「見逃してやるつもりじゃねえよな?」

 なじるような声が聞こえてきて、南奈は裏口のドアを開けようと伸ばした手を引っ込めた。

「当たり前だろ」

 霧都の声が答えている。

「俺だって許す気ねえし」
「じゃ、さっさとやれよ」
「わかってる。けど、タイミングとか色々あるだろ」

 南奈は耳を疑った。

「おい霧都、そんな悠長にしてる時間はねえんだよ!」
「だから……」

 気配は遠ざかって何も聞こえなくなったが、なんとなく入りにくい。


 大学が夏休みに入り、誘われるままに霧都のカフェでバイトをはじめた。シフトの関係で毎日ずっと一緒というわけにはいかなかったが、南奈は少しでも霧都の役に立ちたくて――本音はほめて欲しくて、一生懸命はたらいている。

 恋人の関係ではないが、以前より距離が近くなったのはたしかだ。客としてしか知らなかった霧都の、休憩中のぼーっとした様子や、きびきびとスタッフに指示する姿を見られるのが嬉しい。

 だが、こんなガラの悪いしゃべり方は聞いたことがない。

「おっす」

 いきなり肩をたたかれ、ふり向くと厨房チーフの三木(みき)だった。

「何してんの?」
「えっと、その……」
「遅刻するぞ」

 三木はドアを開け、そのままふつうに挨拶して入って行く。

「おはようございます」

 南奈も恐る恐る続いて入ると、通路の奥に霧都ともう一人、派手な男がいた。

「おはよう。今日もよろしくね」

 見慣れた笑顔の霧都。さっきの荒っぽい口調が嘘のように穏やかだ。

「新人? 紹介しろよ」

 男が言う。

「友井南奈さんだよ。こっちは兄の春都《はると》」

「よろしくう」

 春都はアッシュがかった銀色に髪を染め、ガリガリに痩せているが、よく見たら霧都に似た面立ちだ。香水の匂いがきつく、深紅のシャツの胸元を大きく開ける着こなしがホストっぽい。

「お兄さん……?」

 南奈は面食らった。霧都の家族については何も知らないし、兄の存在も今初めて知ったことだ。

「は、はじめまして。霧都さんにはお世話になってます」

 慌てて頭を下げた南奈に、さらにびっくりするような事実が告げられる。

「俺ら双子なの」

 春都は弟の肩を抱いた。

「同じ顔でも俺のほうがイイ男でしょ?」

「よせって。恥ずかしいだろ」

 霧都は苦笑して兄の腕から逃れる。

「さあ仕事だ。春都も帰って休みなよ」
「おう、邪魔したな」

 南奈は軽くおじぎしてスタッフルームに向かう。制服に着替えて戻ると、もう春都の姿はなかった。霧都は三木と一緒に厨房に入っていた。

 オープン前の掃除をしながら、さっき聞こえた会話を思い出す。荒っぽい口調だけではなく、霧都は自分のことを「俺」と言っていた。兄弟で話す時それがふつうなのなら、いつも見ている霧都はカフェ店長らしく作ったキャラなのだろうか。
 彼の素は、どっちなのか。

 南奈はホウキを手に表へ出て、ぎくりとした。
 入口のすぐ横に春都がいたのだ。さっきと違って笑いのない怖い顔で、腕組みして外柱に寄りかかっている。

「よく平気で生きてられるな」

 春都は憎々し気な目で南奈を一瞥《いちべつ》すると、足を引きずるような歩き方で去って行った。



 霧都がいなくなったのは、その翌日である。

「辞めるのは前から決まってたけど、前倒しになったみたいだな」

 三木は、呆然とする南奈に気の毒そうに言った。

「友井さん、店長と仲良いから知ってると思ってた」
「何にも聞いてないです……」

 前日の霧都の様子を思い出そうとしても、南奈は春都に言われたことのショックでいっぱいいっぱいだったため、霧都がいつもと違ってたかどうかもよくわからない。

「あの、なんで辞めたかって、理由わかりますか?」
「うーん、話していいもんかどうか」
「教えてください。お願いします!」

 三木は他のスタッフには内緒だぞと前置きして、兄の看病のため実家に帰ったことを伝えた。

「兄って、春都さん?」
「ああ。すごく痩せて顔色も悪かったけど、昨日まで仕事続けてたんだってよ。もう長くないらしい。若いのにな」

 南奈は言葉を失い、その日もまったく仕事に集中できなかった。