育児アンドロイドがベビー用の運搬ケースを医療ロボットのアームに載せると、中に寝ていた赤ちゃんが泣き始めた。弱く泣き続ける赤ちゃんを胴体の箱の中に固定して、医療ロボットは無人ヘリの格納部に入っていった。
八月は、生後半年の赤ちゃんが『施設』を去った。赤ちゃんを乗せた無人ヘリは大きなプロペラを回して夏の空に飛び立っていった。
図書室の窓から、ゲルダはそれを見ていた。
ヘリが見えなくなると、抱えていた絵本を開いて、みすぼらしい姿になった王子を見つめた。
レッドヘアグリーンアイは幸せになっただろうか。
振り向くと、カイが立っていた。
ゲルダの手から『幸福な王子』を静かに取って机に置き、「森へ行こう」と言った。
真夏の昼間。
日は高く、森の中は苦しいほどの草いきれと樹木の匂いで溢れていた。
額から汗が流れる。カイの背中に白いシャツが張り付く。
河原に着いてもカイは立ち止まらなかった。ゲルダの手を引いて、まっすぐ川の中に入ってゆく。
「カイ……」
足が竦んでゲルダの動きが止まる。
強い力に引かれて、よろよろと数歩だけ前へ出た。水に浸かり、白いワンピースの裾が濡れる。
「冷たい」
小さな抗議の声を上げても、カイは止まらない。ゲルダの手を掴んだまま、バシャバシャと水を蹴って深い場所まで進んでゆく。
緩やかに見えた川の流れは、入ってみると強い力で二人を押し流そうとした。川底の石に足を滑らせ、何度も転びそうになりながら川の中央付近まで行った。
全身が濡れて、服が体に張り付いた。
やがてゲルダの背が立たなくなるほど川は深くなった。つま先を伸ばしても口の中に水が入ってくる。
「カイ……、息が……」
「おいで」
長い腕に抱き寄せられ、カイにしがみついた。カイの首に腕を回して耳元で聞いた。
「どこへ行くの?」
カイは答えず、さらに先へと進もうとする。
向こう岸まであと半分。
けれど、そこから一、二歩進んだところで、水の深さはカイの背丈を越えた。緩く弧を描く川の流れは外側のほうが速く、手前よりも奥のほうが水位はずっと深かった。
カイの頭が沈んで足元が揺らぐ。
「カイ……」
流される。
そう思った瞬間、ゲルダはとっさにカイに回していた腕をほどいた。カイの体から自分の体が離れる。離れた体は簡単に流れに飲み込まれた。
「ゲルダ!」
ゲルダの手をカイが強く掴んだ。掴んだまま、カイが深く水に沈んだ。
「カイ……!」
ゲルダの体の脇を水が勢いよく流れてゆく。沈んだまま、カイは流れに逆らうように強くゲルダの手を引いて、少しずつだが、元の岸辺に戻っていった。
足がつくところまで来ると、ゲルダがカイの手を引いた。
カイの頭が水の中から現れる。大きく息を吸い、吐いて、しばらく荒い呼吸を繰り返す。それから、カイはゲルダをきつく抱きしめた。
「カイ……、怖いの?」
「違う」
カイは首を振った。
「眠っている間に全部終わる。だから、怖いわけじゃない」
そう言って首を振った。
「じゃあ、どうして? どこへ行こうとしたの?」
「わからない」
カイの目から涙が零れ落ちた。
ゲルダの目からも涙が溢れた。
わからない、と言ったカイの気持ちが、どうにかなってしまいそうな心が、ゲルダにはわかる気がした。
どこかへ行きたいわけではない。
逃げたいわけでもない。
ただ、もうこれでカイに会えなくなるのだと思うとゲルダは悲しくなる。
カイの背中に腕を回すと、カイはいっそう強くゲルダを抱きしめた。骨が軋むほどきつく抱き合って、水の中に沈んだ。
沈んだまま唇を重ねた。
「カイ……」
ぷかりと顔を出して、カイの名を呼んだ。
「ゲルダ……」
何度も唇を重ね、互いの体を求めて水の中でもがいた。岸に戻り、濡れた服のまま石の上に倒れた。
ゲルダは何も持っていない。カイにあげられるものは何もない。
温かい肌と、涙。
ゲルダの体が自分のものだったら、今、ここで、全部カイにあげてしまいたかった。
けれどこの体はゲルダのものではない。
カイの体もカイのものではない。
石の上に横たわったゲルダを見下ろして、カイは泣いた。
「忘れない。ゲルダの瞳の色も髪の色も、ずっと……」
八月は、生後半年の赤ちゃんが『施設』を去った。赤ちゃんを乗せた無人ヘリは大きなプロペラを回して夏の空に飛び立っていった。
図書室の窓から、ゲルダはそれを見ていた。
ヘリが見えなくなると、抱えていた絵本を開いて、みすぼらしい姿になった王子を見つめた。
レッドヘアグリーンアイは幸せになっただろうか。
振り向くと、カイが立っていた。
ゲルダの手から『幸福な王子』を静かに取って机に置き、「森へ行こう」と言った。
真夏の昼間。
日は高く、森の中は苦しいほどの草いきれと樹木の匂いで溢れていた。
額から汗が流れる。カイの背中に白いシャツが張り付く。
河原に着いてもカイは立ち止まらなかった。ゲルダの手を引いて、まっすぐ川の中に入ってゆく。
「カイ……」
足が竦んでゲルダの動きが止まる。
強い力に引かれて、よろよろと数歩だけ前へ出た。水に浸かり、白いワンピースの裾が濡れる。
「冷たい」
小さな抗議の声を上げても、カイは止まらない。ゲルダの手を掴んだまま、バシャバシャと水を蹴って深い場所まで進んでゆく。
緩やかに見えた川の流れは、入ってみると強い力で二人を押し流そうとした。川底の石に足を滑らせ、何度も転びそうになりながら川の中央付近まで行った。
全身が濡れて、服が体に張り付いた。
やがてゲルダの背が立たなくなるほど川は深くなった。つま先を伸ばしても口の中に水が入ってくる。
「カイ……、息が……」
「おいで」
長い腕に抱き寄せられ、カイにしがみついた。カイの首に腕を回して耳元で聞いた。
「どこへ行くの?」
カイは答えず、さらに先へと進もうとする。
向こう岸まであと半分。
けれど、そこから一、二歩進んだところで、水の深さはカイの背丈を越えた。緩く弧を描く川の流れは外側のほうが速く、手前よりも奥のほうが水位はずっと深かった。
カイの頭が沈んで足元が揺らぐ。
「カイ……」
流される。
そう思った瞬間、ゲルダはとっさにカイに回していた腕をほどいた。カイの体から自分の体が離れる。離れた体は簡単に流れに飲み込まれた。
「ゲルダ!」
ゲルダの手をカイが強く掴んだ。掴んだまま、カイが深く水に沈んだ。
「カイ……!」
ゲルダの体の脇を水が勢いよく流れてゆく。沈んだまま、カイは流れに逆らうように強くゲルダの手を引いて、少しずつだが、元の岸辺に戻っていった。
足がつくところまで来ると、ゲルダがカイの手を引いた。
カイの頭が水の中から現れる。大きく息を吸い、吐いて、しばらく荒い呼吸を繰り返す。それから、カイはゲルダをきつく抱きしめた。
「カイ……、怖いの?」
「違う」
カイは首を振った。
「眠っている間に全部終わる。だから、怖いわけじゃない」
そう言って首を振った。
「じゃあ、どうして? どこへ行こうとしたの?」
「わからない」
カイの目から涙が零れ落ちた。
ゲルダの目からも涙が溢れた。
わからない、と言ったカイの気持ちが、どうにかなってしまいそうな心が、ゲルダにはわかる気がした。
どこかへ行きたいわけではない。
逃げたいわけでもない。
ただ、もうこれでカイに会えなくなるのだと思うとゲルダは悲しくなる。
カイの背中に腕を回すと、カイはいっそう強くゲルダを抱きしめた。骨が軋むほどきつく抱き合って、水の中に沈んだ。
沈んだまま唇を重ねた。
「カイ……」
ぷかりと顔を出して、カイの名を呼んだ。
「ゲルダ……」
何度も唇を重ね、互いの体を求めて水の中でもがいた。岸に戻り、濡れた服のまま石の上に倒れた。
ゲルダは何も持っていない。カイにあげられるものは何もない。
温かい肌と、涙。
ゲルダの体が自分のものだったら、今、ここで、全部カイにあげてしまいたかった。
けれどこの体はゲルダのものではない。
カイの体もカイのものではない。
石の上に横たわったゲルダを見下ろして、カイは泣いた。
「忘れない。ゲルダの瞳の色も髪の色も、ずっと……」