ーー私は心を抉るナイフみたいな言葉も、暖かくて優しい言葉も全部覚えてる。だから、一つ一つの言葉を忘れることなんてできない。

一筋の強い光が真っ直ぐな線を描いて黒い板の上を突き刺した。
そこは何もない舞台だ。その舞台の上に光が差して数秒後、一人の人間が空白の世界に入り込んで来た。その人間はこの物語の内容を、この物語で生きている人々のことを静かに語り始める。

「これは己の気持ちを押し殺し、見失ってしまった者の物語であるーー」

一筋の光がふうとロウソクの火を消したかのように消えた。世界が真っ暗な闇の中に包まれる。しばしの沈黙の後、今度は一気に世界が明るく照らされた。
 
そこでは様々な人間が生きていた。
忠実に戯曲をなぞらえ、一つ一つ言葉を紡ぎ出す。嬉しいときは笑い、悲しいときは涙を流す。誰かに憤りを感じたときには怒りを分かりやすく現した。

照明によって煌々と照らされている舞台。熱を帯びて、スモークが雲のように漂っている。ここで繰り広げられている物語は決して現実のものではない。
それなのに役者の体には自分とは違うキャラクターが存在し、観客はもちろん、役者自身でさえ、錯覚してしまう。

「あなたを愛しています」

この愛の言葉は偽物だ。

「くそ、お前のせいで!!!」

この憎しみも偽物だ。

悲しみも喜びも全て偽物だ。それを観客は知っている。役者はもっと知っている。
だけど、この舞台の上で繰り広げられている物語や感情を錯覚してしまうのだ。
全てが自分自身に起きたことのように感じるのだ。
だから、心の底から喜怒哀楽がちゃんと生まれる。
 
それはとても眩しく、儚く見える。
不思議な感覚だ。だけど、それはとても快感でもある。
この躍動し続ける心は誰にも止められない。役者はしっかり世界の中で生きているのだ。キャラクターとして生き生きと。

しかし、この世界の物語は必ず終わりがある。戯曲の最後のページを捲ると、役者は横一列に並んで、「ありがとうございました」と揃った辞儀をする。

「お疲れ様です!これで舞台班のリハは終了になりまーす!」というスタッフの掛け声が聞こえ、俳優専攻の同期と共に舞台下に降りた。
 
あぁ、また戻ってきてしまった。このつまらない現実に。



二月の季節だと言うのに会場内はとても暑かった。現場入りしてから、かれこれ四時間くらいは経っているんじゃないか。それに舞台のリハーサルが終わったばかりなので、かく汗の量が尋常じゃない。凛はすぐさま自販機コーナーへ向かい、天然水を買って飲んだ。水を飲んだら少しばかり生き返ったが一気に半分も飲んでしまった。念の為、もう一本買っておこう。
普段はそんなに汗かかないのになーと思いつつ、まぁ人が多いのだからしょうがないと凛は諦めた。
 
現在、S市の中心地にあるイベント会場ではエンタメ系専門学校の学生が参加しているイベント公演のリハーサルを行なわれていた。演技、ダンス、歌など。多種多様な夢を持った学生たちが一同に会している。
出演者はもちろん、裏方の人々も学生なので、それにプラス先生となるとかなり沢山の人がこのイベントに関わっているだろう。
正直、あの人は誰なんだろう?となる人も少なくはない。むしろ、知らない人の方が多い。
 
「ーー?」
 
トントンと誰かに肩を叩かれた。凛は思わず後ろに振り返る。

「お疲れ様」

振り返った先には優しそうな雰囲気の男性が居た。その人の優しい眼差しが凛に向けられている。

「え、あ……お疲れ様です……」

え、誰……?
だけど、凛はこの男性を全く知らなかった。大事なことだからもう一度、まっったく知らない!!!凛は人見知りを発揮し、思わず視線を下に落とす。

さて、ここからどうしよう。凛は物凄く考えた。自分の頭に奥深くまでダイブをして考えた。この状況をどうすれば打破できるのかを。ひとまず頭の中を整理すると、この男性は同じ俳優専攻の同期ではないと分かる。かといって、直属の先輩でもないことは確かだ。ここは他コースの人かそれとも、先生かーー

だが、どちらにせよ話しかけられた相手に向かって、ずっと顔を下に俯けたままなのは大変失礼なことだ。 凛は変な子だと思われないように、勇気を出してゆっくりと自分の顔を上げた。相手の男性と目が合う。すると、男性は目線が合ったことが嬉しいのか、周りに白い羽がふわりと舞い上がったかのように目を輝かせ、白い歯を見せて笑った。
 
何でこんなにも嬉しそうなんだろ……?
男性は黒いパーカーに高身長で、顔は純朴そうな青年という印象だった。凛の知り合いには居ない人だと分かると、ますます、そんな人が何故自分なんかに声を掛けてきたのかが分からない。ここは取り敢えず、愛想笑いでこの場をやり過ごすそうと凛はわざとらしく口角を上げて、微笑んだ。

誤魔化している最中、凛はこの男性のことを思い出そうと頭をさらにフル回転させる。何だか学校のキャンパスで見たことがあるような気はしてきた。
恐らく、二年生の先輩だろう。だけど、どこのコースなのか、一番大切な名前などは一切分からなかった。
数回だけ「お疲れ様です」と言い合ったことはあった記憶はある。

しかし、凛はこの先輩と仲良くなった覚えはない。何か忘れてしまったことがあるのではないかとも思ったが、それを思い出すことは到底無理な話だった。 そして詰んだーーこの先輩はずっとニコニコしてるだけで、何をしたいのかが分からない。凛は気まず過ぎて逃げたくなった。よし、ここは「私、客席の方に戻らないといけなので!」と言ってすぐさま退散しよう。凛はタイミングを見計らい、意を決して口を開こうとした。だけど、一足先にこの先輩に喋られてしまった。

中嶋凛(なかじま りん)ちゃんだよねーー?さっきの舞台の演技、すごく感動しました!ファンです!!」
「え……あ、はい!ありがとう……ございます……」

凛の頭の中はさらにぐるぐると回り続ける。ハッキリと名前を呼ばた挙句、さらにはファンです!!という思わぬ言葉。その二つに驚いてしまい、動揺を隠し切ることができなかった。
何かお返しの言葉を言わなきゃ……と凛は考えたが、元々コミュニケーションが得意ではないので、彼に掛ける良い言葉が見つからなかった。

「わ、私これで……失礼しますね……」

本当に何も言うことが出来ず、凛はせめてものお礼で先輩にしっかりとお辞儀をしてから去った。

ここは普通に先輩も頑張ってください!と言うべきだった。だけど、もう遅い……。
申し訳ない気持ちで後ろを振り向くと、彼は凛の失礼な行いを気にする素振りを見せず、屈託のない笑顔で小さく手を振ってきていた。

え、この展開はなんだろう……?凛は自分の人生にこんな漫画みたいな出来事が起こるとは一ミリも考えなかった。
全く理解ができないまま、彼には軽く会釈をして何とかその場を乗り越える。
同期たちが待機をしている客席の方へ向かっていると、舞台の上は歌やバンドなどの音楽系コースの発表用に舞台転換されているのが見えた。
 
凛は歌があまり得意ではないし、楽器も弾けないので、本当に音楽を作る人たちは凄いなといつも感嘆している。
転換が終わるとロックやバラードなど、様々な雰囲気の音楽が舞台上で奏でられていて、照明もまた音楽のリズムに合わせて色が変わっていくのが見てて面白かった。

凛は観客席の方に戻ると親友の旗本七海(はたもとななみ)にこっちこっち!と手招きされた。彼女は俳優専攻の同期で、凛より二歳年上だ。一度、社会人を経験して入学してきたらしい。

「凛、なんかあったの?随分遅かったけど」

さっき起こった出来事を話そうと思ったが、何となくやめた。

「いや、すごく喉乾いてたからこっち来る前に飲んでたんだよね」

「えー珍しいね」と七海に言われながら、彼女の横に座る。
舞台の方を見るとどうやら今はロック系バンドのリハーサルが行われているようだった。エレキギターが激しく掻き鳴らされている。 

そういえばーーと凛はあの先輩がどうして自分の名前を知っていたのかが気になった。他コースに名が知れ渡るほどの活躍をした覚えはないのだが……。

『中嶋凛ちゃんだよねーー?さっきの舞台の演技、すごく感動しました!ファンです!!』

あの言葉、頭にこびりついて離れてくれないな。
心が動かされている感じがする。
気になるーーあの名前も知らない先輩のことが気になる。
何であのとき、わざわざ肩を叩いてくれたんだろう。あの言葉にどんな意味があるんだろう。色々と考えてしまう。
 
いや、勘違いをするな中嶋凛。きっと先輩は普通に良い人で、一人で居た知らない後輩に勇気を与える為に行動してくれたんだ。特に意味なんてない!
そうだ!社交辞令というやつだ。と凛は無理矢理、自分を納得させた。

「あ、石田先輩だ」
「石田先輩って?」
「ほら、あそこ」

七海の視線の先を辿る。すると、舞台の上に見覚えのある人がギターを持って準備をしていた。さっき凛に話しかけてきた先輩だった。彼は今、センターマイクの前に立っている。
 
真っ暗闇の中で舞台中央を照らしている照明の下、その一際輝いている場所に佇んでいる彼はどこか儚げな表情をしていて、凛は思わず目が離せなくなった。彼の周りをスモークがゆったりと優しく包み込む。少し顔を俯かせた彼は静かに目を閉じた。

「あの先輩、何コース?」

思わず、七海に聞いてしまう。

「アーティスト専攻二年生、石田凪(いしだなぎ)先輩。スタッフワークも出来るし、歌も作れて歌えて、楽器も弾けるんだって」
「全部できるの?凄いね……」

ゆっくりとした動作でギターの弦に指を添える先輩。
優しいギターの音色が聞こえると、彼はすうと顔を上げた。その目は真っ直ぐ前を見つめている。彼の声が音としてマイクに乗った。その瞬間、一気に鳥肌が立った。凛は今まで見ていた自分の世界の景色が変わり、舞台と客席が一体になる感覚に襲われた。

凛には彼の背中の後ろにとてつもなく広い、綺麗な星空が広がっている景色が見えた。その綺麗な景色と合わさって、舞台の上に立っている先輩はまるでーー新しい星を探している青年のようだった。
そんな物語の主人公に見えたのだ。
凛は彼の凄まじい表現力に圧倒され、自然と涙が頬を伝う。それは凛の目の前の景色をぼやかした。

ーー朧げな世界の向こうで、確かに強く輝いている星を見つけた。

とっても綺麗……歌声も、表情も、ギターを弾く姿も、その全てが綺麗だ。凛の目は彼を離さなかった。あの星の近くに行きたい。凛は思わず手を伸ばさずにはいられなかった。
彼の輝いている理由を知りたいと思った。思ってしまった。何故、こんなにも沢山の人を感動させる歌を作れるのだろう。

「素敵な人だなぁ……」

凛は自分の心が激しく動かされたことに動揺しながらも、彼の心地よい歌声に見惚れてしまった



「凛ちゃん!!あの!!!!」

次の日の本番が無事に大成功という形で終わり、これから帰路につこうとしていた頃、凛はまたあの先輩に声を掛けられた。今度は自分も相手の名前を知った状態で対面できる。

「石田先輩……お疲れ様です」
「あ、名前知っててくれたんだ」
「はい。友達から聞きました。''石田凪先輩''ですよね?」
「せいかーい。あのとき自己紹介するの忘れたと思ったから良かった。凛ちゃんのお友達に感謝しなきゃだ」

凪は照れ臭そうに自分の頭を掻いている。凛はまだほんの少しだけしか彼と会話をしていないが、この短い会話だけでも彼の人柄の良さが見て取れた。
だが、いくら人が良さそうでも人見知りの凛には彼と会話できる時間のタイムリミットが過ぎてしまった。恥ずかしくなり、一歩後ずさってしまう。

あぁ……もっとちゃんとお話ししたいのに。緊張して喋れなくなる。

凛は彼に誤解を与えぬように自分が人見知りであることを正直に話した。

「すみません……私、人見知りで知らない人とお話しするの……苦手なんです。でも、先輩に話しかけられたのが嫌ってわけじゃないので……」
「いやいや!気にしないで。それに急に話しかけた俺が悪いんだし。ごめんね?」

凛はコクリと頷いた。そして、凛はずっと気になっていたことを聞こうと彼の目を見た。勇気を出して質問を投げかけてみる。

「どうして先輩は……昨日も、今も話しかけてくれたんですか……?」

二月のまだまだ肌寒い風が凛の長い髪を揺らした。正直、今でも目線を合わせ続けるのは怖い。だけど、気になるのだ。全く関わったことがない後輩に何故、こう何回も優しく話しかけてくれるのかをーー。
 
「俺、凛ちゃんの演技に色々刺激を受けて、本当に凄いなって思って。君と仲良くなりたくて、一緒に帰ってお話ししたい。ほんの少しだけでも良いから」

凛はまた、あのときのように驚き、目を見開いた。自分の演技をこんな風に言ってくれた人は初めてかもしれない。たとえ、もしそう思ってくれていたとしても、わざわざ本人に話しかけて伝えてくれた彼の方がよっぽど凄い。
 私も伝えないと……。

「わ、私も!!先輩の音楽を聴いて、とても感動しました……歌が始まった途端、先輩の後ろに星空が見えて、先輩が歌った曲は本当はそういう意味じゃないのかもしれないけどーー何だか私には新しい星を探している青年の物語に感じられたんです!!おかしいこと言ってるのは自分でも分かっています……分かっているんですけど……頭の中の想像力が掻き立てられたというか、目の前の世界が変わったんです!!」

白い息が舞い上がり消えた後、凛の冷たかった頬は一気に熱くなり、自分が思っていたよりも、先輩のことを熱弁していたことに気づいて恥ずかしい気持ちになる。
この赤い顔を彼に見られたくなくて、首に巻いていたマフラーで口元を隠した。
うぅ……恥ずかしい……。

「だから、私もお話ししてみたいなって思ってます……」

こんなに自分のことを熱弁されるとは彼も思わなかったのだろう。凪も目を見開いていた。そして、あのときと同じように屈託のない笑顔でーー、

「ありがとう!!!」

そう言ってくれたのだ。

お互いを褒め合った後、凛と凪は最寄りの地下鉄が一緒だったこともあって、少し距離を空けつつも隣に並んで帰った。
人見知りなはずなのに凪とは改札口に着くまで会話が途切れることはなかった。こんなことは凛にとっては初めてのことで、いつも聞き手の自分が意気揚々と話していることに驚いた。

「急に誘ったのにお話ししてくれてありがとう」
「いえいえこちらこそ。楽しかったです」
「あ、連絡先交換したいな……なんて」

凪は言うのが早過ぎたかなと気まずくなり視線を逸らしたが、凛は「良いですよー?」と悪戯っぽく笑って、連絡先を交換した。SNSも相互フォローし合い、凛は彼の投稿を見てみた。
 
凪のSNSには音楽関連の投稿などが沢山あって、本当に音楽が好きな人なんだということが分かる。「有名なアニメ曲をギターで弾いてみた」という動画をクリックし見ると、あまりの表現力の高さに凛はまた驚いた。

凪の音楽や歌声は本当に綺麗で、誰もが魅了される素晴らしいものなんだと感じ、凛はこの人と表現についてもっと話したいと思った。凪となら、自分の想像力をもっと掻き立てられると思ったからだ。

「ありがとう。昨日と今日、イベント公演お疲れ様でした。ゆっくり休んでね。おやすみ」
「はい。先輩もゆっくり休んでください。おやすみなさい」

路線は反対だったので、凛は改札を通った後にある分かれ道の階段の間で、ぺこりと凪に向かってお辞儀をした。

「あ、凛ちゃん!」
「何ですか?」
「俺、三年制のコースだから、来年度もよろしくね!」

凪は「バイバイ」と手を振り、あっという間に階段を駆け降りて行った。

一緒に卒業できるんだ……。
凛はやった!と小さめにガッツポーズを取り、軽やかに階段を駆け降りて行った。
地下鉄のホームドアがゆっくり閉まっていく。



初めて凪という存在を明確に認識してから、四ヶ月が経った。あの日はまだ一年生だった凛も学年が上がり、授業に稽古にと充実した日々を過ごしている。凪ともよくラインで連絡を取るようになり、今では一緒に帰るほどまで二人の距離は縮まった。

だけど、付き合ってはいない。まだ、仲の良い先輩と後輩同士だ。

「先輩は何にしますか?」
「うーん、俺は無難にタピオカミルクティーにしよう」
「私は抹茶ミルクティーを飲みます」
「お、抹茶好きなんだ?」
「はい。大好きです」

今は学校帰りにタピオカ屋さんに寄っている。凪が一緒に行こうと誘ってくれたのだ。

「んー!もちもちしてて美味しい……」
「疲れたときはやっぱり、こういう甘い飲み物に限るよね〜」
「ですね〜」

二人で幸せそうな顔をする。周りの人から見たら、もうカップルに見えるだろう。だけど、違う。
凪に初めて話しかけられたときは戸惑っていたが、あの綺麗な歌を聞いてから、凛は少しずつ彼に好意を持つようになった。最初はとても大人な人なんだろうなと思っていたが、案外子どもっぽい一面があったりして、でも普段はどんな人にも気遣いができて、表現者としてのレベルが高くてーー常に他人への警戒心が強い性格の私がここまで好きになるとは思わなかった……。

「先輩、あのそろそろ呼び名を変えても良いですか……?」

めちゃくちゃに恥ずかしいが、凛は勇気を出して聞いてみる。

「ちなみにどんな呼び名?」
「凪……さんって呼びたいです……」
「それ、先輩だから気使ってくれてるでしょ?凪くんで良いよ。さん付けって距離感じちゃうし」
「本当ですか?じゃあ、お言葉に甘えて……凪くん」
「何でしょう?」

凪は悪戯っぽく微笑んだ。その顔は反則だよ……。

「ねぇ、俺は凛ちゃんのこと、凛って呼びたいな」
「もちろん、大丈夫ですよ」
「やったー!じゃあ、凛!」
「はい……」
「今週の土曜日、一緒にカフェに行きませんか?」
「はい。ぜひーー」

こうして何気に初の二人で休みの日に出かける約束を交わした。