「それじゃあ、このチームで稽古に励むように」

今日から新たな舞台の稽古が始まった。十月に行われる学園祭での演劇公演だ。
今回の学園祭は何個かのチームで分かれてそれぞれ上演する。ちなみにチーム決めはくじ引きで行われた。
そしてただ上演するだけではなく、お客さんにどの舞台が一番面白かったかを投票してもらい、順位を競い合うのだ。

「みんな、絶対に一位を取ろうね」

やる気に満ち溢れている口調でその言葉を発したのはチームのリーダーの莉子だった。彼女はじっくりと台本に目を通し始める。
いつも率先して前へ前へと出る莉子にはリーダーがピッタリだ。

「えへへ」とハッピーなオーラが満載の声が聞こえた。その声の正体、美桜は目を輝かせばがら、莉子の方をずっと見ている。

「莉子と一緒になれて良かったー!」

彼女は本当に莉子のことが大好きなようで、たまに怖いと思うときがある。
でも根は優しい子だ。私は結構、好印象で好き。それに何となく似ている部分が所々あって、お互いに「あーそれそれ」と言い合えるぐらいには仲良くなった。

「早く読み合わせしよ。楽しみで仕方ない」

台本に綺麗な字で名前を書いている男子生徒の名は岳だった。
彼は映画に出ることが夢らしく、自然体な演技をよく高原先生に「素晴らしい」と褒められていた。

「じゃあ、早速読み合わせ始めますか!」

リーダの指令に元気よく「はい!」と答えた。
読み合わせが終わるとそれぞれが感じた物語の気になるシーンをピックアップしていき、課題点やセリフの意味の確認をメンバーで共有した。
久しぶりに充実した一日を過ごしたような気がする。

不安に思っていたが、案外稽古は良い雰囲気で進められていた。
お互いに足りない所を指摘してあげられる。
これならまた頑張れる。

だけどその平和はしばらくしてから崩れ始めてく。



「え、つまんないんだけど」

長机に肘をつきながら鋭い視線で凛たちを見る高原先生は学祭公演の通し稽古を見て一言、そう言った。
凛は喉が異常に渇き、視線を下に落とす。恐怖で先生の顔を見れないし、何よりショックを受けた。

それは他の学祭グルームメンバーも同じようで、莉子や美桜は「有り得ないでしょ……」と驚いた表情で目を見開いている。
岳は元々高原先生にお気に入りということもあって、ショックがかなり大きいらしい。彼もまた、呆然と立ち尽くしていた。

「ど、どこかつまらないんでしょうか……?」
「そ、そうですよ!具体的に教えてください!!」
「全部。学園祭はチケット代は取らないけど、もし値段をつけるとしたら、五百円ぐらいしか私は払えないわ」
「で、でもラストシーンとかはみんなでこだわって作って……!」

莉子を筆頭に凛以外のメンバーは高原先生に反抗する。

「あなた達は全員、凡才なのねーー」

凛以外の目が一気に曇る。きっと言われたことがないのだろう。
全員が下を向き、虚な目をした。

「大体、莉子はねーー」

今日は相当なストレスを高原先生は溜めていたのだろう。稽古には関係がない話で生徒たちの人格を否定するような言葉を並べ立てていた。

そのせいだ。
私たちのグループの関係性が変わってしまったのは。
数日後、またチームで集まり稽古をしていた。
あれから莉子は度々、高原先生から理不尽なことを言われ続けたようで、とてもイライラしている。
リーダーとしての自覚がないとかを言われたらしい。
せっかく高まっていたチームの雰囲気も台無しにされてしまったので、稽古はスムーズに進められいた前のようにはできなかった。

凛がセリフを言っているとき、突然莉子に演技を止められた。

「ねぇ、凛ーー」
「な、何?」
「あんた、やる気あんの?」

大人っぽく綺麗な顔が歪む。ぐいっと近づき、こちらを睨む莉子。彼女の瞳には何故だか憎しみがこもっているような気がした。
凛は思わず後ずさってしまう。
美桜と岳も状況を飲めていないようで、怪訝な視線を莉子に向けていた。

「やる気あるよ……」

恐怖で声がぼそぼそと小さくなる。それが彼女を余計に苛立てさせてしまったのか、口調がどんどんキツくなっていく。

「あんた、この前の通し稽古のとき、高原先生に何も言い返さなかったよね?何で?悔しくないの?」

私だって悔しい。でも恐怖で言い返せない。私には勇気がない。

「この前、私わざわざ呼び出されて、『あなた達は甘いグループだ。そんなんじゃ上に行けない』って言われたの」
「おい莉子、落ち着けーー」
「そんなこと言ってるからレベルが低いって言われるんだよ!私はこんな所で止まっていたくない。もっと上に行かないといけないんだ。だからーー」

「あんたの演技は一番見てあげる」

これは私やチームを思っての行動ではない。きっと私をストレス発散のサンドバックにしたいだけなんだ。
それからは地獄だった。
今まで「良いね!」「最高!」と言ってもらた演技を全て否定された。
凛が言い返せない性格なのを莉子は分かっているから、こんな酷いことをするのだ。

最初は味方になってくれていた美桜や岳も日頃のストレスを凛にぶつけるようになっていった。三人はストレス解消をすることで演技のレベルがどんどん上がっていく。
逆に凛は彼女たちにどんどんレベルを下げられてしまった。

今まで一緒に頑張ってきた仲間だった筈なのに。
大切だと思っていた仲間に酷い言葉を掛けられることになるとは、入学時の凛は想像していなかっただろう。

恐怖の対象が増えてしまった。
学校に居ると気が休まらない時間ばかりで、時々吐き気を催すようになってしまった。辛い……辛い……。

凪くん……助けて……。
この悲痛な叫びはあの人には聞こえない。
七海には言えない。「言うなよ」と脅されているからだ。

「あんたには才能がない」
「もっともっと練習しなよ」
「おい、泣いて逃げんじゃねーよ」
「凛の演技ってなんかうざい」
「分かるー気持ち悪いよね」

「三人共、良いんじゃない?それに比べて凛はーー」

高原先生に褒められている三人は最高な笑顔をしていた。
凛の目はどんどんきつくなっていき、彼らを睨む。
こんな奴らが役者なのか。人を当たり前のように踏み躙って喜ぶような奴らしか居ないのか。大嫌いだ。

「私たちは指導してあげているの。ていうか、役者の世界ってこんなもんでしょ。これが耐えられないなら、プロになれるわけないじゃん。役者向いてないんじゃない?辞めちゃえば?」

耳を塞いでも、嘲笑う声が耳にこびりつて離れてくれない。

あんたらはプロなのかよ。
人のことを貶して、それがプロなのかよ。
誰かに下に見なきゃ生きていけねーのかよお前ら。
誰かに希望を、楽しみを、救いを与えられるのが役者の魅力だと思っていたのに。

「あんたって存在してる意味あるの?」

こんな奴らが……こんな奴らしか……上には行けないのか?
嫌いだーー。

「消えてくれないかなー」

嘲笑うこいつらも。

「あなたの存在価値って何?」

こいつも。

「俺は凛の味方だから」

嘘つきのあいつも……みんな、大っ嫌いだ。
こんな奴らに負けてたまるか。私は絶対に役者になる。
何倍も努力して役者になってやる。

正しく努力した人が夢を叶えるって証明してやる。



「違う。こうじゃない。もっと景色を想像しないとーー!!」

もう一度、もう一度と凛は同じセリフを繰り返して言う。

「あんたにはできない」

うるさい。黙れ。
幻影が肩に取り憑いてくる。練習をしているとき、私の邪魔をしてくる。
「お前はできないと」。そんなことはない。私にだってーー。

凛は台本を思いっきり床に叩きつけた。するりと床を滑って、凛から遠く離れる。

でもできない……。呪いの言葉が邪魔をして上手く演技ができなくなってしまった。
凛を歯を軋ませる。練習しないといけないのに。努力しないといけないのに。
絶対に大嫌いな奴らに私を認めさせてやるんだから。
最後には努力した人が勝つ。そうじゃないといけない。

「演技をしているとき何を考えているかって?」
「うん。そうーー」

「うーん」と七海は真剣に頭を悩ませる。
莉子たちのことは言っていないが、自分の演技に関しては一人だけでは解決が難しく、凛は七海に助言を求めた。

「凛の演技が一番楽しかった頃を思い出してみれば?私はやっぱり楽しむことを大切にしているから」

一番楽しかった頃ーー。それは断然、高校時代だ。

あれは高校二年生のときだ。私が人生初めての主役を務めた公演があった。
その当時、凛は田舎の小さな劇団に入っていた。先輩たちは高校卒業と同時に小さな地元の町から大きい都会の街へと行ってしまうので、凛はそのとき劇団の中では最年長だった。中学から知り合いの劇団の脚本・演出家さんに気に入れられたこともあり、物凄くやりがいのある役を貰ったことを覚えている。
 
嫌われ者でずっと孤独に暮らしていた村の男の子が村に新しく引っ越してきた女の子と出会い人生を変えられるお話だ。
最後は村に狼が襲撃してきて、ずっと自分のこと嫌っていた村の人々を守り抜きながら、男の子は狼と戦い、死んでしまうという結末。だが、女の子との出会いによって初めて、誰かに優しくされる気持ちと誰かに優しくすることで得られる気持ちを知る。

「こんな嬉しい気持ちは初めてだ。君と出会えたから、今まで生きてきて良かった」

その公演は大喝采を浴び、終演後の客出しのときには凛はヒーローだった。凛のことをよく知らない人が「かっこいい!」とか「凄かった!」と言ってくれるのだ。
さらには外国の人にも英語で何か褒めてもらえた。詳しい文章はわからないけど、きっと「素晴らしい!感動した!」みたいな意味だったと思う。
 
そうだ。あのときーー私は自分の演技で誰かを救えるのかもしれないと思ったんだ。

「ねぇねぇ!お姉ちゃん!!」

そういえば小さい女の子も話かけて来てくれたような気がする。

「どうしたの?」
「おねぇちゃん!すごかった!わたしもえんぎやりたい!わたしもできる?」
「できるよ〜演技はね、楽しい!っていう気持ちが大事なんだよ!」
「ほんと⁉︎わたしね、おねぇちゃんのえんぎみて、たのしいってなった!たのしませてくれてありがとう!!!」

楽しかった頃を思い出しながら、七海に「ありがとう。また練習してくる」と告げて、またスタジオを借りに行った。

「今の私はあの子を笑わせられないな」

凛は苦虫を噛み潰したようにそう呟いた。



日を改め、今度は響にも演技のことについて相談をした。

「俺、何も考えたことないかも」
「え?何も?」
「うん。考えながら演技したことない」

これはまた凛とはかけ離れた演技の仕方だ。
そして、あまりにも天才の技なので、凛は到底マネできない。
よく授業で演技の言語化をーーと言われるが、響みたいに言語化しなくても「何か凄い!」と思わせる演技をする役者は存在する。
なので、凡才の凛にとってはあまり参考にならない考えだった。

「最近はどう?」
「大丈夫だよ」

何故かは知らないが、凛は思わず彼に嘘をついてしまった。
本当は全然、大丈夫なんかじゃないのに……。

「そっかー良かった」

でも、響はとても安心している。
これがーー正解なのかもしれない。もう、彼には沢山話を聞いてもらったのだ。
莉子たちの問題は話すべきではない。
そうだ。誰かに相談するということはその人に自分の悩みを背負わせることなんだ。これ以上は響に背負わせてはいけないーー後は自分で抱えようと凛は考えた。

「ねぇ、凛は凪先輩と付き合ってるとき、どこにデート行ってたの?」
「え?えーと、カフェかな」
「それだけ?」
「あとは、お互い忙しかったから、私の家でご飯食べたりぐらいだけど」

何故、そんなことを聞くのだろうと疑問に思いながらも、凛は一応答えてあげた。
響はしばらく空を見つめていた。何か考えごとをしているのだろうか。
だけど、彼の意図が分からず凛は困惑する。

「俺はそんなことしないのにな」
「え?」

響はぼそっと何かを言葉にした。
だけど凛はそんな彼の言葉を聞き逃してしまう。

「ていうか、男として最低だね。すぐに家に行くんじゃなくて、もっと色んな所に連れて行けよな」
「はぁ……」

今日の響はいつもよりおかしかった。
今までは凪のことを話しても、特に何か反応を示すことがなかった。
だけど今日は凪に対して嫌悪感を出している。

「凛はどうして凪先輩が?好きなの」

今度は凛がボーッと遠くの空を見つめた。

「夢に向かって頑張っている所。大好きなものに真正面から向かってる姿がかっこよくて好きだった」

凪の姿を思い出す。ギターを弾いて歌を歌って。
凪の笑顔を思い出す。優しく笑う顔が大好きだった。

そして、愛おしそうに凪を見つめる今の彼女の顔を忘れられない。
きっと自分もそういう顔をしていたに違いないから。
凪と付き合っているときは世界の中で一番幸せだと感じていた。
勝手にこれからもずっと一緒に居れるんだろうなと思い込んでいた……。

「凪先輩のことは好き?」
「うん。好き」
「そっか」

少し悲しみが含まれていたその返事を私は気づかないふりをした。
この関係は何も変わって欲しくないから。



鏡の前で凛は笑っていない自分と見つめ合っていた。
元々華奢で細身だった体はさらにやつれ、目元にはメイクで誤魔化すのが難しくなってきたクマがくっりきと紫色に刻まれていた。

最近はストレスの溜まりすぎで食事をするのも億劫になり、大好きだった漫画やアニメにも興味を示さなくなった。何か楽しいことをしようとしても、心の底から楽しむことができない。

凪を目の前にすると、過呼吸を起こしてしまう。彼の姿を見るだけで不安になり、体が緊張し、恐怖心が芽生えてくる。そして吐き気を催すのだ。

どうして、こうなっちゃったんだろう……。

思いっきり口角を上げて笑ってみる。だけど全然可愛くなかった。
目が笑えていない。まるで、遊ばれなくなってしまったお人形のようだった。
凛は深いため息をこぼす。

今日も凪は彼女と幸せそうにしていた。
階段の踊り場で二人は談笑しており、彼女が凪にプレゼントを渡している所に凛は出会した。
楽しそうな雰囲気の二人の横を私は荒くなった呼吸を必死に押し殺しながら通り過ぎたが、それでも凪は私の存在に一ミリも気づかなかった。

そう言えばあの子、今日ポニーテールにしてたなーー。いつもは髪の毛を下ろしていたのに。
たまたまではあったが凛も今日は髪型をポニーテールにしていた。
そのせいだろうか。今、鏡で見つめ合っている自分は本当の自分なのかが怪しくなってくる。

またニコッと笑ってみる。今度は上手く笑えた。だがーー、
鏡の中の私はあの子にそっくりだ。
あどけない彼女の笑顔を思い出す。幸せそうにうっとりとした表情で見つめていた瞳を思い出す。
どれもこれも、思い出したくないものばかりで凛の劣等感をさらに強めるものだった。

自分の姿を目に映すのが嫌になり、鏡から離れ部屋に戻った。
リモコンを手に取り、テレビに向けて電源ボタンを押す。ニュースが流れていたが、見る気になれず、すぐに消した。
凛は自分が変われないことに関してイラつきが止まらなくなる。

「……」

真っ暗なテレビ画面に映る女の子。
これは私じゃない。
あの子が好きな服は私の好きな服だった。あの子が大切にする長くて綺麗な髪は私も大切にしているものだった。

私が本当に好きなものを好きだと言えば、あの子と同じになってしまう。
同じだけど、決定的に違うものが一つだけーー。
凪と付き合っているあの子は私の何倍も幸せだということ。

私は違う……あの子じゃない。私は……もう、あの人とは一緒に居られない。
嫌だ……苦しい。胸が苦しい。
このままだと、私は壊れちゃうよ。

壊さないように強くならなきゃ。強くなりたい。どんなことにもめげない強さが欲しい……誰かに私を奪われてたまるもんか。
そうだ。強くなれば良いんだ。強くなれば、私は私で居られる。弱い私を変えるんだ。何も言い返せず、黙ってしまう私を変えるんだ。

『大丈夫?』

また、あの子の声が聞こえてきた。
振り返ると少女が椅子に座っていた。
あれから何度か少女は凛の前に現れた。どうやら、この真っ暗な世界は私の心の中らしい。少女と椅子だけしかない世界。あとは真っ暗な景色が無限に広がっているだけだ。空っぽな私にお似合いの世界だった。

少女の顔や体には痣が刻まれていた。凛が殴った証拠だ。

「大丈夫なわけないでしょ」
『あの子と同じなのが嫌なの?』
「あぁ、そうだよ。そう!だって惨めじゃん……何もかも似ているのにあの子だけが凪くんと笑っていられる」
『凪くんのことは嫌いになったんじゃないの?』
「さぁね……」

凛はその場でしゃがみ込み、何もない景色をボーッと見つめる。

『好きなものは好きで良いんだよ』
「それができたら苦労しないよ」
『……』

少女は黙ったまま、こちらに近づき横にしゃがみ込む。
そして、凛が喋り出すまで彼女は口を開かなかった。

「強くなりたい……裏切られても、嫌なことを言われても気にしない強さが欲しい……」
『そんなに強いことが大事なの?』
「ずっと泣いてるの惨めでしょ……」
『泣きたいときは泣けば良いんだよ』

何を言っているんだ。こいつはーー。
カッと頭に血が登った凛は少女の肩を強く掴み揺さぶった。

「泣いても泣いても''救われないから''、苦しいの!!!」

揺さぶられている少女は両目から沢山の涙を声を出さずに流していた。

「どうすれば良かった……?」

足を怪我して舞台を降板したせいで、さらに高原先生にきつく当たられるようになった。それでもあのときの私は頑張ろうとした。
周りの子達が人生上手くいっているように見えて劣等感を感じたけど、頑張ろうとした。

それは凪くんが居たからだ。

凪くんに振られても、役者の夢を叶えればまた一緒になれると思っていた。
だから頑張ろうとした。
でも凪くんには新しい彼女ができた。とても幸せそうに笑っていて、私のことなんか忘れていて……全部なかったかのようにされて……。

それでも頑張りたかった。

だけど、莉子たちの酷い言葉を言われるようになって、頑張り方を間違っている莉子たちの方が褒められて上手くいっていてーー。
大嫌いなあいつらを見返したくて頑張った。
それでも上手くいかなくて、周りに頼ってみたけど、どれも私には違う答えで……。

あれ……。
凪くんと出会う前ーー。私は何の為に頑張っていたんだろう。
どうして、夢を追いかけていたんだっけ?

「分かんない……分かんないよぉ……」

気づいていないフリをしていただけで、心はもう既に壊れていたのかもしれない。
凛は頭を掻きむしり、苦しみ悶える。『大丈夫?』と手を伸ばしてきた少女を右腕で強く払い除けた。

「どうすれば……どうすれば良かったんだよ!!!!!!」

凛は自分の足で少女の体を蹴り始めた。
彼女は小さく「痛い……痛い……」と呻いている。

「何が正解なの⁉︎もう、分かんないよ!!!!!」

悲痛な叫びが心の中でこだまする。
誰かに助けを求めることは弱いと誰かが言った。
一人で頑張ろうとしたら、苦しかった。結局私は弱いままで何も変われない。
意味のない、居ても居なくても分からない存在。
消えろよ。消えてくれよーー。

いつの間にか右手にはナイフが握られていた。そのナイフをしっかり持つと、もう片方の手で苦しむ少女の体を押さえつける。

『やめて……やめて……』

凛幼き自分に向かって大きくナイフを振りかざす。
何度も、何度も彼女のことを刺した。
だけど、この子は私だからーー現実の私が死なない限りずっと生きている。
少女の返り血が自分の顔にかかる。
あぁ、私はこんなことまでする化け物に落ちてしまったんだ。
凛の瞳から光が消え失せた瞬間だった。
漆黒の瞳は何も映せていない。



九月の涼しい秋風を身に受けながら、凛は学校のキャンパス内に入った。
朝から生徒たちが学園祭の準備をしている姿が見えた。とても、忙しそうだ。
「おはようございます」と生徒たちの間を通り過ぎ、凛は公演会場の教室へ向かった。

「おはようございます」

同期との挨拶を済ませ、教室を見渡すと、普段は演技実践の授業や稽古場として使用されている教室の奥に真っ黒で小さい舞台がそこに存在していた。学校内の設備ということもあり、ホールや小劇場みたく段差がある舞台ではない、平面の舞台だ。その上では七海たちのチームが小返し稽古をしていた。

「あ、凛!おはよう!」
「おはよう」

教室の隅でセリフ確認をしてると、快活な笑顔で響に声を掛けられた。
響のチームは今日の学園祭公演で一番最初に上演する為、彼は髪の毛のセットをしていた。少しチャラい役らしく、髪の毛がパーマを当てたかのようにくるくるしていた。

「ねぇ、このセット似合ってる?」
「うん。似合ってると思うよ」
「本当?ありがとう!!」

キラキラな笑顔をこちらに向けられる。その笑顔に少し違和感を感じた。それは彼が役の為に髪の毛をセットしていて、いつもと雰囲気が違うだからだろうか。

「そういえば、ショート。めちゃくちゃ似合ってる。可愛い」
「ありがとう。気分転換したくて切ったんだ」

思いっきり短くなってしまった髪を触る。前までは胸の辺りまで伸びていた黒髪のロングをハンサムショートまで切り、茶色にも髪を染めた。
美容室に行ったとき、美容師さんに「本当にこんなに切っちゃって大丈夫ですか?」とものすごく心配をされたが、すぐに「はい!思いっきり、いっちゃってください!」とすぐにお願いをした。

凪が好きなタイプであろうワンピースやスカートは着なくなり、パンツスタイルだったり、とにかく男の子っぽい服装を目指すようにしている。
髪の毛を切ったら、何だか変われた気がした。強くなった気がした。
そして、凪に対して恨みの感情だけが残った。

嘘をつくぐらいなら、すぐに乗り換える予定があったのなら。
あのとき、話しかけてこないで欲しかった。話しかけることをされなかったら、きっと彼の歌を聴いても、「すごい人だな」だけで終われた。もっと、彼の世界を見てみたいなんて我儘な感情を抱かずに済んだ。

そうだーー。私たちはお互いに恋愛感情がなければ、距離が近づくことなんてなかった。友達になんて、なれないことは決まっていたんだ。
凛は彼と出会ったことを後悔している。

「おーい、響。最終確認するぞー」
「はーい!ちょっと待ってろー!!じゃあ、俺頑張ってくるわ」
「うん、頑張って」
「ありがとう!!!!」

やっぱり、輝かしい彼の笑顔に対する違和感を拭うことはできなかった。

「おはようー凛」
「おはよう……」

莉子たちの姿が見えてきて、凛は薄く笑い「頑張ろうね!」と言ってやった。
今日も自分を偽る一日が始まる。彼女たちの機嫌を損ねなければ、心に傷がつくことなんてない。
どうせ、あんた達の言うことを聞けば良いんでしょ?



「皆さんこんにちわ。これから始まります舞台はーー」

前説を務める七海がこれから舞台が始まるにあたっての注意事項を観客に伝える。
ただ、注意事項を伝えているだけなのに、七海の表現力に魅了された観客は目を輝かせていた。七海の前説のおかげで、自分たちの舞台の期待価値が上がることに莉子は嬉しさを隠せていなかった。

「さーて、私は凄いんだから。みんなを感動させるわ」

本当は高原先生にめちゃくちゃ演技のこと言われて、そのイラつきを私にぶつけて消化させているだけのくせに。余裕ぶっているのがムカつく。
チームのみんなは大っ嫌いだ。
誰かを傷つけることを厭わない。最低な人たちだと私は軽蔑する。

あれ、こんなに捻くれた性格だったけ?前まではこんなこと思わなかったのに。
何だろう……この違和感は……。

「それではお楽しみください!!」

舞台が始まるーー。

「ーー!!!ーー?ーー。ーー!!!!」

出番は本当に最後しかないので、舞台袖にある椅子に座りながら、自分以外の三人の演技を見る。つまんないな……。
前までは自分の出番がなくとも、舞台袖で物語を見ているのが楽しくて大好きだった。早く自分の出番が来ないか来ないかと待ち望んだものだ。
だけど、今はものすごくつまらない。セリフや物語の展開は一応、頭の中に入っているが今の物語を見ても、何も感じ取れない。

何言ってるんだろう……。
彼女たちのセリフを上手く聞くことができない。頭の中がボーッと空っぽになっていく。

「ーー、ーー。ーー!!」

そろそろ自分の出番だ。
舞台袖から、凛は手順通りに走って出てくる。

「私の名前はーー。ーー、ーー!!!」

あれ、聞こえない。
セリフは確かに一言も間違えずに喋れている。次のセリフの言い方は静かにって莉子に言われたからーー。

「ーー、ーー。ーー?」

何でこのセリフを言っているんだろう。ここは喜ぶシーンだから、喜ばなきゃ……。思いっきり、笑わなきゃ……。でも何でここで笑顔にならなきゃいけないんだろう。
楽しくもないのに、どうして笑うのーー?

客席の方を向ける動作があったので、決まっている通りに動くと観客の視線が気になって仕方がない。
今までは観客の視線は何も気にしたことがなかったのに怖い。
一緒に演技をしている莉子たちと同じ思いで見られているんじゃないかと、こいつ才能ないなって心の中で思っているんだろーーと本当かどうか確認しようもないことを永遠と頭の中で考え続けてしまう。

演技って……本番はこんなにも考えたりするものだったけ。相手のセリフを聞いても、何も感情が湧かないものだったけ。
それにーー目の前の景色が何も見えない。想像ができない。ただの何もない空間で喋っているだけ。これの何が面白いんだろう。

凛はちゃんと莉子たちの指示通りに動いている。セリフを喋っている。
自分たちの言う通りに動いてセリフを喋れば、上手くいくと彼女たちは言った。
それなのに、どうだろうーー。

凛は演技に魅了されたときの感覚が全くなくなってしまった。取り敢えず、莉子たちのミッションを遂行しているだけだ。
こう言われたから、ああすれって命令されたから演じているだけ。

こんな演技、何も面白味がない。演じていて苦しい……辛い……。
凛は自分のことまるで操り人形のように感じた。自分の意思なんてない。誰かに動かされるしかない。まさに今の凛を象徴するにふさわしい。

終演して拍手をもらっても、ちっとも嬉しくなかった。
何も楽しくなかった。
それでも、莉子たちには褒めてもらった。また、これからもよろしくねと笑顔を見せられる。真意は分からないけれど、喜んでくれているのなら正解を出せたのだろう。
地獄の日々から抜け出せたのかと思うと心がホッとした。

『本当に……それで良いの……?』

包帯を巻いた傷だらけの少女は今日も声を掛けてくる。
凛はそんな彼女にニッコリと口角をしっかりと上げて、笑顔を見せてあげる。

「大丈夫だよ」
『大丈夫じゃないよ』

悲しげな少女の瞳に映された凛の笑顔は人形のように無だった。