バスの座席から窓の外を流れる形の悪いプードルみたいな雲を延々と眺めていたら、隣に座る山田が「カロリーメイトって口の中がぽしゃぽしゃする」とか言っていた。なんだ、ぽしゃぽしゃって。
謎の擬音を作り出している山田に「水飲めば」と言いながらプードルを眺めていたけど、首から引きちぎれていきやがてばらばらになった。
雲を眺めているのも飽きたので、山田を見ればそいつはさらにカロリーメイトにがっついている。いつまで同じものを食べているんだろう。
「豚になってもしらんよ」といえば「ちよちゃんもいる?」と糸のような目をさらに細めて言った。思っていた反応と違う返答をするからちょっとイライラする。
そんな風だからおまえはクラスで「やぶ」とかいう変なあだ名をつけられて、馬鹿にされているのだと言ってやりたかった。
ちなみに「やぶ」というのは優しいデブの略らしい。考えたやつは間違いなく性格が悪い。悪意があるのは明らかなのに山田は「やぶ」をなんでもない顔で受け入れて、また分け隔てなくみんなに優しい山田はいつしかいじられキャラとしてクラスに定着していた。
しかしこのご時世、外で無遠慮にお菓子なんて食える精神が信じられない。すげえなと眺めていると「なんだ。やっぱり欲しいんでしょ?」と言われた。いらねーよ。
不意に降車ボタンが鳴った。耳につけっぱなしにしていたワイヤレスのイヤホンを耳から引き抜くと同時に乗車してきたばかりの老人が「おや、珍しいね」と言った。
今のわたしに言った?と思って顔を上げたら、老人が哀れむような眼差しでわたしを見ていた。見知った顔だった。この人は、わたしの隣の家に住む隣人のおじいさんで、ゴミ捨てに行くうちのお母さんと路肩で話し込んでいる姿をよく見かけていた。もう見ることはないけど。
だっておじいさんは、つい二日前に死んだはずだった。
固まるわたしに「ちよちゃん?どうしたん」と山田がおじいさんとわたしの顔を交互に見た。おじいさんは「若いのにね」と残念そうにいうので、わたしの顔からは血の気が引いた。いや最初から青ざめていたのかも知れない。
「ちよちゃん?」という山田の声がぼんやりして鮮明になって、そうしてわたしは、シャボン玉が弾けるようにいろんなことを思い出していた。
バスに乗る前、わたしはいつものようにワイヤレスイヤホンを取り出して耳につけて、外の音もシャットアウトするぐらいの音量で音楽を流していた。昨晩、大好きなロックバンドが新曲を出したのだ。そういえば再来週からテストだ。だりいと思っていると、山田が左の方からぽてぽてと走ってきている姿が見えた。
「ちよちゃーん」って言っていた気がする。多分そんな風に口が動いていたと思う。音楽でまったく声が聞こえなかったけど。
その顔はいつものように穏やかだった。が、みるみる険しい顔になって、山田にしては早々と口を動かしている印象だった。
「 ち よ ち ゃ ん 逃 げ て 」
「 あ ぶ な い 」
音楽を押し潰すような轟音とともに、気づけば身体が横に吹っ飛んだ。この世のものとは思えないほどの衝撃が全身を襲って、激痛が身体中に走った次の瞬間、物凄い速度で全身の機能が生を諦めたのがわかって、クラッシュしたパソコンのようにぶつんっと物凄い音を立てて、わたしの世界は終わった。
それから気づけばバスの上で揺られている。
あのプードルの雲をわたしは飽きるくらい眺めていて、山田はいつまでもなくならないカロリーメイトを食べている。
わたしは壊れた人形のように山田をゆっくりと見た。なんで、山田がいるんだろう。バス停に暴走車が突っ込んできたのはわかっている。
だからわたしがここにいるのも、きっとそのせいだということも多分、理解したくないけど理解した。だけど山田は関係ないはずだ。
だって、山田は随分離れた場所にいたのだから、巻き込まれ事故にもあっているはずもない。ならばどうして。
「どうしたんちよちゃん。やっぱいる?」まだお菓子の話をしている。
「なあ、山田。なんでおまえここにいんの?」「え?」と山田はきょとんとしたあと、なんでかすんと大人しくなった。山田にしては理解が早くてわたしはまたイライラした。
もっと「何言ってんのちよちゃん、意味不明だ」って顔をしてほしかったのに、どうしてこんなときに理解が早いんだろう。ふざけんな。
「なあ、山田」
「うん」
「わたし死んだん?」
「……うん」
「まじか」
「うん」
「なんでおまえがいんの」
「……」
山田がカロリーメイトを持っていたクリームパンみたいな手をはじめて膝の上に下ろした。食べかすのついた唇が言葉を見失った様に少しだけ開いていた。
「ち、ちよちゃんが」
「わたしがなに」
「ぼくの手を握ったから」
「なんそれ」
不躾に言ったら山田がその糸のような目からぽろぽろと涙を流した。山田は感情を惜しみなく見せてくれる。それが少し羨ましいと思ったことがある。
楽しいと思ったら楽しいというし、悲しいと思ったら悲しいという。そんな風に素直な気持ちを口にするのは、わたしにとっては試験で百点を取るより難しいのに、山田はそれを容易くやってのけるのだ。
「死んじゃうの、いやだ」
ぽたぽたとその柔らかな手の甲に落ちる様を眺めながら、わたしは不思議と心が冷静になった。
「そんなん知らん」
「いやだもん」
「知らんって」
こっちは死んだつもりはこれっぽっちもないのに。意味不明だ、ふざけんな。ふざけんなって思うのに、何故か腑に落ちているのが、さらに腹立たしかった。
「山田さ」
「ん?」
「降りなよ、バス」
「な、なんで」
「あんた、こっちに用ないやろ」
「や、やだよ」
「ないやろって」
「で、でも学校に行かないと」
「だったら尚更降りてよ」
山田がまた何か言おうとするので、わたしは窓の外を眺めたまま「降りて」と再度言った。
大して気にしていない振りをするのはわたしの癖だ。わたしは山田の前ではいつも格好つけてしまう。
「ちよちゃんって強いね。ヒーローみたい」って小学生のときに山田に言われてから、こいつの前では格好良くあろうとする自分がいた。
山田はやがてひくひくと泣き出した。聞こえてくる嗚咽を無視するように、また曲が流れないワイヤレスイヤホンで耳を塞いだ。
わたしはその涙を拭おうとは思わなかった。だって優しいはわたしの苦手分野だったからだ。
山田とは大違いなわたしは、「やぶ」と呼ばれる山田に少なからず嫉妬していた。
「山田さ、なんでずっと降りなかったの」
いつでも降りられたはずなのに。おまえがこのバスに乗るには早いのに。
「だって、ちよちゃん」
なんでいつまでも隣に座っていたんだろう。
「ひとりで死ぬの嫌やろ」
目の縁が冷たくなった。ゆるゆると透明の枠が出来て、フィルターがかかったように視界に靄が張った。
景色が滲む。心が悲しかった。頬杖を突いたらわたしの指先に雨が降った。
「勝手に決めんな。平気だわ」
「ほんとに?」
「本当だよ。逆にあんたがついてくる方が煩わしいっての」
「……そっか」
「そっかあ」と山田は今一度呟いた。
わたしの心と同じように少し悲し気だった。
「やっぱり、ちよちゃんは強いね」
強いよ。少なからずあんたの前ではね。
「あんたは相変わらず優しいね」
どうしようもなく優しいから、わたしのためにこんなところまでやってきた。山田は本当にお人好しで馬鹿なやつ。
「それはちよちゃんの前だからだよ」
絶対に見ないと決めていたのに、思わず山田の方を向く。「またね、ちよちゃん」と山田は微笑んだ。
またね、だって。そんなものはないのに。お人好しで残酷なやつ。
お餅に線を引いたような顔をしているくせに。これまでで一番優しい微笑みを見せた山田に、わたしの目からは一段と涙が落ちた。
「うっそー」とか。「あんたも一緒に行く?」とか。なんてことが言えたなら。
そんな『もしも』を考え始めている時点で、わたしにはやっぱり優しさなんてこれっぽっちもないのかもしれない。
「や、まだ」
「うん?」
「あんた、やっぱ優しいよ」
「……」
「またね、また」
バスを降りたら、きっと明日がはじまるのだろう。山田にとって新しい一日がはじまるのだろう。
そこにわたしはいないけれど。もう、これから一生、こいつに悪態をつくこともないけれど。
これからの山田の毎日が健やかでありますように。
そんな、なけなしの優しさを詰め込んだ願いを、目の前のこいつは受け入れてくれるだろうか。
そのぐらい受け入れてほしい。わたしは、一応おまえの幼馴染だったんだから。
バスが停車する。ドアの開閉音がして、立ち上がった山田の背中側でそれが開いた。
山田がバスを降りていく。わたしの方を心配そうに振り返りながら。
「元気でな!」
叫ぶように言ったわたしを見て、山田は細い目を丸くひらいたあと「うんっ」と力強く頷いた。
プシューっと音を立ててバスのドアが閉まる。ふと、山田が座っていた座席を見れば開きかけたカロリーメイトの箱が置いてあった。
山田は昔から忘れ物が多いんだ。仕方のないやつ。
わたしはその箱を手に取って、袋を品なく破って山田のようにがっつくようにそれを口にした。……本当だ。
「口の中がぽしゃぽしゃする……」
呟いて、ふふっと笑ってしまった。あまりのおかしさに、もうひと口食べる。その味は不思議としょっぱかった。