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 部屋に呼び寄せた使用人は、いっさい顔を上げることはなかった。うなじの白髪が見えるほど、彼女は深く深く両手をついて許しを乞う。
「恒子、貴様には失望した」
 敦貴は冷酷無慈悲になじった。
 大胆にも恒子は絹香の部屋でなにかを物色していた。大方、瀬島への土産か絹香の弱みを探っていたのだろう。その場面を待ち構えていたかのごとく、米田とゐぬが彼女を取り押さえた。
 そうして今、敦貴から尋問を受けている。本家へ余計な情報を漏らしたこと、外部の人間──瀬島行人と無断で接触し、絹香の情報を探っていたこと。恒子の行いがすべて明るみになった以上、彼女に逃げ場はなかった。
「申し訳ございませんでした」
 一方、敦貴は爽やかな笑みを浮かべて恒子を見下ろしていた。
「謝罪だけでは足りない」
 声を荒らげることなく、ただただ優しく猫撫で声で言う。それがかえって恐ろしさを増すのか、恒子はカタカタと震えていた。
「私の世話係という役目を絹香に奪われたのがそんなに気に食わなかったか? そんな役目に矜持でもあったのか? まったく、バカなヤツだ。そんなつまらんことで思い上がるな」
「申し訳ございません……処罰はいくらでもお受けいたします」
 今にも泣きそうに怯える恒子だが、見苦しく釈明するわけでなく潔く罪を認める。それに対し、敦貴は底冷えしそうな低い声で返した。
「クビにしたところで、それは貴様の望みどおりになろう。この私を()めるなよ」
 恒子はハッと顔を持ち上げた。驚愕の色を浮かべている。
「どうして、それを……」
「貴様の目的はここを辞めること。わざと問題を起こして、他の邸に泣きつくつもりだったのだろうが、絹香の秘密を知った以上はここから出ることは許さない」
「そんな……っ」
 恒子はこぼれそうなほど目を開き、わなわなと唇を震わせた。
「処罰は降格だけに留めておく。あぁ、もちろんわかっているだろうが、絹香の秘密は他言禁止。以上だ。下がってよろしい」
 そう無慈悲に言い放つも、恒子は放心し動こうとしない。
 まったく、好奇心というのは異端よりも不気味で、質の悪いものだ。同時に自己嫌悪も広がる。
 敦貴は横目で恒子を一瞥しながら外へ出る。この後、大事な用事があるのだ。急がなければ、絹香がまた暗闇に囚われてしまう。
「お、お待ちください、敦貴様! どうか私めを解雇してくださいまし! お願いします! お願いします!」
 すがりつく恒子を手で払いのける。廊下で待機していた米田が彼女を取り押さえ、それでもわめき散らす恒子の怒号を背中に受けながら、敦貴は颯爽と秘書を従え横濱へ急行した。

 北風がいよいよ張り切る時期。落ち葉を巻き上げる石畳で、外套(がいとう)をなびかせて歩く敦貴は矢住外貿のビルディングへ到着した。そこで社長の矢住──沙栄の父親と対面予定だ。
 (れん)()造りの洋館は広々としていて、高価な調度品が廊下や階段に飾ってある。全体的に重めの色を使った内装であり、敦貴は大きな応接間に案内された。
 しばらくソファに座って待っていると、社長が明るい笑いを携えて駆け込んできた。中肉中背、少し額が禿()げ上がった男が気取った黒い背広姿で現れる。
 敦貴は腰を浮かせたが「いやいや」と気遣われ、そのままでいる。
「やぁ、敦貴さん。ようこそ、我が社へおいでくださいました」
「ご無沙汰しております、社長。急に押しかけてしまい、申し訳ありません」
「敦貴さんからの連絡ならどんな仕事も放り出せますよ。まぁ、外国へ出張中は物理的に不可能ですがねぇ」
 矢住は陽気で豪快に笑いながら、向かいの席に座った。こういうところが沙栄にも影響しているのだろう。力でねじ伏せるのではなく、真心で人望を集める気質なのだ。少々話が長くなるのが玉に(きず)だが。
 ここで、もたもたと世間話に花を咲かせる暇はない。矢住が調子よく口を開く前に敦貴は口火を切った。
「さっそく、本題に入らせてもらいます」
「あぁ、はい。話には聞いていますよ。御鍵商社のお話でしたなぁ。なんでも御鍵家のお嬢様をお邸に招いたそうで。さすがは敦貴さん、懐が広くていらっしゃる」
「そう大層なことではありません」
 敦貴は素早く答えた。無駄話が苦手な敦貴の気質を知っている矢住は、それ以上探ることはなかった。
 そもそも事前に訊きたいことを書面で送っていたので、矢住もすぐに表情を切り替えた。
「あの古い事件については確かに、あなたも無視することはできませんでしょう……実に胸が痛む話です。あの頃、私はまだ起業したばかりでしたから、噂の触りだけしか聞いてなかったんですがね。いやはや、身につまされる事件でした」
「そうですね。なんとも許しがたい、とても悲劇的な事件でした」
 平然と話を合わせておけば、矢住はわずかに緊張をゆるめた。
「あれほどの悲劇はありませんよ……御鍵商社の前社長はとても気のいい方で、新参の私にも丁寧に愛想よくしてくださった。めったにいませんよ、あんな人。社員にも慕われていて、最も勢いのある会社でした」
 矢住は少し言葉を切った。陽気さが嘘みたいに消沈し、口が重くなる。
 やがて、彼は天井を仰いで言った。
「しかしどうも、前社長の明寛氏と現社長の寛治氏はあまり仲がよくなかったらしいのです。こう言ってはなんだが、寛治氏が明寛氏を殺したのではないかと、そんな尾ひれまでついたものですよ。いまだに黒い噂が絶えません」
 敦貴は誰にも悟られないようゴクリと唾を飲んだ。平静そのもので黙って続きを促す。
 矢住氏は()まった息を吐き出すように、静かに声を低めて言った。
「しかし、警察の調べでは自殺だったから、そんな恐ろしいことはなかったと思いたいですがねぇ。だが、寛治氏が不正を働いたのは間違いありません。しかし、業界への不審や疑惑は避けるべきでした。義三郎様のご尽力でなんとか収束したようですが……」
 そうして、チラリと敦貴を見やる。矢住の確かめるような視線にも、敦貴は無表情を貫いた。
「えぇ。公になれば、それこそ国全体が混乱することでしたから。父の判断は正しくなくとも、間違いはありません」
 さも知っているかのごとく装えば、矢住はわずかに安堵した。そして、顔を綻ばせる。
「まぁ、そんなところでしょうな。義三郎様が御鍵家の内情のどこまでを把握されていたかは存じませんが、今の御鍵商社や業界全体を救ったのは間違いなく、長丘家のお力添えの賜物でしょう」
 父、義三郎が『任せる』と言ったのは、このことが原因か。御鍵家とのつながりはやはりあったのだ。
 寛治氏が行った不正を長丘家がもみ消し、事態を収束させた。だが、正義感の強い前社長、明寛氏は自責の念から死を選んだ。
 御鍵家の内情──寛治氏の裏切りは確実だ。そのことを苦に、家族を捨てて死を選んだというのだろうか。
 矢住から話をたっぷり聞き出した後、敦貴は行きよりもさらに険しい顔つきで矢住外貿を後にした。
 吐く息が白い。すっかり冬模様の空を見上げることもなく車に乗り込んだ。秘書が運転する車が濡れた石畳を走っていく。頭の中で、御鍵家での事件のエピソードをひとつずつつなぎ合わせていく。
「すまない、御鍵商社へ向かってくれ」
 ふいに運転席へ声を投げる。寛治へは連絡を取っていないこともあり、秘書は面食らった様子で慌ててハンドルを切った。
 車の中で揺られながら、これからどうするか考える。ふと先日届いた書簡を思い出し、懐から引っ張り出す。差出人は意外な人物だったこともあり、目を通すのを後回しにしていたのである。
 素早く読み進めた後、敦貴は「ほう」と感心の声を漏らした。

 ***

 一視の滞在中は絹香もいくらか自由がきく。ただ、長丘家へ戻るまでの時間がとても長く感じていた。
 絹香は、敦貴への手紙を投函するか迷っていた。外へ出ようと思い立つも、足がなかなか向かない。ここ一週間、食事以外では部屋に閉じこもるばかりだった。
 ──わたし、いつもこうだわ。
 敦貴はいつだって絹香をリードしてくれた。少々強引で大胆なところはあるが、絹香が嫌がれば引いてくれる。そして、愛情を育てようと熱心に考えている。それに比べて、自分は感情に左右されるばかりで情けない。
 出せない手紙にため息を落とすのももう幾度目か。
 燃える暖炉の火をもってしても冷え込む自室で物思いに耽っていると、唐突に扉をノックされた。
「はい」
「絹香さん、お客様です」
 それは瀬島の声だった。彼は事務的に告げるだけで、部屋に入ろうとはしなかった。彼の足音が去った頃、絹香は扉を細く開けた。確かに、階段下で賑やかな談笑が聞こえてくる。
 身なりを整えて部屋から出る。階段を下りていくと、そこにはこの陰鬱な家にふさわしくない美しい色合いの花が立っていた。とても優しく、満開の笑顔を咲かせる花──矢住沙栄だ。
「あ、絹香ちゃーん!」
 黒い手袋で覆った手を全力で振ってくる人懐っこさに、絹香は腰が抜けそうになった。
 今日の彼女は紫の羽織に、矢羽根模様の着物だった。髪の毛が短いから、うなじがとても寒そうだ。
 慌てて階段を下り駆け寄ると、沙栄の後ろに仏頂面の一視が控えていた。
「沙栄さん!? いったいどうしたんですか」
「絹香ちゃんに会えるかなぁと思って、この辺りを散策していたの。そうしたら、偶然通りかかられた弟様に心配されまして。ね、一視さん」
 楽しげに笑う沙栄の憎めない笑顔に、一視は品よく微笑んだ。しかし、多くは語らずにいるので顛末(てんまつ)がわからない。
 すると、沙栄は「くしゃんっ」と小さくくしゃみをした。
「まぁ、大変。体が冷えているわ」
 彼女の肩に手を置くと、長いこと外気に触れていたと思しき冷たさに驚く。
「姉さん、矢住様を早く暖炉の元へ」
 一視が間に入る。あれ以来、互いに会話もままならなかったので、話しかけてくれたのが少し嬉しい。
「えぇ、そうね。沙栄さん、わたしの部屋へおいでくださいな」
「はい! 嬉しいわ。失礼いたします」
 それから三人で階段を上がった。その場にいた使用人たちが驚きの目を向けていたが、とにかく腫れ物に触るかのようにただ静かに素通りしていく。
「ごめんなさいね、うちの人たちはみんな人見知りで」
 笑ってごまかしながら、絹香は沙栄を連れて自室へ向かった。すると、一視がおもむろに声をかける。
「では、僕はここで」
 丁寧に一礼する一視の表情は幾分か和やかだった。彼はしばらく沙栄ばかり見ていたが、ハッとして踵を返し客間へ戻っていった。
「申し訳ありません、沙栄さん。弟も人見知りのようです」
 絹香は苦笑を浮かべた。対し、沙栄はなにやら含むように笑って一視の後ろ姿を見つめていた。
「いえいえ。とても素敵な弟様ですわ。それにしても絹香ちゃんにそっくりの美形さんだわ。わたくし、ピーンとひらめきましたの。この方はきっと絹香ちゃんのご兄弟なのだわって」
 その鋭さたるや。絹香は舌を巻きながら笑って受け流した。
「叔父の邸ですので、居間を使うのが少しはばかられまして……こんなところで申し訳ありません。いま、お茶を用意しますね」
「えぇ、お願いします」
 沙栄は部屋を見回しながら朗らかに言った。
 窓辺に置かれた小さなソファとテーブルを初めて使う。
「暖炉の前であたたまってくださいな。わたしはお茶のご用意をいたしますので」
 そう言うや否や絹香は急いで台所へ向かい、紅茶を用意した。確か、英国紅茶が彼女の好物だったような。夏のことを思い出しながら、客用の茶葉とミルクをティーセットと共に盆にのせる。慣れた手つきで再び二階へ駆け上がり、自室で待つ沙栄に笑いかけた。
「お菓子を用意できなくて、ごめんなさいね」
「いいえ、とんでもないわ。急に押しかけたのはこっちだもの。お父様の会社が近いから、よく出入りしているのだけれど……絹香ちゃんがご自宅に戻ってると聞いて、つい無断で来ちゃったの」
「まぁまぁ、それは……ご連絡くだされば遣いを出しましたのに」
 呆れ半分に笑えば、沙栄は人差し指を「チッチ」と振った。
「〝サプライズ〟をしたかったの。そうしたら、道に迷ってしまって……一視さんがお声をかけてくださらなかったら、諦めて帰るところでした」
 絹香は、沙栄が座る横で茶の支度をした。その手際のよさを、沙栄は()(ぜん)とした様子で見つめる。
「絹香ちゃんって、なんでも自分でなさるのね」
「えっ……」
 思いがけない言葉にドキリとし、危うく湯をこぼすところだった。そんな絹香に構わず、沙栄は感心げに微笑んでいる。
 叔父たちからの強要で、台所仕事を長くしていたせいか、使用人のように思われたかもしれない。だが、それは杞憂だった。
「敦貴さんの元で花嫁修業をしていたら、立派なレディになれるのかもしれないわね……あぁ、わたくしもそうしたらよかった」
 いつも元気いっぱいな彼女がわずかにしおらしさを見せるので、絹香は手元が狂いそうになるのを抑えた。なんとか美しく移し替える。
「どうぞ」
「ありがとう」
 沙栄は嬉しそうにカップを手に取った。絹香も一緒にカップを取り、熱い紅茶を口につける。しばらく無言で茶を嗜んでいると、沙栄の表情がわずかに憂いを帯びていることに気がついた。
 そういえば、彼女とは長丘本家で会ったのが最後だった。あの震え上がるような場所で、沙栄は明るく努めていたものの混乱と疑心でいっぱいだったに違いない。
 一緒に茶を飲み、ホッとひと息つく。すると、沙栄の口元も柔らかになった。
「おいしいわ。とても落ち着く。体がぽかぽかしてきたわ」
「それはよかったわ。沙栄さんの体になにかあっては心配ですもの」
「あら、それは絹香ちゃんだってそうよ。あの後、とても心配してたんだからね」
 あの後、というのはやはり本家でのことだろう。避けては通れない話だと悟り、絹香は表情を作ることを諦めてうつむく。
 それが気落ちしているように見えたか、沙栄は気遣うように明るく言った。
「お義父様もお義母様も神経質なのよね。そういうところが、わたくしも少し苦手なのよ。これ、内緒にしておいてね」
 取り繕ってくれる沙栄だが、絹香は顔が上げられずにいた。すると彼女は顔を覗き込んできて、そっと手を握る。
「絹香ちゃん、あのね。どうしても訊きたいことがあるの」
「なんでしょうか……」
 こわごわ視線を上げてみると、沙栄は真剣な眼差しで絹香を見つめていた。
「敦貴さんのことなんだけれど……その、ほら、お義父様が言っていたような関係ではないのよね?」
「えっ」
 外よりも幾分暖かいはずなのに、冷水を浴びせられたように全身から熱が引いていく。
「いえ、いいのよ。だって、おかしいと思ったもの。あの敦貴さんが女性を家に招くなんて、どんな心境の変化かしらと。実はね、あの方はわたくしのことがお嫌いなんです」
 そうきっぱりと言われ、絹香は言葉を発することができなかった。一方、沙栄もこの気まずい空気を繕うと顎をつまんで訝りながら話を続ける。
「うーん、お嫌いなのかしら……それもよくわからないの。わたくしが生まれた時から敦貴さんと結婚するのが決まっていて、それはそれで素敵だと思っていたのだけれど……これでいいのかしらと迷うことがあってね」
 彼女は嘆息し、絹香の手を離した。ソファの背にもたれて天を仰ぐ。
「きっと、わたくしは敦貴さんのお嫁さんになれないわ」
「そんな、なにをおっしゃるの、沙栄さん」
「あら、おかしなこと言ってる?」
 沙栄は眉をしかめて笑った。その笑顔に絹香はどう返したらよいか困り果てた。本当のことを話せば、きっと沙栄は前向きに敦貴との婚姻を考えるはずだ。
 だが、敦貴との契約で恋人役の仕事は他言禁止とされている。沙栄に漏らすなどもってのほかだ。
「敦貴様は、沙栄さんを大事に思っておりますよ」
 感情を殺して言葉を吐く。当たり障りないことだけを告げるも、心の奥底でチリチリとくすぶる恋心が胸を焦がす。
 沙栄は訝る素振りもなく「そうね」と大きくうなずいた。
「でもね、こうして不安になってしまうのは、きっとわたくしの心が整理できていないからなのよ。うまく言えないんだけれど……一度でいいから、わたくしも自由にお相手を選べたらよかったのにって」
 その切実な言葉が、絹香の胸にサクッと突き刺さった。
 自由に選べたら──行き場のない無謀な憧れでしかないことは承知だが、願わずにはいられない。それは沙栄も同じなのだ。
 彼女は再び絹香の手を取った。
「うふふ。絹香ちゃんのおててはあったかいのね」
「え、えぇ……昔から体温が高いの」
 それはきっと異能のせいだろうが、口が裂けても言えない。そんな心情をつゆ知らず、沙栄は自分の頰に絹香の手を当てがった。
「あぁ、安らぐわ。なんだかお母様の手みたい」
 冷えてかじかんだ手を、絹香もたまらずぎゅっと握りしめた。意識せずに熱が伝わり、沙栄の手も次第に体温を取り戻していく。
「ねぇ、絹香ちゃん」
 ふと、沙栄がひっそりと呟く。
「敦貴さんのこと──」
 しかし、その続きは聞こえなかった。
「ううん。ごめんなさい。気にしないで」
 絹香は言葉の向こう側を無意識に探ったが、彼女は隠すように手を離した。おもむろに窓へ足を運ぶ。
「まぁ、雪だわ」
 彼女の声に、絹香も立ち上がり横へ並んだ。白い産毛のような雪がちらちらと下へ舞い降りていく。
「どうりで寒いと思ったのよ」
 その言葉の割に彼女は浮き足立って笑う。その無邪気な笑顔に、絹香は目を伏せたくなった。
『ごめんなさい』とすら言えない自分の立場がなんとも歯がゆく、また相反するように胸が焦がれて苦しかった。
 敦貴への想いがどんどん膨らんでいく。そんな自分を許してほしい──と。
 窓枠に積もる雪は羨むほどに純粋な白だった。