「慣れない仕事こなして、やっと最寄り駅に着いたら今度はこの坂道。もう引っ越そうかとも思ったんだけど」
いつのまにか、あたしたちは坂の途中で立ち止まっていた
「アパートに着くと、きみが笑って出迎えてくれるから、離れがたかった」
内側から燃えてしまいそうなぐらい、全身カーッと熱くなって変な汗がふき出してくる
「なんてね……勘違いだったかな?」
あたしは首をふるしかない
恥ずかしい
でも、気がついてもらえたことがうれしくもある
「いつも挨拶ありがとう。きみに会えた日は疲れが癒される気がして、うれしかった」
胸がいっぱいになり、言葉につまる
「今夜は月が出てなくて残念だね」
さっきよりほんの少し近くに寄って、あたしたちは歩きはじめた
「でも、雨がきっかけで、こういうふうにお話できました」
「昨日の月はきれいでしたね」
唐突すぎて、すぐにはわからなかった
「……はい。とても、きれいでしたね」
こんな返事でいいのだろうか
夏目漱石にそう言われた女性は、いったいなんて答えたんだろう
彼の手が、遠慮がちにあたしの手に触れ、それから思い切ったようにしっかりつかまえて繋ぐ
息をのんで隣を見上げると、優しい顔をした好きなひとが微笑んでいた
「きみの名前、教えてくれますか?」
(おわり)