市営バスに揺られること40分。

 羽鳥川より手前の停留所で降りた南奈は、地図アプリを頼りに歩き出した。

「あ、ここ……」

 路地をぬけて広い道に出ると、すぐ目についた建物があった。

「似てる」

 それは蔵カフェ琥珀と同じく、白壁の土蔵を店舗に改築した建物だった。

 だが入口は閉ざされ、古ぼけた看板が横倒しになっている。もう長い間やっていない店のようだ。

 地図アプリが案内終了を告げる。

 建物の横に駐車場らしき空き地があって、そっちに回ると裏のほうに二階建ての民家が見えた。ここが霧都の実家なのだろうか。

 敷地に立ち入っていいか迷っていると、いきなりスマホが鳴り出して、南奈は飛び上がった。母からの着信だ。偶然かかってきた、というわけではない気がする。父が連絡した可能性もある。

 南奈は無視することにして、スマホの電源を落とした。

 ちょうどその時、目の前の駐車場に一台の車が入ってきた。黒い大きなワンボックスで、運転席が高いせいか、南奈の位置からはよく見えない。エンジンが止まり、ドアが開く音がした。

 砂利を踏む靴の音が近づいてくる。

「霧都さんなの?」

 南奈は待ちきれなくて動き出した。

 車を回り込むと、そこにいたのは確かに霧都だった。
 ラフなTシャツに、洗いっぱなしのような無造作な髪型で、ひどく憔悴(しょうすい)した顔をしている。

「なんで来たの?」

 聞いたことがないほど不機嫌な声で問われ、南奈は戸惑った。

「……何も聞いてなかったから、心配で」

 小さい声でそう言うと、霧都はいきなり南奈の腕をつかんで歩き出した。

「家には入れてあげられないから、ちょっと歩こう」

 言葉にも態度にも、いつもの優しさがない。
 つかまれた腕が痛かった。

「ここまで追いかけて来るとは思わなかった。きみも店、辞めたの?」

「3日だけお休みをもらったんです」

「僕が目当てでバイトはじめたにしては真面目だね」

 言葉にトゲが感じられる。

 それよりも、霧都が向かっているのが羽鳥川だとわかり、南奈は怖くて足がもつれそうだった。

「待って、お願い」

「優しく迎えてくれるとでも思った?」

 霧都は乾いた笑い声をあげ、南奈を抱えるように後ろから支え、強引に堤防の階段をあがらせた。パニックになって逃げようと暴れたが、霧都の力は強く、最後は引きずるように堤防の上まで連れて行かれた。

「いやっ!」

 南奈は視界いっぱいに広がる羽鳥川に悲鳴をあげ、目を閉じてしゃがみ込んだ。

 息ができない。苦しい。怖い。

 過呼吸が起きはじめるのを自覚したが、今は倒れている場合じゃないと必死に息を止める。

「霧都さん、霧都さん……」

 しぼり出すように名を呼ぶ。
 すると、乱暴だった彼の手からスッと力がぬけた。支えを失った南奈がへなへなと座り込むと、霧都は慌てたように抱き起こしてくれた。

「ごめん」

 霧都の態度は一転した。

「つかまって」

 霧都に差し出された腕にしがみつき、南奈はゆっくり堤防をおりた。

「ごめん。こんなことして」

 まだ震え続けている彼女の肩を、霧都は抱きよせそっと頭をなでる。

「怖かったよね」

「私……私は何をしてしまったの? 霧都さんと、春都さんにも憎まれるような、何を?」

 南奈は呼吸を整えながら答えを待ったが、長い沈黙のあと聞こえてきたのは深いため息だった。

「僕はね、今の南奈さんぐらいの頃、六本木でホストやってたんだ」

 霧都は淡々と語りはじめた。

「春都と2人で、母親と実家を守るために東京に出て、死に物狂いで荒稼ぎした。やっと目途がつく頃、母親が精神を病んで入院して、僕だけが一旦ここに帰って看病してたんだけど、春都と相談して東京の病院に移した。それから琥珀で働きながら、母親の病院に通い続けて……偶然きみを見つけたんだ」

 霧都がそんな事情を背負っていたなんて知らなかった南奈は、何を言っていいかわからず固まっていた。

「きみは無防備だったから、財布を盗られたとも知らず、僕にお礼なんか言っちゃって。笑ったよ、あの時は」

「嘘ですよね……?」

 南奈から手を離した霧都は、首をふって微笑んだ。悲しい目をしていた。

「きみが想像できないような悪いことも沢山してきた。田舎から出てきたばっかりの18歳の女の子をだますのなんか、めちゃくちゃ簡単だったよ」

「私、だまされてません。成人するまではって言って、何もしなかったじゃないですか!」

「でも、南奈は俺を好きになっただろ?」

 霧都は真顔でそう言った。

「若い女の子が好きそうな、優男を演じていた俺を」

 言葉を失い、ショックが大きすぎて涙も出ない南奈から、霧都は目をそらした。

「だから、もう会いに来たりするなよな」

 迷惑だから、と付け加えて、彼は南奈に背を向けた。

「私が好きになったのは、たとえ演技だったとしても、まぎれもなく霧都さんです」

 消え入りそうな細い声だったが、霧都の耳には届いたようで、立ち去ろうとした彼は足を止めた。

「霧都さんは理由もなく女の子だますような人じゃない。だから、やっぱり私に、だまされてもしょうがないような何かが……」

 南奈が言葉を探しながらそこまで口にした時、霧都はふり返って手を伸ばすと、ぎゅっと強く抱きしめた。

「きみは何も知らなくていい」

 耳元でささやいて、すっと身を引き、南奈から離れた。

「霧都さん」

「俺の名前を呼ぶな!」

 霧都は強い口調で告げた。

「きみを好きになったって、どうしようもないんだ。もう会いたくない。一生」

 頬にこぼれた涙の雫を乱暴にぬぐい、霧都は小さくサヨナラと言った。

 堤防をくだって家に戻っていく背中を、南奈は黙って見送ることしか出来なかった。