「あれ、森本先生、今日もいらしたんですか?」
 ぼんやり向かった先は、誰もいないであろう目的地、図書室。
 昔から、心を落ち着かせたいときはよく通ったものだ。
 ここからはグランドが良く見える。外から聞こえる掛け声をノイズに自分の世界を取り戻す。そんな場所だった。
今日はすでに先客がいて、驚いたようにこちらを見ていた。
西野(にしの)くん…」
 先ほど、女子生徒から関係を聞かれた張本人、西野大地くんは読みかけの本をパタンと閉じて立ち上がる。
 噂をされているだけに、あまりこうして人気のない場所で会ってしまうのはあまりよろしくないかと思うものの、それでもわたしの存在を特に気にすることなくいつものように窓際に椅子をずらし、遠い目でそこから見えるグランドを見つめる彼を見ていたら、やっぱりそのまま残していけなくなった。
「早いもので、ここから直樹(なおき)を見る日もあと数えるくらいになったんですよ」
 冬には大学受験を控えている彼は少し寂しそうに笑った。
「一度は、あそこで走りたかった?」
 聞くつもりはなかったのに、彼のなんとも言えない穏やかな瞳を見ていたら、聞かずにはいられなかった。
 西野くんは元スプリンターだった。
彼も中学で足を痛めてしまうまでは、今もグランドを自由に駆ける彼の親友、直樹くんと共に夢と希望を持って走り続けていたそうだ。走れなくなってしまってからはグランドには行かず、この図書室から練習の様子を見ているのが日課になったのだと彼はいつか笑って教えてくれたことがあった。
「そうですね」
 呟いた西野くん。
いつも、彼の横顔がかつての自分の姿と重なった。
 私も以前、彼と同じく走れなくなってしまった身であるから何となく彼には共感してしまう部分があるのだろう。ただ、私の場合はスランプだったというだけで、走れなくなってしまったわけではないから彼の深い部分までは理解してあげられないのか悔しい。
「走りたくなかったて言ったらうそになりますけどね」
 それでも今日の彼は少し違った。
「でも、もういいんです」
 はるか先を眺め、口角をあげるその姿に強い意志を感じた。
「直樹が俺の代わりにゴールを目指してくれてますから」
 それに、と言いかけて目を輝かせた彼は、本当にそう思っているようだった。
「僕も、また新しいゴールを見つけて走ろうと思います」
「新しいゴール?」
 思わず聞き返してしまうと、そこではっとしたように少し頬を染めた彼が、なんだか微笑ましくなった。
「ああ、好きな子のこと?」
 前に少し話してくれたことを思い出す。
 私の言葉に、彼はますます真っ赤になったけど、それでも何かを思うように泣きそうな顔で笑い、彼は言った。
「先生、失恋って、有効期限はあると思いますか?」
「え?」
「僕の恋愛です。振られても振られても、諦められなくって」
 遠い空を眺め、ポツリと呟いた彼の瞳は、いつもよりずっと大人びて見えた。
 彼にここまで思わせる女の子がいることに驚いたけど、同時に嬉しくもあった。
 やっぱり、彼はわたしに似ている。
「挑戦できるまで、ずっとじゃない?」
「え?」
 今度は西野くんが聞き返す番。
「わたしが西野くんくらいの頃は、何度も何度もアピールし続けたわよ」
 初めて好きだって言った日は、夜も眠れなかった。
 その後、全然本気にされていないんだってわかってからは、絶対にこっちを振り向かせてやろうと意地のように付きまとったものだ。
「失敗しても、ね」
「失敗しても?」
「そうそう。わたしの場合、毎回毎回困ったような顔をさせるのをわかってたんだけど、当時のわたしのあまり相手の迷惑とか考えられなくって、どちらかというといかに自分の方を見てもらおうというかもう必死でアピールしにいったのよね」
 言葉にして、改めてバカだなぁと思う。
 でも、不思議と嫌な思い出ではないのが不思議である。
 言い過ぎたかなってちょっと恥ずかしくなったけど、西野くんが真剣な表情から笑みがもれたため、わたしも思わず笑ってしまった。
 きっと、全力疾走で走りきったから気持ちいい思い出になっているのかもしれない。
 走ることの楽しさを知っている彼になら、わかってもらえる。そんな気がした。
「かっこいいとわたしは思う」
いつも今にも泣き出しそうな顔で彼のことを聞きにやってくる女の子たちが彼に夢中になる気持ちがわかる気がした。その反面で、そんな話題の的になっている張本人人の彼にこんな表情をさせている人物がいるという事実もなんだかおもしろかった。
(ああ、眩しいな)
 本当にみんな青春真っ最中なんだなぁって、少し羨ましくなった。何も考えずに、ただ前だけを見て、明るい未来を信じて何も疑わなかったあの頃が、とても懐かしく感じられた。
 大学生と高校生って、ここまで差があるなんて、とつくづく実感させられた。
「先生を振る人もいるんですね」
 さきほどとは別人のように余裕を取り戻した西野くんはくすっと笑う。
 いつもの西野くんだ。
「当たり前よ」
 わたしもつられて笑ってしまった。
 あの人がすんなりわたしを受け入れてくれるような人なら、わたしはあんなにも必死に恋をしなかっただろうって、今ならそう思える。
「西野くんこそ、断られる理由が考えられない気がするのに」
「そりゃもう、すっぱり断られてます」
 ふいに、彼の視線が図書カウンターの方に移ったような気がしてわたしも同じ方に目を向ける。
 いつの間にいたのか、図書委員の学生たちが戸締まりを確認しているところだった。
(あ、あの子・・・)
 すっかり存在に気付いていなかったわたしは、そのうちのひとりの横顔を知っていた。長く真っ直ぐな黒髪を腰元で揺らし、一生懸命に動き回る彼女に覚えがあった。
 いつも、なぜか女子学生からは呼び出されることが多い最低最悪(自称)な教育実習生だということは自覚している。そんな中で視線を感じることももちろん少なくない。何となく嫌な予感ばかりするから、あまり気にしないようにはしているものの、それでも彼女の悲しそうな視線だけは無視できずに、どうしたのかと思ってしまったこともあった。
 彼女も、今度はわたしの視線に気付いたようにはっとしたけど、心なしか隣にいる西野くんを睨み、またせっせと書籍を返すべく本棚の間に姿を消した。
 そして、西野くんも西野くんで、今まで見せたことのないような悔しそうな表情を浮かべていた。
(あら!)
 自然と口角が上がってしまった気がした。
「さてと、私は戻るわね」
 いえ、にやけてしまった、と言った方が近いかもしれない。
 なんだか、気付いてはいけない秘密を知ってしまったような。
「ふふ、頑張って」
 西野くんの肩をポンッと叩いてやると、彼は焦ったように私を見たけど、私にはとてもそれがとても羨ましかった。
 彼らはまだ、走り出したばかりだから。
 振り返ることも知らずに。
 このまま真っ直ぐ進んで行ってほしい。
 大人になるということは、生きやすくなるという反面、見たくもない現実が見えてしまったりするもの。わたしのように、臆病にならないでほしい。
 大人が、つまらない生き物だと、本当はわたしも気付きたくなかったから。