「おっはよっす、よーっす!」
良く言えば元気、悪く言えばはた迷惑な騒音を伴って、神農原沙月が教室に飛び込んでくる。
俺はこの後に行われるであろうお決まりのやり取りを想像し、小さくため息を付いた。
「おー、沙月ちゃん。朝から景気良いねー」
軽いノリで神農原に話しかけるこの男は浦森白露。
癖っ毛を通り越して最早アフロみたいになっている天パ男子だが、なぜか女子の友達が多く、妙に顔が広い。
その口振りは軽く、態度は軽薄そのものだ。
裏表がないと言えば聞こえはいいが、要するに中身が空っぽなのだ。
コイツと楽しく会話できる女子の気が知れない。
そしてこの浦森が口を開くと、大抵……。
「なに? もしかして今日はオキニの下着でも履いてきちゃったのかしら?」
これだ。下ネタ……それも中々に踏み込んだタイプの。
朝っぱらに聞く下ネタは、男子からしても胃もたれがする。それを女子に言うなんて、いったいどんな神経してるんだコイツ。
「もう、そんなのじゃないって。ハッ君セクハラだよ~」
やだもう浦森君ったら~、みたいなノリで、神農原が浦森を笑顔で交わす。いつものことだが、何度見ても気味が悪い光景だ。
なぜあんな開口一番に下ネタを言うような奴が、神農原みたいな美少女と仲良くできているんだ。普通に嫌われてしかるべきだし、避けられたって当然のはずだろう。
……そう、神農原沙月は美少女だ。
誰がどう見ても、忌憚ない意見として、素直にそう思う。
目は大きく唇は薄い、艶々とした黒髪の、日本人好みの外見をしている。黙っていれば完璧な少女。だが口を開けば……いや、それも完璧な部類か。
誰に対しても明るく、今みたいに下ネタを言われても明るく返せる度量もある。
いきなり俺が話しかけたって、
「おはよー西見君。いきなりどうしたの? ……あ、もしかして私とお喋りしたくなっちゃった?」
と、バッチリこちらを見つめてくることだろう。
そんなことされたら、普通の男子はまず間違いなく恋に落ちる。
客観的に見れば騒々しいテンションでも、それが自分に向くのならば心地良い音色に早変わり。
だからつまり、神農原を「うるさい」と思う奴は、アイツの作る空間に入って行けない消極的な人種ってことだ。ほっとけ。
「うるさいぞ、沙月」
……いや、一人いたか。
その渦中にいながらも、平然とその言葉を口にし。
ともすれば拒絶とも取れるような態度を彼女に向けながらも、なお彼女の中心にいる人物。
「おっはよー、悠斗君。テンション低いんだ、いつものことだけど」
「お前が高すぎんだよ……ったく」
ボリボリと頭をかき、うんざりとした様子で突っ伏していた体を起こす。
凪川悠斗。これといった特徴のないボサボサ頭のもやしでありがなら、顔の広い浦森の親友であり、そして。
「隙ありっ!」
「ちょっ、おい! いきなり引っ付くなって!」
「おっほう! 朝っぱらからお熱いねぇ!」
「ちょっ、白露! 見てないで助けろよ!」
「やーん、悠斗君。逃げないでよぉ!」
――神農原沙月の、想い人でもある。
「相変わらずだね、みんな」
隣から、唐突に声がかかる。
俺はそちらの方に視線を向けず、未だなおわちゃわちゃと喧しい凪川たちを見つめたままで、口を開いた。
「ああ、本当に妬ましい。女子に引っ付かれてるのに嬉しそうな顔の一つもしない。アイツ、本当に男かよ」
「混ざりたいなら混ざってくればいいのに。仲良いじゃん、浦森と」
「アイツは基本誰とでも仲良いんだよ。凪川が特別ってことを除けば」
「その特別に、西見も入ってると思うけどなー、私は」
「特別? 俺が? それどういう意味……」
妙な言い回しをされたせいか、思わず振り返る。
「よ、おはよ」
そこには、眼鏡をかけたショートカットの地味な少女、佐野亜沙美の悪戯っぽい笑みがあった。
「……よっす」
不意打ちだったので思わず口ごもる。
そういえばまだ、朝の挨拶を交わしていなかった。変なところを気にすんだよな、佐野は。
「あーあ、西見は私との会話よりも神農原さんの方に夢中かぁ。悲しいよ私は」
「その芝居がかったような台詞を棒読み口調で言うの止めてくれ。感情が一切分からん」
「そこを汲み取るのが、モテ男子になる秘訣ですよ西見さん。ただでさえ倍率高いんだから、細かいところでどんどん加点していかないと!」
ムン、と誇らしげな顔で、佐野が両手拳を握りこむ。
ガッツポーズみたいな変な仕草は、上手いこと言えたと思った時に出る佐野の癖だ。
実際のところは、見当違いも甚だしい。
「神農原さん美人だよねー。あれで彼氏いないなんて、ホント嘘みたい。よほど凪川君のことが好きなのかな? かな?」
「うるせー、変な目を向けてくるな。面白がってるだけだろ」
「そんなことないってー。それにまだ付き合ってないってことは、他の男子も可能性はあるってことでしょう? 私、西見ならいけると思うんだよねー」
「神農原を? 今から? 99%無理だろ」
「残りの1パーセントは?」
「誤差だ。切り捨てろ」
こんな会話にも慣れたものだ。凪川のグループにお約束の流れがあるように、俺を茶化してくる女子のあしらい方も、回数を重ねるうちに随分と上手くなった。
「でもさ、本当に思うんだよ。西見と神農原さん、結構お似合いだって」
また、その話か。
「何をどう見たらそうなるんだよ。俺、神農原との会話を全部合わせたって、うちの校長と喋った時間の方が長いぞ」
「いや、それは逆に何でそんなに校長と仲良いのか疑問なんだけど……」
やや引き気味な反応をされる。
ネタ晴らしをすると俺の父親が昔、ここの校長の教え子だったからたまに絡まれるだけだ。
校長とコネクションがあるなんて、やだ俺主人公っぽい!
……まあそんなようなことを、入学当時は思っていたのだが、いざ生活すると上には上がいることを思い知らされた。
「まーでも、神農原も難儀だよな。あれだけアピールしても凪川全然靡かないじゃん。それに凪川、他のクラスにも仲の良い女子いるみたいだし、アレはアレで中々難攻不落かもな」
ハーレム、という言葉で聞いたことはない。
だが目の前に広げられていたそれは紛れもなく、アニメや漫画で見たそれだった。
凪川を中心に、見目麗しい四、五人の女子たちが奴を取り囲むように半円を築いている。
二年になった今でこそクラスも離れ、主な構成員は神農原だけになったが、一年の頃などは酷かった。
学校中の綺麗どころは皆、凪川の横にいたからだ。
最初のうちは、誰もが嫉妬した。怒り、嘆き、羨み……。
だがそれも、長く持つ感情じゃない。
そもそも凪川を取り囲んでいる女子は、神農原も含めて普通の男子が手を出せるようなレベルではない。
だから別に、凪川がどれかけモテてもほとんどの男子には関係がなく、むしろ奴の周りの恋愛オーラに当てられた同士がカップルになるという、恋愛成就のきっかけになったなんて話も聞いたことがある。
おかげで一年の時のクラスは、どこもかしこも色恋まみれで大変だった。
「凪川君、いい人だからね」
そんな中、恋人もできず、一切の進展もなく。
想い人への気持ちを隠し続けている奴だって、勿論いるわけで。
「…………」
会話が途切れること、数秒。
「何にせよ、面倒くさいことばっかだよ」と締めたんだか締まらないような一言を告げて、俺は立ち上がった。
顔を洗うため、男子トイレに向かう。
何度か水を浴びせた後、鏡に映る自分の顔を見て半ば自嘲気味に笑った。
「……バッカみてぇ」
どいつもこいつも、腹立たしい。
凪川への好意を隠さず、露骨なまでにアピールを続けている神農原も。
そんな神農原の好意を知ってか知らずか、適当にあしらって未だ恋人を作らずフラフラしている凪川も。
神農原の想いに気付きながらも、面白がるばかりで現状維持を決め込んでいる浦森も。
……いや、本当はそんなのはどうだっていい。
間接的には関係あるが、本質で言えば神農原も凪川も浦森も俺にとっては無関係なのだ。
二人がくっついてくれるのなら、それが一番良い。
だって、俺は。
俺が、本当に好きなのは――。
「ハッ! 俺が、神農原とお似合い?」
笑わせる。
まあ確かに、凪川という例外を除けば、俺は神農原との距離は近い方だ。
でもそれは俺が神農原を女性として一切意識せず、初めから関わることができていたから。
周りが騒いでいる中でも、神農原の方に目が向かなかったから。
結果として、気さくに話すことができているだけだ。
断じて恋愛座打につながる関係じゃない。
それに、違うだろ。お前が本当に言いたいのは。神農原が別の誰かと付き合ってくれれば、どうすれば自分にもチャンスがって、思ってるだけなんだろう?
なあ、佐野。
お前は、凪川のことが好きなんだろう?
あんな美人に、囲まれて。
それでも一切靡かずに、興味なさそうな顔をして。
脈がないことなんて、誰がどう見たって明らかなのに。
「……何なんだよ、マジで」
本当に、何かもに腹が立つ。
佐野が神農原のことを俺に持ち出してくるのは、きっと「そういうこと」なのだろう。
もし本当に、俺と神農原がくっつけば、強力なライバルが一人いなくなる。
自分が、凪川悠斗を手に入れるため。
誰よりも近い場所で、アイツと一緒にいられるように。
それとも、ひょっとしたら。
佐野は、俺のことを……。
「…………っ」
噛み殺すように息を吐いて、呼吸を整える。
考えれば考えるほど、煮えたぎるマグマのような気持ちが抑えきれなくなる。
ああ、腹立たしい。
神農原が、凪川が、浦森が、佐野が。
そして、何よりも。
佐野が凪川を想うように。脈がないと分かっていても、まだ佐野のことが諦められない自分自身が。
腹立たしくて、仕方がないのだ。

