(しん)ちゃん、彼女はいるの?』
 あの時まだ、高校生だったわたしは、トレードマークの背まである長い髪を一つにまとめ、部活着のまま、いつものようにバスケ部のコートを覗いていた。
『はぁ?って、森本、おまえ、ここで何してる?』
『え?今日は練習が休みだからここで自主練しようと思って。だからちょっと真ちゃんのところにも来ちゃった』
 今思えば、これはわたしの一番大切な記憶。
 大好きな人と同じ時を過ごせる、秘密の時間。
『来ちゃった、じゃない。何のための休みだと思ってるんだ?しっかり体を休ませろ』
 真ちゃんを見るだけで一気に頑張れる気がするんだよ!と笑って言うと、彼は困ったように笑って小さく、バカ、と言った。
 その姿が嬉しくて、私は毎日そこに通っていた。
 真ちゃんの笑顔を見ること。ただそれが、とても幸せだと思えた。彼は高校時代、私が誰よりも好きになった人だった。
 あの日、泣いていたわたしに真ちゃんが声をかけてきてくれた、あの日から。
 毎日毎日少しでもタイムを縮むよう走ることばかりに夢中になって考えていたわたしは、いつしか仲の良いメンバーたちが自分から離れていっていることに気が付かなかった。いつの日か突然、彼女たちから誘いがかからなくなって、そこでようやく、地獄のような事実に打ちのめされた。
『祐加、絶対高梨が好きなんだよ。だからいっつもグランドにばっかり張り付いてうちらとも遊ばなくなったんじゃない?』
『えー、あの子、春子(はるこ)が高梨のこと、好きだって知ってるはずなのにね』
 信じられない。と言わんばかりにみんなが誰もいなくなった教室で自分のことを話していた。
 耳を疑った。まさか自分が、友達たちから陰口を叩かれているとは思わなかった。昨日までは何事もなく接してくれていたというのに、どうして突然?と思考が停止した。
 当時、エースランナーとして陸上部でも目立っていた高梨くんは、確かににかっこよくて誰よりも人気があった。
 でも、わたしは彼に夢中になっていた訳ではなく、なかなか上がらない記録更新を夢見て、次はどうしたらいいのか?そればかり必死に考えていたのである。中学までは期待されていた自分が、高校に入った途端にどんどんペースが落ちて、どうしたらいいかわからなくなってしまった。どんどん他の選手に比べ、成長しないで劣化していく自分を今まで応援してくれていた家族や先生方に見せるのがつらかった。試合のあとに気まずそうに励まされるのは一度で十分だ。私は周りに目もくれず、必死になっていた。
 それが原因だった。
 おかげで何も知らずにいつもと変わらず接してくれる高梨くんには変な風に意識してしまい、避けてしまうようになるし、周りの目が気になって、弱い私はますます部活にも集中できなくなってしまった。
 今度こそもう八方ふさがりになってしまった私はあの日、体育館の影で思わず泣いてしまった。自分が信じていたことがわからなくなって、右も左も見えなくなって、出口のない迷路に閉じ込められてしまったようだった。
誰が助けてくれる?友達はいない。私が裏切ったから。親には言えない。心配をかけてしまうから。あふれる涙が止まらなかった。
 そんな時、優しく声をかけてくれたのが、真ちゃんだった。
『おい、どうした?』
 初めは、とても驚いた。
 無視をしようかと思った。
 泣いているのに声をかけてくるなんて、無神経すぎる。そっとしておいてくれればいいのに。
『森本?』
 それでも、声の主はわたしから離れようとしない。
 次の『大丈夫か?』の一言で、思わず顔をあげてしまった。
 今まで一度も接点のなかった彼が、私の名前を知っていることに驚いてしまったからだ。当時一年生だったわたしは、学校でも目立つ方ではなかったのに。
『何でも、ないです』
 言ったら、また涙が溢れてきてしまった。
『ちょっと変なだけなんです』
 放っておいてください、と言うわたしに、『そうか』とだけ呟いて、それからなにも言わなくなった。ただ、できるだけ声を殺して静かに泣き続けるわたしの隣にそっと腰を下ろしただけ。

 放っておいて。
 放っておいて。
 わたしなんて、放っておいて。

 そう思っていたのに、悔しいくらいとても嬉しかった。
 隣にいてくれるだけで、なんだかあたたかい。
 目の前が真っ暗になっていたわたしには、眩しすぎる光のように思えた。
 過呼吸になりそうだった呼吸が、少しずつ正常に肺に流れ込む。
 なにかちょっとでももう少し優しい言葉をかけられようものなら、当時の気の張ったわたしなら言い返していたと思う。それでも、その空間がとても心地よかった。
 彼は私が落ち着くまでそのまま黙って待っていてくれた。
 目の前にある、優しい表情のこの人の前では嘘がつけないな、と内心思った。
 どんなにつらい時でも絶対に人前では泣かないでおこうと決めていたわたしが、我慢できずに泣いてしまったのは、あの時が初めてだった。
 あの後、何を言ったかは覚えてない。でもわんわん泣いて、その挙句、自分の不満を初対面だったにも関わらず、彼にぶちまけてしまっていた。
 だけど彼は、真ちゃんは何も言わず、ただ黙って泣き喚くわたその隣で『そうか』とか『大変だったな』と、ごく当たり前の返答を繰り返しながら、それでも根気強くそばについていてくれた。
 そして、言ってくれたのだった。
『努力して答えを捜そうとすることは、絶対に間違いじゃない。これは森本が生きていく中で乗り越えるべき試練だから。無理だとあきらめたらそこで可能性はゼロだ。でも、信じて高い壁に挑んでいけば、ちょっとしたきっかけでその攻略法が見えることもある。きっと笑える日は来る。結果はどうであれ、やりきったあとの達成感は気持ちがいいもんだぞ』と。
 チョコレートのような茶色みがかった熱い瞳がわたしを映した。まるでその瞳に吸い込まれてしまいそうだった。わたしは泣くことも忘れ、ただ彼を見つめ返すしかできなかった。『負けるなよ!』と言って背中を叩いてくれた彼に、わたしはその時、恋に落ちた。
 それから、私は困ったように私を見ては笑う彼に付きっきりで追っかけるようになったのであった。
『真ちゃーん』
 誰もいないとわかっている所なら、私は私になれた。
『またか。いい加減にしろよ』
 真ちゃんって呼ぶなって彼は言ったけど、わたしは『真ちゃん』『真ちゃん』と、生活が彼一色で埋め尽くされていた。
 真ちゃんは溜息をつきながらも、それでも『おまえはバカなのか』とか、『おれはもって大人な女が好きなんだ』って最後の最後には最高の笑みを向けてくれる。わたしはそれを知っていたから、私はいつも頑張って彼に近づこうとしていた。真ちゃんが、所詮、私を一人の生徒としか見ていなかったと知っていても。
 全ての部活動が一斉に休みに入る木曜日の体育館は、わたしの特別な場所となった。