次の日、凛は学校でとある芸能事務所のオーデションを受けていた。
「いやー何て言うかね。スパイス……スパイスが足りないんだよなー!君は!!」
「は、はぁ……」
だが、これが全く上手くいっていない。目の前に居る小太りな事務所のマネージャーはかれこれ二十分ぐらい「刺激が足りない」「もっと革新的なものを」と凛に喋りかけているのだ。
会社のミーティングかと思うほど熱く語られているが、いわば凛の悪口のようなものである。最初はにこやかに対応をしていたが、流石にこうも長く話され続けられると自然な笑顔から作り笑顔に変わり、もう愛想笑いも辛くなってきた。どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。
「こんなにね、アドバイス貰える機会、少ないんだからね?」
「はい。本当に沢山、勉強させて頂くことばかりです」
何でこのオーデション、個人面接だったんだろう。いつもは集団面接って聞いていたのに。凛は顔を引き攣りながらも、「もっと頑張ります」「とても有難いお言葉です」と思ってもない言葉を並べ続け、この人は偉い人なんだーー!と言う言葉を自分の心に投げかけ、何とか自我を保っていた。
凛は一年生の後半から、俳優専攻の進路活動を始めていた。書類を書き、それを事務所に送り、オーデションに参加する。というのを何回も繰り返している。いつもはサクッと帰ってくださいと言われてしまうのだが、今日は何故かずっとこの小太りなマネージャーに引き止められている。
だけど、このマネージャー、審査が終わった瞬間「うちでは育てられませんね」と言ったのだ。ダメならオーデションを終了させれば良いのにずっとネチネチと時間を伸ばされ続けている。
あぁ……あと五分でチャイム鳴る!昼休み!七海に会ったら早速愚痴ろう……。
「君、演技はいつからやっているんだい?」
その質問は一時間前の審査で聞かれましたよ。あなたに。凛はこめかみに青筋を立てながらも、自分自身の怒りを強く押さえつけて笑顔で応答する。
「中学生の頃、演劇部に入っていたので、それから演技を始めました」
「その割には下手くそだよねー?」
じゃあ、あなたは上手いんですか。と口から出そうだった言葉を心の奥底に仕舞う。「あははー」と誤魔化した。冷静になろう凛、この人は偉い人なんだ。私が知らないだけできっと東京では凄いことをしているに違いない。だからーー、
「君、才能ないね〜」
「あははは……」
この言葉は流石に何回も言われるのは嫌だなと思った。授業終了を告げるチャイムが鳴ると、子太りなマネージャーはわざとらしく、
「あらら、結構長く話しちゃったねーごめんね?」と言った。
すくっと立ち上がり、「ありがとうございましたー!」と言って、即座に部屋を出て行った。
はあ……滅多にイライラすることないけど、流石にあれはイラついてしまう……。
凛は先ほどのオーデションの風景を思い出す。どれだけ頑張って自己アピールなどをしても、興味がないのか小太りなマネージャーは一切、凛に見向きもしなかった。それに関しては他の事務所のオーデションでも経験はしているので、別に気にしてはいないのだが、あのマネージャーは途中、完全に寝ていた。
寝ている人にずっと自分のことを紹介していたのだ。こんなことになるなら、何でもかんでもオーデションを受けないで、オーデションを受ける事務所は選ぶべきだったと後悔をする。流石にあんなマネージャーが居る事務所は入りたくないなと思った。
でも、凄い子はもう入る事務所とか養成所、決まってるしな……早く決めないと。凛はまた頑張ろうと自分を奮起させる。
学生サロンに行って昼食を摂る前に凛は一度、職員室まで向かった。オーデション結果を担任の高原先生に報告しなければならないのだ。
「はぁ……」
凛は思わずため息を溢してしまう。わざわざ落ちましたと報告するのが嫌だということもあるが、凛は何より担任の高原先生が苦手だった。二階の職員室へ着いて中に入ると丁度、財布を持って外に買い物をしようとしている高原先生を見つけ声を掛ける。先生にはちょっとだけ嫌な顔をされた。
「高原先生、お疲れ様です」
凛はまた愛想笑いでニコニコと挨拶をする。
「随分、オーデション終わるの遅かったんだね」
「あ、はい……マネージャーさんが長く話してて……」
「結果は?」
「落ちました……」
高原先生は呆れたように「そう」と呟く。凛は「すみません」と冷や汗をかきながら、肩をすくめて小さくなった。
「また何かオーデションとか、お仕事ありましたら声掛けてください……何でもしますので」
「凛は本当に不器用よね。誰か居ないと何もできない。だけど、七海の足は引っ張らないでね?あなたと違って、彼女は天才なんだから。今受けてる大手の事務所のオーデション、三次審査の結果が来たら、次で最終審査なの」
「いやー七海、凄いですよね……」
散々、高原先生から嫌味のサンドバックを受けた後、やっと凛は休み時間を真っ当に過ごせる権利を得た。三階の学生サロンには午前の授業や稽古が終わり、休憩を取っている沢山の生徒たちで溢れかえっていた。
サロンは穏やかな木目調の床に白い壁という何ともシンプルな設計だが、生徒たちはそれぞれの仲良しグループで固まって座り、楽しそうに談笑をしている。凛はサロン内を歩き回りながら、親友の七海の姿を探していた。
「あ、七海!ごめん遅くなった」
「ううん。大丈夫だよ。オーデションどうだった?」
「あー落ちた。それに二十分ぐらい色々ネチネチ言われちゃった」
「それ、最悪だね」
「そー聞いてよ」
今日の朝に作ってきたお弁当を広げながら、先ほど受けたオーデションの愚痴を七海に溢す。七海はパックのミルクティーを片手に「うんうん」と話を聞いてくれていた。
旗本七海ーー彼女は私の親友で高原先生が言っていた通り、天才だ。ミュージカル女優を目指していて、英語は堪能で海外でも活躍ができるのではないかと学校、主に高原先生に期待をされている。
現に七海は今、大手芸能事務所のオーデションを受けていて、今は三次審査の結果待ち。結果が良ければ、最終審査に進み、それが受かれば養成所をパスして本所属できる。
彼女とは入学式で席が隣になったということがきっかけでよく話すようになり、こうして今もずっと一緒に居てくれる。二歳年上で面倒見が良い彼女は凛の親友でもあり、姉のような存在でもあった。
本来、私と七海は別世界の人だ。仲良くしてもらうのがおこがましいと思ってしまうほどに。それほどまでに彼女は天才だった。圧倒的歌唱能力とダンス、演技力、その全てを兼ね備えている。高原先生が七海をお気に入り認定するのも納得する。専門学校に入ってからずっと凡才だと言われる続けてる私とは大違いだ。
「また、オーデション待ちの日々か……」
「大丈夫だよ。凛の魅力に気づいてくれる人は必ず居る。私にとって凛は物凄く魅力的な人だから」
「もう冗談良してよー私だって自分の実力ぐらい分かってるよ。ちゃんと自分の立ち位置も弁えてる」
「もう、凛っていつも自分に対して否定的だよね」
「だって、高原先生にずっと『凛は凡才』って言われ続けるんだもん」
高原先生は一年生の頃から、生徒のえこひいきが凄い。天才や顔が整っているイケメンはめちゃくちゃ大切にするし、ニコニコ笑顔でその生徒と話す。だけど、それ以外の生徒には常に理不尽極まりない態度だ。芸能界という世界だから、そんなの当たり前だと言われて仕舞えばそれまでなのだが……。
「はぁ……」
「ため息は幸せが逃げるぞ〜?」
七海はひょいっと空気を掴む動作をして、凛に向かって両手を広げる。
「はい!凛が吐いたため息を取り返してあげる」
両手広げてる時点でもう幸せ逃げてない?でも、有り難く頂戴した。
だけど、またすぐにため息を溢してしまう。
「あ!!せっかく私が取り返したのに!!」
ぷくりと頬を膨らませる七海。凛は手を合わせながら「ごめん!ごめん!」と謝った。
「良いよ。許す」
「ありがとう」
「また嫌なことがあったら、我慢せずに話すんだよ?いつでも愚痴聞くから」
「ななみぃ〜ありがとう〜」
七海はいつだって私の大好きな親友で、憧れだ。私もいつか七海のように余裕がある大人の女性になりたい。「あ、私ちょっと自販機で飲み物買ってくる」
「うん。分かったよー行ってらっしゃい!」
飲み物を持ってくるのを忘れたことに気づき、凛は七海に軽く手を振り、自販機コーナーへと向かった。サロンの自販機は赤、青、白の三つがあり、その中でも青い自販機の前に立つ。この自販機は当たり付き自販機と言われるもので、飲み物を買うと必ずルーレットが始まり、数字が揃うともう一本、好きな飲み物を選べるという学生には優しい自販機だ。
凛はふとしたとき、ルーレットの結果を待つのが何だかパチンコみたいだなと思うときがある。やったことはないけど。
微糖コーヒーのボタンを押し、凛はゴトッと鈍い音で出てきた缶コーヒーを手に取る。すると、明るい音でルーレットが始まりだした。小さな画面には数字の七が次々と並んでいき、最後の数字が表示されるまでにピピピと焦らすような音が鳴り続ける。当たって!当たって欲しいーーと強く願ったがその願いも虚しく、凛はハズレたことを寂しい音で理解をする。
まぁ、人生こんなもんだよね。
「あ、ハズレてる」
少し茶化すような笑い声が聞こえてきて、思わず胸が躍った。
くるっと横に振り向くとそこには凛が尊敬をしている先輩、凪が初めて会ったときと同じように優しい微笑みを浮かべて立っていたのだ。
「お疲れ様です……!石田先輩ーー」
凪とは連絡先を交換してから、よくラインで連絡を取るようになっていた。お互いに時間が合ったときは一緒に帰っていたりもして、そのときに彼の学んでいる音楽や凛が目指している役者について話し、盛り上がっている。
「凛ちゃんお疲れ様、この後も授業あるの?」
「はい。演技実践の授業と座学ですね」
「へー俳優専攻も座学とかあるんだ」
「まぁ、滑舌とかなのでほぼ実践ですけどね。黙って先生の話聞くことはあまりないです」
「凄いな。俺、早口言葉とかだったら、めちゃくちゃ噛んじゃいそう」
「慣れればどうってことないですよ」
きっと凛のことを知っている人たちからすれば、凪と楽しそうに話しているのは驚愕の光景だろう。凛だって驚いているのだ。まさか、人見知りの自分が他コースでしかも男の先輩とこんな風に楽しく談笑が出来る日が来るなんて思いもしなかった。
何故かは分からないが、凛にとって凪の声や表情は何だか落ち着く。それに愛想笑いではなく、自然に笑えるのだ。
凛が日常生活で自然に笑えるのは本当に心の底から嬉しかったり、楽しかったりするときだけだ。それ以外はどうしても、愛想笑いをよくしてしまうのだが、凪の前では不思議と自然体で居られた。
「あ、そう言えば飲み物買いたかったんだ」
そう言って、凪は青い自販機でサイダーのボタンを押した。凛のときと同じようにルーレットが始まり、数字が並んでいく。
「先輩、サイダーお好きなんですか?」
「うん。炭酸系好きなんだよねー」
「不健康でしょ」と笑いながら、凪はサイダーを取り出す。すると、青い自販機から明るい音が聞こえてきた。
「先輩!当たってますよ!!」
「え?本当だ!どうしようー!!凛ちゃん、サイダーは好きかい⁉︎」
焦りすぎて凪の声が少し裏返った。
当たり画面は30秒ほどしか表示されないので、こんなことを聞いている場合ではないと思うが、凛は「好きです!!」と急ぎ足で答えた。
彼はおまけの飲み物に何を選ぶのだろうとじっと凪の手先を見つめていると、彼はまたサイダーのボタンを押した。そんなにサイダーが好物なんだなと思っていると、凪は凛に向かって「はい」とサイダーを差し出す。
「え?」
「好きって言ってたから、あげる」
「あ、ありがとうございまーー」
感謝の言葉を言い切る前に凪は凛の手を取って、サイダーを握らせた。初めて、彼に手を触れられた。演技以外で男性に触れられるのは嫌な気持ちになってしまう凛だが、凪の手は嫌じゃないなと感じた。
「お揃いだね」
凪は自分のサイダーを軽く揺らす。シュワシュワっと可愛い泡がラベルの隙間から見えた。その泡が蛍光灯の光に照らされ、煌めいている。凛は凪の持っているサイダーが何だか芸術作品のように見えてしまって、自分の頭はおかしくなったんじゃないかと動揺してしまった。
「じゃあ、良い昼休みを過ごしてね」
「ありがとうございます。先輩もゆっくり休んでください」
また初めて話しかけられたときみたいに凛は小さくお辞儀をする。凪もあのときと同じように小さく「バイバイ」と手を振っていた。今度は凛も手を振り返し、七海が待っているテーブルへ歩を進めた。
「ただいま」
「おかえり〜」
席に着くと七海はニヤニヤした表情で凛のことを見つめていた。
「どうしたの?そんな顔して」
「いやーお似合いじゃん」
唯一、七海だけは凛の好きな人を知っている。
「もう付き合った?」
「付き合ってないよ」
「えーまだなの?そろそろ付き合っても良い頃合いじゃない?」
「お互い休み合わなくて、まだ一回も休日に二人で遊んだことない」
「天才の彼と付き合うのは至難の技なのか」
「しょうがないよ。先輩は外部から作曲の依頼とか受けてるし、仕事が忙しいって言ってた」
取り敢えず七海の前では普通に先輩呼びで統一することにした。
凪は学校で技術を学びつつ、外部の人から作曲の依頼をよく受けている。学生の頃から仕事を貰っている生徒は少ないみたいなので、凄いことだ。一年生の頃より仕事が増えたのでとても大変だと愚痴を溢していたことがある。でも、そのような愚痴を言った後に彼は必ず口にする言葉があった。
「でも、俺は好きなことづくめで幸せだから、頑張るんだ」
そのときの凪の表情はとても、穏やかだった。
あの穏やかに笑う姿は忘れられない。そんな幸せそうな彼を見ていると「あぁ、この笑顔をずっと見ていたいな」という感情になる。
本当に彼は不思議な人だ。
「じゃあ、凛の恋愛が上手くいきますようにってお願いしとくわ!」
七海は両手を合わせ、「う〜ん」と不思議な声を発しながら、天に向かって願ってくれた。その姿が何だか可愛くて微笑ましくなった。
「いやー何て言うかね。スパイス……スパイスが足りないんだよなー!君は!!」
「は、はぁ……」
だが、これが全く上手くいっていない。目の前に居る小太りな事務所のマネージャーはかれこれ二十分ぐらい「刺激が足りない」「もっと革新的なものを」と凛に喋りかけているのだ。
会社のミーティングかと思うほど熱く語られているが、いわば凛の悪口のようなものである。最初はにこやかに対応をしていたが、流石にこうも長く話され続けられると自然な笑顔から作り笑顔に変わり、もう愛想笑いも辛くなってきた。どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。
「こんなにね、アドバイス貰える機会、少ないんだからね?」
「はい。本当に沢山、勉強させて頂くことばかりです」
何でこのオーデション、個人面接だったんだろう。いつもは集団面接って聞いていたのに。凛は顔を引き攣りながらも、「もっと頑張ります」「とても有難いお言葉です」と思ってもない言葉を並べ続け、この人は偉い人なんだーー!と言う言葉を自分の心に投げかけ、何とか自我を保っていた。
凛は一年生の後半から、俳優専攻の進路活動を始めていた。書類を書き、それを事務所に送り、オーデションに参加する。というのを何回も繰り返している。いつもはサクッと帰ってくださいと言われてしまうのだが、今日は何故かずっとこの小太りなマネージャーに引き止められている。
だけど、このマネージャー、審査が終わった瞬間「うちでは育てられませんね」と言ったのだ。ダメならオーデションを終了させれば良いのにずっとネチネチと時間を伸ばされ続けている。
あぁ……あと五分でチャイム鳴る!昼休み!七海に会ったら早速愚痴ろう……。
「君、演技はいつからやっているんだい?」
その質問は一時間前の審査で聞かれましたよ。あなたに。凛はこめかみに青筋を立てながらも、自分自身の怒りを強く押さえつけて笑顔で応答する。
「中学生の頃、演劇部に入っていたので、それから演技を始めました」
「その割には下手くそだよねー?」
じゃあ、あなたは上手いんですか。と口から出そうだった言葉を心の奥底に仕舞う。「あははー」と誤魔化した。冷静になろう凛、この人は偉い人なんだ。私が知らないだけできっと東京では凄いことをしているに違いない。だからーー、
「君、才能ないね〜」
「あははは……」
この言葉は流石に何回も言われるのは嫌だなと思った。授業終了を告げるチャイムが鳴ると、子太りなマネージャーはわざとらしく、
「あらら、結構長く話しちゃったねーごめんね?」と言った。
すくっと立ち上がり、「ありがとうございましたー!」と言って、即座に部屋を出て行った。
はあ……滅多にイライラすることないけど、流石にあれはイラついてしまう……。
凛は先ほどのオーデションの風景を思い出す。どれだけ頑張って自己アピールなどをしても、興味がないのか小太りなマネージャーは一切、凛に見向きもしなかった。それに関しては他の事務所のオーデションでも経験はしているので、別に気にしてはいないのだが、あのマネージャーは途中、完全に寝ていた。
寝ている人にずっと自分のことを紹介していたのだ。こんなことになるなら、何でもかんでもオーデションを受けないで、オーデションを受ける事務所は選ぶべきだったと後悔をする。流石にあんなマネージャーが居る事務所は入りたくないなと思った。
でも、凄い子はもう入る事務所とか養成所、決まってるしな……早く決めないと。凛はまた頑張ろうと自分を奮起させる。
学生サロンに行って昼食を摂る前に凛は一度、職員室まで向かった。オーデション結果を担任の高原先生に報告しなければならないのだ。
「はぁ……」
凛は思わずため息を溢してしまう。わざわざ落ちましたと報告するのが嫌だということもあるが、凛は何より担任の高原先生が苦手だった。二階の職員室へ着いて中に入ると丁度、財布を持って外に買い物をしようとしている高原先生を見つけ声を掛ける。先生にはちょっとだけ嫌な顔をされた。
「高原先生、お疲れ様です」
凛はまた愛想笑いでニコニコと挨拶をする。
「随分、オーデション終わるの遅かったんだね」
「あ、はい……マネージャーさんが長く話してて……」
「結果は?」
「落ちました……」
高原先生は呆れたように「そう」と呟く。凛は「すみません」と冷や汗をかきながら、肩をすくめて小さくなった。
「また何かオーデションとか、お仕事ありましたら声掛けてください……何でもしますので」
「凛は本当に不器用よね。誰か居ないと何もできない。だけど、七海の足は引っ張らないでね?あなたと違って、彼女は天才なんだから。今受けてる大手の事務所のオーデション、三次審査の結果が来たら、次で最終審査なの」
「いやー七海、凄いですよね……」
散々、高原先生から嫌味のサンドバックを受けた後、やっと凛は休み時間を真っ当に過ごせる権利を得た。三階の学生サロンには午前の授業や稽古が終わり、休憩を取っている沢山の生徒たちで溢れかえっていた。
サロンは穏やかな木目調の床に白い壁という何ともシンプルな設計だが、生徒たちはそれぞれの仲良しグループで固まって座り、楽しそうに談笑をしている。凛はサロン内を歩き回りながら、親友の七海の姿を探していた。
「あ、七海!ごめん遅くなった」
「ううん。大丈夫だよ。オーデションどうだった?」
「あー落ちた。それに二十分ぐらい色々ネチネチ言われちゃった」
「それ、最悪だね」
「そー聞いてよ」
今日の朝に作ってきたお弁当を広げながら、先ほど受けたオーデションの愚痴を七海に溢す。七海はパックのミルクティーを片手に「うんうん」と話を聞いてくれていた。
旗本七海ーー彼女は私の親友で高原先生が言っていた通り、天才だ。ミュージカル女優を目指していて、英語は堪能で海外でも活躍ができるのではないかと学校、主に高原先生に期待をされている。
現に七海は今、大手芸能事務所のオーデションを受けていて、今は三次審査の結果待ち。結果が良ければ、最終審査に進み、それが受かれば養成所をパスして本所属できる。
彼女とは入学式で席が隣になったということがきっかけでよく話すようになり、こうして今もずっと一緒に居てくれる。二歳年上で面倒見が良い彼女は凛の親友でもあり、姉のような存在でもあった。
本来、私と七海は別世界の人だ。仲良くしてもらうのがおこがましいと思ってしまうほどに。それほどまでに彼女は天才だった。圧倒的歌唱能力とダンス、演技力、その全てを兼ね備えている。高原先生が七海をお気に入り認定するのも納得する。専門学校に入ってからずっと凡才だと言われる続けてる私とは大違いだ。
「また、オーデション待ちの日々か……」
「大丈夫だよ。凛の魅力に気づいてくれる人は必ず居る。私にとって凛は物凄く魅力的な人だから」
「もう冗談良してよー私だって自分の実力ぐらい分かってるよ。ちゃんと自分の立ち位置も弁えてる」
「もう、凛っていつも自分に対して否定的だよね」
「だって、高原先生にずっと『凛は凡才』って言われ続けるんだもん」
高原先生は一年生の頃から、生徒のえこひいきが凄い。天才や顔が整っているイケメンはめちゃくちゃ大切にするし、ニコニコ笑顔でその生徒と話す。だけど、それ以外の生徒には常に理不尽極まりない態度だ。芸能界という世界だから、そんなの当たり前だと言われて仕舞えばそれまでなのだが……。
「はぁ……」
「ため息は幸せが逃げるぞ〜?」
七海はひょいっと空気を掴む動作をして、凛に向かって両手を広げる。
「はい!凛が吐いたため息を取り返してあげる」
両手広げてる時点でもう幸せ逃げてない?でも、有り難く頂戴した。
だけど、またすぐにため息を溢してしまう。
「あ!!せっかく私が取り返したのに!!」
ぷくりと頬を膨らませる七海。凛は手を合わせながら「ごめん!ごめん!」と謝った。
「良いよ。許す」
「ありがとう」
「また嫌なことがあったら、我慢せずに話すんだよ?いつでも愚痴聞くから」
「ななみぃ〜ありがとう〜」
七海はいつだって私の大好きな親友で、憧れだ。私もいつか七海のように余裕がある大人の女性になりたい。「あ、私ちょっと自販機で飲み物買ってくる」
「うん。分かったよー行ってらっしゃい!」
飲み物を持ってくるのを忘れたことに気づき、凛は七海に軽く手を振り、自販機コーナーへと向かった。サロンの自販機は赤、青、白の三つがあり、その中でも青い自販機の前に立つ。この自販機は当たり付き自販機と言われるもので、飲み物を買うと必ずルーレットが始まり、数字が揃うともう一本、好きな飲み物を選べるという学生には優しい自販機だ。
凛はふとしたとき、ルーレットの結果を待つのが何だかパチンコみたいだなと思うときがある。やったことはないけど。
微糖コーヒーのボタンを押し、凛はゴトッと鈍い音で出てきた缶コーヒーを手に取る。すると、明るい音でルーレットが始まりだした。小さな画面には数字の七が次々と並んでいき、最後の数字が表示されるまでにピピピと焦らすような音が鳴り続ける。当たって!当たって欲しいーーと強く願ったがその願いも虚しく、凛はハズレたことを寂しい音で理解をする。
まぁ、人生こんなもんだよね。
「あ、ハズレてる」
少し茶化すような笑い声が聞こえてきて、思わず胸が躍った。
くるっと横に振り向くとそこには凛が尊敬をしている先輩、凪が初めて会ったときと同じように優しい微笑みを浮かべて立っていたのだ。
「お疲れ様です……!石田先輩ーー」
凪とは連絡先を交換してから、よくラインで連絡を取るようになっていた。お互いに時間が合ったときは一緒に帰っていたりもして、そのときに彼の学んでいる音楽や凛が目指している役者について話し、盛り上がっている。
「凛ちゃんお疲れ様、この後も授業あるの?」
「はい。演技実践の授業と座学ですね」
「へー俳優専攻も座学とかあるんだ」
「まぁ、滑舌とかなのでほぼ実践ですけどね。黙って先生の話聞くことはあまりないです」
「凄いな。俺、早口言葉とかだったら、めちゃくちゃ噛んじゃいそう」
「慣れればどうってことないですよ」
きっと凛のことを知っている人たちからすれば、凪と楽しそうに話しているのは驚愕の光景だろう。凛だって驚いているのだ。まさか、人見知りの自分が他コースでしかも男の先輩とこんな風に楽しく談笑が出来る日が来るなんて思いもしなかった。
何故かは分からないが、凛にとって凪の声や表情は何だか落ち着く。それに愛想笑いではなく、自然に笑えるのだ。
凛が日常生活で自然に笑えるのは本当に心の底から嬉しかったり、楽しかったりするときだけだ。それ以外はどうしても、愛想笑いをよくしてしまうのだが、凪の前では不思議と自然体で居られた。
「あ、そう言えば飲み物買いたかったんだ」
そう言って、凪は青い自販機でサイダーのボタンを押した。凛のときと同じようにルーレットが始まり、数字が並んでいく。
「先輩、サイダーお好きなんですか?」
「うん。炭酸系好きなんだよねー」
「不健康でしょ」と笑いながら、凪はサイダーを取り出す。すると、青い自販機から明るい音が聞こえてきた。
「先輩!当たってますよ!!」
「え?本当だ!どうしようー!!凛ちゃん、サイダーは好きかい⁉︎」
焦りすぎて凪の声が少し裏返った。
当たり画面は30秒ほどしか表示されないので、こんなことを聞いている場合ではないと思うが、凛は「好きです!!」と急ぎ足で答えた。
彼はおまけの飲み物に何を選ぶのだろうとじっと凪の手先を見つめていると、彼はまたサイダーのボタンを押した。そんなにサイダーが好物なんだなと思っていると、凪は凛に向かって「はい」とサイダーを差し出す。
「え?」
「好きって言ってたから、あげる」
「あ、ありがとうございまーー」
感謝の言葉を言い切る前に凪は凛の手を取って、サイダーを握らせた。初めて、彼に手を触れられた。演技以外で男性に触れられるのは嫌な気持ちになってしまう凛だが、凪の手は嫌じゃないなと感じた。
「お揃いだね」
凪は自分のサイダーを軽く揺らす。シュワシュワっと可愛い泡がラベルの隙間から見えた。その泡が蛍光灯の光に照らされ、煌めいている。凛は凪の持っているサイダーが何だか芸術作品のように見えてしまって、自分の頭はおかしくなったんじゃないかと動揺してしまった。
「じゃあ、良い昼休みを過ごしてね」
「ありがとうございます。先輩もゆっくり休んでください」
また初めて話しかけられたときみたいに凛は小さくお辞儀をする。凪もあのときと同じように小さく「バイバイ」と手を振っていた。今度は凛も手を振り返し、七海が待っているテーブルへ歩を進めた。
「ただいま」
「おかえり〜」
席に着くと七海はニヤニヤした表情で凛のことを見つめていた。
「どうしたの?そんな顔して」
「いやーお似合いじゃん」
唯一、七海だけは凛の好きな人を知っている。
「もう付き合った?」
「付き合ってないよ」
「えーまだなの?そろそろ付き合っても良い頃合いじゃない?」
「お互い休み合わなくて、まだ一回も休日に二人で遊んだことない」
「天才の彼と付き合うのは至難の技なのか」
「しょうがないよ。先輩は外部から作曲の依頼とか受けてるし、仕事が忙しいって言ってた」
取り敢えず七海の前では普通に先輩呼びで統一することにした。
凪は学校で技術を学びつつ、外部の人から作曲の依頼をよく受けている。学生の頃から仕事を貰っている生徒は少ないみたいなので、凄いことだ。一年生の頃より仕事が増えたのでとても大変だと愚痴を溢していたことがある。でも、そのような愚痴を言った後に彼は必ず口にする言葉があった。
「でも、俺は好きなことづくめで幸せだから、頑張るんだ」
そのときの凪の表情はとても、穏やかだった。
あの穏やかに笑う姿は忘れられない。そんな幸せそうな彼を見ていると「あぁ、この笑顔をずっと見ていたいな」という感情になる。
本当に彼は不思議な人だ。
「じゃあ、凛の恋愛が上手くいきますようにってお願いしとくわ!」
七海は両手を合わせ、「う〜ん」と不思議な声を発しながら、天に向かって願ってくれた。その姿が何だか可愛くて微笑ましくなった。