「南奈さん、って呼んでいいかな?」

 夏休み前、琥珀の片すみで提出期限の迫ったレポートを見直していた南奈は、いきなり霧都に言われて面食らった。

「あ、え? 今なんて……?」
「名前で呼んでもいいかなって聞いただけなんだけど、そんなにびっくりさせちゃった?」

 霧都はテーブルにそっと個装タイプの飴を三つ置くと、人差し指を口に当ててにこっと笑った。他のお客さんには内緒という意味だろう。南奈はうなずき、口の動きだけでアリガトウと伝えた。
 霧都は最近、こういうちょっとしたサービスをしてくれる。南奈にはそれが特別扱いされているように思えて嬉しかった。

「僕だけ名前で呼ばれてるの、不公平だなって思ってたんだよね。嫌なら今まで通り友井さんって呼ぶよ」

 南奈にだけ聞こえるような声のトーンでそう言って、霧都は立ち去ろうとした。

「待って。あの、嫌じゃないです」

 きっと赤い顔してるだろうなと思いつつ、南奈は座ったまま霧都を見上げた。

「良かった。じゃあ、南奈さん」

 目と目が合うーーその瞬間、心臓が爆発しそうな衝撃におそわれ、南奈はくらくらしてテーブルに倒れかかった。

「大丈夫?」

 大きな手を背中におかれ、南奈はますます目が回りそうになる。

「……やばい」

 自分でもこれほど重症だとは思わなかった。下の名を呼ばれて目が合っただけで、こんなふうになってしまうなんて。

「どこか痛む? 貧血かな?」

 背中をさすってくれる霧都の手があたたかくて、南奈はなぜかむしょうに泣きたくなった。

「横になりたい?」

 やっとの思いでうなずいた南奈を、霧都は立ち上がらせて横抱きに抱えあげた。

「や……歩けます、私」
「いいからじっとして」

 南奈は他のお客さんの目が気になったが、霧都は平然とした様子で、厨房の横の通路に入って奥のドアを開けた。

「こんなところで悪いけど、横になって休んでて。荷物は持ってきてあげるから」

 降ろされたのは更衣室みたいな部屋で、入口からすぐ腰かけられるぐらいの高さの段になっていて、その上に正方形の畳が敷き詰めてある。

 霧都は転がっていたクッションを引き寄せ、枕がわりに南奈の頭の下にあてた。心配そうな顔を見ていると、だんだん申し訳なくなってきた。苦しくてくらくらして座っていられないのは本当だが、原因は体調不良ではなく、単なる恋わずらいなのだから。

「ごめんなさい」

 思わず謝った南奈のひたいに、霧都はそっと手をおいた。

「ごめんより、ありがとうって言われたいかな」

 優しい声に、また泣きたくなる。

「ありがとう、霧都さん」

 我慢の限界だった。
 南奈はあふれる涙をごまかしきれず、両手で顔をおおって泣きじゃくった。

「どうしたの?」
「わかんない……でも止まらなくて」

 しゃくり上げながら答える南奈の頭を、霧都はなだめるように優しくなでた。

「上京して一人で頑張ってた疲れが出たのかな。もうすぐ夏休みだけど、試験とかレポートとか、学生さんは大変みたいだもんね」

「霧都さん」

「なに?」

「好きです」

 もう黙っていられなかった。

 南奈は顔をおおった手指のすきまから、そっと彼の様子をうかがって見た。告白に嬉しそうな顔をしているか、それとも困った顔をしているのか、直に見る勇気はない。

 霧都はいつも通りの穏やかな表情で、特に感情は読み取れなかった。そのかわり、両手で南奈の手首をつかみ、顔から引きはがすという強引な行為に出てこられた。

「ありがとう」

 にこっと笑ってそう言うと、霧都は身を屈めて南奈のひたいに優しいキスを落としたのだった。