「私、数学って本当に苦手で……」

気まずくなるのを恐れて、可笑しくもないのに笑ってみせた。
彼はそれを気の毒がるように眉毛を下げた後、しばらくしてから表情を緩めた。

「柚歌ちゃん知ってた?実は俺が、結構数学得意だって事」

それは初耳だった。その言葉の意味さえも理解出来ず、私は首を横に振った。

「俺でよければ、夏休みに教えてあげるよ。数学」

「え、本当に?」

「うん。一応推薦受けようとは思ってるけど、受験勉強はしておかなくちゃいけないし。俺にとっても丁度いい復習になると思うから」 

「凄く助かる、ありがとう!」

隠しきれない喜びは、全部数学のせいにした。

「そのかわり、また作ってよ。これ」

その真意を知ってか知らずか泰輝くんがハートのクッキーを手にした時、私は何も言えなくなって、砂浜に向かって頷いた。
軽く蹴り上げた乾いた砂が、ローファーのつま先を汚した。

「帰ろっか。柚歌ちゃんのお母さんが心配しないうちに」

まだ地平線には日が届かない頃、泰輝くんがそう言ったのを素直に聞いて、私は立ち上がった。
その時突然吹いた海風が私のスカートを悪戯にさらって、私たちの時を止めた。

遠くでウミネコが鳴いていた。
夕凪にはまだ早かった。
私は一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまった。