ」
「うまくいくといいですわねぇ」
橋にもたれてふたりで話し込む。灰色に濁った空が川面に映っていて陰鬱だ。
傍から見れば、どう見えるのだろう。姉と弟のように見えるのか、それとも年の離れた恋人のように見えるのだろうか。そんなことを考え、思わず笑いが込み上げる。
「あら、どうかしました?」
「いや、なんでもない。恒子ねえさんは優しいな。絹香さんはいつも鬱々としていて、それが儚げで美しいわけなんだけれど……」
「女は愛されれば愛されるほど美しくなるのですよ」
「でも、どれだけ愛を注いでも彼女は返してくれないんだ。これじゃあ、僕ばかり焦がれてしまって、なんだか歯がゆいよ」
あの頃はそれでも楽しかった。でも、彼女が家を出ていってからは変わった。今度はこちらが愛に飢えていて、勉強もままならない。寛治たちの機嫌をうかがうように、十分気を使っていかなくてはならない。精神的に負荷がかかって非常につらい。
そんなこちらの心情を汲み取るように、恒子は顔をしかめた。
「坊っちゃんのためになれるよう、恒子もがんばりますよ。なにかお手伝いさせてください」
「そうは言うけれど、恒子ねえさんは絹香さんの半分も知らないだろう? 会ったこともないし」
「いいえ、実は絹香さんらしき女性を知っています。探してみたんです。おそらく間違いないかと」
恒子は至ってサラリと白状した。思いも寄らない言葉に、瀬島はキョトンと目を丸くする。
「そうなんだ……そんなことまでしてくれているなんて」
絹香を知っている、ならばもっと彼女の話をしてもいいだろうか。例えば、彼女の持つ秘密の数々を。
胸の内に秘めているだけではもう限界なほど、瀬島の心は消耗していた。
「絹香さんは、とてもかわいらしい目をしているんだ。目鼻立ちが整っていて、綺麗な二重まぶたで、睫毛はしっとりと柔らかく長くて、華奢で、黒髪が綺麗で」
思わず話をすれば止まらなかった。
「それで、彼女はとても不遇なんだ。両親が亡くなって……父親は自殺して、弟とも引き離されて、挙げ句、彼女は化け物と呼ばれていて」
どんな傷もたちどころに治してしまう。そんな彼女は、とても神秘的で不気味だ。その不気味さが魅力でもある。
いつまでも子供らしくて無邪気で、健気で愛しい、かわいそうで幸薄な女性。それでもなお勤勉に日々を生きていく強かさもある。それが絹香を構成するすべてだ。
恒子はすべてにうなずいてくれた。まったく懐の深い女である。
「坊っちゃんは、絹香さんのことを深く愛してらっしゃるのですね」
「あぁ、そうさ。僕は彼女を愛してる。この想いは誰にも負けないよ」
絹香を愛している。深く深く真っ暗な海溝のごとく、彼女を心から愛している。
自分の気持ちを再確認し、瀬島は大いに満足した。
***
「本家に招く」という宣言どおり、きっかりひと月後の日曜日、絹香は強引に本家へと連れていかれた。
しかし、これまで当主である義三郎に挨拶もなしで長丘別邸に仮住まいさせていただいている身である。むしろ、挨拶が遅れた。この生活もすでに五ヶ月になろうとしているのに。
こうなってしまった以上、気を引き締めて、十分に粗相のないよう挨拶をしなくてはならない。これまでの非礼を詫びなくては。
門をくぐる頃には、さすがに腹もくくれた。
「まぁ、言わずともわかるだろうが、緊張して臨めばよい」
敦貴の助言は役に立たないものである。絹香はぎこちなく笑みを返した。
長丘本家の中はひんやりと寒い。十一月に入って秋も終盤に差しかかり、庭園の紅葉が美しかったが愛でる余裕などない。
絹香は黒い羽織に、薄橙と紅葉柄の着物でこの日を迎えた。
いつになく表情が厳しい敦貴も今日は着物姿で、紺色の袴が凛々しい。
すぐさま広間に通された。何畳あるのだろう。そんなことを考えていられないほどに足が震えて仕方ない。だが、すぐにその緊張感が途切れる。
「あ! 絹香ちゃん!」
この場にそぐわない突き抜けた明るさを持つ沙栄の声が響いた。広間の中に沙栄と使用人がいる。
「わー! お久しぶり! んもう、連絡してくださいって言ったのに。敦貴さん、ご機嫌麗しゅう。沙栄が参りましたよ」
うふふふ、と彼女は含むように笑う。
敦貴を見ると、彼は目を細めて頬を引きつらせていた。
「父は?」
わずかに不機嫌そうな声で問う。絹香はおろおろとふたりを交互に見た。
「もうすぐいらっしゃると思いますわ。今日はお義母様も揃っていらっしゃるのですよね。楽しみです」
沙栄は満面の笑みを向けた。絹香は信じられないとばかりに目を見開いた。敦貴の目はますますどんよりと曇っていくようで、なんだか苦労を垣間見た気がする。そんなこちらの心情を、沙栄はまったく読み取らない。
「あ、いらっしゃったわ」
はしゃぐ沙栄が絹香の腕を取った。しがみつくように寄り添われ、とにかくそのままにしておく。
そうこうしているうちに、敦貴の父と母が揃って広間に現れた。
三人とも、同時に一礼する。
「よう来たな」
敦貴の父、義三郎がそっけなく声をかけ、上座へ向かう。その後ろを、厳格そうで筋張った初老の女性が歩く。敦貴の母、イツだ。彼女はニコリともせず、着席するなり黙想した。
絹香は緊張で頭が上げられなかった。
「ごきげんよう、お義父様、お義母様。このたびはお招きいただき、光栄ですわ」
すかさず沙栄が挨拶する。勝手知ったる家だとばかりに振る舞うも、この場の緊張を和らげる清涼剤のようにも思えてくる。一方、敦貴は堅苦しかった。
「ご挨拶が遅れましたが、御鍵絹香嬢を連れて参りました」
これに、両親はどちらもなにも返さなかった。
「お母様、ご機嫌の方はいかがでしょうか」
「至って良好です。敦貴さんもお変わりないようでなによりですね」
「ありがとうございます」
「あぁもう、そんなふうにかしこまらないでいいじゃありませんか。ね、お義母様」
沙栄が口を挟む。この場にいる全員、誰も彼女に注意をしないのが、絹香は奇妙に思えた。この両親は敦貴よりも心が読めないものの、沙栄への態度はゆるやかそうである。
「それで、絹香さんといったかしら」
思案している間に、イツから声をかけられた。絹香はいっそう恐縮し、頭を下げ続けた。
「はい。御鍵絹香と申します。このたびはお招きいただき、恐悦至極に存じ奉ります。また、これまで幾度のご無礼をお許しくださいませ」
思わず早口になってしまい、ひやりと肝が冷える。この時間が永遠に続くような気がし、途方に暮れた。そして同時に悟る。歓迎されていないということに。
「ご、ご挨拶が遅れ、誠に申し訳ありませんでした」
「まぁ、そんなふうに謝らなくってもいいのよ、絹香ちゃん」
沙栄のうろたえた声が聞こえる。
「お義母様も、こう見えて怒っているわけじゃないのだから。ですよね、お義母様」
「えぇ。絹香さん、頭を上げなさい」
沙栄への返答はとてつもなく早い。
それもそのはず。絹香は敦貴が勝手に招き入れた、いわば長丘家では部外者に当たる。沙栄は敦貴の許嫁。差は歴然としている。
「絹香」
敦貴に隣で短くささやかれ、おそるおそる顔を上げる。
目の前に座る敦貴の両親は、絹香をジッと品定めしていた。とても耐えられるものではない。
義三郎と目が合う。敦貴が老いたらこんなふうになるのだろうと思うほど、その顔は瓜ふたつだった。だが、敦貴よりも迫力がある。敦貴の目鼻立ちはイツにも似ているような気もした。
そんなふたりを前にしても沙栄は平気な顔で落ち着き払っているから、ますますこちらの分が悪いように思える。
すると、義三郎がボソボソと言った。
「まぁ、愛人にするにはふさわしいツラだな。大いに結構」
絹香は息を飲んだ。恐ろしさで全身が固くなり、着物の中で冷や汗が垂れた。呼吸するのも許されないような空気を感じ、なんとなく叔父の家での記憶が脳裏をかすめる。
「あなた、沙栄さんの前でそのようなことを」
すぐさまイツがたしなめるが、義三郎はうるさそうに手で追い払った。
「冗談じゃないか。なぁ、沙栄」
「えぇ。心得ております」
沙栄は戸惑いつつも上品に笑い飛ばした。
だが、敦貴も絹香も笑えなかった。同時に、絹香もこの両親をようやく俯瞰で見ることができた。
──敦貴様が心を閉じられるはずだわ。
叔父や叔母よりも品があるのだが、情はいっさい感じられない。しかし、このふたりと常に顔を突き合わせて生活していなかっただけまだよかったのだろうか。
この長丘家の親子関係がまったくわからない。自分が知る家族像とは遠くかけ離れており、絹香はそれきりなにも言葉を発さずにいた。
それからのことはよく覚えていない。いないものとして息をひそめるしかなく、沙栄との会話もままならなかった。
「絹香ちゃん、ずっと緊張してしまって、かわいそうに。無理もないわ。お義父様があんなことをおっしゃるから」
帰る間際、沙栄がいたわるように言った。
「あぁ、顔色が悪いわよ。敦貴さん、絹香ちゃんのことお願いしますね」
玄関までついてくる沙栄が敦貴に頼む。
「無論だ」
敦貴は憤っていた。父の失言が許せなかったのか、珍しく感情的である。
沙栄と使用人たちからの見送りにも気を回せないまま、絹香は車に乗り込んだ。ようやく呼吸ができ、張り詰めたものを解き放つ。
「米田、出せ」
敦貴の不機嫌が車中に充満し、しばらく気まずい時間が流れる。ようやく長丘本家が見えなくなった頃合いで、敦貴の口が開いた。
「絹香、すまなかった」
「いえ……すべて覚悟の上でした」
「ああなることは確かに想定内だったが、あんなにも直接的に……」
確かに、本家へ行くまでに再三言われていたものが、いざ目の前にすれば体は動かないものだ。蛇に睨まれたカエルの気持ちがよくわかる。
そして、自分の立場を今一度、確認できたことで心が潔くなる。絹香は顔を上げて敦貴を見た。
「わたしは大丈夫です。なんだか、いろいろと吹っ切れました」
「なにをどうしたらそんな答えにたどり着くんだ」
心底意味がわからないといった様子で敦貴が呆れる。そんな彼に対し、絹香は完璧な笑顔を向けてみせる。それは、叔父から強要された世間向けの笑顔のような、心を隠したものだった。
「どうぞ、お気になさらず」
それまで曖昧だった境界に、明確な直線が引かれた。
長丘別邸へ戻ると、玄関前に恒子が待っていた。車が見えた瞬間から、彼女は深くお辞儀して待っている。
先に敦貴が降り、その次に絹香が降りる。
「お帰りなさいませ」
恒子が言葉をかける。そして、彼女は主人ではなく、真っ先に絹香の方へ顔を向けた。
「絹香様、お手紙が届いております」
恒子が差し出す封書を、絹香はすぐに受け取った。
「ありがとうございます」
お礼を言うも、恒子はとくに反応を見せなかった。一方で、敦貴は不審そうに絹香への手紙を見やる。
長丘邸に世話になると報告してから、一度も手紙をよこさなかった弟である。ようやく返事が届いたことに喜ぶべきだが、今の絹香にはあまり余裕がない。
「誰からだ?」
「弟の一視です」
その答えに、敦貴は「そうか」となにやら安堵した。
邸に入り、絹香は着替えがてらさっそく手紙を開封した。
その内容に、すぐさま目を見張る。そして、すべてを読み終えて部屋を飛び出した。
「敦貴様!」
思わず居間に飛び込むと、敦貴が驚いたようにこちらを見た。
「どうした」
「あ、あの……こんな時になんですが、一視が叔父の家に滞在するようでして……」
絹香は手紙を持ったまましどろもどろに告げた。
木枯らしがうなじを冷やす頃。絹香は冬の始めに敦貴から贈られた桜鼠の着物に袖を通した。その上から、椿があしらわれた長羽織をまとう。家を出た時に着ていた着物もとっくに修繕できていたが、叔父や叔母、瀬島のことを思い出すのでタンスの奥に仕舞っていた。
早朝だったこともあり、敦貴からの見送りはなく、米田の運転で半年ぶりに横濱の家へ戻る。
長丘邸から遠ざかるにつれ、緊張で心臓が窮屈になってきた。見慣れた景色に変わっていくも、なんだか色を失っていくように見える。
「絹香様、到着いたしました」
丘を上がって林を抜け、あぜ道の入り口で停車する。米田は終始、静かだった。
「ありがとうございます」
絹香は覚悟を決めて地上へ降りる。その際、米田が背広の内ポケットからなにかを差し出しながら柔らかく言った。
「敦貴様からのお手紙です」
いつもの白い和紙の封筒が目の前に向けられる。それを見るだけで、急激に心が高揚した。
「あ、ありがとうございます!」
絹香はすぐさま受け取った。
「行ってらっしゃいませ」
それはなんだか、帰る場所があるような安心感を思わせる言葉だった。
「行ってまいります」
ひと息ずれて言葉を返した。
一視の到着は明日だ。その前に絹香がやるべきは、この家で起きていたすべての冷遇がなかったように振る舞うこと。そもそも、絹香は弟への手紙には敦貴へ送るような当たり障りのないことを並べた近況報告をしていた。ゆえに、一視はこの家で起きていた絹香への不遇をなにひとつ知らないことになっている。
それについては、叔父も叔母も同意見だった。この事実は隠すべき問題。一視に知られれば、今利鉄鋼との取引にも影響が出る上、外部の会社にも恥をさらすことになる。体裁第一の叔父にとって、一視の上京は忌々しいことに違いなかった。
「ただいま戻りました」
言葉をかけても、誰も出迎えることはない。おそらく居間にいるはずだ。
絹香は息を整えて御鍵家の中へ入った。着物の内側には敦貴からの手紙を差し込んでいる。これがなんだかお守りのような効果をもたらした。
居間にいたのは叔父と叔母、そして瀬島だった。こうして三人が並ぶことは滅多にないので、なんだか奇妙な取り合わせに思える。
先に口を開いたのは、叔父だった。
「帰ったか」
なにも答えずにいるのが、絹香のせめてもの抵抗だった。その態度が気に食わないのか、叔父は大きく鼻を鳴らした。
「まぁいい。お前があの長丘家に取り入って会社が儲かったのは癪だが、お前のような化け物でも金になるということがよくわかったわい」
そして「ガハハ」と高笑いする。叔母は不満そうな顔をこちらにジッと向けているだけで、とくに言葉は発しない。なにか言いたそうに口をモゴモゴさせているが、夫の前でヒステリーを起こすわけにはいかないという心構えはまだあるらしい。
一方、瀬島は朗らかに笑っていた。絹香にとってはこちらの方が不気味で仕方がなかった。
「お帰りなさい、絹香さん。待ってました」
彼は叔父たちの前で堂々と言った。その言い方は恋人を待ちわびていたような響きがあった。
なぜだか家族の一員のように居座っている。彼も叔父や叔母のことを毛嫌いしていたはずだ。絹香は不審を抱きながら口を開いた。
「叔父様、部屋に戻ってもよろしいでしょうか。一視が来た時にわたしの生活感がないと不自然になりますし、部屋の掃除がしたいのです」
「あぁ、そうだな。お前の顔など見たくないし、閉じこもっておくがいいさ」
「失礼いたします」
絹香は居間から逃げ出した。階段を駆け上がって自分の部屋に戻る。その後ろからふわりと瀬島の手が伸びてきた。
「絹香さん」
ドアノブに手をかけた絹香の手をつかむ彼の手が冷たくて身震いする。ドアを一緒に開けるような形になり、強引に部屋へ押し入ってくる。
「瀬島さん? あなた、どういうつもり?」
「やだな。なんだよ、その言い方」
密室でふたりきり。暗い室内で相対する彼の顔色の悪さがあまりにもひどいことに気がついた。やつれているにもかかわらず笑顔を崩さないので、その不均衡さが不気味だと感じる。
「僕も部屋の掃除を手伝おうと思ったんだ。いけない?」
彼の手が絹香の髪を撫でる。あんなことがあったのに、彼はまだ絹香のことを諦めていないようだ。ここははっきりと告げねばなるまい。絹香は目に力を込めてまっすぐに彼を睨んだ。
「だってわたし、あなたのことは――」
「嫌いになった?」
瀬島の目が据わる。その表情の冷たさに、絹香は声を詰まらせた。言葉を選び、あえぐようにひと言放つ。
「愛してないわ」
思わず声が震えてしまい、瀬島は鼻で笑った。
「そうか。やっぱりあなたは長丘が好きなんだ」
「長丘様とはそういう間ではありません。彼は、わたしがこの家で不遇な扱いを受けていたから保護してくださっただけよ」
すぐさま言い返すと、瀬島は絹香に一歩近づいた。絹香も一歩後ずさる。
「その割には随分と親しげじゃないか。君、あの男と恋愛ごっこでもやってるんだろう?」
ベッドまで追い詰められたと同時に、瀬島が言い放った。否定も肯定もできず、ただただ沈黙を選んでしまうと、瀬島は勝ち誇って笑う。
「そうなんだ。やっぱりそうなんだ」
「違うわ」
「いいや、君は前からそうやって子供っぽく〝ごっこ遊び〟をしたがるからね、わかるんだよ」
瀬島の圧に耐えきれず、絹香はベッドに座った。すると、彼もまた絹香を押し倒そうと近づいてくる。
至近距離で逃げ場がない。彼は両手をついて絹香の上に覆いかぶさってくる。
優しかった頃の彼はもういないのだと悟った。今の瀬島はすべてをいなすような貪欲さに満ちている。
いったい、どうしてこんなことになったんだろう。彼を変えてしまったのは誰だろう。叔父か、叔母か、それとも自分か──。
絹香は瀬島との出会いを思い返した。それはまるで走馬灯のように一気に脳内に蘇る。彼はいつでも優しく、絹香を励ますような言葉をかけていた。しかし、そのどれもが上っ面だったはずだ。
「あなたは、どうしてわたしを愛しているの?」
思わず問う。すると瀬島は絹香を見下ろし、隣に腰掛けて冷めた表情を浮かべた。
「化け物だって言ってたじゃない。そんなわたしをどうして?」
「そりゃ、常人とは違うもの。君は異端で、お金持ちの令嬢様。それなのにかわいそうで儚げで、愛に飢えているから、僕が守ってやらなきゃ。君はなにもできないんだ。そうだろう?」
絹香は目を見張った。そして、彼の手を振り払う。
「わたしは、あなたに守られたことはないわ。あなたは守ってくれなかった。いつも口先だけで、甘くて優しい言葉しかかけてくれなかった。そんなの、本当の愛じゃない」
どんなにひどい目に遭おうと、もう知ったことじゃない。胸にあふれた激情を一度にぶつけたら、瀬島の目つきが変わった。
打たれる。瞬時に思い、絹香は目をつむった。
しかし、衝撃はいっさいなかった。彼はどんよりと曇った目で絹香をジッと見ていた。それは責めるように憎悪をにじませた目だった。空虚とも言える瞳を目の当たりにし、絹香は硬直していた体を解いた。
おそるおそる起き上がると、彼はベッドに腰掛けたまま呆然とした。
「……ひどいよ」
やがて、彼はぽつんと言った。言葉の白々しさに寒気がするも、彼の異様なまでの顔色の悪さから考えを改める。
──どうして、あなたが傷ついているの……?
「瀬島さん……」
声をかけると、彼は涙を浮かべていた。大粒の雫が目からこぼれ落ちていく。
「僕は、君を愛してるんだ。それなのに……君は、僕のことをわかってくれない。なんでだよ。どうして、わかってくれないんだよ」
情けなく涙を流す男を前にすると、なんだか気持ちが冷静になっていく。『愛してる』と言葉だけをかけられても心がひとつも動かない。この薄情さに辟易したが、なにより彼をここまで変えたのが自分であるのだと確信してしまった。
瀬島はさめざめと泣くばかりだ。彼もまたどうすることもできないのだろう。その愛情が歪んでいようとも、一途に絹香を想っていたことには変わりない。
彼の想いを受け止めることはできないが、その心に巣食う闇を少しでも打ち払えたら……どうやったらそれができるだろう。
絹香は咄嗟に、瀬島の心臓に手を当てた。
「……あなたはわたしなんかじゃない、別の素敵な人と幸せになるべきよ。優しいあなたに戻って」
手のひらに力を込めると、熱が一気に駆け巡った。
ゐぬへ施した癒やしの力が、もしかすると彼の心にも届くかもしれない。そんな願いを込めて精一杯の癒やしを伝える。凍りついて固まった心を溶かすようなイメージをして。
すると、震えていた瀬島の肩が徐々に落ち着きを取り戻した。
「絹香さん……」
彼はゆっくりとまどろみに落ちていった。そして、絹香の胸の中へ倒れ込む。静かに寝入っていく彼の頬は少しだけ血色を取り戻していた。
「瀬島さん、ごめんなさい」
小さく耳元で呼びかけるも、彼はしばらく目を覚まさなかった。
***
その夜、敦貴は自室で静かに考え事をしていた。
今朝渡した手紙を、彼女は読んでくれただろうか。あの家でまた嫌な思いをしていないだろうか。彼女はもう帰ってこないかもしれない。だが、もしまたひどい仕打ちを受けていたら助けなければ。
そこまで考えて、敦貴はため息を嘲笑に切り替えた。
「……まったく、柄でもない」
いつもの時間に絹香が部屋にいないだけで、どうにも上の空だ。そんな自分が腑抜けのようにも思えて苛立つ。無意識に彼女の身を案じてしまうなど、それこそ本当に恋慕しているようではないか。
「敦貴様」
障子戸の向こうから女の声が聞こえてくる。
「入れ」
声をかけると、侍女が入ってきた。寡黙で気難しい顔つきの使用人──ゐぬである。
「見つかったか?」
ただそれだけを問うと、彼女は静かにうなずいた。
米田は今、絹香の様子を見守ってくれている。なにか動きがあればすぐに連絡するよう言いつけていた。
そのため、この家を探る人物が他に必要だった。侍女長の初美も候補にはあったが、寡黙なゐぬが適任だと決めたのが八月のことである。絹香を鎌倉に残して先に帰宅した際、秘密裏に指示を出していた。
ゐぬは予想どおりよい働きをしてくれた。この邸で不穏な動きをする不届き者を捕まえたのは彼女の手柄でもある。
「それで、裏は取れたか?」
「はい。休日になると横濱へ顔を出していた模様です。学生と見られる青年と何度か会っていました。その瞬間を捉えました」
「なにを話していた?」
「絹香様のことです」
ゐぬはためらいがちに答えた。
「その青年は、絹香様を好いているようでして……そこで聞いたのは、絹香様が御鍵家で受けていた仕打ちの数々でございました。また、絹香様がそのような仕打ちを受けるに至った理由も」
敦貴は「ふむ」と唸った。
青年というのは瀬島行人だろう。そして、絹香のことを深く知る人物でもある。六月の商談パーティーの時に見たが、彼は敦貴に敵対心むき出しで睨んでいた。
「その、絹香様はどうやら〝異端〟であるそうです」
ゐぬは伏し目のまま、声を絞り出した。
『異端』──それが絹香の秘密。
異端と呼ばれる存在はいるのだと聞く。だが、文武両道を極めた敦貴にとってそれは驚異とも感じず、単純に研究材料としてはうってつけだと思っていた。そんな存在が身近にいるという事実に、だんだんと動揺していく。
──絹香が、異端だと……。
「あの、敦貴様」
ゐぬの強張った声が敦貴の思考をかいくぐる。
「実は、私も絹香様が異端であることはなんとなく気づいておりました」
「なんだと」
敦貴は振り向いた。自分でも驚くほど声が上ずった。そんな主の驚愕に、ゐぬも面食らったようで緊張気味に姿勢を伸ばす。
「しかし、そう決めつけるのは失礼ですので、発言を控えておりました。お許しくださいませ」
彼女は自身に起きた不思議な体験を話して聞かせた。
腰を痛めた際、絹香に助けてもらったことを申告しなかったのは、彼女のおかげで完治したからだった。
「私は絹香様に救われました。どんな傷もたちどころに癒やしてしまう、あのお力は、確かに奇妙なものです。正直に申しますと、人によっては不気味に捉えられてもおかしくありません。しかし、私はあの方のお力は仙女様のような、清らかで美しいものだと思います。そんな方が冷遇されているのは我慢なりません」
ゐぬは力強く言い放った。そして、熱を込めて続ける。
「恒子は厄介です。絹香様のことがお嫌いなのでしょう。恒子はおそらく敦貴様の世話係という立場を誇っていました。しかし、その立場を奪われたことが我慢ならないのです。私は敦貴様と絹香様のご関係については深く知りたくありません。しかし、恒子はそうではありません」
「もういい。わかった。後のことは私がなんとかする」
敦貴はイライラと話を切った。ゐぬはすがるように主を見たが、すぐに表情を冷静に戻し、一礼した。
「出すぎた真似をいたしました」
「いや、いい。下がってよろしい」
「かしこまりました」
ゐぬはすぐに引き下がった。障子戸が閉じられ、彼女が去る音を聞く。無音となった空間で、敦貴はただ頭の中で状況を整理した。
絹香はやはり特異ななにかを持っていた。それは常人とは言いがたい不気味で奇妙な力だった。非科学的でありえない。
しかし、彼女が足首をひねった後、すぐに治癒していたことや、夏に見せた挙動不審な言動──『正直に言いなさい』と脅したら怯えて黙り込んでしまったこと、すべてが当てはまる。
絹香は凡人ではない。常軌を逸した異端であり、しかしそれはとても優しく、温かみのあるものである。そもそも彼女を理解できるはずがなかったのだ。
数年前、とある霊能者と博士が世間を賑やかした。霊能力と呼ばれる非科学的な能力を持つ者がいたのだ。結局、霊能者はインチキであると世間が認めたものだから有耶無耶になっている。それゆえに、絹香は蔑まれていたのだろうか。
また、このことと絹香の父親の死はなにか関係があるのだろうか。もし彼女が当時、その能力を開花させていたとしたら母の病気も治すことができたのではないか。
しかし、彼女はできなかった。能力が弱かったのか、それとも彼女自身が気づいていなかったのか。どちらも当てはまりそうだ。
そうなると、彼女はこの能力さえあれば両親の死を回避できたかもしれないという自責の念に囚われているのではないか。
絹香の心がようやく明瞭に見えてきた気がする。
敦貴は顔を上げた。顎に手を当てて考え事をしていたせいで、どうやら体が固まってしまったらしい。時計を見やると、すでに日を跨いでいた。
とにかく、不穏な動きをする恒子のしっぽをつかんで、どうにか対処しなくては。悪意は早めに摘んでおくに限る。絹香への確認はその後だ。
***
御鍵絹香様
先日は父が失礼なことを言い、本当に申し訳なかった。
あのような物言いは昔からそうです。私や母も、そんな父の残酷な言葉に振り回されて散々な目に遭いました。しかし、あれは私には君を侮辱するつもりはなかったのだと感じます。言い方はともかく、彼なりに君を気遣っていました。
そんな父から、御鍵明寛氏の件を任されております。やはり父上の自死は不明な点が多い。
その真相を解明すべく、私は方々から情報を仕入れています。君はおそらく嫌な顔をするのでしょうが、これは君のためでもある。君の支えになれたらと思います。
さて、叔父上殿は君を再びぞんざいに扱い、大事にしないだろうと推察します。君の健やかな生活を脅かすような真似はさせないと誓った身でありますので、私からも十分配慮するよう伝えてあります。
君は弟御との邂逅をただただ楽しめばよいのです。姉弟水入らずの再会ですので、私からの見送りは控えさせていただきますことをご容赦ください。
では、毎度ながら短文で失礼いたします。
貴姉のご健闘をお祈りしております。
長丘敦貴
急いで書いたのであろう走り書きのような手紙だった。絹香は部屋でひとり、敦貴からの手紙を読みながら待っている。いつもと同じく短いのに、この生真面目な文章を見るだけで心が落ち着くから不思議だ。
ほどなくして御鍵邸では使用人たちがいっせいに庭園に並んで一視の到着を待っていた。
表が賑やかになり、ふと窓の外を見た。どうやら一視と今利家の当主が邸に到着したらしい。
絹香は急いで手紙を封筒へ入れ、懐に仕舞った。そして、叔父たちの歓迎の声を耳で聞きながら階段を駆け下りる。
「一視!」
絹香は思わず声をあげた。
八年ぶりに見る弟はすっかり背が伸びて、大人びた顔つきをしていた。絹香に似たまっすぐな黒髪と、利発そうにすっきりとした目元がこちらを見る。
「姉さん」
声も低くなっていて、落ち着いた雰囲気だった。彼の体に合った焦げ茶色の背広がとても似合っている。
「お久しぶりです。姉さん、すっかりお綺麗になられましたね」
「あなたはとても凛々しくなったわね。立派だわ。すごく、会いたかった……」
絹香が一視の手を握ると、彼はくすぐったそうに笑う。あの幼い一視の面影が残っている。それだけでも嬉しく、ただただ感激してしまう。
そんな姉弟の再会に水を差すのは叔父の咳払いだった。
「絹香、今利様に失礼だ。わきまえなさい」
「失礼いたしました」
すぐさま謝罪し、絹香は一歩後ろへ引く。そして、一視の背後に立つ老紳士、今利に深くお辞儀する。
「ようこそ、おいでくださいました」
美しく丁寧な挨拶を心がけると、今利は嬉しそうに笑った。
「いやぁ、すっかり見違えましたな。絹香さん、ますます七重さんに似てきましたね」
今利はおおらかで、とても愛嬌のある人だった。母の七重の遠縁に当たるというが、葬儀の際にしか会ったことがなかった。
絹香は鍛えてきた微笑みを向けた。
「さぁ、中へどうぞ。長旅でお疲れでしょうし、ゆっくりしていってくださいな」
叔母が中へ案内する。こちらもニコニコと完璧な作り笑いである。これにいっさいの疑心を抱くはずもなく、今利と一視は御鍵邸へ足を踏み入れた。
瀬島は居間で使用人たちと一緒に客人へのもてなしの準備をしていた。それからは、叔父と今利を相手に学業の話について語り合う。
彼は昨日よりも顔色が一段とよかった。しかし、絹香に対しては冷たかった。一視の前で妙な動きをすることはなく、おとなしいものだ。
絹香も叔母と同席していたが、会話に入ることは許されない。
ただ一視がいるだけで、この家の空気が軽く感じられる。いや、叔父たちはそうはいかないのだろうが、絹香にとっては居心地のいい空間だった。ここで粗相さえしなければ、穏便に時間が過ぎ去ってくれる。
もし一視もこの家に引き取られていたら、叔父たちとも打ち解けていたのだろうか。そんなありもしない空想を思い浮かべてしまう。
一視は今利や叔父たちの会話に混ざるでもなく、ただそこに黙って座っていた。チラチラと姉を見るところ、本当は絹香と話がしたいのだろう。体が成長し、たくましくなったとはいえ、姉から見ればまだ幼く愛しい弟であった。
絹香と叔母は距離を空けて静かに茶を飲んでいた。いっさい、目を合わせずにいる。
しかし、そんな穏やかな空間も今利の発言で一気に冷えた。
「そういえば、絹香さんは長丘家で花嫁修業をされているようですな」
これに、叔父が絹香を睨む。その一瞬の攻撃が、絹香の心臓を握りつぶした。
事情は今利家にも一視にも事前に伝えてあった。ゆえに、この話題は避けられないものだが、叔父は触れられたくなかったらしくぎこちない笑みを浮かべていた。
「えぇ、まぁ。なにしろわがまま放題に育ててしまったからか、縁談の話もなく……ですので、取引を再開していただいた長丘様の元で花嫁修業をさせることに」
「存じておりますよ。しかし、絹香さんは気立てもよいし、どこに出しても恥ずかしくないと思います。あの時、明寛氏の遺言で一視のみ預かるよう仰せつかったわけですが……私は、絹香さんも引き取るつもりでいたんですよ」
そう言って今利が絹香に笑いかけた。蓄えた白い髭の下では慈愛に満ちた笑顔がある。心が震え、絹香は思わず茶器を落としそうになった。
「そうだったんですか……」
それだけ言うのがやっとだった。
この人に引き取られていたなら、どんなに幸せだったろうか。こんなに落ちぶれた今があまりにも無様で、誰の目にもさらしたくないという衝動に駆られる。次第に視線が下へ向き、絹香は笑うこともできなかった。
「姉さん?」
「あ、ごめんなさい」
一視の声でハッと現実に引き戻される。
叔父と叔母の責めるような視線が痛い。今は、幸せにあふれた令嬢になりきらねばならない。その使命を思い出し、絹香は精一杯の偽物の微笑みを向けた。しかし、気の利いた言葉はなにひとつ出てこなかった。
気まずくていたたまれなかった絹香はひっそりと席を立ち、洗面台に引っ込んだ。放心状態のまま顔を洗う。
ぼんやりと嵐の予感がする。一視が帰った後、叔父と叔母に罵られるのだろうと想像すれば、ますます気が滅入った。
「はぁ……」
唐突に脳裏をよぎるのは敦貴の顔。彼の元へ帰りたい。そんな思いがあふれ、慌ててかき消す。
──どうして敦貴様のことを考えているの……。
どこへ行っても居場所がないと感じ、絹香はなかなか洗面所から出られなかった。
あの空間に戻ると自分の劣等感がどんどん浮き彫りになっていくような気がし、うまく笑えなくなる。そうなると、叔父たちに迷惑がかかる。今利に不審を抱かせ、一視にもすべて知られてしまう。それが一番恐ろしい。とくに一視に知られるのが耐えられなかった。
「──姉さん」
背後から声がする。鏡を見ると、一視がドアを開けて立っていた。
「ノックはしたんだけれど」
「あ、ごめんなさい……気がつかなかったわ」
急いで振り返って笑うも、やはりうまく笑えている気がしない。横目で鏡を見ると、ひどく狼狽した自分の姿が映っていた。こんなにも繕うのが下手だったろうか。
一視はかろうじて絹香よりも背が低かった。しかし、子供の頃とは違って目線はぐんと近い。彼は心配そうに顔をうかがってきた。
「具合でも悪いんですか?」
「いえ、違うの。嬉しくて、涙が出そうになっただけ」
「本当ですか? とてもそんなふうには見えませんよ」
一視は気遣うようでも、責めるようでもある言い方をした。自分との邂逅に不満があるのかと、そんな表情をしている。
その厳しい圧のある口調に、やはり大人びたことを認識させられる。どことなく父の面影もあり、八年という年月で磨かれた一視の風格を見せつけられ、絹香は言葉を詰まらせた。
「姉さん、今日はどうせゆっくり話すことができないだろうから、ここで少し話しませんか」
「えぇ……」
断ることができず、絹香はうつむき加減に笑った。
「またそんな笑い方をするんですね。姉さんは変わってしまいました」
「そうかしら。わたしはなにも変わってないはずよ」
一視の呆れたような口調に、絹香は目を合わせず反論した。
「いいえ、昔はもっと強くて凛々しくて、優しかった。今は、なんだか誰かの目に怯えていて、しおらしく見えます。手紙にはそんな素振りなどいっさい見せなかったのに」
現にそのとおりで、的を射ている。しかし、指摘されなければ気づこうともしなかった。
絹香は自分の不甲斐なさを呪った。乾いた笑いが喉の奥から飛び出していく。
「わたしは……あなたに心配をかけたくなかったのよ。わたしが泣くわけにはいかないから」
「それはわかっています。あなたは昔からそうだ。でも、僕はもうあの頃のように弱くはありません。守ってもらわなくて結構です。自分の身くらい、自分で守れます」
身震いしそうなくらい冷ややかな拒絶を絹香は感じた。一視は不信感たっぷりに眉をひそめる。
「情けない……なんですか、その顔は。あの頃の姉さんはどこに行ったんです? 僕の憧れていた姉さんを返してください」
「わ、わたしは弱いの。あなたが思っているほど強くない。誰かにすがってないと生きていけないのよ」
追及に耐えきれず卑屈な言葉を口走る。それが決定打となり、一視の目が非難がましく細められた。
「そんな言葉は聞きたくありませんでした。幻滅ですよ」
厳しい言葉は刃のごとく、絹香の心臓を切り裂く。一視はため息をついた。
「そもそも、長丘様の元に身を寄せているというお話も、僕は納得していません。嫁入り前の娘が男性の家で厄介になるなど、意味がわかりません。姉さんは御鍵家の格を、これ以上さらに落とすつもりですか?」
一視の声は厳しい。きっと姉への羨望が強く、それゆえに失望感も強かったのだろう。こんなことを言うために上京してきたわけではないのだろうが、幻滅のあまり責めるしかないのだ。
「ごめんなさい」
絹香は小さく呟いた。
「謝罪すれば許されるとでも?」
「でも、他に言葉が見つからないわ」
「はぁ……しっかりしてください。姉さんはいずれ御鍵家を背負うんですよ。叔父様の跡目を継ぐのは姉さんだ」
「まさか。女の身の上で、そんなことあるわけないわ。あなたが継ぐのよ」
言葉の意味がわからず、絹香は戸惑いの声をあげた。そんな姉に構わず、一視は強情に言い放つ。
「いいえ、今の御鍵家に僕の居場所はありません。それに、お父様は僕じゃなく姉さんを叔父様にお預けになられた。僕は最初から期待されていなかったんです」
「そんなはずないわ。いずれはあなたが継ぐために、だからわたしは叔父様の元で、あなたの居場所を守ろうと……」
しかし、自分の言葉に違和感を持った。どんどん消えていく自信が声になってあらわとなり、一視はさらに不機嫌な目で絹香を睨みつけた。
「では、仮にそうだとして。叔父様を支えずに勝手に家を空けたのは誰ですか」
絹香は息を止めた。反論などできるはずがなく、またこれまで一視が持っていた劣等感や怒りを直に受け、ぐっと唇を噛む。
それでも絹香は涙をこぼすまいと務めた。弟の前で泣いてはいけない。でも、もう心が壊れてしまいそうだ。
「……一視、あまり席を外しているといけないから、早く戻りなさい」
「わかりました。姉さんも早く戻ってください」
「えぇ」
一視は諦めたようにその場を去った。ドアの前で一瞬だけ立ち止まり、さっさと出ていく。その後ろを追いかける気はなく、絹香は洗面台にもたれた。ゆるりと肩を落とすと張っていた気力が一気に消え失せた。我慢していた涙があふれてくる。
「……どうしてよ」
白い器に透明の涙が流れ、視界がどんどん曇っていく。まるで水の中に放り込まれたかのように、景色が潤んでいく。
「どうしてうまくいかないの……どうしてわたしは……」
どんな理不尽にも耐え、周囲からの要望に応えてきた。あれこれとたらい回しにされても、懸命に生きようと努力した。それなのに、たった少しの反抗がここまで周囲の信用を裏切ることになるとは思いもしなかった。
理不尽だ。ただただ理不尽だ。これまでの人生があぶくとなって潰える。
「もう疲れたわ……」
泣くことすら体力を奪う。かがんでいると、胸に仕舞っていた敦貴からの手紙が床へ落ちていった。
そういえば、彼だけはすべてを受け止めてくれるような優しさがあった。だが、その優しさに甘えているだけなのかもしれない。これは愛ではない。瀬島が絹香にすがっていたような、そんな偽物の愛情を思わせる。
弟への情ももしかすると、自分自身を正当化するためだけの寄す処だったのかもしれない。他人を思いやっているつもりが、いつの間にか自身を支えるための道具にすり替えている。それはなんだか寄生虫のようだ。
敦貴のことを考えてしまうのは、つらいことから逃げようとしているだけなのかもしれない。そんな自分が情けなくなり、彼に会うのも恥ずかしく、どうしようもない喪失感に襲われた。
──わたしは、どうしたらいいの……。
行き場がない。だったらいっそ、死んでしまえば楽になれるだろうか。
絹香は洗面台にカミソリを見つけた。
楽になりたい。父もそれを願って引き金を引いたのだろうか。すべてを捨てて楽になれば、永遠の幸せを手に入れられると。
震える手でカミソリをつかむ。どこを切れば死ねるのかわからないまま、当てずっぽうに左の首筋へ刃を当てる。
呼吸が乱れていく。恐怖と緊張が全身を巡る。これを一気に滑らせば、あとは簡単に意識を手放せる──。
「絹香さん!」
突然、ドアから瀬島が飛び出した。ぐいっと手をつかみ上げられ、カミソリを床に落とす。
「なにを考えてるんだ!」
「離して!」
声をあげると、彼は絹香の口を塞いだ。こんな騒ぎが居間に漏れたら大ごとだ。
絹香は抵抗できず、涙を流したままでいた。瀬島は憐れむように見つめている。それがますます惨めになり、絹香は静かに床へ崩れ落ちた。
「しっかりしてください、絹香さん。一視さんをひとりにするつもりですか? 彼はこの家のことをなんにも知らないから、ああ言っただけだろう」
まさか瀬島から説得されるとは思わなかった絹香は、目を見開いて息を飲んだ。ドアの向こうで聞いていたのか。それとも叔父の差し金で見張っていたのか。
おとなしくなったとわかると、瀬島は絹香の口を解放した。新鮮な空気が肺の中へ流れ込み、絹香は声を押し殺して泣いた。
「絹香さん」
彼は遠慮がちに言った。口を開きっぱなしで後が続かない彼に、絹香はだんだんと苛立ちを覚えた。
「いい気味でしょう?」
「そんな、まさか」
慌てて繕う瀬島だが、絹香は不審感たっぷりに口角を上げて彼を一瞥した。
「嘘よ。信じられないわ」
だが、瀬島は挑発に乗ることなくうなだれた。それがますます腹立たしい。どうして死なせてくれなかったのかと、理不尽に責め立てたくなる。
「わたしは、こうして叔父様たちの人形として生きるしかないの。だって、そうでしょう? 敦貴様との契約ももうすぐ終わるもの……」
敦貴の名を紡ぐだけで涙があふれる。
長丘家での生活は穏やかで温かかった。例え役目だとしても、彼のそばで恋愛ごっこをするのが楽しかったと、今ならそう思う。そして、幸福だった。敦貴との手紙のやり取りも、心を通わせるのも、かけがえのない時間だった。できることならこんな幸福を味わいたくなかった。もう誰にも愛されない生活に戻ることなどできない。
「一視はもう家族がいるの。だったら、もういいじゃない。わたしなんかいなくても、あの子はきっとやっていけるわ」
「それ、本気で言ってるの?」
瀬島は唸るように訊いた。だが、怯むことなく口は勝手に言葉を紡ぐ。
「本気よ。だって、そうだもの。あなただって、わたしのことを愛してるって言いながら、助けてくれなかったじゃない」
「あぁ、そうだよ。僕はどうしようもなく卑劣で臆病だからね」
彼は自嘲気味に言った。そこには苛立ちも含んでいた。対し、絹香も怒りが湧く。こんなに心が激しく揺れるのは久しぶりだ。
しばらく互いに睨み合う。心をぶつけ合っても意味がないのに、理性はどこかへ姿をくらました。
「……あなたは、長丘との生活が幸せだったんだね」
瀬島が諦めにも似た冷ややかな声を落とす。その言葉を肯定することはできず、絹香は強情に黙りこくっていた。
「だったら、行きなよ。そっちに飛び込んでしまえばいい。あなたの居場所は、きっと彼のところだ」
「違うわ」
絹香は首を横に振った。
「だって、敦貴様には許嫁がいらっしゃるもの。わたしのことなんか、なんとも思ってないわよ」
感情的になるあまり口調がとがる。そんな絹香を、瀬島は一視と同じような諦めの息を投げつけた。
「確かに一視さんの言うとおり、絹香さんは変わったよ……前はそんなふうに卑屈なことを言う人じゃなかった」
「そうさせたのは誰よ」
「あぁ、僕だろうね。そして、この家の環境があなたを変えた……僕はね、それでも前を向いて生きるあなたが好きだったんだ」
瀬島は冷めきった目で絹香を見下ろし、カミソリを回収した。その際、落ちていた手紙も見つけた。一瞬ためらうも拾い上げて絹香に渡すと、彼は静かに洗面所から出ていった。
残された絹香は濡れた顔を再び洗い流し、鏡を見つめた。
青白い頬と泣きはらした目が不細工だ。心が汚れている証拠だろうか。だが、いつまでも清廉ではいられない。心はすでに崩壊している。いつの間にかひび割れていて、粉々に砕けていくようだった。
それを拾い集めるのはもはや困難であり、放置するに限る。しかし、もしかすると瀬島の心を救ったように、自分の心も修復できるのかもしれない。
絹香は自身の胸を撫でた。心に熱を送るようなイメージをすると、敦貴の手紙が熱を帯びた。
お守り代わりの手紙を開く。そこには、敦貴の言葉がしっかりとしたためられている。
『君の支えになれたらと思います』
何度読み返しても、この一文が絹香の胸を穿つ。それは、まるで彼を欲するように。今すぐに会いたいと乞い願うような、身の程知らずな恋慕で。
飛び込んでしまってもいいのだろうか。でも、そんなことは許されない。
絹香は手紙を仕舞った。いくらか心が落ち着いていることに気がつき、思わず天井を仰ぐ。
「わたしは、敦貴様のことが──」
皆までは言えない。それを口にすると、不幸がいっそう増すだろうから。
あふれそうになった想いを、心の奥深くに閉じ込めた。
***
部屋に呼び寄せた使用人は、いっさい顔を上げることはなかった。うなじの白髪が見えるほど、彼女は深く深く両手をついて許しを乞う。
「恒子、貴様には失望した」
敦貴は冷酷無慈悲になじった。
大胆にも恒子は絹香の部屋でなにかを物色していた。大方、瀬島への土産か絹香の弱みを探っていたのだろう。その場面を待ち構えていたかのごとく、米田とゐぬが彼女を取り押さえた。
そうして今、敦貴から尋問を受けている。本家へ余計な情報を漏らしたこと、外部の人間──瀬島行人と無断で接触し、絹香の情報を探っていたこと。恒子の行いがすべて明るみになった以上、彼女に逃げ場はなかった。
「申し訳ございませんでした」
一方、敦貴は爽やかな笑みを浮かべて恒子を見下ろしていた。
「謝罪だけでは足りない」
声を荒らげることなく、ただただ優しく猫撫で声で言う。それがかえって恐ろしさを増すのか、恒子はカタカタと震えていた。
「私の世話係という役目を絹香に奪われたのがそんなに気に食わなかったか? そんな役目に矜持でもあったのか? まったく、バカなヤツだ。そんなつまらんことで思い上がるな」
「申し訳ございません……処罰はいくらでもお受けいたします」
今にも泣きそうに怯える恒子だが、見苦しく釈明するわけでなく潔く罪を認める。それに対し、敦貴は底冷えしそうな低い声で返した。
「クビにしたところで、それは貴様の望みどおりになろう。この私を舐めるなよ」
恒子はハッと顔を持ち上げた。驚愕の色を浮かべている。
「どうして、それを……」
「貴様の目的はここを辞めること。わざと問題を起こして、他の邸に泣きつくつもりだったのだろうが、絹香の秘密を知った以上はここから出ることは許さない」
「そんな……っ」
恒子はこぼれそうなほど目を開き、わなわなと唇を震わせた。
「処罰は降格だけに留めておく。あぁ、もちろんわかっているだろうが、絹香の秘密は他言禁止。以上だ。下がってよろしい」
そう無慈悲に言い放つも、恒子は放心し動こうとしない。
まったく、好奇心というのは異端よりも不気味で、質の悪いものだ。同時に自己嫌悪も広がる。
敦貴は横目で恒子を一瞥しながら外へ出る。この後、大事な用事があるのだ。急がなければ、絹香がまた暗闇に囚われてしまう。
「お、お待ちください、敦貴様! どうか私めを解雇してくださいまし! お願いします! お願いします!」
すがりつく恒子を手で払いのける。廊下で待機していた米田が彼女を取り押さえ、それでもわめき散らす恒子の怒号を背中に受けながら、敦貴は颯爽と秘書を従え横濱へ急行した。
北風がいよいよ張り切る時期。落ち葉を巻き上げる石畳で、外套をなびかせて歩く敦貴は矢住外貿のビルディングへ到着した。そこで社長の矢住──沙栄の父親と対面予定だ。
煉瓦造りの洋館は広々としていて、高価な調度品が廊下や階段に飾ってある。全体的に重めの色を使った内装であり、敦貴は大きな応接間に案内された。
しばらくソファに座って待っていると、社長が明るい笑いを携えて駆け込んできた。中肉中背、少し額が禿げ上がった男が気取った黒い背広姿で現れる。
敦貴は腰を浮かせたが「いやいや」と気遣われ、そのままでいる。
「やぁ、敦貴さん。ようこそ、我が社へおいでくださいました」
「ご無沙汰しております、社長。急に押しかけてしまい、申し訳ありません」
「敦貴さんからの連絡ならどんな仕事も放り出せますよ。まぁ、外国へ出張中は物理的に不可能ですがねぇ」
矢住は陽気で豪快に笑いながら、向かいの席に座った。こういうところが沙栄にも影響しているのだろう。力でねじ伏せるのではなく、真心で人望を集める気質なのだ。少々話が長くなるのが玉に瑕だが。
ここで、もたもたと世間話に花を咲かせる暇はない。矢住が調子よく口を開く前に敦貴は口火を切った。
「さっそく、本題に入らせてもらいます」
「あぁ、はい。話には聞いていますよ。御鍵商社のお話でしたなぁ。なんでも御鍵家のお嬢様をお邸に招いたそうで。さすがは敦貴さん、懐が広くていらっしゃる」
「そう大層なことではありません」
敦貴は素早く答えた。無駄話が苦手な敦貴の気質を知っている矢住は、それ以上探ることはなかった。
そもそも事前に訊きたいことを書面で送っていたので、矢住もすぐに表情を切り替えた。
「あの古い事件については確かに、あなたも無視することはできませんでしょう……実に胸が痛む話です。あの頃、私はまだ起業したばかりでしたから、噂の触りだけしか聞いてなかったんですがね。いやはや、身につまされる事件でした」
「そうですね。なんとも許しがたい、とても悲劇的な事件でした」
平然と話を合わせておけば、矢住はわずかに緊張をゆるめた。
「あれほどの悲劇はありませんよ……御鍵商社の前社長はとても気のいい方で、新参の私にも丁寧に愛想よくしてくださった。めったにいませんよ、あんな人。社員にも慕われていて、最も勢いのある会社でした」
矢住は少し言葉を切った。陽気さが嘘みたいに消沈し、口が重くなる。
やがて、彼は天井を仰いで言った。
「しかしどうも、前社長の明寛氏と現社長の寛治氏はあまり仲がよくなかったらしいのです。こう言ってはなんだが、寛治氏が明寛氏を殺したのではないかと、そんな尾ひれまでついたものですよ。いまだに黒い噂が絶えません」
敦貴は誰にも悟られないようゴクリと唾を飲んだ。平静そのもので黙って続きを促す。
矢住氏は溜まった息を吐き出すように、静かに声を低めて言った。
「しかし、警察の調べでは自殺だったから、そんな恐ろしいことはなかったと思いたいですがねぇ。だが、寛治氏が不正を働いたのは間違いありません。しかし、業界への不審や疑惑は避けるべきでした。義三郎様のご尽力でなんとか収束したようですが……」
そうして、チラリと敦貴を見やる。矢住の確かめるような視線にも、敦貴は無表情を貫いた。
「えぇ。公になれば、それこそ国全体が混乱することでしたから。父の判断は正しくなくとも、間違いはありません」
さも知っているかのごとく装えば、矢住はわずかに安堵した。そして、顔を綻ばせる。
「まぁ、そんなところでしょうな。義三郎様が御鍵家の内情のどこまでを把握されていたかは存じませんが、今の御鍵商社や業界全体を救ったのは間違いなく、長丘家のお力添えの賜物でしょう」
父、義三郎が『任せる』と言ったのは、このことが原因か。御鍵家とのつながりはやはりあったのだ。
寛治氏が行った不正を長丘家がもみ消し、事態を収束させた。だが、正義感の強い前社長、明寛氏は自責の念から死を選んだ。
御鍵家の内情──寛治氏の裏切りは確実だ。そのことを苦に、家族を捨てて死を選んだというのだろうか。
矢住から話をたっぷり聞き出した後、敦貴は行きよりもさらに険しい顔つきで矢住外貿を後にした。
吐く息が白い。すっかり冬模様の空を見上げることもなく車に乗り込んだ。秘書が運転する車が濡れた石畳を走っていく。頭の中で、御鍵家での事件のエピソードをひとつずつつなぎ合わせていく。
「すまない、御鍵商社へ向かってくれ」
ふいに運転席へ声を投げる。寛治へは連絡を取っていないこともあり、秘書は面食らった様子で慌ててハンドルを切った。
車の中で揺られながら、これからどうするか考える。ふと先日届いた書簡を思い出し、懐から引っ張り出す。差出人は意外な人物だったこともあり、目を通すのを後回しにしていたのである。
素早く読み進めた後、敦貴は「ほう」と感心の声を漏らした。
***
一視の滞在中は絹香もいくらか自由がきく。ただ、長丘家へ戻るまでの時間がとても長く感じていた。
絹香は、敦貴への手紙を投函するか迷っていた。外へ出ようと思い立つも、足がなかなか向かない。ここ一週間、食事以外では部屋に閉じこもるばかりだった。
──わたし、いつもこうだわ。
敦貴はいつだって絹香をリードしてくれた。少々強引で大胆なところはあるが、絹香が嫌がれば引いてくれる。そして、愛情を育てようと熱心に考えている。それに比べて、自分は感情に左右されるばかりで情けない。
出せない手紙にため息を落とすのももう幾度目か。
燃える暖炉の火をもってしても冷え込む自室で物思いに耽っていると、唐突に扉をノックされた。
「はい」
「絹香さん、お客様です」
それは瀬島の声だった。彼は事務的に告げるだけで、部屋に入ろうとはしなかった。彼の足音が去った頃、絹香は扉を細く開けた。確かに、階段下で賑やかな談笑が聞こえてくる。
身なりを整えて部屋から出る。階段を下りていくと、そこにはこの陰鬱な家にふさわしくない美しい色合いの花が立っていた。とても優しく、満開の笑顔を咲かせる花──矢住沙栄だ。
「あ、絹香ちゃーん!」
黒い手袋で覆った手を全力で振ってくる人懐っこさに、絹香は腰が抜けそうになった。
今日の彼女は紫の羽織に、矢羽根模様の着物だった。髪の毛が短いから、うなじがとても寒そうだ。
慌てて階段を下り駆け寄ると、沙栄の後ろに仏頂面の一視が控えていた。
「沙栄さん!? いったいどうしたんですか」
「絹香ちゃんに会えるかなぁと思って、この辺りを散策していたの。そうしたら、偶然通りかかられた弟様に心配されまして。ね、一視さん」
楽しげに笑う沙栄の憎めない笑顔に、一視は品よく微笑んだ。しかし、多くは語らずにいるので顛末がわからない。
すると、沙栄は「くしゃんっ」と小さくくしゃみをした。
「まぁ、大変。体が冷えているわ」
彼女の肩に手を置くと、長いこと外気に触れていたと思しき冷たさに驚く。
「姉さん、矢住様を早く暖炉の元へ」
一視が間に入る。あれ以来、互いに会話もままならなかったので、話しかけてくれたのが少し嬉しい。
「えぇ、そうね。沙栄さん、わたしの部屋へおいでくださいな」
「はい! 嬉しいわ。失礼いたします」
それから三人で階段を上がった。その場にいた使用人たちが驚きの目を向けていたが、とにかく腫れ物に触るかのようにただ静かに素通りしていく。
「ごめんなさいね、うちの人たちはみんな人見知りで」
笑ってごまかしながら、絹香は沙栄を連れて自室へ向かった。すると、一視がおもむろに声をかける。
「では、僕はここで」
丁寧に一礼する一視の表情は幾分か和やかだった。彼はしばらく沙栄ばかり見ていたが、ハッとして踵を返し客間へ戻っていった。
「申し訳ありません、沙栄さん。弟も人見知りのようです」
絹香は苦笑を浮かべた。対し、沙栄はなにやら含むように笑って一視の後ろ姿を見つめていた。
「いえいえ。とても素敵な弟様ですわ。それにしても絹香ちゃんにそっくりの美形さんだわ。わたくし、ピーンとひらめきましたの。この方はきっと絹香ちゃんのご兄弟なのだわって」
その鋭さたるや。絹香は舌を巻きながら笑って受け流した。
「叔父の邸ですので、居間を使うのが少しはばかられまして……こんなところで申し訳ありません。いま、お茶を用意しますね」
「えぇ、お願いします」
沙栄は部屋を見回しながら朗らかに言った。
窓辺に置かれた小さなソファとテーブルを初めて使う。
「暖炉の前であたたまってくださいな。わたしはお茶のご用意をいたしますので」
そう言うや否や絹香は急いで台所へ向かい、紅茶を用意した。確か、英国紅茶が彼女の好物だったような。夏のことを思い出しながら、客用の茶葉とミルクをティーセットと共に盆にのせる。慣れた手つきで再び二階へ駆け上がり、自室で待つ沙栄に笑いかけた。
「お菓子を用意できなくて、ごめんなさいね」
「いいえ、とんでもないわ。急に押しかけたのはこっちだもの。お父様の会社が近いから、よく出入りしているのだけれど……絹香ちゃんがご自宅に戻ってると聞いて、つい無断で来ちゃったの」
「まぁまぁ、それは……ご連絡くだされば遣いを出しましたのに」
呆れ半分に笑えば、沙栄は人差し指を「チッチ」と振った。
「〝サプライズ〟をしたかったの。そうしたら、道に迷ってしまって……一視さんがお声をかけてくださらなかったら、諦めて帰るところでした」
絹香は、沙栄が座る横で茶の支度をした。その手際のよさを、沙栄は唖然とした様子で見つめる。
「絹香ちゃんって、なんでも自分でなさるのね」
「えっ……」
思いがけない言葉にドキリとし、危うく湯をこぼすところだった。そんな絹香に構わず、沙栄は感心げに微笑んでいる。
叔父たちからの強要で、台所仕事を長くしていたせいか、使用人のように思われたかもしれない。だが、それは杞憂だった。
「敦貴さんの元で花嫁修業をしていたら、立派なレディになれるのかもしれないわね……あぁ、わたくしもそうしたらよかった」
いつも元気いっぱいな彼女がわずかにしおらしさを見せるので、絹香は手元が狂いそうになるのを抑えた。なんとか美しく移し替える。
「どうぞ」
「ありがとう」
沙栄は嬉しそうにカップを手に取った。絹香も一緒にカップを取り、熱い紅茶を口につける。しばらく無言で茶を嗜んでいると、沙栄の表情がわずかに憂いを帯びていることに気がついた。
そういえば、彼女とは長丘本家で会ったのが最後だった。あの震え上がるような場所で、沙栄は明るく努めていたものの混乱と疑心でいっぱいだったに違いない。
一緒に茶を飲み、ホッとひと息つく。すると、沙栄の口元も柔らかになった。
「おいしいわ。とても落ち着く。体がぽかぽかしてきたわ」
「それはよかったわ。沙栄さんの体になにかあっては心配ですもの」
「あら、それは絹香ちゃんだってそうよ。あの後、とても心配してたんだからね」
あの後、というのはやはり本家でのことだろう。避けては通れない話だと悟り、絹香は表情を作ることを諦めてうつむく。
それが気落ちしているように見えたか、沙栄は気遣うように明るく言った。
「お義父様もお義母様も神経質なのよね。そういうところが、わたくしも少し苦手なのよ。これ、内緒にしておいてね」
取り繕ってくれる沙栄だが、絹香は顔が上げられずにいた。すると彼女は顔を覗き込んできて、そっと手を握る。
「絹香ちゃん、あのね。どうしても訊きたいことがあるの」
「なんでしょうか……」
こわごわ視線を上げてみると、沙栄は真剣な眼差しで絹香を見つめていた。
「敦貴さんのことなんだけれど……その、ほら、お義父様が言っていたような関係ではないのよね?」
「えっ」
外よりも幾分暖かいはずなのに、冷水を浴びせられたように全身から熱が引いていく。
「いえ、いいのよ。だって、おかしいと思ったもの。あの敦貴さんが女性を家に招くなんて、どんな心境の変化かしらと。実はね、あの方はわたくしのことがお嫌いなんです」
そうきっぱりと言われ、絹香は言葉を発することができなかった。一方、沙栄もこの気まずい空気を繕うと顎をつまんで訝りながら話を続ける。
「うーん、お嫌いなのかしら……それもよくわからないの。わたくしが生まれた時から敦貴さんと結婚するのが決まっていて、それはそれで素敵だと思っていたのだけれど……これでいいのかしらと迷うことがあってね」
彼女は嘆息し、絹香の手を離した。ソファの背にもたれて天を仰ぐ。
「きっと、わたくしは敦貴さんのお嫁さんになれないわ」
「そんな、なにをおっしゃるの、沙栄さん」
「あら、おかしなこと言ってる?」
沙栄は眉をしかめて笑った。その笑顔に絹香はどう返したらよいか困り果てた。本当のことを話せば、きっと沙栄は前向きに敦貴との婚姻を考えるはずだ。
だが、敦貴との契約で恋人役の仕事は他言禁止とされている。沙栄に漏らすなどもってのほかだ。
「敦貴様は、沙栄さんを大事に思っておりますよ」
感情を殺して言葉を吐く。当たり障りないことだけを告げるも、心の奥底でチリチリとくすぶる恋心が胸を焦がす。
沙栄は訝る素振りもなく「そうね」と大きくうなずいた。
「でもね、こうして不安になってしまうのは、きっとわたくしの心が整理できていないからなのよ。うまく言えないんだけれど……一度でいいから、わたくしも自由にお相手を選べたらよかったのにって」
その切実な言葉が、絹香の胸にサクッと突き刺さった。
自由に選べたら──行き場のない無謀な憧れでしかないことは承知だが、願わずにはいられない。それは沙栄も同じなのだ。
彼女は再び絹香の手を取った。
「うふふ。絹香ちゃんのおててはあったかいのね」
「え、えぇ……昔から体温が高いの」
それはきっと異能のせいだろうが、口が裂けても言えない。そんな心情をつゆ知らず、沙栄は自分の頰に絹香の手を当てがった。
「あぁ、安らぐわ。なんだかお母様の手みたい」
冷えてかじかんだ手を、絹香もたまらずぎゅっと握りしめた。意識せずに熱が伝わり、沙栄の手も次第に体温を取り戻していく。
「ねぇ、絹香ちゃん」
ふと、沙栄がひっそりと呟く。
「敦貴さんのこと──」
しかし、その続きは聞こえなかった。
「ううん。ごめんなさい。気にしないで」
絹香は言葉の向こう側を無意識に探ったが、彼女は隠すように手を離した。おもむろに窓へ足を運ぶ。
「まぁ、雪だわ」
彼女の声に、絹香も立ち上がり横へ並んだ。白い産毛のような雪がちらちらと下へ舞い降りていく。
「どうりで寒いと思ったのよ」
その言葉の割に彼女は浮き足立って笑う。その無邪気な笑顔に、絹香は目を伏せたくなった。
『ごめんなさい』とすら言えない自分の立場がなんとも歯がゆく、また相反するように胸が焦がれて苦しかった。
敦貴への想いがどんどん膨らんでいく。そんな自分を許してほしい──と。
窓枠に積もる雪は羨むほどに純粋な白だった。
二週間ばかりの滞在の後、一視は今利と共に九州へ帰った。結局、一視との和解はできぬままで、また束の間の平穏も終わる。
一視が帰った途端、絹香は叔父に呼ばれた。しかも、なぜか瀬島も同席させられる。いったい、彼らはどんな密約を交わしたというのだろうか。ソファに座る叔父は洋杖を持って上機嫌だった。
絹香は瀬島とも顔を合わせぬように心がけていた。彼もまたあの洗面所の一件から、口をきこうとしない。そんな気まずい空気を読み取ることはない叔父は、なんだか下卑た笑いをしながらふたりを見ている。
「絹香。私は少し考えを改めたぞ」
いつもは憎々しげに口を開く叔父だが、今日は不気味なほど機嫌がいい。今利の滞在中はなにかと精神的にくるものがあったらしく、彼もまた会社にこもりがちであった。
絹香は首をかしげた。すると、叔父は口の端を吊り上げて言った。
「お前と瀬島くんを婚姻させることにした。この瀬島くんは、どうやら私の跡を継ぐ気らしい」
「なっ!」
絹香は思わず立ち上がった。一視という存在がありながら、どうしたらそんな発想になるのだろう。意味がわからない。
「叔父様、御鍵商社は一視が継ぐのだと、母の葬儀で取り決めたことではありませんか! そのために一視は学業に励むことを優先として、今利様の元で励んでいるんです。お忘れになったわけではないでしょう?」
「まぁ、待て。そう怒るな。いいかい、絹香」
叔父は至って安穏に笑った。
「あれは義姉の意向であって、兄の遺言ではない。一視は今利鉄鋼を継ぐと言ったのだ。一視の意思を汲まないでどうする。今利様もその方がいいとおっしゃった上で、私が決めたのだ」
「なんですって……」
あまりにも衝撃的な展開に、絹香は心臓の震えが止まらなかった。怒りとも恐れとも違う、なにか巨大な感情の波が押し寄せる。
だが、思い返せば一視もそのようなことを言っていた。
──跡目を継ぐのは姉さんだ。
あれはそういうことだったのか。
「お待ちください、旦那様」
瀬島が割って入る。すると、叔父の目つきが鋭くなった。途端に瀬島の喉がごくんと動き、彼はなにも言えなくなる。
「もう決めたことなのだ。そして、お前は瀬島くんと共に会社を継ぐ。それでよいな」
「よいわけがありません。わたしはそのようなことを望んでおりません。一視が継ぐのだとばかり……」
「黙れ」
にべもなくピシャリと言われれば、口を塞がらざるを得ない。
「私の会社だ。私が跡目を考えて話してやっているのに、なんだ、その態度は」
「いいえ、御鍵商社は父の会社です! 明寛の娘として、こればかりは譲れません!」
絹香は強情に粘った。すると、叔父の口髭が大きく歪んだ。瞬間、絹香は思い切り床へ叩きつけられた。憤慨した叔父の顔が真っ赤に染まっており、絹香を冷たく見下ろす。
「この恩知らずめが! あの無様な兄は、すべてを捨てて死を選んだのだ! 哀れなお前をここまで育ててやったのに、なんたる不孝者だ! 恥を知れ!」
大声で罵られれば体は無意識に震え上がった。しかし、叔父の暴言は許しがたいものであり、絹香は初めて叔父を睨みつけた。
「わたしはともかく、父を侮辱するのは許せません!」
「貴様……!」
杖が振り下ろされる。絹香は目をつむり、顔をそむけた。その瞬間、瀬島の声がふたりの間に割って入った。
「これ以上はおやめください、旦那様。今の絹香さんには後ろ盾があります。このことが彼に知れたら、会社どころじゃないでしょう」
彼はおどおどとしながら立ち上がり、絹香の前に立った。一方で叔父は目をしばたたかせている。
「フン、長丘家か……しかし、こいつには化け物の血が流れておる。怪我をしたところでなんら問題はない」
「えぇ、そうです。彼女は異端です……そんな秘密を抱えるには僕には荷が重すぎました。このことをうっかり知人にしゃべってしまいましたよ」
「き、貴様、私を脅すのか。この身の程知らずが……書生の分際で……!」
叔父は驚愕の表情でわめいた。そんな叔父に瀬島は果敢にも睨み返した。そんな彼の姿を見て、絹香は困惑する。
「瀬島さん……」
「ごめんね、絹香さん。僕は君を愛していたよ。でも、僕じゃ君を幸せにできない」
彼の声は震えていて、どうしても臆病だった。
一方、叔父も震えていた。こちらは怒りで頭が沸騰しかけていた。しかし、長丘家の名を出されれば困るらしい。叔父はどうしても長丘家には逆らえない立場にいる。
そんなヒリつく空気の中、唐突に玄関チャイムが鳴り響いた。使用人が台所からバタバタと玄関へ走る。そして、すぐに戻ってきた。
「旦那様! あ、あの……長丘様が……!」
「なんだと」
叔父は首をすくめた。絹香も瀬島も同時に振り返る。使用人は終始オロオロとしており、その場で立ち止まっている。
「なにをしているのだ。さっさと通せ」
叔父は観念したのか、使用人に命じた。そして、疲れたようにどっかりとソファへ身を投げる。
すぐさま使用人が居間へ敦貴を通した。渋い茶色の背広に身を包んだ彼は、相変わらず涼しげな表情で外套と帽子を使用人に預けた。
「突然の訪問、失礼する」
「なんの用だね」
叔父は忌々しげに言った。だが、言葉が尻すぼみ、先ほどまでの勢いがない。
「絹香を迎えに。彼女がまた危険にさらされているのだと手紙をもらったのさ」
彼は絹香を見てから、瀬島に目配せした。コートの内ポケットから折り畳まれた書簡を出す。差出人は【瀬島行人】とあり、叔父と絹香は同時に驚愕した。
瀬島は目を伏せて、口を真一文字に結んだ。
「うちの侍女がこの瀬島くんにあれこれと吹き込んだそうで、その件について話そうと機をうかがっていたんだが、先に彼から話を持ちかけられた。『絹香さんを助けてくれ』と」
「なっ、なんだと……! 瀬島! 貴様、裏切ったな!」
叔父はもう繕うのをやめ、大声でわめき散らした。どうやら彼らの密約はいつの間にか敦貴によって阻まれていたらしい。絹香は呆気にとられるばかりで、瀬島と敦貴を交互に見やる。
そんな面々を前にして、敦貴は一歩前に進み出て叔父へ詰め寄った。
「そもそも、私が送った提案書の返事もまだもらっていない。知らないとは言わせないぞ」
「…………」
「御鍵商社は長丘家のものとなる。そう事前に伝えたはずだ、御鍵寛治」
敦貴の言葉に、絹香は目を丸くして叔父と敦貴を交互に見た。
「叔父様、どういうことですか?」
「やはりなにも伝えていなかったらしい。どこまでも卑しく醜い男だな」
敦貴の冷たい言葉が突き刺さる。叔父の顔色は今や、紫色に変色していた。その目には葛藤が垣間見れる。
絹香はゆるりと立ち上がった。
「説明してください」
「あぁ。君にもきちんと伝えておかねばなるまい。瀬島くん、君の同席も許そう」
急な名指しに戸惑う瀬島だったが、敦貴の佇まいから発せられる圧に耐えきれないらしく静かに従った。
「叔母上はいないのか」
「お部屋にいます。呼びましょうか」
絹香が訊く。しかし、敦貴は手で制した。
「いや、いい。後で、叔父上殿がたっぷり話してくれることを期待する」
そうして、彼は淡々と話し始めた。八年前の真実を。
叔父と叔母が執拗に絹香を憎むのは必然だったのかもしれない。それが正当であるとは思いたくないが、同情に値すると絹香は冷静に考えた。
叔父、寛治は兄の明寛を恨んでいた。それは、明寛が許嫁である照代をないがしろにし、七重と結婚したことから始まった。
明寛の許嫁であった照代は、やがて寛治の妻となる。しかし、その頃の照代はすでに精神を病んでいた。許嫁からの裏切りが彼女の心を蝕み、悪女と変えた。誰彼構わず暴言を吐き、乱暴になった彼女を寛治は嫌った。
それから、寛治は順風満帆な明寛からすべてを奪おうと目論んだ。
違法な商品の密輸を裏で取引し、社長にサインさせる。明寛はそれがなんであるか知らなかった。巧妙に細工された書類だったが、このことが水面下で発覚した後、明寛は親しくしていた長丘義三郎に事件の収束を依頼した。しかし、明寛は弟の裏切りに失意のまま死を選んだ。
叔父はすべてを手に入れた。しかし、姪を引き取ることまでは予想外だったという。
憎き兄の子供、絹香である。叔母に至っては、元許嫁を奪った女の娘である。
この事実を暴かれて、叔父はもうなにも言えなかった。絹香も責めるどころか呆然とするだけだった。叔父の表情がすべてを物語っており、それが真実であると信じざるを得なかった。
絹香は敦貴に連れられるまま、いったん、長丘邸に戻っていた。自室の文机にジッと座っている。
これまでの不幸はきっと生まれながらのもので、尊敬していた父と母への憧憬までもが色あせていくようだった。
誰かを犠牲にしてまで愛を貫くのは正しくない。ふたりの物語に憧れを抱いていた自分が情けなく思う。
「幸せって、なに……?」
御鍵家を後にする際、瀬島に言われたものをふと思い出す。
『絹香さんは、そろそろ幸せになるべきだ』
でも、その幸せはなんなのだろう。両親はいない。弟を頼ることはできない。唯一の生きがいであった父の会社も失くした今、なにを支えに幸せをつかめばいいのだろう。ここからひとりで生きていくのはあまりにもつらく、心にこたえるものが多い。
「……絹香」
障子戸の向こうから敦貴が控えめに声をかけてきた。普段とは逆の構図に、絹香は違和感を抱く。
「入ってもいいか」
「はい、どうぞ」
静かに答えると、敦貴はゆるやかな和服で現れた。彼もわずかに気落ちしているようだった。
「大丈夫か?」
「大丈夫、と言えば嘘になります……周囲が目まぐるしくて、少し疲れてしまいました」
正直に告げると、彼は気まずそうに唸った。珍しく遠慮がちに部屋へ入り、その場に座る。視線が交わると、彼は切なそうに眉をひそめた。
「そんな顔をしないでくれ。まるで心がないみたいだ」
その言葉にハッとする。茫然自失とはまさにこのことか。
絹香はぼんやりとした目で敦貴を見つめた。
「心があると、このつらさに耐えられません。感情に振り回されていると、わたしはわたしを保っていられませんもの」
「君にはそうなってほしくない」
敦貴は絹香の肩に手を置いた。いつも上げている前髪が哀しそうに垂れており、その隙間から彼は真剣に絹香を見つめる。その視線に優しさを感じた。
絹香は直視できず、うつむいた。
「敦貴様のお心が、やはりわたしにはわかりません。恋人という役目であるだけのわたしに、どうしてここまでのことをするんですか」
「それは……」
「長丘家のためですか? 過去の事件の清算をするためにわたしを利用したんですか?」
「違う」
しっかりと強い否定だった。それゆえに絹香はますますわからなくなる。
「いっそ、そうだとおっしゃってください。でなければ、いったい、どうして」
「君の憂さを取り除きたかった」
敦貴は静かに言った。その声はどこか焦燥を含んでいる。
「だから、調べたんだ。君のことを知りたくて、ただただ好奇心のおもむくままに……こんなにも巨大なものを抱えていたとは思いもしなかった」
おもむろに、敦貴は頭を下げた。
「なっ、なにを……敦貴様、やめてください!」
「いや、謝らせてくれ。すべてを知った上で、さらに君を救いたくなった。その一心だったが……そんな顔をさせたかったわけじゃない」
すべて、という言葉に絹香は怯んだ。まだ明らかになっていない秘密がひとつある。だが、瀬島が恒子に異能のことを話したという事実があり、これを敦貴が知らないはずがない。
絹香はゴクリと覚悟を飲み込んだ。すると、敦貴はうなだれたままひと息ついた。
「絹香、私は君を愛しているんだと思う」
その告白は贖罪じみていた。本来ならば泣いて喜ぶべき場面だが、到底受け入れられるものではない。ふるふると首を振って彼の心を否定する。
「嘘です、そんなの、信じられません」
「嘘じゃない」
敦貴は焦れるように言った。
「これが恋慕なのだと、君が教えてくれたんじゃないか。こんな感情になるのは初めてだ。君のことばかり考えてしまう」
「そんな、どうして……」
絶対に好きになってはならない関係だったはずだ。だが、彼の優しい言動やここまでの尽力がすんなりと腑に落ちる。同時にとてつもない罪悪感に襲われる。敦貴の胸に飛び込んでしまいたいのに、できない。
「……わ、わたしは、敦貴様の恋人役です」
絹香は喉の奥で騒ぐ本音を隠そうと躍起になった。彼の愛を受け入れたくてたまらないのに、言葉はなおも嘘をつく。
「わたしは敦貴様を愛していません。これが恋慕だなんて……敦貴様の心も一時的なものですよ。あなたは、わたしのような不幸者を哀れんでいるだけです」
「どうして私の感情を君が語るんだ。これが偽物だとでも?」
「だって、わたしは……敦貴様の横に並ぶのもおこがましい存在です。わたしは、醜いから……」
ふいに敦貴の指が絹香の口に押し当てられる。
「やめろ。そんなふうに言うな。言わないでくれ」
肩をつかみ懇願する彼の目が少しだけ揺れていた。
「言ったろう、すべて調べたと。君が異能を隠していることを、私は知っている」
「…………」
胸の中がざわざわとさざめいた。
そんなこちらの衝撃もいとわず、彼は絹香の背後にある文机に手を伸ばした。ペーパーナイフを持ち、なにをするかと思えば自らの手を切り裂く。
「敦貴様!?」
思わず悲鳴にも似た声をあげると、彼は憂いげな目で傷ついた手を向けた。
「治せるんだろう?」
畳に血が滴る。それを止めるように、絹香はしっかりと彼の手のひらを包んだ。傷口をなぞるように熱を共有する。
みるみるうちに彼の手は傷跡ひとつない滑らかさを取り戻した。
この奇跡的な瞬間に、敦貴はわずかに両目をきらめかせていた。一方、絹香は自身への嫌悪で胸が詰まりそうだった。
「……気味が悪いでしょう?」
「いいや」
「だって、常人とは違います。手を触れるだけで傷を治してしまう。なにもなかったように。まるで、化け物みたいで……」
「君は化け物なんかじゃない。美しくて心清らかな人間だ」
敦貴はいつになく強い口調だった。いつも冷静な彼にしては感情がこもった熱い言葉だ。
「異端は昔からある話だ。研究者だっている。それらを否定しない。おそらく君の能力は、心の負荷や恐れが招いている可能性がある。父上と母上が死に、己を責めたことが能力を強めたんじゃないだろうか」
理路整然とした論破に絹香は頭が混乱した。
そんな都合のいい話があるのだろうか。こういう不可思議な能力は理不尽であり、論ずることは不可能ではないか。急に言われても納得できるはずがない。
「そういう話は、今は必要ないな」
敦貴はもどかしげに息をついた。
「君といるだけで心が安らぐんだ。知らなかった感情を教えてくれた。それが異能によるものか、君の心によるものかはともかく、私は君を愛しいと思っている。この気持ちに偽りはない。信じてくれ」
「…………」
彼の言葉が優しく沁みる。凍りついていた心を溶かしてくれる。それはまるで、自分が誰かに施す癒しのごとく。
絹香は肩を震わせた。我慢していた涙を抑えることができない。せき止められない感情が一度にあふれ、涙の粒が畳を濡らしていく。
「ありがとう、ございます……」
敦貴が涙を拭ってくれるから、その手にますますすがりつきたくなる。
──わたしも、敦貴様が好きです。でも……。
唐突に沙栄の顔を思い出す。もし、ここで彼の気持ちを受け入れてしまったら、沙栄はどうなるのだろう。つい先ほど聞いた両親の恋物語の結末が脳裏をよぎり、心に再び鍵をかける。
「わたしは、恋人役です。ようやくそのお務めを果たせたようで、嬉しいです」
「絹香──」
「申し訳ありません。敦貴様が女性を愛することを覚えてくださって、わたしはとても嬉しいです」
「…………」
敦貴は言葉をなくした。そんな彼に対し、絹香は心からの笑顔を送った。己を律するため、敦貴と潔く別れるために笑い続けている。
やがて敦貴は表情を曇らせ、悔しそうに顔をしかめた。
「……君は、今後どうするつもりだ?」
静かに問われ、絹香は窓の外にある庭園を見つめた。雪がしんしんと降り積もっていく。
「そうですね……もうあの家には帰れませんし、どこか遠くのお屋敷で取り立ててもらえたらと。もともとひとり立ちするつもりだったのです」
幻想的な夢物語ではある。なにも持たぬ女の身ひとつで世の中を渡り歩けるはずがない。しかし、自分で切り開いた道ならば一生悔いはない。
敦貴は肩を落とした。そして、元の冷淡な表情に切り替える。
「そう言うだろうと思ったよ」
どうやらここまでお見通しだったらしい。敦貴は懐に入れていた紙を出し、絹香に手渡す。広げてみると、それは今利からの手紙だった。
「今利家に行きなさい。もうすでに話は通してある。弟御にも話はつけた。だから、安心して行くといい」
叔父の話をした時から薄々気づいていたが、まさかそこまで配慮してくれていたとは知らず、彼の懐の深さと愛情に心がまた揺れてしまう。なにからなにまで世話をかけてしまった。
「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
絹香は深々と頭を下げて感謝した。
長丘敦貴様
最後のお手紙になります。
不躾ながら、お伝えしたいことがあります。
わたしもあなたが好きです。とてもとても、あなたをお慕い申し上げております。
後ろ髪を引かれるような、細く美しい線のような目尻が好きです。
まっすぐな指が好きです。凛として涼やかな声が好きです。
凍っていたわたしの心を溶かしてくれた、優しい言葉が好きです。
まさか、最後のお手紙が本物の恋文になってしまうとは思いもしませんでした。ですから、これはわたしの心の奥に潜めておきます。
もっとたくさんのことをお伝えしたかったのですが、契約上、この恋情は例えあなたにだって言えません。
もし、来世があるのならばあなたと共に過ごしたい。
それが、わたしの唯一の願いです。
化け物だと罵られ、惨めだったわたしを助けていただき、ありがとうございました。人間であるとおっしゃってくださり、ありがとうございました。
その言葉だけで報われました。また少しだけ、自分を好きになれそうな気がします。
それが今できるわたしの精一杯の恩返しです。感謝は尽きません。返しきれないと思います。だから、たくさん笑って生きてゆこうと思います。あなたのために。
それでは、長々とお付き合いくださり、誠にありがとうございました。
あなたに会えて、本当によかったです。
さようなら。どうか、末永くお元気で。
御鍵絹香
手紙の返事をしたためたものの、封筒に入れて自分の胸に仕舞った。
絶対に出せない手紙を書いてしまった。しかし彼への気持ちがあふれて止まらず、文字に換えなくては心を隠すことができなかった。
絹香は翌日、少ない荷物をまとめてひっそりと汽車へ向かった。旅立ちに見送りは不要だと前日に敦貴を説き伏せたので、ひとり寂しく長丘邸を去る。
彼からもらったものすべてを置き去りに曇った寒風の中を歩けば、鼻の奥がツンと痛んだ。
駅舎で汽車を待つ間、早朝にもかかわらず三人家族の姿が目の端を横切っていく。父親と母親、小さな娘。母親の腹が大きく膨らんでいたから、すでに四人家族なのだろう。
在りし日の記憶と重なって見え、絹香はぼんやりと両親のことを思い浮かべた。
父と母の大恋愛は、叔父たちを不幸にした。そうまでして手に入れた恋は、幸せだったのだろうか。知らず知らずのうちに誰かを傷つけていたのではないだろうか。それをわかった上で、家族となったのだろうか。
父はよく言っていた。
『誰かのために尽くし、信念を貫け』と。
母は口癖のように繰り返した。
『誰かを守れるように強くなりなさい』と。
その言葉を胸に生きていたが、今にして思えば、これらは両親の贖罪のように感じて、肩に重たくのしかかってくる。
もし両親と同じく敦貴と共に生きる道を選べば、沙栄を不幸にしてしまうだろう。すでに瀬島を不幸に突き落とした。いずれ、自分だけでなく敦貴も破滅するのではないだろうか。
もうこれ以上、誰にも迷惑をかけたくない。だったら、潔く身を引くのも愛のうちではないか。そう自分に言い聞かせる。
唐突に、思考の中を警笛が駆け抜けた。その煩わしい音に、ハッと顔を上げる。急いで汽車の中へ進み、一度も振り返らなかった。
***
絹香が出ていってからは、邸の中が寒々しく感じた。敦貴は仕事に没頭するようになり、以前よりいっそう口数が減った。そんな主を、使用人たちは不審に思っていた。
「絹香様のことを大事に思ってらっしゃったんじゃないかしらねぇ」
侍女長の初美が洗濯物を干しながら言った。それを聞いていたゐぬは「そうでしょうかね」ととぼける。一方で、降格となった恒子は庭先を掃除し、誰とも目を合わせなかった。
米田は相変わらず無愛想な主の送り迎えに徹し、絹香についてはいっさい触れなかった。しばらくは邸内で妙な噂が飛び交うだろうが、そろそろ沙栄との婚姻も近い。無駄口を叩く暇があったら、花嫁を迎え入れる準備を急がねばなるまい。
二月、凍えるような寒さが引き続き、霜焼けが痛い時期に差しかかれば、否が応でも周囲が慌ただしくなる。
敦貴はその日、沙栄との婚姻準備のため本家へ顔を出していた。
矢住家も呼び寄せ、式の段取りなどを決めていく。その際、沙栄を敦貴の邸に住まわせるという流れになった。
「構いません。そのようにいたしましょう」
敦貴はすぐさま了承した。
「沙栄もよいか?」
義三郎の言葉に、沙栄はわずかに肩を強張らせた。
「はい……敦貴さんがよろしいのであれば……」
そう言いながら敦貴の顔をうかがってくる。敦貴は表情ひとつ変えず、沙栄に目を向けた。
すると、沙栄はなにやら意を決したように立ち上がった。
「沙栄?」
矢住の妻が怪訝そうに娘を見上げる。
「あ、あの、敦貴さんとふたりきりでお話してもよろしいでしょうか! ほら、これから夫婦になるのはわたくしたちですから。ね、敦貴さん!」
早口でまくしたてる沙栄に、全員が困惑した。肘掛けに体を預けていた義三郎がゆっくりと前のめりになる。
「敦貴」
半ば命令のような口調の父に呼ばれ、敦貴は素直に従った。すっと立ち上がり、沙栄を部屋の外へ連れ出す。
ふたりは長丘本邸の中庭にある小池まで黙々と向かった。白雪のせいか、庭園は色のない寂しさを感じる。
凍えそうなほど冷たい池の中を錦鯉がゆうらりと漂っており、その様子を沙栄は慈しむように眺めた。
「冷えますわね」
沈黙を破る沙栄の声は、いつになく淑やかで静かだ。
「ねぇ、敦貴さん。本当にわたくしとの婚姻をお望みですか?」
「あぁ」
「そうでしょうか……心ここにあらずといった様子ですわよ」
彼女の指摘に、敦貴はようやく沙栄をまっすぐに見つめた。彼女もまたしっかりと敦貴の目を捉えている。
「まぁ、そんな顔をしないでくださいまし。あなたに憂い顔は似合いません」
沙栄はピシャリと冷静に言った。普段はやたら浮かれ調子な彼女なのに、大人びた口調で話すのが新鮮だ。敦貴は居住まいを正した。
「すまない」
咄嗟に出た謝罪は果たしてなにに対するものだろうか。彼女を失望させたことか、あるいは絹香と契約を結んでいたことか。胸中を巡る罪悪感の重さに辟易していると、沙栄が明るく笑い飛ばした。
「うふふふっ、申し訳ありません。敦貴さんからそのようなお言葉をいただく日が来るなんて……わたくしを泣かせた日、あなたは謝らなかったというのに」
敦貴は沙栄と初めて会った日の光景を脳内に紡ぎ出した。あの頃の傲慢さが今ならよくわかる。
なおも黙る敦貴に、沙栄は呆れたようにひと息ついた。
「敦貴さん。実を申せば、わたくしはあなたのことが好きではないのかもしれません」
次から次へと繰り出される言葉に意表を突かれ、敦貴は眉をひそめた。一方で沙栄は小首をかしげて茶目っ気たっぷりに笑う。
「なんと申せばよいのでしょう……わたくし、敦貴さんのことをとても尊敬しているのですよ。わたくしを迎えに来てくれる王子様のように思っていたのです。いつまでも夢を見ていたかったんです」
沙栄の言う王子様に憶えがある。あの日、敦貴は沙栄を見下ろしてこう言い放った。
「〝私は君の王子にはなれない〟と、そう言ったな」
「はい。それが幼いわたくしの心を砕きました」
彼女が泣いた理由が今ならはっきりとわかる。想いが通じないというのは、とてもつらく身を裂かれるほどに悲しい。
「現実は残酷です。夢は夢のまま、花は散る前が美しい。散ってしまえば、残るのは虚しさだけ」
沙栄はたおやかな笑みのまま言った。
「そうか……あの日に、君の恋慕は散ったのだな」
「えぇ、散ってゆきました。今、まさにそのことを確信いたしました。敦貴さんは絹香ちゃんがお好きなのでしょう?」
唐突な言葉に敦貴は沙栄を凝視した。すると彼女は「やっぱり」と唇を舐めながら呟いた。
「絹香ちゃんがいなくなってからのあなたは、しおれたお花のようでした。とても見ていられません」
それは叱咤にも似ており、敦貴はひたすら反省するばかりだった。沙栄を失望させまいとあれこれ画策した挙げ句の果てがこれではますます立つ瀬がない。
「沙栄……すまなかった」
「よしてください。わたくしも、敦貴さんが許嫁だと言い聞かされて育ったものですから、あなたに壮大な夢を抱いていただけなんです。だから、つらくはありません」
きっぱりと言い放たれてしまい、敦貴はもううつむくのをやめた。
厄介な許嫁だと決めつけていた己の心を恥じ、同時に彼女がこれほど強かな女性に育っていることにただただ感心した。沙栄もまた敦貴との障壁が薄らいだことを悟ったようで、無邪気に破顔する。
それから、彼女はいたずらっぽく人差し指を立てて提案した。
「どうします? お義父様にはわたくしから破談をお伝えしますが」
「そんなこと、君にさせられない」
「まぁ、今さらなにをおっしゃるの」
沙栄は頬を膨らませて顔を上げた。
「ここはこの沙栄に任せた方が賢明ではありませんこと? 敦貴さんにはお立場もありますし、その方がいろいろと都合がよろしいでしょう」
「しかし……」
「好いてもいない女に情を移すものではありません。それが優しさだと思ったら大間違いです」
煮え切らない敦貴に、沙栄はピシャリと言い放った。その強い口調にうっかり気圧されてしまう。だから沙栄が苦手なのだ。年下のくせになんでも知ったような口をきく。
不甲斐なく迷っていると、沙栄は敦貴の手を取って優しく上目遣いに言った。
「大丈夫です。わたくしは愛されてますから、お父様も怒らないでくださるわ。お仕事の方も順調ですし、もし傾いたとしても敦貴さんがしっかり守ってくださるでしょうし、ね」
「……まったく、君というやつは」
敦貴はため息交じりに苦笑した。社会では敵なしの冷酷無情が聞いて呆れる。それでも、初めて抱いたこの感情をむざむざ忘れられるはずもない。
敦貴が沙栄の頭を撫でると、彼女は頬を赤らめた。やはり無理に背伸びをしているようだ。
「君はいい妻になれる」
「えぇ、そうでしょうとも」
「今まで慕ってくれてありがとう、沙栄」
「こちらこそ、ありがとうございました。ひとときの夢、誠に楽しゅうございました」
沙栄は丁寧に頭を下げた。
「よいご報告をお待ちしておりますわ」
ほどなくして、沙栄の意向により矢住家との婚約が解消された。表向きは、沙栄が「好きな人ができたんです!」と押し切った形になり、このことは新聞でも報じられることとなった。
矢住家はこの大どんでん返しに慌てふためいていたが、長丘家の沈着冷静な対応により世間からのバッシングを受けずに済んだ。その裏で御鍵商社の買収も行われたが、これについては地方新聞が小さな記事にした程度であり、大きな事件になることはなかった。
そんな折、敦貴は気が進まなかった絹香の部屋に入った。いつまでも心の整理がつかずにいたので、使用人に片付けを頼まずそのままにしている。
この部屋の主がいなくなってからひと月半しか経っていないのに、随分と遠い昔のことのように思える。
沙栄から婚約を解消された挙げ句、背中を押されたにもかかわらず、絹香を迎えに行くという気にどうしてもなれない。彼女にこの想いは伝わらなかった。ゆえに迷ってしまう。彼女を迎えに行ってもよいのだろうかと。
敦貴は絹香が使っていた文机に目を落とし、ゆるゆるとその場に座り込んだ。彼女と文通をしていた時間がたまらなく恋しい。
黒い文箱を開ける。なにも書いていないまっさらな紙が置き去りにされており、冷たい紙面をそっと撫でた。ところどころに筆跡が残っている。
でこぼこした文字の欠片。絹香の丸い文字を思い起こされ、便箋をつまんでジッと眺める。そこにしたためられているのは……。
その文字を読み取り、敦貴は弾かれるように立ち上がって廊下に出た。自室の方へ向かいながら、手紙を陽に透かす。
「……米田、いるか」
従者の名を呼びつける。
「いかがいたしました?」
「至急、駅まで車を出してくれ」
コートと帽子を取り、玄関へ向かう。その後ろを米田が慌てて追いかける。
「敦貴様、お待ちください。そのような格好ではなりません」
声をあげて物申す米田の声に、敦貴はハッと振り返った。部屋着の上からコートを羽織っていたことに気がつく。そんな自分にうんざりしながら、敦貴は自室へ舞い戻った。
***
九州の広い空はいつまで経っても晴れがなく、灰色を帯びるばかりだった。少しは温暖な地域だろうと思っていたのに、関門海峡からくる潮風はいっそうの冷たさを運んでくる。
こちらへ来てすぐ、一視には深々と頭を下げられた。
『申し訳ありませんでした』
絹香の顔を見るなり謝罪した。横濱から帰る間際、すべてを敦貴から聞いたという。
知らなかったとはいえ、姉を一方的に責めるような言い方をしたことを大いに悔やんでいたらしい。そして、敦貴からの申し出をもちろん受け入れた。そして、今利も同じ意見だったことが幸いした。
根は真面目で、心優しい弟である。慣れない土地で気を張っていたからか、ついあんな口をきいてしまったのだとポロポロとこぼしていたが、どちらも本音なのだと思う。
そんな弟を絹香はしっかり抱きしめた。
会社はなくならないが、父の面影はいっさいなくなる。いずれは社号も変わり、生まれ変わるのだろう。その代わり、長丘家がしっかり取り仕切ってくれることを約束してもらったので未練はない。
絹香は今利家でしばらく休養し、やがて近所の子供たちに手習いを教えることになった。「きぬかせんせい」と呼ばれるのが楽しく、くすぐったく、それはそれでささやかな喜びでもある。
「ねぇ、きぬかせんせい。このおはなし、しってる?」
鉄鋼工場の片隅でストーブを焚いたその場所で、ふくふくとした小さな女の子が絹香にべったりと張りついたまま言う。
五、六歳の子供たちばかりで、まだまだ親に甘えたい盛りだ。絹香は優しく頭を撫でながら話を聞く。
「なにかしら?」
「あのね、せんせいのおてては〝まほうのて〟でしょ? むかーし、むかしに、おんなじてをもつひとがいたのよ」
「そうなの?」
「うん。そのひとはねぇ、せんせいみたいにやさしいおててだったんだって! でも、きゅうにその〝まほう〟がなくなっちゃったの。だいすきなひととむすばれたからじゃないかって、おかあちゃんがいってたよ」
「えー、そうじゃないよ。おおけがしたおとこのひとをたすけたから〝まほう〟がきえちゃったんだよ」
すかさず、横にいた女の子が口をとがらせる。
「あたしがきいたのはね、そのとき、いっぱい〝まほう〟をつかったからきえちゃったって」
どれもこれも似たような話だ。だが、次から次へと〝そのひと〟の話が子供たちの口から飛び出していく。
ふと、母の顔を思い出した。確証はないが〝そのひと〟と母の顔が重なる。
──まさかね。
絹香は女の子の頬を両手で触った。すると、女の子はくすぐったそうに笑う。
「あったかーい」
「あ、ずるーい! あたしもせんせいのおてて、さわらせて!」
「わたしもー!」
「はいはい、順番ね」
こうしていると、心が穏やかになれる。
しかし、空いた穴が完全に塞がったわけではないことを自覚していた。
先日、長丘家と矢住家の婚約解消が新聞に取り上げられていたと小耳に挟んでいたので、ふたりの身を案じている。
いったいどうなっているのだろう。そのことだけが気がかりだ。
工場の終業時間になり、絹香も帰路につく。すっかり冷え込んだ外は薄群青で、そろそろ春の訪れも近いのではと期待する。だが、気温は厳しいものだ。
川辺をゆうらりと歩いていると、自転車とすれ違った。仕事帰りの青年や、急ぎ足の女性ともすれ違う。笑い合いながら行き交う人を避け、ひとりで黙々と歩いていく。
気を緩めると彼のことばかり心配になってしまう。今すぐに忘れられずとも、ゆっくり前を進んでいけばきっと忘れられるはず。
だから、まったく身構えていなかった。いきなり背後から声をかけられるなんて思いもしない。
「絹香」
そう呼ばれても瞬時には反応できなかった。
「絹香」
再度呼ばれてようやく気づき、おそるおそる振り返る。
のどかな夕暮れに立つその男性は、以前と違って随分と柔らかく、いつにも増して麗しい。そして、どこか晴れやかな表情をしていた。
「敦貴様……」
名を口にしようとすれば、声がかすれた。驚きで喉がうまく機能しない。
目の前に、敦貴が──恋焦がれてもなお突き放した彼がいる。
彼もまた、なにを言ったものか困っているようで、しばらく無言で絹香を見つめていた。
「君が出しそびれた手紙をもらいに来た」
それだけ絞り出し、敦貴は絹香に一歩近づいた。
手紙──最初で最後の恋文。あまりにもつたなくて、つまらなくて、恥ずかしくて身の程知らずの出せなかった手紙。その在処を知っているなんて思いもしない。
でも、そんな細かいことはどうでもよかった。ここに彼がいることが、とても嬉しい。隠していた思いが込み上げてくる。
「て、手紙を受け取って、どうなさるんですか」
ひと息ひと息、区切って訊く。すると、彼は迷いなく告げた。
「君と共に生きたい。来世なんか、待っていられない」
「……よろしいのですか? こんなわたしでも」
「あぁ。何度も言わせるな」
絹香は一歩、彼に近づいた。そのたびに心が解けていく。すると気持ちがはやり、足が前へと進んでいく。もう止められない。気がつけば、敦貴の胸の中に飛び込んでいた。
彼もまた絹香をしっかり抱きとめてくれる。
こんな幸せなことがあるだろうか。絶対に叶わないと思っていた恋が今、みるみるうちに熱を帯びていく。頭の中でパッと火花が散り、絹香は泣き出した。
「愛しています……ずっと、そう言いたかった」
その言葉をすくい取るように、敦貴は絹香の唇に触れた。絹香も迎えに行き、溺れるような口づけを交わした。
幸せをつかむにはなにかを踏み台にしなくてはいけない。臆することなく突き進むには、強靭な心が必要だ。父と母はそれを乗り越えられなかった。しこりを残したままでいたから、足元をすくわれた。
だが、絹香は両親を恥ずべき存在にはしたくなかった。彼らの愛は本物だった。その証が自分であり、一視である。これは一視とも意見は合致していた。
しかし、彼は両親の物語のようにはなるまいと、ますます実直に勉学へのめり込んでいく。女性へみだりに愛をささやくなんてもってのほかであると突っぱねているらしい。
「あんなかわいらしいお顔をしていながら、気難しく『恋愛はくだらない』とおっしゃるのよ。まったく、どうしてあんなにわからず屋なのかしら。いったい、誰に似たんでしょうね」
うららかな日差しの強い鎌倉の別荘のバルコニーで、沙栄が不満たっぷりに言った。絹香は顔をうつむけた。持っていた紅茶のティーカップが震える。
「なんだか心当たりがあるわ……」
「えぇ、そうでしょうとも。強情なところばかり似てしまって、本当に嫌になっちゃうわ」
沙栄の刺々しい口ぶりに、絹香はますます縮こまった。
「一視にはよくよく言って聞かせます」
「うふふふ、冗談よ。一視さんには、わたくしがしっかりと教育を施して差し上げますから、お姉様はゆっくりのんびりとお過ごしくださいな」
「そ、そう? でも、まったく安らげないわ」
すっかり萎縮していると、沙栄はケラケラと愉快そうに笑った。
敦貴との再会から数ヶ月が過ぎ、季節が陽気になるにつれ周囲は目まぐるしく動いていた。敦貴に連れられて東京へ舞い戻ったものの一視の進学などの手続きもあり、ろくにくつろぐ時間もない。
叔父と叔母は変わらずあの地で過ごしているらしい。今はもう隠居しており、すっかり表に姿を見せない。たまに顔を出す程度で大した付き合いはなくなった。
瀬島は敦貴の援助で、実家から大学へ通うようになった。卒業までは面倒を見てもらえることになり、彼は別れも告げずに千葉の実家へ戻っていった。
そんな折、一番変わったのは沙栄だろう。なんと彼女は今、新たな恋が芽生えているという。
「まさか一視を気に入ってもらえるとは思いませんでした……」
「あら、わたくしはあの冬の日からずっと一視さんが気になっていたのよ。寒くて震えるわたくしにそっと手を差し伸べてくれるなんて……紛れもなく王子様でした」
目を輝かせる沙栄だが、すぐに不満そうに頬を膨らませる。
「なかなかうまくいかないものね」
一視の素っ気なさにはほとほと呆れるものだが、つい最近まで自分も同じように強情を張っていたから、偉そうに説教をできる身ではない。
「でも、恋は追いかけてこそ楽しいものよ。一視さん、こっちに来られてからはますますかっこよくなられて、とてもひとつ年下の男の子には思えないわ。なんでも知ってるし、すぐに覚えちゃうし。でも、やっぱり恋には興味を示さないのよね……」
「一視は照れ屋なんです。許してあげてください」
弟の名誉のため、控えめにお願いする。と、沙栄は興奮気味に立ち上がった。
「まぁ、照れ屋ですって!? もしそうなのだとしたら、もっと押してもいいかしら? 押したら落ちてしまうかしら? うふふ、これは燃えるわね」
そうして、沙栄は豪快に紅茶を飲んだ。その姿を見て思わず笑うと、沙栄は恥じらうように「ごほん」と咳払いした。
「まぁ、わたくしの話はともかく。絹香ちゃんはどんなご様子?」
どうやらこれが本題なのだろう。沙栄の強い瞳には逆らえず、絹香はしどろもどろに答えた。
「えぇっと……お義父様に、ようやく認めてもらえました」
「まぁ! やったぁーっ!」
沙栄が両手を上げて喜ぶ。その声が山の中をこだまし、海にまで及ぶ。絹香は恥ずかしくなって顔を覆った。
「よしてよ、そんな大声で……まだ、本決まりってわけではないのよ」
「でも、それはもう決まったも同然よ! あのお義父様に認めてもらえるだなんて、とてもとてもすごいことよ!」
まるで我がことのように喜ぶ沙栄である。一方で、絹香は不安を隠しきれずに目を伏せた。
「でも、お義母様はわからないわ……」
「あら、お義母様は、ああ見えて女の子には甘々なのです。それはもうチョコレイトのごとく、とろとろに甘いのよ」
「そうかしら? お義父様よりも強敵な気がして、今から目眩がするのに」
「大丈夫! そりゃ、教育や教養にはとても厳しい人だけれどね、絹香ちゃんは礼儀正しいから問題ないわ。それに、絹香ちゃんがつらい目に遭っていたら、あの敦貴さんが黙ってないもの」
それは想像に難くない。絹香は少し前向きになり、拳を握った。
「沙栄さんが言うのなら、大丈夫なのかもしれないわね」
「えぇ、自信を持って。わたくしも力になるわ」
頼もしい沙栄が、ふいに絹香の白い手を取る。
「式が楽しみねぇ。絹香ちゃんなら白無垢は絶対に似合うし、でも西洋式のドレスもかわいいでしょうね。ふわふわの純白のドレス、素敵じゃない?」
「気が早いわ……」
「善は急げよ。こういうことは男性に任せず、要望をしっかり固めてねだるの。計画的にいきましょう!」
沙栄の助言に、絹香は真剣にこくこくうなずいた。でも、やっぱり恥ずかしい。敦貴との婚姻が整う日がもうすぐ近い。考えただけで途方もない幸せを感じ、心がいっぱいいっぱいだった。顔から火が出そうだ。
「君たち、あんまりはしゃいでると、バルコニーから落っこちるぞ」
背後から敦貴が呆れたようにのんびりと現れた。
「あら、噂をすれば、ですわね」
そう言って、沙栄はおもむろに席を立った。
「ここから先はおふたりで、ごゆっくりお話くださいませ」
絹香の肩をぽんと叩き、茶目っ気たっぷりに片目をつむる沙栄は敦貴に一礼してバルコニーから退散した。
そんな彼女の背中を見送ってから、敦貴が椅子に腰掛けた。
「それで、なんの話をしていたんだね」
「女の話です。敦貴様はご興味ないかと」
恥ずかしいので言葉を濁すと、敦貴は頼りなく眉を下げた。それがなんだか悲しげだったので、絹香は慌てて手を振る。
「大したお話ではないのですよ。たわいもないものです……式の着物のご相談でして……」
「ほう」
たちまち敦貴は前のめりになり、興味深そうに絹香の顔を覗き込んだ。
「それで?」
「はい……純白のドレスか白無垢のどちらにしようかと……」
すると、敦貴は深く考え込み、真剣な顔で絹香をジッと見つめた。
「白無垢だな」
短く簡潔に答えられ、絹香は顔から火が出そうになった。一気に体温が上がった気がしていると、彼は不敵に笑って続けた。
「一等のものを仕立てよう。君が望むなら、ドレスも用意する。素材はシルクだな。絹香の名にふさわしい」
「ちょっと、敦貴様……?」
「どうした、気に入らないか? 足りないならもっと用意するが。それとも、恥ずかしくて言葉が出ないか? 君はいつもそうだな。恥ずかしがり屋にもほどがある」
そこまでひと息に言われてしまえば、返す言葉はひとつしかない。
「こ、心を読まないでください……!」
絹香は顔を覆って不甲斐ない声をあげた。
敦貴の控えめな笑い声が降り注ぎ、ちらっと顔を覗かせると彼の細長い指が絹香の手に触れた。とても温かい手で包まれ、絹香も笑みをこぼす。
やがて爽やかな風が髪をさらい、優しい時間がゆるやかに流れていった。
愛する人がそばにいるだけで、不思議と胸がいっぱいになってくる。
それは、焦がれて乞い願った幸せそのもの──。
【完】