南奈が成人してから。
霧都が提案した交際の条件だった。
「僕はもうアラサーで、今すぐじゃ親御さんに挨拶する勇気ないし、内緒で付き合うなんて無分別なことはしたくないんだよね」
南奈の両親は離婚していて、ずっと会っていない父はともかく、実家の母はひどい心配性である。反対を説き伏せて上京しただけに、10歳も年上の男性と交際するなんて言ったら、飛んで来て大騒ぎしかねない。成人して晴れて交際となっても、母には社会人になるまで秘密にしておこうと南奈は思った。
1年以上このままの関係というのはもどかしく、年齢差が恨めしかったが、彼の慎重さや誠実さが頼もしくもあり、断られて気まずくなるより百倍ましだと考え直した。
「他に好きなひとが出来たら、遠慮しないで言ってね」
「そんなことありえないです」
霧都が嬉しそうに目尻を下げるのを、南奈は夢じゃないかと思って見つめた。
「私のどこを……その、す、好きになってくれたんですか?」
赤くなって質問した彼女を見て、霧都は優しく微笑んだ。
「そういう純粋で素直なところ。いきなり下の名前で呼ばれて意識してしまった感じもあるかな」
南奈は耳まで熱くして、自分の地元では同じ苗字が多く、下の名前で呼び合うのが普通なのだと言い訳した。
「F県だよね。黙ってたけど実は僕もそうなんだ」
「えっ、ほんとですか?」
南奈は驚きのあまり言葉を失った。霧都が同郷だったなんて。運命という言葉が頭に浮かんで、また泣きたくる。
「高3の秋までS市で育った」
「Sなら私も住んでました!」
南奈の両親が離婚するまで住んでいた小さな町の名が、霧都の口から出てくるなんて、まったく思いもよらないことだった。
「すごい偶然だね」
霧都は目を細めて微笑んだ。
「どの辺に住んでたの? 僕の家は郊外で川のそばだけど」
「もしかして、羽鳥川……?」
その名を口にしたとたん、南奈は呼吸が荒くなるのを自覚した。
目の前が揺らぎ、ありもしない水しぶきが上がって水底に引きずり込まれそうな恐怖がこみ上げる。
「南奈さん? どうかした?」
「なんか貧血みたいで、気分が……帰ります。ごめんなさい」
南奈は逃げるように、言い残してその場を離れた。
南奈は小さい頃、羽鳥川で溺れて死にかけたことがある。
夏の暑い日、両親や妹と河原でバーベキューをしていて、川石を飛び移って遊んでいるうちに岸を離れ、足を滑らせ深みに落ちた。親は幼い妹に気を取られ、上の娘がそんな危険な遊びをしていることに気がつかなかったらしい。水音にふり返った母が半狂乱で川辺に走った時には、かなり流されていた。近くの人が飛び込んで助けてくれなかったら、南奈は死んでいただろう。蘇生処置で息を吹き返したが、肺炎でしばらく入院して生死の境をさまよった。
7歳の時のことなので細かい記憶はないが、恐怖だけは消えずに残っていて、羽鳥川の名を聞いたり川の映像を見ると苦しくて倒れそうになる。
霧都の実家はその川のそばだという。もしいつか訪ねる機会があったら……南奈は平静を保てる自信がなかった。