「あれ、森本先生、まだ残ってたんですか?」
 同じ英語科の小池(こいけ)先生に突然後ろから声を掛けられ、物思いに耽りながらボーッとしていたわたしは、はっとして飛び上がってしまった。
「あ、い、いえ、あ、あの…」
 いろいろなことがあったせいか、思わず懐かしいことを思い出してしまっていた。
 ここが母校というのも大きいと思う。
 あちこちに様々な思い出が詰まっていて、久しぶりにここに足を踏み入れた途端、つい先日まですっかり忘れていたことまで懐かしく脳裏に浮かんできたほどだった。
 ここは、あまりにも思い出が多すぎる。
「森本先生、本当にいつも気を張ってらっしゃるけど、もう少し気楽にしていてもいいんですからね」
 まるで見透かしたようにクスッと笑って、彼女はそっと私の肩に手をおく。ふわり、ととてもいい香りがした。
 大人の女性だ、ふと思った。
 落ち着きがあって凛としていて美しく、それでいていつも余裕で存在感のある女性だ。教師になって二年目というこの人は私にとって、年は近いのにまるで違っていて、どう頑張っても自分に得ることのできないものをたくさん持っていて、憧れてしまう面も多い。
(私もいつか、こんな風になりたい。教師としても、ひとりの女性としても)
「それに、高梨先生もいつも心配されてましたよ」
 は?と彼女に視線を戻すと、小池先生はきれいにアイメイクを施した片目をパチンと閉じて見せる。同姓でもうっとり見とれてしまうそんな動作だった。
 いや、そんなことよりも、い、今なんて…
「本当に、お二人は仲良くて羨ましいわ」
 にっこりする彼女にはっとする。
「ちょ、違います」
 何かとんでもないような勘違いをされているようで、どっと冷や汗が出た。
 どうしてこうもあちこちから勘違いをされるはめになるのだろうか。
「違いますって、何が違うの?」
 後ろからにゅっと現れた高梨くんに、自分のタイミングの悪さを呪いたくなった。
 本当に、間違いなく何が違うのだろう。いちいち意識しすぎな自分に笑えてくる。
「あら、噂をすれば」
「え?なになに?なんの噂をしてくれてたんですか?」
 屈託もない笑顔を小池先生に向ける高梨くん。
 実習生としてもひとりの人間としても堂々としている彼にさえ腹が立ってくる。
 わたしは、あの頃からなにも変わっていない。
 嫉妬する気持ちばかり人一倍優れていて、まわりにばかり目を奪われて、自分のペースを乱す。一歩も前に進めないでいる。
「も、森本ちゃん?」
 高梨くんの心配そうな瞳に自分が映っている。なんて情けない顔なんだろう。
 わかってる。
 高梨くんが、最近いつも以上にわたしを茶化しにやってくるのも。
 わたしがいつも、こんな色を失った表情をしているからだろう。
 わたしを、元気づけようとしてくれているのだろう。
 そんな優しさにも、素直にありがとうと言うことができない。
 認めてしまったらみじめな自分を肯定してしまう。
 そうしたら、すべてが一気に消えてしまいそうだった。
「失礼します」
 心配そうにわたしの名前を呼ぶ高梨くんの声を聞こえなかったように背を向け、その場から立ち去るわたしは、本当に嫌なやつだった。