二週間ばかりの滞在の後、一視は今利と共に九州へ帰った。結局、一視との和解はできぬままで、また束の間の平穏も終わる。
 一視が帰った途端、絹香は叔父に呼ばれた。しかも、なぜか瀬島も同席させられる。いったい、彼らはどんな密約を交わしたというのだろうか。ソファに座る叔父は洋杖を持って上機嫌だった。
 絹香は瀬島とも顔を合わせぬように心がけていた。彼もまたあの洗面所の一件から、口をきこうとしない。そんな気まずい空気を読み取ることはない叔父は、なんだか下卑た笑いをしながらふたりを見ている。
「絹香。私は少し考えを改めたぞ」
 いつもは憎々しげに口を開く叔父だが、今日は不気味なほど機嫌がいい。今利の滞在中はなにかと精神的にくるものがあったらしく、彼もまた会社にこもりがちであった。
 絹香は首をかしげた。すると、叔父は口の端を吊り上げて言った。
「お前と瀬島くんを婚姻させることにした。この瀬島くんは、どうやら私の跡を継ぐ気らしい」
「なっ!」
 絹香は思わず立ち上がった。一視という存在がありながら、どうしたらそんな発想になるのだろう。意味がわからない。
「叔父様、御鍵商社は一視が継ぐのだと、母の葬儀で取り決めたことではありませんか! そのために一視は学業に励むことを優先として、今利様の元で励んでいるんです。お忘れになったわけではないでしょう?」
「まぁ、待て。そう怒るな。いいかい、絹香」
 叔父は至って安穏に笑った。
「あれは義姉の意向であって、兄の遺言ではない。一視は今利鉄鋼を継ぐと言ったのだ。一視の意思を汲まないでどうする。今利様もその方がいいとおっしゃった上で、私が決めたのだ」
「なんですって……」
 あまりにも衝撃的な展開に、絹香は心臓の震えが止まらなかった。怒りとも恐れとも違う、なにか巨大な感情の波が押し寄せる。
 だが、思い返せば一視もそのようなことを言っていた。
 ──跡目を継ぐのは姉さんだ。
 あれはそういうことだったのか。
「お待ちください、旦那様」
 瀬島が割って入る。すると、叔父の目つきが鋭くなった。途端に瀬島の喉がごくんと動き、彼はなにも言えなくなる。
「もう決めたことなのだ。そして、お前は瀬島くんと共に会社を継ぐ。それでよいな」
「よいわけがありません。わたしはそのようなことを望んでおりません。一視が継ぐのだとばかり……」
「黙れ」
 にべもなくピシャリと言われれば、口を塞がらざるを得ない。
「私の会社だ。私が跡目を考えて話してやっているのに、なんだ、その態度は」
「いいえ、御鍵商社は父の会社です! 明寛の娘として、こればかりは譲れません!」
 絹香は強情に粘った。すると、叔父の口髭が大きく歪んだ。瞬間、絹香は思い切り床へ叩きつけられた。憤慨した叔父の顔が真っ赤に染まっており、絹香を冷たく見下ろす。
「この恩知らずめが! あの無様な兄は、すべてを捨てて死を選んだのだ! 哀れなお前をここまで育ててやったのに、なんたる不孝者だ! 恥を知れ!」
 大声で罵られれば体は無意識に震え上がった。しかし、叔父の暴言は許しがたいものであり、絹香は初めて叔父を睨みつけた。
「わたしはともかく、父を侮辱するのは許せません!」
「貴様……!」
 杖が振り下ろされる。絹香は目をつむり、顔をそむけた。その瞬間、瀬島の声がふたりの間に割って入った。
「これ以上はおやめください、旦那様。今の絹香さんには後ろ盾があります。このことが彼に知れたら、会社どころじゃないでしょう」
 彼はおどおどとしながら立ち上がり、絹香の前に立った。一方で叔父は目をしばたたかせている。
「フン、長丘家か……しかし、こいつには化け物の血が流れておる。怪我をしたところでなんら問題はない」
「えぇ、そうです。彼女は異端です……そんな秘密を抱えるには僕には荷が重すぎました。このことをうっかり知人にしゃべってしまいましたよ」
「き、貴様、私を脅すのか。この身の程知らずが……書生の分際で……!」
 叔父は驚愕の表情でわめいた。そんな叔父に瀬島は果敢にも睨み返した。そんな彼の姿を見て、絹香は困惑する。
「瀬島さん……」
「ごめんね、絹香さん。僕は君を愛していたよ。でも、僕じゃ君を幸せにできない」
 彼の声は震えていて、どうしても臆病だった。
 一方、叔父も震えていた。こちらは怒りで頭が沸騰しかけていた。しかし、長丘家の名を出されれば困るらしい。叔父はどうしても長丘家には逆らえない立場にいる。
 そんなヒリつく空気の中、唐突に玄関チャイムが鳴り響いた。使用人が台所からバタバタと玄関へ走る。そして、すぐに戻ってきた。
「旦那様! あ、あの……長丘様が……!」
「なんだと」
 叔父は首をすくめた。絹香も瀬島も同時に振り返る。使用人は終始オロオロとしており、その場で立ち止まっている。
「なにをしているのだ。さっさと通せ」
 叔父は観念したのか、使用人に命じた。そして、疲れたようにどっかりとソファへ身を投げる。
 すぐさま使用人が居間へ敦貴を通した。渋い茶色の背広に身を包んだ彼は、相変わらず涼しげな表情で外套と帽子を使用人に預けた。
「突然の訪問、失礼する」
「なんの用だね」
 叔父は忌々しげに言った。だが、言葉が尻すぼみ、先ほどまでの勢いがない。
「絹香を迎えに。彼女がまた危険にさらされているのだと手紙をもらったのさ」
 彼は絹香を見てから、瀬島に目配せした。コートの内ポケットから折り畳まれた書簡を出す。差出人は【瀬島行人】とあり、叔父と絹香は同時に驚愕した。
 瀬島は目を伏せて、口を真一文字に結んだ。
「うちの侍女がこの瀬島くんにあれこれと吹き込んだそうで、その件について話そうと機をうかがっていたんだが、先に彼から話を持ちかけられた。『絹香さんを助けてくれ』と」
「なっ、なんだと……! 瀬島! 貴様、裏切ったな!」
 叔父はもう繕うのをやめ、大声でわめき散らした。どうやら彼らの密約はいつの間にか敦貴によって阻まれていたらしい。絹香は呆気にとられるばかりで、瀬島と敦貴を交互に見やる。
 そんな面々を前にして、敦貴は一歩前に進み出て叔父へ詰め寄った。
「そもそも、私が送った提案書の返事もまだもらっていない。知らないとは言わせないぞ」
「…………」
「御鍵商社は長丘家のものとなる。そう事前に伝えたはずだ、御鍵寛治」
 敦貴の言葉に、絹香は目を丸くして叔父と敦貴を交互に見た。
「叔父様、どういうことですか?」
「やはりなにも伝えていなかったらしい。どこまでも卑しく醜い男だな」
 敦貴の冷たい言葉が突き刺さる。叔父の顔色は今や、紫色に変色していた。その目には葛藤が垣間見れる。
 絹香はゆるりと立ち上がった。
「説明してください」
「あぁ。君にもきちんと伝えておかねばなるまい。瀬島くん、君の同席も許そう」
 急な名指しに戸惑う瀬島だったが、敦貴の佇まいから発せられる圧に耐えきれないらしく静かに従った。
「叔母上はいないのか」
「お部屋にいます。呼びましょうか」
 絹香が訊く。しかし、敦貴は手で制した。
「いや、いい。後で、叔父上殿がたっぷり話してくれることを期待する」
 そうして、彼は淡々と話し始めた。八年前の真実を。

 叔父と叔母が執拗(しつよう)に絹香を憎むのは必然だったのかもしれない。それが正当であるとは思いたくないが、同情に値すると絹香は冷静に考えた。
 叔父、寛治は兄の明寛を恨んでいた。それは、明寛が許嫁である照代をないがしろにし、七重と結婚したことから始まった。
 明寛の許嫁であった照代は、やがて寛治の妻となる。しかし、その頃の照代はすでに精神を病んでいた。許嫁からの裏切りが彼女の心を蝕み、悪女と変えた。誰彼構わず暴言を吐き、乱暴になった彼女を寛治は嫌った。
 それから、寛治は順風満帆な明寛からすべてを奪おうと目論んだ。
 違法な商品の密輸を裏で取引し、社長にサインさせる。明寛はそれがなんであるか知らなかった。巧妙に細工された書類だったが、このことが水面下で発覚した後、明寛は親しくしていた長丘義三郎に事件の収束を依頼した。しかし、明寛は弟の裏切りに失意のまま死を選んだ。
 叔父はすべてを手に入れた。しかし、(めい)を引き取ることまでは予想外だったという。
 憎き兄の子供、絹香である。叔母に至っては、元許嫁を奪った女の娘である。
 この事実を暴かれて、叔父はもうなにも言えなかった。絹香も責めるどころか呆然とするだけだった。叔父の表情がすべてを物語っており、それが真実であると信じざるを得なかった。
 絹香は敦貴に連れられるまま、いったん、長丘邸に戻っていた。自室の文机にジッと座っている。
 これまでの不幸はきっと生まれながらのもので、尊敬していた父と母への憧憬までもが色あせていくようだった。
 誰かを犠牲にしてまで愛を貫くのは正しくない。ふたりの物語に憧れを抱いていた自分が情けなく思う。
「幸せって、なに……?」
 御鍵家を後にする際、瀬島に言われたものをふと思い出す。
『絹香さんは、そろそろ幸せになるべきだ』
 でも、その幸せはなんなのだろう。両親はいない。弟を頼ることはできない。唯一の生きがいであった父の会社も失くした今、なにを支えに幸せをつかめばいいのだろう。ここからひとりで生きていくのはあまりにもつらく、心にこたえるものが多い。
「……絹香」
 障子戸の向こうから敦貴が控えめに声をかけてきた。普段とは逆の構図に、絹香は違和感を抱く。
「入ってもいいか」
「はい、どうぞ」
 静かに答えると、敦貴はゆるやかな和服で現れた。彼もわずかに気落ちしているようだった。
「大丈夫か?」
「大丈夫、と言えば嘘になります……周囲が目まぐるしくて、少し疲れてしまいました」
 正直に告げると、彼は気まずそうに唸った。珍しく遠慮がちに部屋へ入り、その場に座る。視線が交わると、彼は切なそうに眉をひそめた。
「そんな顔をしないでくれ。まるで心がないみたいだ」
 その言葉にハッとする。茫然(ぼうぜん)()(しつ)とはまさにこのことか。
 絹香はぼんやりとした目で敦貴を見つめた。
「心があると、このつらさに耐えられません。感情に振り回されていると、わたしはわたしを保っていられませんもの」
「君にはそうなってほしくない」
 敦貴は絹香の肩に手を置いた。いつも上げている前髪が哀しそうに垂れており、その隙間から彼は真剣に絹香を見つめる。その視線に優しさを感じた。
 絹香は直視できず、うつむいた。
「敦貴様のお心が、やはりわたしにはわかりません。恋人という役目であるだけのわたしに、どうしてここまでのことをするんですか」
「それは……」
「長丘家のためですか? 過去の事件の清算をするためにわたしを利用したんですか?」
「違う」
 しっかりと強い否定だった。それゆえに絹香はますますわからなくなる。
「いっそ、そうだとおっしゃってください。でなければ、いったい、どうして」
「君の憂さを取り除きたかった」
 敦貴は静かに言った。その声はどこか焦燥を含んでいる。
「だから、調べたんだ。君のことを知りたくて、ただただ好奇心のおもむくままに……こんなにも巨大なものを抱えていたとは思いもしなかった」
 おもむろに、敦貴は頭を下げた。
「なっ、なにを……敦貴様、やめてください!」
「いや、謝らせてくれ。すべてを知った上で、さらに君を救いたくなった。その一心だったが……そんな顔をさせたかったわけじゃない」
 すべて、という言葉に絹香は怯んだ。まだ明らかになっていない秘密がひとつある。だが、瀬島が恒子に異能のことを話したという事実があり、これを敦貴が知らないはずがない。
 絹香はゴクリと覚悟を飲み込んだ。すると、敦貴はうなだれたままひと息ついた。
「絹香、私は君を愛しているんだと思う」
 その告白は(しょく)(ざい)じみていた。本来ならば泣いて喜ぶべき場面だが、到底受け入れられるものではない。ふるふると首を振って彼の心を否定する。
「嘘です、そんなの、信じられません」
「嘘じゃない」
 敦貴は焦れるように言った。
「これが恋慕なのだと、君が教えてくれたんじゃないか。こんな感情になるのは初めてだ。君のことばかり考えてしまう」
「そんな、どうして……」
 絶対に好きになってはならない関係だったはずだ。だが、彼の優しい言動やここまでの尽力がすんなりと腑に落ちる。同時にとてつもない罪悪感に襲われる。敦貴の胸に飛び込んでしまいたいのに、できない。
「……わ、わたしは、敦貴様の恋人役です」
 絹香は喉の奥で騒ぐ本音を隠そうと躍起になった。彼の愛を受け入れたくてたまらないのに、言葉はなおも嘘をつく。
「わたしは敦貴様を愛していません。これが恋慕だなんて……敦貴様の心も一時的なものですよ。あなたは、わたしのような不幸者を哀れんでいるだけです」
「どうして私の感情を君が語るんだ。これが偽物だとでも?」
「だって、わたしは……敦貴様の横に並ぶのもおこがましい存在です。わたしは、醜いから……」
 ふいに敦貴の指が絹香の口に押し当てられる。
「やめろ。そんなふうに言うな。言わないでくれ」
 肩をつかみ懇願する彼の目が少しだけ揺れていた。
「言ったろう、すべて調べたと。君が異能を隠していることを、私は知っている」
「…………」
 胸の中がざわざわとさざめいた。
 そんなこちらの衝撃もいとわず、彼は絹香の背後にある文机に手を伸ばした。ペーパーナイフを持ち、なにをするかと思えば自らの手を切り裂く。
「敦貴様!?」
 思わず悲鳴にも似た声をあげると、彼は憂いげな目で傷ついた手を向けた。
「治せるんだろう?」
 畳に血が滴る。それを止めるように、絹香はしっかりと彼の手のひらを包んだ。傷口をなぞるように熱を共有する。
 みるみるうちに彼の手は傷跡ひとつない滑らかさを取り戻した。
 この奇跡的な瞬間に、敦貴はわずかに両目をきらめかせていた。一方、絹香は自身への嫌悪で胸が詰まりそうだった。
「……気味が悪いでしょう?」
「いいや」
「だって、常人とは違います。手を触れるだけで傷を治してしまう。なにもなかったように。まるで、化け物みたいで……」
「君は化け物なんかじゃない。美しくて心清らかな人間だ」
 敦貴はいつになく強い口調だった。いつも冷静な彼にしては感情がこもった熱い言葉だ。
「異端は昔からある話だ。研究者だっている。それらを否定しない。おそらく君の能力は、心の負荷や恐れが招いている可能性がある。父上と母上が死に、己を責めたことが能力を強めたんじゃないだろうか」
 理路整然とした論破に絹香は頭が混乱した。
 そんな都合のいい話があるのだろうか。こういう不可思議な能力は理不尽であり、論ずることは不可能ではないか。急に言われても納得できるはずがない。
「そういう話は、今は必要ないな」
 敦貴はもどかしげに息をついた。
「君といるだけで心が安らぐんだ。知らなかった感情を教えてくれた。それが異能によるものか、君の心によるものかはともかく、私は君を愛しいと思っている。この気持ちに偽りはない。信じてくれ」
「…………」
 彼の言葉が優しく沁みる。凍りついていた心を溶かしてくれる。それはまるで、自分が誰かに施す癒しのごとく。
 絹香は肩を震わせた。我慢していた涙を抑えることができない。せき止められない感情が一度にあふれ、涙の粒が畳を濡らしていく。
「ありがとう、ございます……」
 敦貴が涙を拭ってくれるから、その手にますますすがりつきたくなる。
 ──わたしも、敦貴様が好きです。でも……。
 唐突に沙栄の顔を思い出す。もし、ここで彼の気持ちを受け入れてしまったら、沙栄はどうなるのだろう。つい先ほど聞いた両親の恋物語の結末が脳裏をよぎり、心に再び鍵をかける。
「わたしは、恋人役です。ようやくそのお務めを果たせたようで、嬉しいです」
「絹香──」
「申し訳ありません。敦貴様が女性(ひと)を愛することを覚えてくださって、わたしはとても嬉しいです」
「…………」
 敦貴は言葉をなくした。そんな彼に対し、絹香は心からの笑顔を送った。己を律するため、敦貴と潔く別れるために笑い続けている。
 やがて敦貴は表情を曇らせ、悔しそうに顔をしかめた。
「……君は、今後どうするつもりだ?」
 静かに問われ、絹香は窓の外にある庭園を見つめた。雪がしんしんと降り積もっていく。
「そうですね……もうあの家には帰れませんし、どこか遠くのお屋敷で取り立ててもらえたらと。もともとひとり立ちするつもりだったのです」
 幻想的な夢物語ではある。なにも持たぬ女の身ひとつで世の中を渡り歩けるはずがない。しかし、自分で切り開いた道ならば一生悔いはない。
 敦貴は肩を落とした。そして、元の冷淡な表情に切り替える。
「そう言うだろうと思ったよ」
 どうやらここまでお見通しだったらしい。敦貴は懐に入れていた紙を出し、絹香に手渡す。広げてみると、それは今利からの手紙だった。
「今利家に行きなさい。もうすでに話は通してある。弟御にも話はつけた。だから、安心して行くといい」
 叔父の話をした時から薄々気づいていたが、まさかそこまで配慮してくれていたとは知らず、彼の懐の深さと愛情に心がまた揺れてしまう。なにからなにまで世話をかけてしまった。
「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
 絹香は深々と頭を下げて感謝した。

 長丘敦貴様
 最後のお手紙になります。
 不躾ながら、お伝えしたいことがあります。
 わたしもあなたが好きです。とてもとても、あなたをお慕い申し上げております。
 後ろ髪を引かれるような、細く美しい線のような目尻が好きです。
 まっすぐな指が好きです。凛として涼やかな声が好きです。
 凍っていたわたしの心を溶かしてくれた、優しい言葉が好きです。
 まさか、最後のお手紙が本物の恋文になってしまうとは思いもしませんでした。ですから、これはわたしの心の奥に潜めておきます。
 もっとたくさんのことをお伝えしたかったのですが、契約上、この恋情は例えあなたにだって言えません。
 もし、来世があるのならばあなたと共に過ごしたい。
 それが、わたしの唯一の願いです。
 化け物だと罵られ、惨めだったわたしを助けていただき、ありがとうございました。人間であるとおっしゃってくださり、ありがとうございました。
 その言葉だけで報われました。また少しだけ、自分を好きになれそうな気がします。
 それが今できるわたしの精一杯の恩返しです。感謝は尽きません。返しきれないと思います。だから、たくさん笑って生きてゆこうと思います。あなたのために。
 それでは、長々とお付き合いくださり、誠にありがとうございました。
 あなたに会えて、本当によかったです。
 さようなら。どうか、末永くお元気で。
 御鍵絹香

 手紙の返事をしたためたものの、封筒に入れて自分の胸に仕舞った。
 絶対に出せない手紙を書いてしまった。しかし彼への気持ちがあふれて止まらず、文字に換えなくては心を隠すことができなかった。
 絹香は翌日、少ない荷物をまとめてひっそりと汽車へ向かった。旅立ちに見送りは不要だと前日に敦貴を説き伏せたので、ひとり寂しく長丘邸を去る。
 彼からもらったものすべてを置き去りに曇った寒風の中を歩けば、鼻の奥がツンと痛んだ。
 駅舎で汽車を待つ間、早朝にもかかわらず三人家族の姿が目の端を横切っていく。父親と母親、小さな娘。母親の腹が大きく膨らんでいたから、すでに四人家族なのだろう。
 在りし日の記憶と重なって見え、絹香はぼんやりと両親のことを思い浮かべた。
 父と母の大恋愛は、叔父たちを不幸にした。そうまでして手に入れた恋は、幸せだったのだろうか。知らず知らずのうちに誰かを傷つけていたのではないだろうか。それをわかった上で、家族となったのだろうか。
 父はよく言っていた。
『誰かのために尽くし、信念を貫け』と。
 母は口癖のように繰り返した。
『誰かを守れるように強くなりなさい』と。
 その言葉を胸に生きていたが、今にして思えば、これらは両親の贖罪のように感じて、肩に重たくのしかかってくる。
 もし両親と同じく敦貴と共に生きる道を選べば、沙栄を不幸にしてしまうだろう。すでに瀬島を不幸に突き落とした。いずれ、自分だけでなく敦貴も破滅するのではないだろうか。
 もうこれ以上、誰にも迷惑をかけたくない。だったら、潔く身を引くのも愛のうちではないか。そう自分に言い聞かせる。
 唐突に、思考の中を警笛が駆け抜けた。その煩わしい音に、ハッと顔を上げる。急いで汽車の中へ進み、一度も振り返らなかった。

 ***

 絹香が出ていってからは、邸の中が寒々しく感じた。敦貴は仕事に没頭するようになり、以前よりいっそう口数が減った。そんな主を、使用人たちは不審に思っていた。
「絹香様のことを大事に思ってらっしゃったんじゃないかしらねぇ」
 侍女長の初美が洗濯物を干しながら言った。それを聞いていたゐぬは「そうでしょうかね」ととぼける。一方で、降格となった恒子は庭先を掃除し、誰とも目を合わせなかった。
 米田は相変わらず無愛想な主の送り迎えに徹し、絹香についてはいっさい触れなかった。しばらくは邸内で妙な噂が飛び交うだろうが、そろそろ沙栄との婚姻も近い。無駄口を叩く暇があったら、花嫁を迎え入れる準備を急がねばなるまい。
 二月、凍えるような寒さが引き続き、霜焼けが痛い時期に差しかかれば、否が応でも周囲が慌ただしくなる。
 敦貴はその日、沙栄との婚姻準備のため本家へ顔を出していた。
 矢住家も呼び寄せ、式の段取りなどを決めていく。その際、沙栄を敦貴の邸に住まわせるという流れになった。
「構いません。そのようにいたしましょう」
 敦貴はすぐさま了承した。
「沙栄もよいか?」
 義三郎の言葉に、沙栄はわずかに肩を強張らせた。
「はい……敦貴さんがよろしいのであれば……」
 そう言いながら敦貴の顔をうかがってくる。敦貴は表情ひとつ変えず、沙栄に目を向けた。
 すると、沙栄はなにやら意を決したように立ち上がった。
「沙栄?」
 矢住の妻が怪訝そうに娘を見上げる。
「あ、あの、敦貴さんとふたりきりでお話してもよろしいでしょうか! ほら、これから夫婦になるのはわたくしたちですから。ね、敦貴さん!」
 早口でまくしたてる沙栄に、全員が困惑した。肘掛けに体を預けていた義三郎がゆっくりと前のめりになる。
「敦貴」
 半ば命令のような口調の父に呼ばれ、敦貴は素直に従った。すっと立ち上がり、沙栄を部屋の外へ連れ出す。
 ふたりは長丘本邸の中庭にある小池まで黙々と向かった。白雪のせいか、庭園は色のない寂しさを感じる。
 凍えそうなほど冷たい池の中を(にしき)(ごい)がゆうらりと漂っており、その様子を沙栄は慈しむように眺めた。
「冷えますわね」
 沈黙を破る沙栄の声は、いつになく淑やかで静かだ。
「ねぇ、敦貴さん。本当にわたくしとの婚姻をお望みですか?」
「あぁ」
「そうでしょうか……心ここにあらずといった様子ですわよ」
 彼女の指摘に、敦貴はようやく沙栄をまっすぐに見つめた。彼女もまたしっかりと敦貴の目を捉えている。
「まぁ、そんな顔をしないでくださいまし。あなたに憂い顔は似合いません」
 沙栄はピシャリと冷静に言った。普段はやたら浮かれ調子な彼女なのに、大人びた口調で話すのが新鮮だ。敦貴は居住まいを正した。
「すまない」
 咄嗟に出た謝罪は果たしてなにに対するものだろうか。彼女を失望させたことか、あるいは絹香と契約を結んでいたことか。胸中を巡る罪悪感の重さに辟易していると、沙栄が明るく笑い飛ばした。
「うふふふっ、申し訳ありません。敦貴さんからそのようなお言葉をいただく日が来るなんて……わたくしを泣かせた日、あなたは謝らなかったというのに」
 敦貴は沙栄と初めて会った日の光景を脳内に紡ぎ出した。あの頃の傲慢さが今ならよくわかる。
 なおも黙る敦貴に、沙栄は呆れたようにひと息ついた。
「敦貴さん。実を申せば、わたくしはあなたのことが好きではないのかもしれません」
 次から次へと繰り出される言葉に意表を突かれ、敦貴は眉をひそめた。一方で沙栄は小首をかしげて茶目っ気たっぷりに笑う。
「なんと申せばよいのでしょう……わたくし、敦貴さんのことをとても尊敬しているのですよ。わたくしを迎えに来てくれる王子様のように思っていたのです。いつまでも夢を見ていたかったんです」
 沙栄の言う王子様に憶えがある。あの日、敦貴は沙栄を見下ろしてこう言い放った。
「〝私は君の王子にはなれない〟と、そう言ったな」
「はい。それが幼いわたくしの心を砕きました」
 彼女が泣いた理由が今ならはっきりとわかる。想いが通じないというのは、とてもつらく身を裂かれるほどに悲しい。
「現実は残酷です。夢は夢のまま、花は散る前が美しい。散ってしまえば、残るのは虚しさだけ」
 沙栄はたおやかな笑みのまま言った。
「そうか……あの日に、君の恋慕は散ったのだな」
「えぇ、散ってゆきました。今、まさにそのことを確信いたしました。敦貴さんは絹香ちゃんがお好きなのでしょう?」
 唐突な言葉に敦貴は沙栄を凝視した。すると彼女は「やっぱり」と唇を舐めながら呟いた。
「絹香ちゃんがいなくなってからのあなたは、しおれたお花のようでした。とても見ていられません」
 それは叱咤にも似ており、敦貴はひたすら反省するばかりだった。沙栄を失望させまいとあれこれ画策した挙げ句の果てがこれではますます立つ瀬がない。
「沙栄……すまなかった」
「よしてください。わたくしも、敦貴さんが許嫁だと言い聞かされて育ったものですから、あなたに壮大な夢を抱いていただけなんです。だから、つらくはありません」
 きっぱりと言い放たれてしまい、敦貴はもううつむくのをやめた。
 厄介な許嫁だと決めつけていた己の心を恥じ、同時に彼女がこれほど強かな女性に育っていることにただただ感心した。沙栄もまた敦貴との障壁が薄らいだことを悟ったようで、無邪気に破顔する。
 それから、彼女はいたずらっぽく人差し指を立てて提案した。
「どうします? お義父様にはわたくしから破談をお伝えしますが」
「そんなこと、君にさせられない」
「まぁ、今さらなにをおっしゃるの」
 沙栄は頬を膨らませて顔を上げた。
「ここはこの沙栄に任せた方が賢明ではありませんこと? 敦貴さんにはお立場もありますし、その方がいろいろと都合がよろしいでしょう」
「しかし……」
「好いてもいない女に情を移すものではありません。それが優しさだと思ったら大間違いです」
 煮え切らない敦貴に、沙栄はピシャリと言い放った。その強い口調にうっかり気圧(けお)されてしまう。だから沙栄が苦手なのだ。年下のくせになんでも知ったような口をきく。
 不甲斐なく迷っていると、沙栄は敦貴の手を取って優しく上目遣いに言った。
「大丈夫です。わたくしは愛されてますから、お父様も怒らないでくださるわ。お仕事の方も順調ですし、もし傾いたとしても敦貴さんがしっかり守ってくださるでしょうし、ね」
「……まったく、君というやつは」
 敦貴はため息交じりに苦笑した。社会では敵なしの冷酷無情が聞いて呆れる。それでも、初めて抱いたこの感情をむざむざ忘れられるはずもない。
 敦貴が沙栄の頭を撫でると、彼女は頬を赤らめた。やはり無理に背伸びをしているようだ。
「君はいい妻になれる」
「えぇ、そうでしょうとも」
「今まで慕ってくれてありがとう、沙栄」
「こちらこそ、ありがとうございました。ひとときの夢、誠に楽しゅうございました」
 沙栄は丁寧に頭を下げた。
「よいご報告をお待ちしておりますわ」
 ほどなくして、沙栄の意向により矢住家との婚約が解消された。表向きは、沙栄が「好きな人ができたんです!」と押し切った形になり、このことは新聞でも報じられることとなった。
 矢住家はこの大どんでん返しに慌てふためいていたが、長丘家の沈着冷静な対応により世間からのバッシングを受けずに済んだ。その裏で御鍵商社の買収も行われたが、これについては地方新聞が小さな記事にした程度であり、大きな事件になることはなかった。
 そんな折、敦貴は気が進まなかった絹香の部屋に入った。いつまでも心の整理がつかずにいたので、使用人に片付けを頼まずそのままにしている。
 この部屋の主がいなくなってからひと月半しか経っていないのに、随分と遠い昔のことのように思える。
 沙栄から婚約を解消された挙げ句、背中を押されたにもかかわらず、絹香を迎えに行くという気にどうしてもなれない。彼女にこの想いは伝わらなかった。ゆえに迷ってしまう。彼女を迎えに行ってもよいのだろうかと。
 敦貴は絹香が使っていた文机に目を落とし、ゆるゆるとその場に座り込んだ。彼女と文通をしていた時間がたまらなく恋しい。
 黒い文箱を開ける。なにも書いていないまっさらな紙が置き去りにされており、冷たい紙面をそっと撫でた。ところどころに筆跡が残っている。
 でこぼこした文字の欠片。絹香の丸い文字を思い起こされ、便箋をつまんでジッと眺める。そこにしたためられているのは……。
 その文字を読み取り、敦貴は弾かれるように立ち上がって廊下に出た。自室の方へ向かいながら、手紙を陽に透かす。
「……米田、いるか」
 従者の名を呼びつける。
「いかがいたしました?」
「至急、駅まで車を出してくれ」
 コートと帽子を取り、玄関へ向かう。その後ろを米田が慌てて追いかける。
「敦貴様、お待ちください。そのような格好ではなりません」
 声をあげて物申す米田の声に、敦貴はハッと振り返った。部屋着の上からコートを羽織っていたことに気がつく。そんな自分にうんざりしながら、敦貴は自室へ舞い戻った。

 ***

 九州の広い空はいつまで経っても晴れがなく、灰色を帯びるばかりだった。少しは温暖な地域だろうと思っていたのに、関門海峡からくる潮風はいっそうの冷たさを運んでくる。
 こちらへ来てすぐ、一視には深々と頭を下げられた。
『申し訳ありませんでした』
 絹香の顔を見るなり謝罪した。横濱から帰る間際、すべてを敦貴から聞いたという。
 知らなかったとはいえ、姉を一方的に責めるような言い方をしたことを大いに悔やんでいたらしい。そして、敦貴からの申し出をもちろん受け入れた。そして、今利も同じ意見だったことが幸いした。
 根は真面目で、心優しい弟である。慣れない土地で気を張っていたからか、ついあんな口をきいてしまったのだとポロポロとこぼしていたが、どちらも本音なのだと思う。
 そんな弟を絹香はしっかり抱きしめた。
 会社はなくならないが、父の面影はいっさいなくなる。いずれは社号も変わり、生まれ変わるのだろう。その代わり、長丘家がしっかり取り仕切ってくれることを約束してもらったので未練はない。
 絹香は今利家でしばらく休養し、やがて近所の子供たちに手習いを教えることになった。「きぬかせんせい」と呼ばれるのが楽しく、くすぐったく、それはそれでささやかな喜びでもある。
「ねぇ、きぬかせんせい。このおはなし、しってる?」
 鉄鋼工場の片隅でストーブを()いたその場所で、ふくふくとした小さな女の子が絹香にべったりと張りついたまま言う。
 五、六歳の子供たちばかりで、まだまだ親に甘えたい盛りだ。絹香は優しく頭を撫でながら話を聞く。
「なにかしら?」
「あのね、せんせいのおてては〝まほうのて〟でしょ? むかーし、むかしに、おんなじてをもつひとがいたのよ」
「そうなの?」
「うん。そのひとはねぇ、せんせいみたいにやさしいおててだったんだって! でも、きゅうにその〝まほう〟がなくなっちゃったの。だいすきなひととむすばれたからじゃないかって、おかあちゃんがいってたよ」
「えー、そうじゃないよ。おおけがしたおとこのひとをたすけたから〝まほう〟がきえちゃったんだよ」
 すかさず、横にいた女の子が口をとがらせる。
「あたしがきいたのはね、そのとき、いっぱい〝まほう〟をつかったからきえちゃったって」
 どれもこれも似たような話だ。だが、次から次へと〝そのひと〟の話が子供たちの口から飛び出していく。
 ふと、母の顔を思い出した。確証はないが〝そのひと〟と母の顔が重なる。
 ──まさかね。
 絹香は女の子の頬を両手で触った。すると、女の子はくすぐったそうに笑う。
「あったかーい」
「あ、ずるーい! あたしもせんせいのおてて、さわらせて!」
「わたしもー!」
「はいはい、順番ね」
 こうしていると、心が穏やかになれる。
 しかし、空いた穴が完全に塞がったわけではないことを自覚していた。
 先日、長丘家と矢住家の婚約解消が新聞に取り上げられていたと小耳に挟んでいたので、ふたりの身を案じている。
 いったいどうなっているのだろう。そのことだけが気がかりだ。

 工場の終業時間になり、絹香も帰路につく。すっかり冷え込んだ外は薄群青で、そろそろ春の訪れも近いのではと期待する。だが、気温は厳しいものだ。
 川辺をゆうらりと歩いていると、自転車とすれ違った。仕事帰りの青年や、急ぎ足の女性ともすれ違う。笑い合いながら行き交う人を避け、ひとりで黙々と歩いていく。
 気を緩めると彼のことばかり心配になってしまう。今すぐに忘れられずとも、ゆっくり前を進んでいけばきっと忘れられるはず。
 だから、まったく身構えていなかった。いきなり背後から声をかけられるなんて思いもしない。
「絹香」
 そう呼ばれても瞬時には反応できなかった。
「絹香」
 再度呼ばれてようやく気づき、おそるおそる振り返る。
 のどかな夕暮れに立つその男性(ひと)は、以前と違って随分と柔らかく、いつにも増して麗しい。そして、どこか晴れやかな表情をしていた。
「敦貴様……」
 名を口にしようとすれば、声がかすれた。驚きで喉がうまく機能しない。
 目の前に、敦貴が──恋焦がれてもなお突き放した彼がいる。
 彼もまた、なにを言ったものか困っているようで、しばらく無言で絹香を見つめていた。
「君が出しそびれた手紙をもらいに来た」
 それだけ絞り出し、敦貴は絹香に一歩近づいた。
 手紙──最初で最後の恋文。あまりにもつたなくて、つまらなくて、恥ずかしくて身の程知らずの出せなかった手紙。その在処を知っているなんて思いもしない。
 でも、そんな細かいことはどうでもよかった。ここに彼がいることが、とても嬉しい。隠していた思いが込み上げてくる。
「て、手紙を受け取って、どうなさるんですか」
 ひと息ひと息、区切って訊く。すると、彼は迷いなく告げた。
「君と共に生きたい。来世なんか、待っていられない」
「……よろしいのですか? こんなわたしでも」
「あぁ。何度も言わせるな」
 絹香は一歩、彼に近づいた。そのたびに心が解けていく。すると気持ちがはやり、足が前へと進んでいく。もう止められない。気がつけば、敦貴の胸の中に飛び込んでいた。
 彼もまた絹香をしっかり抱きとめてくれる。
 こんな幸せなことがあるだろうか。絶対に叶わないと思っていた恋が今、みるみるうちに熱を帯びていく。頭の中でパッと火花が散り、絹香は泣き出した。
「愛しています……ずっと、そう言いたかった」
 その言葉をすくい取るように、敦貴は絹香の唇に触れた。絹香も迎えに行き、溺れるような口づけを交わした。