木枯らしがうなじを冷やす頃。絹香は冬の始めに敦貴から贈られた桜鼠(さくらねずみ)の着物に袖を通した。その上から、椿があしらわれた長羽織をまとう。家を出た時に着ていた着物もとっくに修繕できていたが、叔父や叔母、瀬島のことを思い出すのでタンスの奥に仕舞っていた。
 早朝だったこともあり、敦貴からの見送りはなく、米田の運転で半年ぶりに横濱の家へ戻る。
 長丘邸から遠ざかるにつれ、緊張で心臓が窮屈になってきた。見慣れた景色に変わっていくも、なんだか色を失っていくように見える。
「絹香様、到着いたしました」
 丘を上がって林を抜け、あぜ道の入り口で停車する。米田は終始、静かだった。
「ありがとうございます」
 絹香は覚悟を決めて地上へ降りる。その際、米田が背広の内ポケットからなにかを差し出しながら柔らかく言った。
「敦貴様からのお手紙です」
 いつもの白い和紙の封筒が目の前に向けられる。それを見るだけで、急激に心が高揚した。
「あ、ありがとうございます!」
 絹香はすぐさま受け取った。
「行ってらっしゃいませ」
 それはなんだか、帰る場所があるような安心感を思わせる言葉だった。
「行ってまいります」
 ひと息ずれて言葉を返した。

 一視の到着は明日だ。その前に絹香がやるべきは、この家で起きていたすべての冷遇がなかったように振る舞うこと。そもそも、絹香は弟への手紙には敦貴へ送るような当たり障りのないことを並べた近況報告をしていた。ゆえに、一視はこの家で起きていた絹香への不遇をなにひとつ知らないことになっている。
 それについては、叔父も叔母も同意見だった。この事実は隠すべき問題。一視に知られれば、今利鉄鋼との取引にも影響が出る上、外部の会社にも恥をさらすことになる。体裁第一の叔父にとって、一視の上京は忌々しいことに違いなかった。
「ただいま戻りました」
 言葉をかけても、誰も出迎えることはない。おそらく居間にいるはずだ。
 絹香は息を整えて御鍵家の中へ入った。着物の内側には敦貴からの手紙を差し込んでいる。これがなんだかお守りのような効果をもたらした。
 居間にいたのは叔父と叔母、そして瀬島だった。こうして三人が並ぶことは滅多にないので、なんだか奇妙な取り合わせに思える。
 先に口を開いたのは、叔父だった。
「帰ったか」
 なにも答えずにいるのが、絹香のせめてもの抵抗だった。その態度が気に食わないのか、叔父は大きく鼻を鳴らした。
「まぁいい。お前があの長丘家に取り入って会社が(もむ)かったのは(しゃく)だが、お前のような化け物でも金になるということがよくわかったわい」
 そして「ガハハ」と高笑いする。叔母は不満そうな顔をこちらにジッと向けているだけで、とくに言葉は発しない。なにか言いたそうに口をモゴモゴさせているが、夫の前でヒステリーを起こすわけにはいかないという心構えはまだあるらしい。
 一方、瀬島は朗らかに笑っていた。絹香にとってはこちらの方が不気味で仕方がなかった。
「お帰りなさい、絹香さん。待ってました」
 彼は叔父たちの前で堂々と言った。その言い方は恋人を待ちわびていたような響きがあった。
 なぜだか家族の一員のように居座っている。彼も叔父や叔母のことを毛嫌いしていたはずだ。絹香は不審を抱きながら口を開いた。
「叔父様、部屋に戻ってもよろしいでしょうか。一視が来た時にわたしの生活感がないと不自然になりますし、部屋の掃除がしたいのです」
「あぁ、そうだな。お前の顔など見たくないし、閉じこもっておくがいいさ」
「失礼いたします」
 絹香は居間から逃げ出した。階段を駆け上がって自分の部屋に戻る。その後ろからふわりと瀬島の手が伸びてきた。
「絹香さん」
 ドアノブに手をかけた絹香の手をつかむ彼の手が冷たくて身震いする。ドアを一緒に開けるような形になり、強引に部屋へ押し入ってくる。
「瀬島さん? あなた、どういうつもり?」
「やだな。なんだよ、その言い方」
 密室でふたりきり。暗い室内で相対する彼の顔色の悪さがあまりにもひどいことに気がついた。やつれているにもかかわらず笑顔を崩さないので、その不均衡さが不気味だと感じる。
「僕も部屋の掃除を手伝おうと思ったんだ。いけない?」
 彼の手が絹香の髪を撫でる。あんなことがあったのに、彼はまだ絹香のことを諦めていないようだ。ここははっきりと告げねばなるまい。絹香は目に力を込めてまっすぐに彼を睨んだ。
「だってわたし、あなたのことは――」
「嫌いになった?」
 瀬島の目が据わる。その表情の冷たさに、絹香は声を詰まらせた。言葉を選び、あえぐようにひと言放つ。
「愛してないわ」
 思わず声が震えてしまい、瀬島は鼻で笑った。
「そうか。やっぱりあなたは長丘が好きなんだ」
「長丘様とはそういう間ではありません。彼は、わたしがこの家で不遇な扱いを受けていたから保護してくださっただけよ」
 すぐさま言い返すと、瀬島は絹香に一歩近づいた。絹香も一歩後ずさる。
「その割には随分と親しげじゃないか。君、あの男と恋愛ごっこでもやってるんだろう?」
 ベッドまで追い詰められたと同時に、瀬島が言い放った。否定も肯定もできず、ただただ沈黙を選んでしまうと、瀬島は勝ち誇って笑う。
「そうなんだ。やっぱりそうなんだ」
「違うわ」
「いいや、君は前からそうやって子供っぽく〝ごっこ遊び〟をしたがるからね、わかるんだよ」
 瀬島の圧に耐えきれず、絹香はベッドに座った。すると、彼もまた絹香を押し倒そうと近づいてくる。
 至近距離で逃げ場がない。彼は両手をついて絹香の上に覆いかぶさってくる。
 優しかった頃の彼はもういないのだと悟った。今の瀬島はすべてをいなすような貪欲さに満ちている。
 いったい、どうしてこんなことになったんだろう。彼を変えてしまったのは誰だろう。叔父か、叔母か、それとも自分か──。
 絹香は瀬島との出会いを思い返した。それはまるで走馬灯のように一気に脳内に(よみがえ)る。彼はいつでも優しく、絹香を励ますような言葉をかけていた。しかし、そのどれもが上っ面だったはずだ。
「あなたは、どうしてわたしを愛しているの?」
 思わず問う。すると瀬島は絹香を見下ろし、隣に腰掛けて冷めた表情を浮かべた。
「化け物だって言ってたじゃない。そんなわたしをどうして?」
「そりゃ、常人とは違うもの。君は異端で、お金持ちの令嬢様。それなのにかわいそうで儚げで、愛に飢えているから、僕が守ってやらなきゃ。君はなにもできないんだ。そうだろう?」
 絹香は目を見張った。そして、彼の手を振り払う。
「わたしは、あなたに守られたことはないわ。あなたは守ってくれなかった。いつも口先だけで、甘くて優しい言葉しかかけてくれなかった。そんなの、本当の愛じゃない」
 どんなにひどい目に遭おうと、もう知ったことじゃない。胸にあふれた激情を一度にぶつけたら、瀬島の目つきが変わった。
 打たれる。瞬時に思い、絹香は目をつむった。
 しかし、衝撃はいっさいなかった。彼はどんよりと曇った目で絹香をジッと見ていた。それは責めるように憎悪をにじませた目だった。空虚とも言える瞳を目の当たりにし、絹香は硬直していた体を解いた。
 おそるおそる起き上がると、彼はベッドに腰掛けたまま呆然とした。
「……ひどいよ」
 やがて、彼はぽつんと言った。言葉の白々しさに寒気がするも、彼の異様なまでの顔色の悪さから考えを改める。
 ──どうして、あなたが傷ついているの……?
「瀬島さん……」
 声をかけると、彼は涙を浮かべていた。大粒の(しずく)が目からこぼれ落ちていく。
「僕は、君を愛してるんだ。それなのに……君は、僕のことをわかってくれない。なんでだよ。どうして、わかってくれないんだよ」
 情けなく涙を流す男を前にすると、なんだか気持ちが冷静になっていく。『愛してる』と言葉だけをかけられても心がひとつも動かない。この薄情さに辟易(へきえき)したが、なにより彼をここまで変えたのが自分であるのだと確信してしまった。
 瀬島はさめざめと泣くばかりだ。彼もまたどうすることもできないのだろう。その愛情が歪んでいようとも、一途に絹香を想っていたことには変わりない。
 彼の想いを受け止めることはできないが、その心に巣食う闇を少しでも打ち払えたら……どうやったらそれができるだろう。
 絹香は咄嗟に、瀬島の心臓に手を当てた。
「……あなたはわたしなんかじゃない、別の素敵な人と幸せになるべきよ。優しいあなたに戻って」
 手のひらに力を込めると、熱が一気に駆け巡った。
 ゐぬへ施した癒やしの力が、もしかすると彼の心にも届くかもしれない。そんな願いを込めて精一杯の癒やしを伝える。凍りついて固まった心を溶かすようなイメージをして。
 すると、震えていた瀬島の肩が徐々に落ち着きを取り戻した。
「絹香さん……」
 彼はゆっくりとまどろみに落ちていった。そして、絹香の胸の中へ倒れ込む。静かに寝入っていく彼の頬は少しだけ血色を取り戻していた。
「瀬島さん、ごめんなさい」
 小さく耳元で呼びかけるも、彼はしばらく目を覚まさなかった。

 ***

 その夜、敦貴は自室で静かに考え事をしていた。
 今朝渡した手紙を、彼女は読んでくれただろうか。あの家でまた嫌な思いをしていないだろうか。彼女はもう帰ってこないかもしれない。だが、もしまたひどい仕打ちを受けていたら助けなければ。
 そこまで考えて、敦貴はため息を嘲笑に切り替えた。
「……まったく、柄でもない」
 いつもの時間に絹香が部屋にいないだけで、どうにも上の空だ。そんな自分が腑抜けのようにも思えて苛立つ。無意識に彼女の身を案じてしまうなど、それこそ本当に恋慕しているようではないか。
「敦貴様」
 障子戸の向こうから女の声が聞こえてくる。
「入れ」
 声をかけると、侍女が入ってきた。寡黙で気難しい顔つきの使用人──ゐぬである。
「見つかったか?」
 ただそれだけを問うと、彼女は静かにうなずいた。
 米田は今、絹香の様子を見守ってくれている。なにか動きがあればすぐに連絡するよう言いつけていた。
 そのため、この家を探る人物が他に必要だった。侍女長の初美も候補にはあったが、寡黙なゐぬが適任だと決めたのが八月のことである。絹香を鎌倉に残して先に帰宅した際、秘密裏に指示を出していた。
 ゐぬは予想どおりよい働きをしてくれた。この邸で不穏な動きをする不届き者を捕まえたのは彼女の手柄でもある。
「それで、裏は取れたか?」
「はい。休日になると横濱へ顔を出していた模様です。学生と見られる青年と何度か会っていました。その瞬間を捉えました」
「なにを話していた?」
「絹香様のことです」
 ゐぬはためらいがちに答えた。
「その青年は、絹香様を好いているようでして……そこで聞いたのは、絹香様が御鍵家で受けていた仕打ちの数々でございました。また、絹香様がそのような仕打ちを受けるに至った理由も」
 敦貴は「ふむ」と唸った。
 青年というのは瀬島行人だろう。そして、絹香のことを深く知る人物でもある。六月の商談パーティーの時に見たが、彼は敦貴に敵対心むき出しで睨んでいた。
「その、絹香様はどうやら〝異端〟であるそうです」
 ゐぬは伏し目のまま、声を絞り出した。
『異端』──それが絹香の秘密。
 異端と呼ばれる存在はいるのだと聞く。だが、文武両道を極めた敦貴にとってそれは驚異とも感じず、単純に研究材料としてはうってつけだと思っていた。そんな存在が身近にいるという事実に、だんだんと動揺していく。
 ──絹香が、異端だと……。
「あの、敦貴様」
 ゐぬの強張った声が敦貴の思考をかいくぐる。
「実は、私も絹香様が異端であることはなんとなく気づいておりました」
「なんだと」
 敦貴は振り向いた。自分でも驚くほど声が上ずった。そんな主の驚愕に、ゐぬも面食らったようで緊張気味に姿勢を伸ばす。
「しかし、そう決めつけるのは失礼ですので、発言を控えておりました。お許しくださいませ」
 彼女は自身に起きた不思議な体験を話して聞かせた。
 腰を痛めた際、絹香に助けてもらったことを申告しなかったのは、彼女のおかげで完治したからだった。
「私は絹香様に救われました。どんな傷もたちどころに癒やしてしまう、あのお力は、確かに奇妙なものです。正直に申しますと、人によっては不気味に捉えられてもおかしくありません。しかし、私はあの方のお力は仙女様のような、清らかで美しいものだと思います。そんな方が冷遇されているのは我慢なりません」
 ゐぬは力強く言い放った。そして、熱を込めて続ける。
「恒子は厄介です。絹香様のことがお嫌いなのでしょう。恒子はおそらく敦貴様の世話係という立場を誇っていました。しかし、その立場を奪われたことが我慢ならないのです。私は敦貴様と絹香様のご関係については深く知りたくありません。しかし、恒子はそうではありません」
「もういい。わかった。後のことは私がなんとかする」
 敦貴はイライラと話を切った。ゐぬはすがるように主を見たが、すぐに表情を冷静に戻し、一礼した。
「出すぎた真似をいたしました」
「いや、いい。下がってよろしい」
「かしこまりました」
 ゐぬはすぐに引き下がった。障子戸が閉じられ、彼女が去る音を聞く。無音となった空間で、敦貴はただ頭の中で状況を整理した。
 絹香はやはり特異ななにかを持っていた。それは常人とは言いがたい不気味で奇妙な力だった。非科学的でありえない。
 しかし、彼女が足首をひねった後、すぐに治癒していたことや、夏に見せた挙動不審な言動──『正直に言いなさい』と脅したら怯えて黙り込んでしまったこと、すべてが当てはまる。
 絹香は凡人ではない。常軌を逸した異端であり、しかしそれはとても優しく、温かみのあるものである。そもそも彼女を理解できるはずがなかったのだ。
 数年前、とある霊能者と博士が世間を賑やかした。霊能力と呼ばれる非科学的な能力を持つ者がいたのだ。結局、霊能者はインチキであると世間が認めたものだから有耶無耶(うやむや)になっている。それゆえに、絹香は蔑まれていたのだろうか。
 また、このことと絹香の父親の死はなにか関係があるのだろうか。もし彼女が当時、その能力を開花させていたとしたら母の病気も治すことができたのではないか。
 しかし、彼女はできなかった。能力が弱かったのか、それとも彼女自身が気づいていなかったのか。どちらも当てはまりそうだ。
 そうなると、彼女はこの能力さえあれば両親の死を回避できたかもしれないという自責の念に囚われているのではないか。
 絹香の心がようやく明瞭に見えてきた気がする。
 敦貴は顔を上げた。顎に手を当てて考え事をしていたせいで、どうやら体が固まってしまったらしい。時計を見やると、すでに日を(また)いでいた。
 とにかく、不穏な動きをする恒子のしっぽをつかんで、どうにか対処しなくては。悪意は早めに摘んでおくに限る。絹香への確認はその後だ。

 ***

 御鍵絹香様
 先日は父が失礼なことを言い、本当に申し訳なかった。
 あのような物言いは昔からそうです。私や母も、そんな父の残酷な言葉に振り回されて散々な目に遭いました。しかし、あれは私には君を侮辱するつもりはなかったのだと感じます。言い方はともかく、彼なりに君を気遣っていました。
 そんな父から、御鍵明寛氏の件を任されております。やはり父上の自死は不明な点が多い。
 その真相を解明すべく、私は方々から情報を仕入れています。君はおそらく嫌な顔をするのでしょうが、これは君のためでもある。君の支えになれたらと思います。
 さて、叔父上殿は君を再びぞんざいに扱い、大事にしないだろうと推察します。君の健やかな生活を脅かすような真似はさせないと誓った身でありますので、私からも十分配慮するよう伝えてあります。
 君は弟御との邂逅(かいこう)をただただ楽しめばよいのです。姉弟水入らずの再会ですので、私からの見送りは控えさせていただきますことをご容赦ください。
 では、毎度ながら短文で失礼いたします。
 貴姉のご健闘をお祈りしております。
 長丘敦貴

 急いで書いたのであろう走り書きのような手紙だった。絹香は部屋でひとり、敦貴からの手紙を読みながら待っている。いつもと同じく短いのに、この生真面目な文章を見るだけで心が落ち着くから不思議だ。
 ほどなくして御鍵邸では使用人たちがいっせいに庭園に並んで一視の到着を待っていた。
 表が賑やかになり、ふと窓の外を見た。どうやら一視と今利家の当主が邸に到着したらしい。
 絹香は急いで手紙を封筒へ入れ、懐に仕舞った。そして、叔父たちの歓迎の声を耳で聞きながら階段を駆け下りる。
「一視!」
 絹香は思わず声をあげた。
 八年ぶりに見る弟はすっかり背が伸びて、大人びた顔つきをしていた。絹香に似たまっすぐな黒髪と、利発そうにすっきりとした目元がこちらを見る。
「姉さん」
 声も低くなっていて、落ち着いた雰囲気だった。彼の体に合った焦げ茶色の背広がとても似合っている。
「お久しぶりです。姉さん、すっかりお綺麗になられましたね」
「あなたはとても凛々しくなったわね。立派だわ。すごく、会いたかった……」
 絹香が一視の手を握ると、彼はくすぐったそうに笑う。あの幼い一視の面影が残っている。それだけでも嬉しく、ただただ感激してしまう。
 そんな姉弟の再会に水を差すのは叔父の咳払いだった。
「絹香、今利様に失礼だ。わきまえなさい」
「失礼いたしました」
 すぐさま謝罪し、絹香は一歩後ろへ引く。そして、一視の背後に立つ老紳士、今利に深くお辞儀する。
「ようこそ、おいでくださいました」
 美しく丁寧な挨拶を心がけると、今利は嬉しそうに笑った。
「いやぁ、すっかり見違えましたな。絹香さん、ますます七重さんに似てきましたね」
 今利はおおらかで、とても愛嬌のある人だった。母の七重の遠縁に当たるというが、葬儀の際にしか会ったことがなかった。
 絹香は鍛えてきた微笑みを向けた。
「さぁ、中へどうぞ。長旅でお疲れでしょうし、ゆっくりしていってくださいな」
 叔母が中へ案内する。こちらもニコニコと完璧な作り笑いである。これにいっさいの疑心を抱くはずもなく、今利と一視は御鍵邸へ足を踏み入れた。

 瀬島は居間で使用人たちと一緒に客人へのもてなしの準備をしていた。それからは、叔父と今利を相手に学業の話について語り合う。
 彼は昨日よりも顔色が一段とよかった。しかし、絹香に対しては冷たかった。一視の前で妙な動きをすることはなく、おとなしいものだ。
 絹香も叔母と同席していたが、会話に入ることは許されない。
 ただ一視がいるだけで、この家の空気が軽く感じられる。いや、叔父たちはそうはいかないのだろうが、絹香にとっては居心地のいい空間だった。ここで粗相さえしなければ、穏便に時間が過ぎ去ってくれる。
 もし一視もこの家に引き取られていたら、叔父たちとも打ち解けていたのだろうか。そんなありもしない空想を思い浮かべてしまう。
 一視は今利や叔父たちの会話に混ざるでもなく、ただそこに黙って座っていた。チラチラと姉を見るところ、本当は絹香と話がしたいのだろう。体が成長し、たくましくなったとはいえ、姉から見ればまだ幼く愛しい弟であった。
 絹香と叔母は距離を空けて静かに茶を飲んでいた。いっさい、目を合わせずにいる。
 しかし、そんな穏やかな空間も今利の発言で一気に冷えた。
「そういえば、絹香さんは長丘家で花嫁修業をされているようですな」
 これに、叔父が絹香を睨む。その一瞬の攻撃が、絹香の心臓を握りつぶした。
 事情は今利家にも一視にも事前に伝えてあった。ゆえに、この話題は避けられないものだが、叔父は触れられたくなかったらしくぎこちない笑みを浮かべていた。
「えぇ、まぁ。なにしろわがまま放題に育ててしまったからか、縁談の話もなく……ですので、取引を再開していただいた長丘様の元で花嫁修業をさせることに」
「存じておりますよ。しかし、絹香さんは気立てもよいし、どこに出しても恥ずかしくないと思います。あの時、明寛氏の遺言で一視のみ預かるよう仰せつかったわけですが……私は、絹香さんも引き取るつもりでいたんですよ」
 そう言って今利が絹香に笑いかけた。蓄えた白い髭の下では慈愛に満ちた笑顔がある。心が震え、絹香は思わず茶器を落としそうになった。
「そうだったんですか……」
 それだけ言うのがやっとだった。
 この人に引き取られていたなら、どんなに幸せだったろうか。こんなに落ちぶれた今があまりにも無様で、誰の目にもさらしたくないという衝動に駆られる。次第に視線が下へ向き、絹香は笑うこともできなかった。
「姉さん?」
「あ、ごめんなさい」
 一視の声でハッと現実に引き戻される。
 叔父と叔母の責めるような視線が痛い。今は、幸せにあふれた令嬢になりきらねばならない。その使命を思い出し、絹香は精一杯の偽物の微笑みを向けた。しかし、気の利いた言葉はなにひとつ出てこなかった。
 気まずくていたたまれなかった絹香はひっそりと席を立ち、洗面台に引っ込んだ。放心状態のまま顔を洗う。
 ぼんやりと嵐の予感がする。一視が帰った後、叔父と叔母に罵られるのだろうと想像すれば、ますます気が滅入った。
「はぁ……」
 唐突に脳裏をよぎるのは敦貴の顔。彼の元へ帰りたい。そんな思いがあふれ、慌ててかき消す。
 ──どうして敦貴様のことを考えているの……。
 どこへ行っても居場所がないと感じ、絹香はなかなか洗面所から出られなかった。
 あの空間に戻ると自分の劣等感がどんどん浮き彫りになっていくような気がし、うまく笑えなくなる。そうなると、叔父たちに迷惑がかかる。今利に不審を抱かせ、一視にもすべて知られてしまう。それが一番恐ろしい。とくに一視に知られるのが耐えられなかった。
「──姉さん」
 背後から声がする。鏡を見ると、一視がドアを開けて立っていた。
「ノックはしたんだけれど」
「あ、ごめんなさい……気がつかなかったわ」
 急いで振り返って笑うも、やはりうまく笑えている気がしない。横目で鏡を見ると、ひどく狼狽した自分の姿が映っていた。こんなにも繕うのが下手だったろうか。
 一視はかろうじて絹香よりも背が低かった。しかし、子供の頃とは違って目線はぐんと近い。彼は心配そうに顔をうかがってきた。
「具合でも悪いんですか?」
「いえ、違うの。嬉しくて、涙が出そうになっただけ」
「本当ですか? とてもそんなふうには見えませんよ」
 一視は気遣うようでも、責めるようでもある言い方をした。自分との邂逅に不満があるのかと、そんな表情をしている。
 その厳しい圧のある口調に、やはり大人びたことを認識させられる。どことなく父の面影もあり、八年という年月で磨かれた一視の風格を見せつけられ、絹香は言葉を詰まらせた。
「姉さん、今日はどうせゆっくり話すことができないだろうから、ここで少し話しませんか」
「えぇ……」
 断ることができず、絹香はうつむき加減に笑った。
「またそんな笑い方をするんですね。姉さんは変わってしまいました」
「そうかしら。わたしはなにも変わってないはずよ」
 一視の呆れたような口調に、絹香は目を合わせず反論した。
「いいえ、昔はもっと強くて凛々しくて、優しかった。今は、なんだか誰かの目に怯えていて、しおらしく見えます。手紙にはそんな素振りなどいっさい見せなかったのに」
 現にそのとおりで、的を射ている。しかし、指摘されなければ気づこうともしなかった。
 絹香は自分の不甲斐なさを呪った。乾いた笑いが喉の奥から飛び出していく。
「わたしは……あなたに心配をかけたくなかったのよ。わたしが泣くわけにはいかないから」
「それはわかっています。あなたは昔からそうだ。でも、僕はもうあの頃のように弱くはありません。守ってもらわなくて結構です。自分の身くらい、自分で守れます」
 身震いしそうなくらい冷ややかな拒絶を絹香は感じた。一視は不信感たっぷりに眉をひそめる。
「情けない……なんですか、その顔は。あの頃の姉さんはどこに行ったんです? 僕の憧れていた姉さんを返してください」
「わ、わたしは弱いの。あなたが思っているほど強くない。誰かにすがってないと生きていけないのよ」
 追及に耐えきれず卑屈な言葉を口走る。それが決定打となり、一視の目が非難がましく細められた。
「そんな言葉は聞きたくありませんでした。幻滅ですよ」
 厳しい言葉は刃のごとく、絹香の心臓を切り裂く。一視はため息をついた。
「そもそも、長丘様の元に身を寄せているというお話も、僕は納得していません。嫁入り前の娘が男性の家で厄介になるなど、意味がわかりません。姉さんは御鍵家の格を、これ以上さらに落とすつもりですか?」
 一視の声は厳しい。きっと姉への羨望が強く、それゆえに失望感も強かったのだろう。こんなことを言うために上京してきたわけではないのだろうが、幻滅のあまり責めるしかないのだ。
「ごめんなさい」
 絹香は小さく呟いた。
「謝罪すれば許されるとでも?」
「でも、他に言葉が見つからないわ」
「はぁ……しっかりしてください。姉さんはいずれ御鍵家を背負うんですよ。叔父様の跡目を継ぐのは姉さんだ」
「まさか。女の身の上で、そんなことあるわけないわ。あなたが継ぐのよ」
 言葉の意味がわからず、絹香は戸惑いの声をあげた。そんな姉に構わず、一視は強情に言い放つ。
「いいえ、今の御鍵家に僕の居場所はありません。それに、お父様は僕じゃなく姉さんを叔父様にお預けになられた。僕は最初から期待されていなかったんです」
「そんなはずないわ。いずれはあなたが継ぐために、だからわたしは叔父様の元で、あなたの居場所を守ろうと……」
 しかし、自分の言葉に違和感を持った。どんどん消えていく自信が声になってあらわとなり、一視はさらに不機嫌な目で絹香を睨みつけた。
「では、仮にそうだとして。叔父様を支えずに勝手に家を空けたのは誰ですか」
 絹香は息を止めた。反論などできるはずがなく、またこれまで一視が持っていた劣等感や怒りを直に受け、ぐっと唇を噛む。
 それでも絹香は涙をこぼすまいと務めた。弟の前で泣いてはいけない。でも、もう心が壊れてしまいそうだ。
「……一視、あまり席を外しているといけないから、早く戻りなさい」
「わかりました。姉さんも早く戻ってください」
「えぇ」
 一視は諦めたようにその場を去った。ドアの前で一瞬だけ立ち止まり、さっさと出ていく。その後ろを追いかける気はなく、絹香は洗面台にもたれた。ゆるりと肩を落とすと張っていた気力が一気に消え失せた。我慢していた涙があふれてくる。
「……どうしてよ」
 白い器に透明の涙が流れ、視界がどんどん曇っていく。まるで水の中に放り込まれたかのように、景色が潤んでいく。
「どうしてうまくいかないの……どうしてわたしは……」
 どんな理不尽にも耐え、周囲からの要望に応えてきた。あれこれとたらい回しにされても、懸命に生きようと努力した。それなのに、たった少しの反抗がここまで周囲の信用を裏切ることになるとは思いもしなかった。
 理不尽だ。ただただ理不尽だ。これまでの人生があぶくとなって(つい)える。
「もう疲れたわ……」
 泣くことすら体力を奪う。かがんでいると、胸に仕舞っていた敦貴からの手紙が床へ落ちていった。
 そういえば、彼だけはすべてを受け止めてくれるような優しさがあった。だが、その優しさに甘えているだけなのかもしれない。これは愛ではない。瀬島が絹香にすがっていたような、そんな偽物の愛情を思わせる。
 弟への情ももしかすると、自分自身を正当化するためだけの()()だったのかもしれない。他人を思いやっているつもりが、いつの間にか自身を支えるための道具にすり替えている。それはなんだか寄生虫のようだ。
 敦貴のことを考えてしまうのは、つらいことから逃げようとしているだけなのかもしれない。そんな自分が情けなくなり、彼に会うのも恥ずかしく、どうしようもない喪失感に襲われた。
 ──わたしは、どうしたらいいの……。
 行き場がない。だったらいっそ、死んでしまえば楽になれるだろうか。
 絹香は洗面台にカミソリを見つけた。
 楽になりたい。父もそれを願って引き金を引いたのだろうか。すべてを捨てて楽になれば、永遠の幸せを手に入れられると。
 震える手でカミソリをつかむ。どこを切れば死ねるのかわからないまま、当てずっぽうに左の首筋へ刃を当てる。
 呼吸が乱れていく。恐怖と緊張が全身を巡る。これを一気に滑らせば、あとは簡単に意識を手放せる──。
「絹香さん!」
 突然、ドアから瀬島が飛び出した。ぐいっと手をつかみ上げられ、カミソリを床に落とす。
「なにを考えてるんだ!」
「離して!」
 声をあげると、彼は絹香の口を塞いだ。こんな騒ぎが居間に漏れたら大ごとだ。
 絹香は抵抗できず、涙を流したままでいた。瀬島は(あわ)れむように見つめている。それがますます惨めになり、絹香は静かに床へ崩れ落ちた。
「しっかりしてください、絹香さん。一視さんをひとりにするつもりですか? 彼はこの家のことをなんにも知らないから、ああ言っただけだろう」
 まさか瀬島から説得されるとは思わなかった絹香は、目を見開いて息を飲んだ。ドアの向こうで聞いていたのか。それとも叔父の差し金で見張っていたのか。
 おとなしくなったとわかると、瀬島は絹香の口を解放した。新鮮な空気が肺の中へ流れ込み、絹香は声を押し殺して泣いた。
「絹香さん」
 彼は遠慮がちに言った。口を開きっぱなしで後が続かない彼に、絹香はだんだんと苛立ちを覚えた。
「いい気味でしょう?」
「そんな、まさか」
 慌てて繕う瀬島だが、絹香は不審感たっぷりに口角を上げて彼を一瞥(いちべつ)した。
「嘘よ。信じられないわ」
 だが、瀬島は挑発に乗ることなくうなだれた。それがますます腹立たしい。どうして死なせてくれなかったのかと、理不尽に責め立てたくなる。
「わたしは、こうして叔父様たちの人形として生きるしかないの。だって、そうでしょう? 敦貴様との契約ももうすぐ終わるもの……」
 敦貴の名を紡ぐだけで涙があふれる。
 長丘家での生活は穏やかで温かかった。例え役目だとしても、彼のそばで恋愛ごっこをするのが楽しかったと、今ならそう思う。そして、幸福だった。敦貴との手紙のやり取りも、心を通わせるのも、かけがえのない時間だった。できることならこんな幸福を味わいたくなかった。もう誰にも愛されない生活に戻ることなどできない。
「一視はもう家族がいるの。だったら、もういいじゃない。わたしなんかいなくても、あの子はきっとやっていけるわ」
「それ、本気で言ってるの?」
 瀬島は唸るように訊いた。だが、怯むことなく口は勝手に言葉を紡ぐ。
「本気よ。だって、そうだもの。あなただって、わたしのことを愛してるって言いながら、助けてくれなかったじゃない」
「あぁ、そうだよ。僕はどうしようもなく卑劣で臆病だからね」
 彼は自嘲気味に言った。そこには苛立ちも含んでいた。対し、絹香も怒りが湧く。こんなに心が激しく揺れるのは久しぶりだ。
 しばらく互いに睨み合う。心をぶつけ合っても意味がないのに、理性はどこかへ姿をくらました。
「……あなたは、長丘との生活が幸せだったんだね」
 瀬島が諦めにも似た冷ややかな声を落とす。その言葉を肯定することはできず、絹香は強情に黙りこくっていた。
「だったら、行きなよ。そっちに飛び込んでしまえばいい。あなたの居場所は、きっと彼のところだ」
「違うわ」
 絹香は首を横に振った。
「だって、敦貴様には許嫁がいらっしゃるもの。わたしのことなんか、なんとも思ってないわよ」
 感情的になるあまり口調がとがる。そんな絹香を、瀬島は一視と同じような諦めの息を投げつけた。
「確かに一視さんの言うとおり、絹香さんは変わったよ……前はそんなふうに卑屈なことを言う人じゃなかった」
「そうさせたのは誰よ」
「あぁ、僕だろうね。そして、この家の環境があなたを変えた……僕はね、それでも前を向いて生きるあなたが好きだったんだ」
 瀬島は冷めきった目で絹香を見下ろし、カミソリを回収した。その際、落ちていた手紙も見つけた。一瞬ためらうも拾い上げて絹香に渡すと、彼は静かに洗面所から出ていった。
 残された絹香は()れた顔を再び洗い流し、鏡を見つめた。
 青白い頬と泣きはらした目が不細工だ。心が汚れている証拠だろうか。だが、いつまでも清廉ではいられない。心はすでに崩壊している。いつの間にかひび割れていて、粉々に砕けていくようだった。
 それを拾い集めるのはもはや困難であり、放置するに限る。しかし、もしかすると瀬島の心を救ったように、自分の心も修復できるのかもしれない。
 絹香は自身の胸を撫でた。心に熱を送るようなイメージをすると、敦貴の手紙が熱を帯びた。
 お守り代わりの手紙を開く。そこには、敦貴の言葉がしっかりとしたためられている。
『君の支えになれたらと思います』
 何度読み返しても、この一文が絹香の胸を穿(うが)つ。それは、まるで彼を欲するように。今すぐに会いたいと乞い願うような、身の程知らずな恋慕で。
 飛び込んでしまってもいいのだろうか。でも、そんなことは許されない。
 絹香は手紙を仕舞った。いくらか心が落ち着いていることに気がつき、思わず天井を仰ぐ。
「わたしは、敦貴様のことが──」
 皆までは言えない。それを口にすると、不幸がいっそう増すだろうから。
 あふれそうになった想いを、心の奥深くに閉じ込めた。